命は神の夢を実現するための道である

真理

神の夢は、神の永遠の定められた御旨の夢であり、それは神がベテル(神の家、神と人の相互の住まい)の実際を持つことです。この実際に到達するための唯一の方法は命です。命とは、わたしたちの命またすべてとして、わたしたちの中へと分与された神ご自身にほかなりません。神が各時代にわたって行なわれたことはすべて、この目的のためです。この目的とは、神ご自身を命としてわたしたちの中へと分与することです。神はこの事によって、一群れの人々を得て、彼らに彼ご自身を表現させて、彼ご自身の住まいとならせる唯一の道を得ることができます。聖書が啓示しているのは、このために神が常に働いて、ご自身の選ばれた者たちの中へとご自身を命として分け与えているということです。

はご自身を命としてわたしたちの中へと造り込むことを願っておられ、神の敵はこれに反対します。大部分のクリスチャンは、悪魔は人々が救われるのを恐れていると思っていますが、実際には、人々が神の目標の中へと入らない限り、サタンは彼らが救われることによってあまり煩わされないのです。神の目標は命です。もしわたしたちが歴史を学ぶなら、神とサタンとの、また神を追い求める者たちと敵との真の戦いは、常に命の事柄に関するものであったのを見ることができます。

回復についての書簡は命を強調している
ヨハネによる福音書において、主はご自分が来たのは、わたしたちが命を得、しかも豊かに得るためであるとわたしたちに告げられました(十・十)。この言葉は明確ですが、主がこれを語られてから間もなくして、紀元七〇年以前にさえ、命の事柄は諸召会の間で失われました。テモテへの第二の手紙、ペテロの第二の手紙、ヨハネの三つの手紙、啓示録の主要な点は命を回復することです。使徒たちがこれらの書簡を書いたとき、使徒たちがそれまでに召会に供給したものは失われてしまいました。

パウロは、テモテへの第一の手紙においてこう言っています、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」(Ⅰテモテ一・十五)。しかし、パウロはテモテへの第二の手紙第一章十節において、さらに進んでこう言っています、「キリスト……は死を廃棄し、福音を通して命と不朽を現し出されました」。パウロは、福音を宣べ伝え、告げ知らせるための宣べ伝える者として、また諸召会を設立し、確立するための使徒として、そして諸召会とすべての聖徒たちに指示を与えるための教える者として自分が任命されたのは、死を廃棄し、命をもたらすためであったことを強調しています(十節)。パウロがこのことを強調しているのは、そのときまでに諸召会が命の正しい路線から知識と宗教の路線にそらされていたからです。テモテへの第二の手紙は、パウロの最後の手紙でした。なぜなら、第四章六節で、彼は殉教しようとしていたことを示しているからです。この最後の手紙の中で、彼は主の回復の基本的な項目、すなわち命を強調しています。

ペテロはまたこう言っています、「彼の神聖な力は、……命と敬虔にかかわるすべての事柄を、わたしたちにすでに与えてくださっています」(Ⅱペテロ一・三)。これは命に関する力強い言葉です。命の内側の要素と、命の外側の表現、すなわち敬虔を含んだ、命にかかわるすべての事柄は、わたしたちにすでに与えられています。わたしたちはこのことを教理においてだけでなく、実際的な認識においても信じる必要があります。もしそうするなら、わたしたちは歓喜し、主を賛美するでしょう。聖書の中で、ペテロだけがこのことを大胆に書いています。この節は、命と敬虔にかかわるすべての事柄がわたしたちに「与えられる」、あるいは「与えられつつある」と言っているのではなく、わたしたちに「すでに与えられている」と言っています。ペテロはまた言います、「彼は……尊く、際立って偉大な約束を、わたしたちにすでに与えてくださっています.それは、これらの約束を通して、あなたがたが情欲によるこの世の腐敗から逃れて、神聖な性質にあずかる者となるためです」(Ⅱペテロ一・四)。聖書の中で、わたしたちが神聖な性質にあずかる者であると言っている節は他にありません。性質は命よりも本質的で深いのです。パウロとヨハネの文書は神聖な命を啓示していますが、ペテロだけが深遠な方法で神聖な性質について触れています。彼がこうしたのは、召会における堕落に対抗するためです(Ⅱペテロ第二章)。ペテロは、命が神の民を堕落から救い出す唯一の方法であることを示しています。もしわたしたちに与えられているものが命と敬虔に関する事柄であり、また尊く、際立って偉大な約束であって、それはわたしたちが神聖な性質にあずかる者となるためであることを見るなら、わたしたちは他のすべての事柄を捨てるでしょう。

使徒ヨハネはヨハネの第一の手紙を書いたとき、次の言葉をもって開始しました、「初めから存在したもの、わたしたちが聞いたもの、わたしたちの目で見たもの、わたしたちが見つめ、またわたしたちの手で触ったもの、すなわち命の言について(この命が現れました.わたしたちはこの永遠の命を見たので、あなたがたに証しをし、また伝えています.この永遠の命は御父と共にいましたが、わたしたちに現れたのです).わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも伝えます.それは、あなたがたもわたしたちと交わりを持つためです.わたしたちの交わりとは、御父との、また御子イエス・キリストとの交わりのことです」(Ⅰヨハネ一・一―三)。ヨハネがこのように彼の手紙を開始しているのは、堕落した諸召会を当初の状態に連れ戻す負担があったからです。すなわち命に連れ戻す負担があったからです。

ヨハネは新約聖書の最後の書である啓示録も書きました。その中でわたしたちは、金の燭台、口からもろ刃の剣が出ている方、四頭の馬、七つの角と七つの目を持つ小羊、いなご、獣のような、なじみのないものを見ます。わたしたちの堕落した思いは、これらすべてのものが何であるかを知りたいのです。なぜなら、わたしたちの堕落した思いは知識の木をもって教え込まれているからです。こういうわけで、啓示録は偉大な教師たちでさえ悩ませてきました。彼らはこの書を徹底的に学び、その結果、歴史、終末論のような事柄に関する教えのさまざまな学派が生み出されてしまいました。啓示録が堕落した召会をその堕落した状況から救い出し、命に戻すために書かれたということを彼らは見ていません。しかしながら、多くの学者たちはその堕落をさらに進めました。なぜなら、この書についての彼らの議論が分裂を引き起こしたからです。

啓示録が命の書であることは、以下の節からもわかります。啓示録第二章七節は言います、「耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい。勝利を得る者には、……命の木から食べさせよう」。それは知識や理解力の事柄ではなく、命の木を食べる事柄です。聖なる御言の結論として、啓示録は一つの約束と一つの召しで終わっています。啓示録第二二章十四節は言います、「自分の衣服を洗う者たちは幸いである.彼らは命の木への権利を持ち」。十七節は言います、「その霊と花嫁が言う、『来たりませ!』。聞く者も『来たりませ!』と言いなさい。渇いている者は来たれ.欲しい者は、命の水を値なしに飲むがよい」。命の木を食べるという約束と命の水を飲むようにという召しが全聖書を閉じます。このことが示しているのは、命が、神が各時代にわたって回復してきた、重大な項目であるということです。

主の回復は大衆運動ではなく、命の道である
命がわたしたちの命またあらゆるものとしてわたしたちの中へと分与される三一の神であるということは、わたしたちにとって単なる教理であるべきではありません。主の方法は命の方法であり、それは大衆運動ではなく、種の方法です。どれほど霊的で、高く、優勢であるように見えたとしても、どの大衆運動も主のものではありません。大衆運動は主の動きの偽造であり得るだけです。偽造貨幣は本物のお金と非常に似ているので、ほとんどの人々はその二つを識別するのが難しいのです。もし敵の偽造が神の動きと似ているように見えないなら、人々はそれを取らないでしょう。遅かれ早かれ、大衆運動の真の性質は明らかになります。

聖書の中でわたしたちは見ることができますが、あらゆる時代において主が行なわれたことは何であれ、彼はいつも種の方法で行なわれました。例えば、創世記において、神はご自身の定められた御旨を成就するために、一度に何百万もの人々を創造されたのではありません。神は、ただ一人の人を種として創造されました。人が堕落したとき、神は大群衆を召したのではなく、アベル、エノス、エノク、ノア、アブラハムのような個人を一人ずつ召されました。アブラハムの子孫は十二部族の国民になりましたが、ユダヤ人は地上の他の人たちと比べて小さな民族のままでした。士師記と列王紀上下においてさえ、神が行なわれたことは何であれ、常に少数の民と共にありました。例えば、ギデオンは彼と共に戦うために多くの人数を集めましたが、主はそんなに多くを必要とされませんでした(士七・二―八)。最終的に、三百人だけが選ばれました。

あるクリスチャンは奇跡的な事を強調しますが、ヨハネによる福音書第二章二三節から二四節は、主が奇跡に興味のある人たちに信頼しなかったと明白に言っています。その代わりに、主はニコデモのように単純な信仰を持つ人たちに信頼しました。主ご自身は三年半、日夜働いた後、百二十名の忠信な者たちを得られただけでした(使徒一・十五)。主は大衆運動をかき立てませんでした。彼はこれを行なうことができましたが、行ないませんでした。群衆が彼の所に来たとき、最終的に、彼は意図的に立ち去られました(参照、ヨハネ六・十四―十五)。彼の方法は絶対的に今日のキリスト教の状況に反しています。

命における成長だけが勝利者たちを
生み出し、主の再来をもたらす
あるクリスチャングループは、多くの聴衆を引き付けるために演劇の公演を推し進めています。彼らは種類の豊富な食べ物を売っているレストランのようですが、わたしたちはただ命のパンとしてのキリストを提供します。主の再来をもたらすのは、このような大衆運動ではありません。たとえ彼らがこの世の娯楽で何百万人を引き付けたとしても、主はそのことのゆえには戻って来られません。命における成長だけが主の再来をもたらすことができます。主が戻って来ることはおもに天から来ることではなく、彼を愛する者たちの内側から来ることです。彼はご自身を愛し追い求める多くの者たちの中で命として成長する機会を得るとき、彼の民において栄光を現されるでしょう。

ダニエル書第二章は、終わりの時に主が一つの石として来て、この世のすべての権力を打ち砕き、この石が大きな山となって全地を満たすことを啓示しています(三四―三五節)。この山は神の王国であり、行政におけるキリストの増し加わりです(マルコ四・二六―二九)。打つ石は主だけでなく、主と彼の団体の増し加わりとしての勝利者たちです(ヨハネ三・二九―三〇啓十七・十四十九・七―八十一十四)。もし主が今日来て、この世のすべての権力を打ち砕くなら、彼は諸国民を支配することにおいて人の統治に置き換わるための十分な数の勝利者たちを持たないでしょう。この世の音楽や娯楽を強調するクリスチャンはこの必要に応じることができず、また救われて天国に行くことや異言で語ることで満足している人たちもこの必要に応じることができません。

ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセのような旧約の聖徒たちは、新約時代の使徒たちや他の人たちのように勝利者ですが、これらの人たちは完成を待っています。主は依然としてさらに多くの勝利者たちを得つつあります。最終的に、キリストと、旧約時代と新約時代の人たちを含むすべての勝利者たちは、団体の打つ石となります。彼らが整えられ、円熟し、用意ができるとき、主は来て人の統治を打ち砕き、大きな山となって全地を満たします。

啓示録第二章二六節から二七節は言います、「勝利を得る者、わたしのわざを最後まで保つ者には、諸国民を治める権威を与える.彼は鉄の杖をもって、……彼らを牧養する」。啓示録第十二章五節は、男の子は鉄の杖で諸国民を牧養する者となると言います。ダニエル書第二章と啓示録からのこれらの箇所は、主がなおも命の方法で働いてご自身の再来の前に勝利者たちを得つつあることを示しています。地方召会の中にいるすべての者が勝利者であるわけではありませんが、宗派の間の状況を考えるとき、地方召会は主を追い求める者たちが勝利者となるための最上の場所であることをわたしたちは見ることができます。主の回復における地方召会は、命以外の何かのためではありません。

命における成長は正常な増し加わりを生み出す
わたしたちは、主の回復が命の事柄であることを見る必要があります。これはわたしたちが人数を全く顧慮すべきでないという意味ではなく、わたしたちは命の正常な方法における人数を顧慮すべきです。農夫は奇跡的な方法で何百万トンという小麦を生み出すことを期待しませんが、特定の大きさの農場と良い天候は命による増し加わりの方法で正常に生み出すはずです。主は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶことについて語られました(マタイ十三・八)。正常な地方召会は少なくとも年ごとに三十パーセント増し加わるでしょう。もし地方召会が成長において正常であるなら、すべての肢体が増し加わりのために実を結ぶでしょう。このことが意味するのは、地方召会がわたしたちの集会においてだけでなく日常生活においても、命としてのキリストの力強い証しを担わなければならないということです。

わたしたちは日ごとに接触するすべての人たちの間で、イエスの生ける証しを担うべきです。わたしたちは隣人、クラスメート、同僚、親族、友人たちに福音の命の種を分け与えるべきです。これは召会生活の増し加わりをもたらすでしょう。わたしたちは大衆運動を顧慮しませんが、命における正しい成長を顧慮します。それは規則正しい、正常な増し加わりをもたらします。主の回復は大衆運動ではありません。数百人からなる一つの地方召会は一度に何千もの新しい人たちを顧みることはできませんが、命における成長によって年ごとに着実な増し加わりを得るべきです。もしわたしたちが十分な増し加わりを得ていないなら、わたしたちの命における成長が正常ではないことを認識する必要があります。

主の回復の基本的な項目は命です。わたしたちはこの光の中でわたしたちの現状を考える必要があります。わたしたちはそれぞれ命の種であるべきです。わたしたちの労苦の価値は、わたしたちがどれだけ行なうことができるかではなく、わたしたちが命においてどうであるかにかかっています。わたしたちの天然の能力は十字架につけられ、葬られる必要があり、わたしたちは命としてのキリストによって、わたしたちの霊の中で生きる必要があります。主の回復におけるわたしたちの働きは全く、人の行ないの事柄ではなく、主がわたしたちを通してご自身を表現する事柄です。主は美しい器を顧慮するのではなく、土の器の中にある宝を顧慮されます(Ⅱコリント四・七)。わたしたちは他の人たちに、人の良い振る舞いを顧慮しているという印象ではなく、主がわたしたちを通してご自身を表現し、ご自身を他の人たちの中へとまいておられるという印象を与えるべきです。わたしたちは、彼がご自身を命として他の人たちの中へと分け与える経路であるべきです。

運動は長続きしませんが、命は長続きします。組織化されたキリスト教の方法は大衆運動であり、人数は多いのですが、主の動きは命における成長の事柄です。もしわたしたちがこれを見ないなら、的を外してしまいます。わたしたちは、主が命における真の基本的な回復を必要としていることを見なければなりません。この回復は、主が地上で一群れの人を得て、彼らをご自身の表現、住まいとならせて、勝利者を生み出すためです。そして彼は打つ石として戻って来て、地上のすべての統治を打ち砕き、地を満たす大きな山となります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第3巻より引用