クリスチャン生活は、新しくされて新創造となる過程です。わたしたちの霊は、再生によって新しい霊となります。わたしたちの心は、悔い改めによって新しい心となります。そしてわたしたちの心は、キリストがご自身のホームをわたしたちの心の中に造ることによってさらに新しくされます。このように心と霊が新しくされることで、わたしたちは正常な召会生活をすることができます。
新しい心と新しい霊
エゼキエル書第三六章二六節から二七節は言います、「わたしはまた、あなたがたに新しい心を与え、新しい霊をあなたがたの内に置く.わたしは石の心をあなたがたの肉から取り去り、あなたがたに肉の心を与える。わたしは、わたしの霊をあなたがたの内に置いて」。これは神の召された者たちであるイスラエルの子たちに対する神の約束でした。彼らはそらされていましたが、神は彼らに新しい心と新しい霊を与えるという約束をもって彼らを呼び戻しました。神が創造した人として、彼らはすでに心と霊を持っていましたが、彼らがそらされたので、彼らの心と霊は古くなりました。しかしながら、神は彼らを放棄せず、入って来て、彼らに新しい心と新しい霊を与えることによって、彼らに新しい開始を約束しました。今日わたしたちも新しい開始を必要とします。
悔い改めた心と再生された霊
新約はわたしたちの心とわたしたちの霊について語ることによって、開始します。バプテスマのヨハネはまず福音を宣べ伝えて宣言しました、「悔い改めよ、天の王国は近づいたからだ」(マタイ三・二)。悔い改めることは、わたしたちの心の中で変化を持つこと、あるいはわたしたちの考えにおいて転換を持つことです。思いは心の主要な部分です。ですから、悔い改めることは心の事柄です。
徹底的に悔い改めた心は、新しい心になります。神はわたしたちに新しい心を与えることを約束しましたが、外科医が移植手術をするように、彼はわたしたちの古い心を取り出して、新しい心を入れることはしません。彼は命の神であり、すべてに力強く、わたしたちの心を造り変えることによって、わたしたちに新しい心を与えます。わたしたちが悔い改めるとき、驚くべきことがわたしたちの心の中で起こります。わたしたちは、「神よ、わたしは全く罪深いです。わたしはあなたの御前で悔い改めます。どうかわたしを赦してください」と言うとき、それは自分が行なっていることであると感じるかもしれません。一方で、これはわたしたちが行なっていることですが、もう一方で、わたしたちが悔い改めているとき、すばらしい神がわたしたちの中へと入り、わたしたちの心を造り変えます。わたしたちには神がこの驚くべき働きを行なっておられるという感覚がないかもしれませんが、わたしたちは神に悔い改めた直後に、わたしたちの心が変えられたのを見いだします。わたしたちの心は以前は硬かったのですが、悔い改めた後、わたしたちはそれが柔らかくなったことを見いだします。
悔い改めは未信者だけが必要とするものではありません。わたしたち信者は何度も何度も悔い改める必要があります。わたしたちは主を十分に愛していないことを悔い改める必要があるかもしれません。わたしたちが悔い改めるときはいつでも、わたしたちの心はさらに造り変えられ、新しくされます。悔い改めることは手を洗うことのようです。一度だけでは十分ではありません。わたしたちはいつも悔い改める必要があります。啓示録第二章と第三章で主は諸召会に悔い改めるように繰り返し召しています(二・五、十六、二一―二二、三・三)。わたしたちは悔い改める必要があります。なぜなら、悔い改めはわたしたちの心をいやす最上の薬であり、わたしたちの心を規制する最上の道であるからです。悔い改めることは、わたしたちの心を新しくします。
バプテスマのヨハネが人々に心の中で悔い改めるように召すことによって福音を宣べ伝え始めた後、主イエスは続けて、わたしたちは霊の中でその霊から再び生まれる必要があると教えました(ヨハネ三・六)。わたしたちの心の中で悔い改めることは、第一歩にすぎません。わたしたちの心の中での悔い改めに続いて、わたしたちは霊の中で再び生まれる必要があります。正常で均衡のとれた人には良い心と正しい霊があります。良い心は、悔い改め、新しくされ、柔らかくされた心であり、正しい霊は再び生まれた霊です。その霊としての神がわたしたちの霊の中へと入って、神聖な命をもってわたしたちを再生するとき、わたしたちの霊は再び生まれます。わたしたちが悔い改めるとき、神は入って来てわたしたちの心に触れます。わたしたちが主を信じるとき、神はわたしたちの霊の中へと入り、彼の命をもってわたしたちを生みます。わたしたちの心が新しくされて新しい心となるのは驚くべきことであり、わたしたちの霊が再び生まれて新しい霊となるのはすばらしいことです。
正しい心と正しい霊は、新しい心と新しい霊です。わたしたちは悔い改めて新しい心を持つ必要があり、主イエスの中へと信じて、わたしたちの霊が再び生まれて新しい霊となる必要があります。神はわたしたちの古い心を取り去り、それを新しい心と置き替えるのではなく、わたしたちの古い心を新しい心へと造り変えます。同じ原則で、神はわたしたちの古い霊を取り去って、それを新しい霊と置き換えるのではありません。そうではなく、わたしたちが主の中へと信じるとき、その霊としての神はわたしたちの霊の中へと入り、神の命の要素をわたしたちの霊の中へともたらすことによって、わたしたちの霊を生みます。このようにして、わたしたちの古い霊は新しい霊となります。信者として、わたしたちは新しい心と新しい霊を持っています。これがわたしたちを正常な人にします。
霊の中で貧しく、心が純粋であることを必要とする
主が山上で弟子たちに教えていた時、彼は言われました、「霊の中で貧しい人たちは幸いである.天の王国は彼らのものだからである.……心の純粋な人たちは幸いである.彼らは神を見るからである」(マタイ五・三、八)。信者として、わたしたちは心の中で新しくされ、わたしたちの霊の中で再生されましたが、依然としてわたしたちの心を純粋にし、霊の中で貧しくある必要があります。心が純粋であることは、わたしたちの目標と目的において単一であることです。わたしたちの目標は神だけであるべきです。わたしたちが神以外の何かを目的とするなら、わたしたちの心は純粋ではなく、複雑です。わたしたちが神以外に何も追い求めないことによって、わたしたちの心は単純にされる必要があります。召会生活におけるわたしたちの奉仕と機能においてさえ、わたしたちは神ご自身以外の何かを得る意図を持つべきではありません。わたしたちが神だけを顧慮するなら、わたしたちの心は何を行なうにしても純粋であるでしょう。
わたしたちのクリスチャンの歩みのために、わたしたちは神以外に目標を持たずに、心が純粋である必要があります。わたしたちはまた霊の中で貧しくある必要があります。もしわたしたちが自分の内側は豊かで何の必要もないという感覚をもって集会に来るなら、これは神に対して戸を閉じるでしょう。霊の中で貧しくあるために、わたしたちは次のように祈る必要があります、「おお、主よ、あなたは常にわたしと共におられることを感謝します。しかし、わたしは依然としてあなたに欠けています。わたしは霊の中で空にされたいです。それによってあなたはわたしの中でさらに多くの余地を得ることができます。おお、主よ、わたしはあなたに開き、あなたにわたしの霊の中でさらに多くの地位を得ていただくように求めます」。
愛する心と力に満ちた霊
マルコによる福音書第十二章三〇節は言います、「心を尽くし、……主であるあなたの神を愛しなさい」。わたしたちの心は愛する心である必要があります。すなわち、この世ではなく、神を愛する必要があります。テモテへの第二の手紙第一章七節は言います、「神がわたしたちに賜わったのは、臆する霊ではなく、力と、愛と、冷静な思いとの霊であるからです」。わたしたちの霊は力に満ち、愛に満ち、冷静であるべきです
わたしたちの再生された霊の中へと増強され、
キリストがわたしたちの心の中に、身のホームを造る
エペソ人への手紙第三章十六節と十七節は言います、「どうか御父が、……力をもって、彼の霊を通して、あなたがたを内なる人の中へと増強してくださいますように.またキリストが、……あなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように」。わたしたちの内なる人は、わたしたちの再生された霊であり、そこに神はご自身を据えられました。わたしたちはこの霊の中へと増強される必要があり、わたしたちの心はキリストによって占有される必要があります。これらの要点は、わたしたちにとって単なる教理であるべきではありません。そうではなく、わたしたちは霊の中へと増強されつつあるかどうか、主にわたしたちの心を支配していただいているかどうかに関して自分自身を調べる必要があります。わたしたちは力をもって、その霊を通して、わたしたちの霊の中へと増強される必要があり、わたしたちの心は主によって所有される必要があります。それによって彼はその中にご自身のホームを造ることができます。
追い求め、識別し、正常な召会生活の中へと入る
キリストがわたしたちの心の中に、ご自身のホームを造っているとき、もしわたしたちがその霊によってわたしたちの内なる人の中へと増強されつつあり、キリストによって所有されつつあるなら、わたしたちは正常な召会生活の中へと自然に入るでしょう。もしわたしたちが天然の命の中にとどまっているなら、わたしたちは召会についてはっきりするはずがありません。信者たちの心と霊が正しくなるとすぐに、彼らは内側深くで召会生活に対する切望と、正常な召会生活が何であるのかに関する内なる感覚を持つでしょう。召会を知ることは外側のものではなく、絶対に内側のものです。
わたしたちは外側の方法で召会を識別することはできません。そうではなく、わたしたちは内側の方法で召会を味わわなければなりません。良い視力を持っていたとしても、塩と砂糖とを見るだけでは識別することはできません。しかしながら、それらを口の中へと入れたとき、識別することは容易です。もしクリスチャンが新しくされた純粋な心と、聖霊によって増強されている、新しくされた霊を持っているなら、彼らは正常な召会生活を味わうとき、直ちに正常な召会生活を識別することができるでしょう。
霊的に味わうことは、天然の思いだけではなく、わたしたちの新しくされた心と霊を必要とします。初信者がキリスト教の団体を訪問するとき、彼は自分の限られた知識によって多くのことを識別することができないでしょう。しかしながら、もし彼にキリストによって所有されている、新しくされた心と、その霊によって増強されている、新しくされた霊を伴う正常な存在があるなら、彼はそれが正常な召会であるかどうかを、内側の味わいによって直ちに知ることができます。わたしたちは召会を識別するためにわたしたちの霊と心を必要とします。わたしたちの多くは、主の回復の中で地方召会の集会の中へと最初に入ったとき、召会についてそれほど知識を持っていませんでした。わたしたちの外側の理解によれば、集会はとても奇妙に見えたかもしれません。しかしながら、わたしたちは内側深くで、これが正常な召会生活の主の回復であると感じました。おそらく、わたしたちはこの内側の感覚を説明できなかったでしょう。またわたしたちの思いは頑固に抵抗したかもしれませんが、その感覚は実際であり、持続するものでした。わたしたちは新しくされた心と霊の感覚によってそれを味わうとき、正常な召会生活を識別することができるようになります。
神は召会の中で栄光を得られる
エペソ人への手紙第三章は、内なる人の中へと増強されて、キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造ることができるようにと語った後(十六―十七節)、二〇節から二一節は言います、「わたしたちの中で活動するその力にしたがって、わたしたちが求め、また思うすべてを、はるかに超えて豊かに行なうことのできる方、神に、召会の中で、……栄光が……ありますように」。こういうわけで、文脈によれば、わたしたちの霊の中へと増強されること、またキリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造ることは、召会のためです。わたしたちがその霊を通してわたしたちの霊の中へと増強されるとき、またキリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造るとき、神は召会生活に関してわたしたちが求め、また思うすべてを、はるかに超えて豊かに行なうことができます。わたしたちは霊の中へと増強され、キリストにわたしたちの心を完全に得ていただくことによって、神にわたしたちの間で道を得ていただく必要があります。
わたしたちは主の回復が普通のキリスト教の働きではないことを認識する必要があります。主の回復は完全にわたしたちの心と霊にかかっています。電気は力強いのですが、それが活動するために、それを伝達する電線が必要とされます。同様に、神は力に満ちています。神はわたしたちが求め、また思うすべてを、はるかに超えて豊かに行なうことのできる方ですが、神は道を得るために、キリストによって所有されているわたしたちの新しくされた心と、わたしたちの新しくされ、再生され、増強された霊を必要とされます。わたしたちはこれらの事柄において主と協力すればするほど、ますます主の回復を見るようになります。
主の回復における召会生活の中にいる若い人たちは、ただ集会に参加してメッセージを聞き、良い事を行なおうとする普通のクリスチャンであると自分自身を見なすべきではありません。むしろ、若者たちは祈る必要があります、「主よ、わたしたちはあなたによって回復されてきました。わたしたちをさらに回復してください。わたしたちの心と霊を極みまで回復してください。主よ、あなたが力をもってわたしたちの霊の中へと増強し、わたしたちの心の中にご自身のホームを造ることができるようにという使徒パウロの祈りに答えてください。わたしたちはあなたによって完全に所有されたいのです」。もしすべての若い兄弟姉妹たちがこのように行なうなら、数年以内に主は多くのことを達成することができるでしょう。若い兄弟姉妹たちは若い時に主の回復のすべての真理を聞くという前例のない機会を得ます。御言は開かれています。わたしたちの心が主によって支配され、わたしたちの霊が主によって増強されるとき、主はご自身の定められた御旨を完成する道を得るでしょう。
今日、積極面と消極面の両方で、諸地方召会についてクリスチャンの間で多くのうわさ話があります。このようにわたしたちは注目されています。なぜなら、これは主の回復であるからです。またこれはサタンの暗やみの勢力を揺り動かすからです。ある宗教的な人たちは、わたしたちについての悪いうわさを広めています。なぜなら、宗教も揺り動かされるからです。主の回復における主の動きは、力強いです。諸召会の若者たちは主の回復を委託される必要があります。この委託を受け入れる方法は次のように祈ることです、「主よ、わたしは自分自身をあなたにささげます。あなたがわたしの心と霊を新しくしてくださるゆえに感謝します。わたしはあなたが続けてわたしの心を純粋にし、支配し、わたしの霊の中へと増強することを必要とします。わたしはあなたに開きます。わたしの心の中のすべての地位を得てください」。もし若い兄弟姉妹がこのように日ごとに祈るなら、神はわたしたちの間でわたしたちが求め、また思うすべてをはるかに超えて豊かにご自身の定められた御旨を完成することができ、また召会の中で神に栄光があるでしょう。
主の回復の拡大のための正しい心と霊
主の回復は、わたしたちの新しくされた純粋な心、またわたしたちの新しくされ、増強された霊にかかっています。わたしたちの心がキリストによって完全に所有され、わたしたちの霊がその霊で徹底的に浸透されるとき、神は道を得て、回復は優勢となるでしょう。わたしたちは偉大な人たちではありませんが、回復はどこへ行っても優勢であり、何ものもそれを消すことはできません。主はわたしたちの心を純粋にし、主がわたしたちの心を所有し、わたしたちの霊の中でその霊に浸透していただくように召しています。わたしたちがこのような人々である限り、何ものもわたしたちを止めることはできません。わたしたちは麦粒のようです。それは地に葬られることによって圧迫されるとき、増殖する機会が与えられます(ヨハネ十二・二四)。反対者たちがわたしたちを圧迫すればするほど、わたしたちはますます成長し、増殖するでしょう。
わたしは、主がわたしたちの中で動いておられると信じます。主はわたしたちの心とわたしたちの霊の中で動いておられ、わたしたちの心を純粋にし、また所有し、わたしたちの霊を増強し、また浸透しています。最終的に、わたしたちは心と霊の中で主と完全に一になります。そのとき、わたしたちは、主がご自身の命によって、召会生活の中でわたしたちが求め、また思うすべてを、はるかに超えてご自身の定められた御旨を完成することができることを見るでしょう。わたしたちは主の回復のための委託を見て、進んでそれを受ける必要があります。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第3巻より引用