交わりの祈りと尋ねる祈り

真理

祈りの真の意義は、人々が霊の中で神と接触し、神ご自身を吸収することです。ですから、真の祈りとは、神の御前でどれだけの事柄を求めたかに重点があるのではなく、神と接触し、神と交わることに重点があります。創世記第十八章がわたしたちに見せていることは、アブラハムが神の御前で非常に良い祈りをしたということです。彼の祈りは、求めることではなく、尋ねることでした。祈る者はみな、まず尋ねます。

祈りは、その機能において交わりの祈りと尋ねる祈りという二つの面に分けることができます。クリスチャンは、祈りのこの二つの面を認識し、さらに実行し学ぶ必要があります。

交わりの祈り

交わりの祈りは、神で満たされ、神を流し出すことができる
祈りの第一の面の意義は、霊を用いて神と接触し、神を吸収し、人の全存在を神との霊的な交わりに連れ戻すことです。わたしたちがこのように神に接触し、神を吸収し、神と交わるとき、神はご自身をわたしたちの中に啓示し、わたしたちの中へ注ぎ込む機会を持ちます。このようにして神がわたしたちの中へと流れ込んで、わたしたちの思い、感情、意志の中で徐々に神とミングリングされることによって、神の意図がわたしたちに開かれ、神のみこころを知ることができるようになります。同時に、このように神がわたしたちの中で活動し、働かれることで、わたしたちの弱点、間違い、障害や困難が、しばしば神によって指摘され取り除かれます。ですから、祈りの第一の面の意義は、神と交わり、神にわたしたちとミングリングする機会を与え、わたしたちのすべての困難を取り除いてもらうことです。交わりの祈りは、わたしたちを神に深く触れさせます。また神に触れられることで、わたしたちは徹底的に、そしてくまなく神に浸透され、満たされるようになります。このような祈りはまた、神の生ける水の川々をわたしたちから自由に流し出させることができます。ですから、交わりの祈りは、わたしたちを神に用いていただくための最高の方法なのです。「神のために用いられる」の真の意味は、命を流すこと、つまり神を流し出し、他の人に分け与えることです。このような祈りこそが、わたしたちを最も神で満たし、神で浸透させ、神をわたしたちの中から流し出させるのです。

常に交わりの中に生きていなければならない
交わりの祈りは、表面的には、一般的に知られているデボーションやリトリート(共に修養会)の祈りとしばしば同じように見えますが、実際には非常に大きな違いがあります。デボーションやリトリートの祈りを提唱する人は、日ごとの主との接触がなく、主との交わりの中に生きることなどは言うに及ばず、ただ、その時に、霊的な修養をするだけです。しかし、わたしたちが言っている祈りとはこのような祈りではありません。それは日ごろから交わりの中で主と接触し、主との交わりの中で生きることが必要な祈りです。日ごろ神との接触がなく、祈るときになって主と交わるのではありません。日ごろから交わりの中に生きていない人は、祈る時になったとしても、良い交わりができず、深くもなく、徹底的でもありません。祈りの中で良い交わりをしたいのであれば、日ごろから(祈っていない時)、主との交わりの中に生きていなければなりません。

人為的なリトリート(修養会)ではなく、霊の中での接触である
一般にデボーションやリトリート(修養会)の祈りと呼ばれるものは、その人が神の御前に出て反省することに注意を払っています。ですから、内容はほとんど人為的なものです。一方、わたしたちが言っている交わりの祈りとは、自己の反省を全く必要とせず、人の全存在を深みから主の御前に置いて、静かに、主と接触するというものです。自分自身で自己を調べる必要はなく、主に調べていただき、自分の弱点や間違い、困難を指摘してもらいます。

このような祈りでは、わたしたちが求めるものはほとんどなく、ほとんどの場合、受け取るだけです。わたしたちは主の光、指示、啓示、要求、注入を受け、主に服し、打ち砕かれ、占有され、満たされ、浸透されます。祈りが終わるときには、自然に主のこのような顧みに対して感謝し、主のすばらしいみわざを賛美し、主がわたしたちとミングリングされようとしていること、主がわたしたちの中に住もうとしてくださっていることに対して彼を礼拝するようになります。このような祈りは、自分自身を祈りで神へともたらすことであり、祈りで神を自分の中にもたらすことです。

交わりの祈りの中で、わたしたちは自然に主の持つ甘さ、栄光、美徳と主のすべてを思い巡らします。一方では、主が内側にいてわたしたちとミングリングしていると感じます。他方では、主が高い御座に座られていると感じます。ですから、わたしたちは主の来臨を望み、主に自分の生活の中に入ってきていただくように望みます。そのような望みは、見上げることでもあります。このような祈りにおいて、常に待つということがありますが、それは主が何かをしてくださるのを待つというものではなく、まるで親しい友人が話しを終えても離れたくないようなものです。これは創世記第十八章でアブラハムが経験したことです。このような待つことは、さらに進んで主からの啓示を得ることになります。アブラハムは神と共に歩いて、神を見送りました。そして神は言われました、「わたしが行なおうとしている事を、アブラハムに隠しておいてよいだろうか?」(十七節)。これは、交わりの中で待つことで得た結果です。

時間を確保すること
交わりの祈りでは、すべての人、事、物から自分の全存在を連れ戻し、霊の中で神に接触することと、静かに待つことが常に必要とされます。ですから急ぐべきではありません。主イエスも夜明け前によく山に行って祈り、時には夜通し祈って、神と接触し、神を吸収し、神で満たされるようにされました。サタンが好んで邪魔をしようとするのは、このような祈りです。サタンはよく、環境の中にある人、事、物を用いて邪魔をしてきます。ですから、わたしたちを妨げるあらゆるものから離れて神と接触するためだけの時間を確保する必要があります。

経験によってわたしたちは知りますが、良い祈りをしようとするなら、最低でも三十分を費やさないと霊の中へと入って行くことができません。ですから、毎日約一時間を費やして主の御前でこのように祈ることで、この学課を学ぶことができるでしょう。わたしたちが真剣に学ぶなら、半年後には、打ち砕かれることがどういうことなのか、十字架が何であるのか、服するとはどういうことなのか、霊的であるとはどういうことなのかがわかるでしょう。このような学課は、パートナーに頼って学ぶことはできず、自分自身で学ばなければなりません。なぜなら、真の霊的な学課は、このような交わりの祈りを通してのみ、学ぶことができるからです。

尋ねる祈り
神から始められる
良い祈りは、わたしたちが交わりの中に入ったとき、すなわち、神の中に入ったときに始まります。この祈りは、人から始めたものではなく、神から始められたものです。ですから厳密に言えば、人に何かの問題があり、神に何かをしてもらいたいと求めるものではなく、神に問題があり、神に替わって人に求めさせるというものです。主は、マタイによる福音書第六章で弟子たちに祈りを教えたときに、「そこであなたがたは、このように祈りなさい.天におられるわたしたちの父よ、あなたの御名が聖とされますように.あなたの王国が来ますように.あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように」(九―十節)と言われました。この祈りは、わたしたちが神の御名、神の王国、神の意図のために祈ることを主が願っておられるということです。これは、真の祈りはすべて神から始められているということです。それは神が働きの負担をわたしたちの内側で油塗られたということであり、神の心の願いをわたしたちの中へと啓示され、わたしたちに神の意図と働きの負担にしたがって祈り求めさせるということです。

求める以上に尋ねる
すべての働きや奉仕は、尋ねる祈りからのものであるべきです。ですから、祈りの中では、求める以上に尋ねなければなりません。祈りの中で尋ねた分だけ、行なうべきであり、尋ねる中で不安な感覚があれば、それを実行すべきではありません。そのような働きは神が始めたものですから、必ず命という結果になります。例えば、主と交わるとき、若い兄弟姉妹に負担を感じて、このことで主に尋ねます、「主よ! この負担をわたしに与えられたのですか?あなたはわたしに何をして欲しいのですか? どのように導けばよいのですか? これらの兄弟姉妹に対するあなたの目的は何ですか?」。これが尋ねることです。神が特定の兄弟に対する目的をあなたに与えられたとき、あなたは尋ねます、「主よ! あなたはわたしが彼との交わりに行って欲しいのですか?」。これは神が内側で油塗られているのであって、あなたが尋ねているようですが、それは神があなたに与えられた感覚なのです。この時、あなたは自分の中に重い負担を感じていますが、同時にあなたの深い部分は命と自由と平安で満たされています。そして続けて、あなたはもう一度尋ねるでしょう、「主よ、あなたは、わたしが一人で行くことを望んでおられるのですか、それとも他の兄弟と一緒に行くことを望んでおられるのでしょうか?」。あなたがこのような感覚を根拠として一歩一歩と尋ねるなら、それが最も良い祈りなのです。

このように尋ねるとき、とても容易に神の導きを感じ、その導きに従って行なうことができます。今、あなたが特定の兄弟を訪問しに行くとき、彼はあなたの中の神に触れるでしょう。なぜなら神はあなたの中から出て来られるからです。あなたが彼と接触するとき、それは神が行って彼と接触されるのです。神があなたの中でミングリングされて、そして彼のところに行き、彼と接触されるのです。そのような働きには、人の好みも、人の意志も、人の手腕も能力もありません。このような働きは神のミングリングで満ちています。あなたがその兄弟と話すとき、あなたの話す言葉はすべて、神との交わりの中で話したものです。あなたの中で神に尋ねて出てきたものだけを、外側へと発表することができます。それらの言葉の一字一句のすべてが、霊から出てきたものであり、すべての言葉がその兄弟の霊に触れ、神を彼に供給します。これこそが真の働きです。

祈りの法則を守る
通常わたしたちの働きのための祈りはあまり霊的ではありません。なぜなら祈りの法則を満たしていないからです。電灯の設置は電気の法則に符合していなければなりません。祈りもまた祈りの法則に合っていなければなりません。あなたがだれかを訪問して、その人に真の助けを与える必要があるのですが、あなたは単に主がその人の上で働かれることを求めることはできません。そのようであれば祈りの法則に合っていません。なぜなら、そのような祈りは、神から出たものではなく、あなたから出た祈りであるからです。どのようなものが祈りの法則に合ったものなのでしょうか? あなたはまず、霊の中へと戻り、神と接触し、神が負担をあなたの内側へと油塗ってくださり、あなたがその兄弟を訪問すべきであるという感覚を持つ必要があります。それから、あなたがその感覚にしたがって神に尋ねます。あなたがこのように尋ねるなら、内側には命と平安があるようになります。そしてあなたはこの訪問が神から出たものであることを知るでしょう。そして、あなたは再びこの訪問のための各面を一つ一つ主に尋ねます。このようにして祈りの法則は満たされます。もしあなたがそのように尋ねるとしたら、あなたが訪問するときに、あなたは何を語るかを知ります。また交わりの中で彼と話すことができます。このような訪問は必ず結果のあるものとなります。

毎回の働きを終えた後、ある部分はできているがある部分はできていない、徹底的でないと感じます。ですから、あなたが次に祈るときには、まず交わりの中で神に触れ、神がまた感覚を与えてくださり、あなたはその感覚にしたがって未完成の部分について尋ね、祈ります。そうしてあなたは神とミングリングされて、交わりの中で再び働きを行ないます。このことが祈りを通して神と同労するということです。このような働きは、交わりの中で行なわれるものであり、祈りの霊の中で行なわれるものです。このような働きの結果は、神があなたから出てくることです。それは神があなたを通して人に供給されるということです。

時間がかかる
尋ねる祈りは、より密になればなるほど良いのです。ですから、働きのための祈りはすべて徹底的でなければなりません。このような働きは、時間を短縮する方法はありません。なぜなら、すべては交わりの祈りの中で行なわれる必要があるからです。ですから時間がかかります。確かなことは、あなたが神の御前でひれ伏した分だけ、あなたの働きの成果も大きくなるということです。祈りから出てきた働きは、必ず堅固なものになるでしょう。それは、生涯を通じても学びきれない学課です。そしてそれはますます細やかなものとなり、ますます深いものとなります。このような祈りをする人だけが、命の種となることができ、命の実を実らせることができるのです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第3巻より引用

 

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