新約の中にはヘブル人への手紙ほど、神聖な事柄を多く、詳細に示している書はありません。第11章1節は言います、「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することであり、見ていない事柄を確認することです」。この定義によれば、信仰は、望んでいる事柄に、また見ていない事柄に関係しています。このことは、わたしたちが見えているどのようなものも、あるいは、望む必要のないどのようなものも、信仰と関係がないことを暗示しています。真の「信仰」とは神聖な注入の結果です。
目に見える事柄と目に見えない事柄
宇宙には二つの部類の事柄、すなわち、目に見える事柄と目に見えない事柄があります。歴史と宇宙の真の状況によれば、見えていない事柄が見えている事柄を制御しています。例えば、わたしたちの存在の目に見える部分、すなわち、わたしたちの体は、わたしたちの存在を制御する要因ではありません。そうではなく、目に見えない部分、見ることができない部分が、制御する要因です。わたしたちは体によってではなく、目には見えませんが真のものである、内側のものによって制御されています。さらに、わたしたちの運命、将来は、見えている事柄によるのではなく、見えていない事柄によります。神は目に見えませんが、宇宙全体は彼の制御の下にあります。もしわたしたちが聖書の光の中で人の歴史を考察するなら、人の歴史がすべて見える事柄や人によってではなく、見ることができないある方によって制御され、方向づけられているのがわかります。人類の間の、また国家間の各種の変化であったり、国家間に起こったすべての出来事であっても、世界情勢を方向づける、見えない制御する要因があります。
目に見えない事柄に関して
神、キリスト、永遠の命、わたしたちの霊は見えません。見えている事柄についてわたしたちに告げる無数の書があります。しかしながら、聖書だけが、見えていない事柄をわたしたちに告げています。洞察力に欠けている人たちは、目に見える事柄に目をとめますが、賢い人たちは目に見えない事柄に、すなわち、見えないけれど聖書に啓示されている事柄に目をとめます(Ⅱコリント四・十八)。キリストにある信者たちは、決して神を見たことがありませんが、神を信じており、神を愛しています。なぜなら、聖書が彼を啓示しているからです(Ⅰペテロ一・八)。同様に、わたしたちは決して、永遠の命やわたしたちの霊を見たことがありませんが、これらの見えない事柄を信じています。なぜなら、聖書がそれらをわたしたちに啓示しているからです。神、キリスト、その霊、永遠の命、わたしたちの霊は目に見えませんが、わたしたちは、これらの目に見えない事柄に目をとめる人々であるべきです。
クリスチャン生活は、見える事柄の生活ではなく、見えない事柄の生活です。クリスチャン生活に属するどのようなものも、目に見えません。召会の堕落は、クリスチャンが見えない事柄から見える事柄へと移ってしまったという事実が原因ですが、主の回復は彼の召会を、見える事柄から見えない事柄へと回復します。わたしたちは見える事柄だけを顧慮するとき、堕落してしまいます。しかし、わたしたちはミングリングされた見えない霊にしたがって歩くことによって、見えない生ける神を顧慮するとき(ローマ八・四)、正常なクリスチャン生活と召会生活へと回復されているのです。
見えない事柄に目をとめる
わたしたちは、目に見える事柄に目をとめるために、信仰を必要としません。しかし、目に見えない事柄に目をとめるためには、信仰によって歩く必要があります。召会生活の中で、わたしたちは外側の見えるものによって歩いているのではなく、信仰によって歩いています(Ⅱコリント五・七)。わたしたちは、信仰を通して救われていることを知っています(エペソ二・八)。この信仰は、わたしたちに、神聖な命を伴う神聖な誕生を経験させます。わたしたちが再生されたとき、神聖な命、すなわち、天然の感覚では見えないものが、わたしたちの中へと分け与えられました。この命が分け与えられた結果として、わたしたちは主にある兄弟姉妹となりました。神聖な誕生も神聖な命も見ることができませんが、わたしたちの中には、互いの中にある神聖な命を実体化する能力があります。わたしたちの中にある、この実体化する能力が信仰です。
信仰――神聖な注入の結果
信仰は、わたしたちが見えない事柄を実際化することができる、実体化する能力です。信仰を持つことは、強い意志をもって明確な決定をすることによって、ある事柄を信じることと同じではありません。聖書において啓示されている信仰は、わたしたち自身のものではありません。それは、神によってわたしたちに割り当てられた聖なる神聖なものです。信仰は神聖な注入の結果です。
神の霊は神の言葉を伴っており、聖書の中でその霊と言葉は決して分離していません(ヨハネ六・六三、エペソ六・十七)。神の言葉がわたしたちに臨むとき、その霊は言葉と共に来ます。神がわたしたちに話しかけるとき、その霊は神であるものをわたしたちの中へと注入します。その霊は、御言の中の真理をわたしたちに啓示するだけではなく、わたしたちの中へと神の本質、彼の神聖な要素を分け与えます。わたしたちが御言を読むとき、自然に、また無意識のうちに、わたしたちの存在の中へと知識と啓示だけではなく、神聖な要素が注ぎ込まれ、注入されます。この注入の結果として、わたしたちの内側にあるものが自然に起き上がり、わたしたちの信じる能力となり、わたしたちは単純に信じるようになるのです。わたしたちは、たとえ全世界がわたしたちの信じることに反対したとしても、わたしたちの内側のあるものがわたしたちに信じさせるので、なおも信じます。これが信仰です。「信仰」は、わたしたちが信じずにはいられなくなることを意味します。あるものは論理的には、信じることができないかもしれませんが、霊的には、わたしたちは信じます。
信仰は、わたしたちの感覚にしたがったものではなく、それは、その霊が神の言葉を通して、神聖な要素をわたしたちの存在の中へと注入したものです。神聖な要素が、聖書の言葉、霊的書物を通して、あるいはわたしたちの霊から受けたビジョンを通して、わたしたちの中へと注入されるとき、何かが自然に、わたしたちの内側で起こり、神が語られたすべてのことを信じるようになります。これが信仰です。わたしたちはみな、自分自身を神に、彼の言葉に、彼の語りかけに、彼のビジョンに開くことを学ぶ必要があります。そのとき、彼の霊は神聖な要素をわたしたちの存在の中へと注入し、わたしたちの信じる力とします。これが信仰、望んでいる事柄を実体化すること、見ていない事柄を確認することです。神聖な事柄はすべて望んでいる事柄であり、見ていない事柄です。望んでいる事柄の実体化としての信仰は、第六感のようなものです。もしわたしたちが、誕生によって受けた、生まれながらの五つの感覚に依存するなら、ヘブル人への手紙で明らかにされた神聖な事柄を感じ取ることができないでしょう。こういうわけで、わたしたちはこの加えられた感覚を、すなわち、信仰を必要とします。
信仰は霊により、そして霊の中にあることが必要である
信仰を持つには、ヘブル人への手紙第四章がわたしたちの人の霊について語っているのを見る必要があります。十二節は言っています、「神の言は生きていて効力があり、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して」。この節で取り扱われている極めて重要な点は、わたしたちの魂と霊を切り離すことです。わたしたちの魂が、わたしたちの霊と切り離される必要があるという事実が示しているのは、ヘブル人への手紙で明らかにされている神聖な事柄すべてにわたしたちが触れる唯一の方法はわたしたちの霊によってであり、またわたしたちの霊の中にあるということです。ヘブル人への手紙は、わたしたちの霊に関してだけではなく、わたしたちの魂に関しても語っています。ヘブル人への手紙第十章三九節は言います、「わたしたちは、退いて崩壊に至る者ではなく、信仰を持って魂を獲得するに至る者です」。わたしたちは人として、これら二つの器官を、すなわち、わたしたちの霊と魂を持っていることを認識する必要があります。
信仰に関して、わたしたちは、わたしたちの魂を活用すればするほど、ますます疑いを持つようになります。もしわたしたちが思いの中にとどまるなら、神は真実でないかのように見えます。同じ原則が、すべての積極的で霊的な事柄に適用されます。もしわたしたちが、どのような霊的な事柄に関しても思いの中にとどまるなら、その事柄はわたしたちにとって真実ではないでしょう。例えば、もしわたしたちが、わたしたちの思いの中で、キリストがわたしたちの中に住んでいるという真理を考えるなら(ローマ八・十、Ⅱコリント十三・五)、宇宙よりも広大であるキリストが、わたしたちと同じくらい小さいだれかの中に住むことが可能であるかどうかを疑問に思い始めるかもしれません。最終的に、わたしたちは不信仰で満たされるでしょう。
信仰は信じる能力です。もしわたしたちが魂の中にとどまるなら、疑い続けるでしょう。しかしながら、わたしたちの霊には信じる能力があります。この能力は、わたしたちが霊を活用するときに接触する対象、命を与える霊としての主イエスにかかっています。信仰は、神聖な要素に属する神聖な能力です。神聖な要素が、わたしたちの中へと入るとは、わたしたちの霊の中へと入るのであって、わたしたちの思いの中へと入るのではありません。わたしたちはこの神聖な要素を受けたので、ただ信じるのです。
霊を活用し、神が霊の中に注入されることで得られる信仰
ヘブル人への手紙では、人の霊や魂のほかに、恵みの御座、至聖所、そして神ご自身についても書かれています。第四章十六節では、「ですから、わたしたちがあわれみを受け、また時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、大胆に、恵みの御座に進み出ようではありませんか」と言っています。第十章二二節では、「真実な心で、信仰の全き確信をもって、至聖所に進み出ようではありませんか」と言っています。その他に、第十一章六節では、「神に進み出る者は、『神はある』ことを……信じるはずだからです」と言っています。これらの三つの節を合わせると、わたしたちは至聖所にある恵みの御座にいる神のもとに来なければならないことを見ます。わたしたちが霊を活用し御前に進み出るとき、神はわたしたちの霊の中へとご自身を注入してくださいます。わたしたちの霊の中へと分与された神聖な方の要素が、わたしたちの信じる能力となります。このように神がわたしたちの中へと注入されたなら、信仰は自然に生まれてきます。わたしたちの内側には二つの事柄が、すなわち、疑いや信じないことと、信仰があります。疑いは、わたしたちの思いの中にありますが、信仰はわたしたちの霊の中にあります。信仰は、強い思いや強い意志を活用することによって得られるのではありません。そのような活用は、真の信仰を生み出すことはありません。しかしながら、わたしたちが霊を活用し、神がおられる至聖所に進み出て、それによって神がご自身をわたしたちの中へと注入することができるとき、わたしたちは自然に信じるようになります。これが信仰です。多くの信者たちは、祈りを通して、信仰を受ける経験をしました。しかしながら、このことは祈りがわたしたちに信仰を与えるということを意味しているのではありません。祈りは、信じる能力をわたしたちに与えるのではなく、わたしたちが霊を活用し、神に触れることを助けるのです。わたしたちが祈れば祈るほど、ますます恵みの御座で神に触れるようになります。結果として、神はわたしたちの中へと注入されて、わたしたちの内側で信じる能力となります。ですから、わたしたちが祈れば祈るほど、ますます恵みの御座で神に接触するようになります。それは、さらなる神の注入とさらなる信仰という結果となります。
神が沈黙される中での信仰
信仰とは、わたしたちのために神が行なわれることを信じることだけではなく、彼がわたしたちのために行なわれないことをも信じることであるのを認識する必要があります。例えば、わたしたちは、迷信的な方法で神のいやしを信じるのではありません。テモテへの第一の手紙第五章二三節において、パウロはテモテに、彼の胃とたびたび起こる病のために、少量のぶどう酒を用いるように求めました。このことは、パウロが彼の信仰を失っていたことを意味するのではありません。違います。パウロはなおも信仰を持っていました。しかしながら、彼は、彼の霊の中で、主の方法がテモテをいやすことではなく、彼に恵みを与えることであるのを認識したに違いありません(参照、Ⅱコリント十二・七―十)。これは、主の恵みが十分であることを信じるさらに力強い信仰です。
パウロはテモテへ二通目の手紙を書いていた時、獄の中にいました(Ⅱテモテ一・十六―十七)。彼はテモテへ次のように言っているかのようでした、「わたしは霊の中で、主がわたしを獄から解放したりするためにどのような奇跡も行なわないことを知っています。わたしが祈れば祈るほど、ますます主がわたしのためにどのような奇跡的なことも行なわれないことがはっきりするようになりました。そうではなく、彼は命の中でわたしたちに彼の恵みを供給することを願っておられます」(一・九―十二)。パウロは信仰によってこのことを受け入れ、平安に獄の中に留まりました。パウロは彼が投獄された時に、殉教に至るまで、主の恵みの供給を得ることができると信じたということです(四・六―八)。このような信仰は、外側の奇跡だけを信じる信仰よりも力強いものです。パウロは信仰によって平安であったのです。
ときには、わたしたちは主と接触するとき、彼の注入を受けて、主がわたしたちのために何かを行なわれることを知ります。それは信仰です。しかしながら、別のときには、主はわたしたちのためにどのようなことも行なわれないことをわたしたちにはっきりとさせます。そのようなときに、わたしたちが主のみこころを受け入れるのは困難であるかもしれませんが、わたしたちは恵みを受けて言う必要があります、「主よ、あなたに感謝します。わたしは信じます」。これも信仰であり、この信仰は、神が奇跡を行なうことにおける信仰よりもさらに大きなものです。それは、神が沈黙される中で信じることであり、この信仰は、わたしたちが霊の中で神と接触することを通して、神ご自身からのみ来るものです。
主ご自身が信仰の源であり、また完成である
ヘブル人への手紙第十一章の最初で、信仰の定義を明らかに示し、続けて信仰の簡潔な歴史を提示しています。それから第十二章一節から二節は言います、「こういうわけで、こんなにも大勢の証し人である雲に囲まれているのですから、わたしたちも、あらゆる重荷と、いとも容易にまといつく罪をかなぐり捨てて、前に置かれているレースを、忍耐をもって走ろうではありませんか.わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい」。第十一章において述べられている旧約の勝利を得た聖徒たちは、わたしたちを囲む信仰の証し人である雲であって、彼らのうちのだれも信仰の創始者や信仰の完成者ではありません。主イエスだけが信仰の創始者、創設者、開始者、導く者、開拓者、先駆者です。主イエスだけが信仰の創設者、要因であり、また信仰の完成者、完了者です。信仰は、主イエス以外のいかなる人物の中にもありません。信仰は主ご自身です。彼は信仰の源であり、完成であるからです。ですから、わたしたちはイエスだけをひたすら見つめるべきです。
わたしたちは認識する必要がありますが、イエスをひたすら見つめるかぎは、へブル人への手紙第四章十二節において述べられている人の霊です。わたしたちはまた見るべきですが、わたしたちがひたすら見つめるべき主は、命を与える霊です。主イエスだけが信仰の創設者、信仰の源であり、信仰の完了者、完成です。もし主が客観的な救い主であるだけで、主観的な命を分け与える方、命を与える霊でないなら、どれほどわたしたちが彼をひたすら見つめたとしても、信仰の伝達をわたしたちの中へと受けることはできないでしょう。今日、主はわたしたちの霊の中におられる命を与える霊であるので、わたしたちが霊を活用して彼と接触し、主以外のあらゆるものから向きを変えるときはいつでも、彼はご自身を信仰としてわたしたちの中へと伝達し、注入します。わたしたちの信仰の源となるだけではなく、わたしたちの信仰の完成ともなります。今日、わたしたちの霊を活用し、命を与える霊としての彼をひたすら見つめ、信仰の要素である主の注ぎを受ける必要があります。わたしたちは霊を活用するなら、命を与える霊としての主と接触し、彼はわたしたちの霊と一になります。わたしたちは信仰としての彼の満ち満ちた注入をわたしたちの中へと受け入れます。それは、わたしたちの主の中にある信仰を継続して増し加え、成長させます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第3巻より引用