神の心の願いにしたがった召会

真理

エペソ人への手紙第一章五節と九節に、「みこころの大いなる喜び」と「彼の大いなる喜び」という用語があります。すべて生きているものは喜びを求めています。事実、命が生きていればいるほど、ますます喜びを必要とします。神は確かに最も生ける方ですから、必ず最高の喜びを必要としておられます。

この喜びは彼のみこころにしたがっています。この「みこころ」という言葉は、神が強い意志を持っておられることを意味するのではなく、いくらか願望に近いです。神には大いなる願望と願いがあります。神は何かを味わうことを切望し、願っておられます。

すべての聖書研究者は、エペソ人への手紙全体が召会に関するものであることに同意しています。神の心の願いは召会を得ることです。神の願いは、単に一群れの救われた罪人を得ることではなく、一つの実体、すなわち召会を得ることです。

神の心の中にある召会はとてもすばらしいです! 使徒パウロはエペソ人への手紙を書いていた時、多くの面で召会を描写しました。召会生活の中にいる人がみな、神の喜びとは召会を得ることであるという事実によって深く印象づけられ、この事に精通することができますように。

エペソ人への手紙の中に提示されている召会の各面
召会は子たる身分である

エペソ人への手紙第一章五節は言います、「みこころの大いなる喜びにしたがい、イエス・キリストを通して、わたしたちを子たる身分へと、彼ご自身へあらかじめ定められました」。この子たる身分は召会、あるいは召会生活です。わたしたち神の選ばれた者たちがあらかじめ定められた子たる身分は、わたしたちが召会を享受するための、神聖な命における祝福です。召会は団体の子たる身分、神の神聖な子たる身分の総合計です。これが暗示するのは、召会は神ご自身の性質を持つ団体的な実体でなければならないということです。「子たる身分」は性質と源の両方を暗示しています。召会の源と性質は父なる神です。聖書で父という名はいつでも源と性質を指しています。家庭においても、父親は源と性質です。すべての子供は彼らの父親という源から出てきて、父親の性質を持っています。召会は父なる神という源から出て、父なる神の性質を持つ団体的な実体です。わたしたちは召会において父なる神の性質を持っています。わたしたちの性質が神聖であるのは、わたしたちが唯一の源、すなわち、父なる神ご自身から出てきたからです。

一個人の起源は通常その顔に現れます。わたしたちは容易に人の外観から、その人の起源がどの国かを識別することができます。今、わたしたちは問わなければなりません、「召会の起源は何でしょうか? 召会は父なる神の現れを持っているでしょうか? わたしたちは本当に彼の表現を帯びているでしょうか? わたしたちは召会の中にいると言いますが、わたしたちはどのような人でしょうか? わたしたちはある国の人のように生きているでしょうか、それとも源が父なる神である人のように生きているでしょうか?」。わたしたちは召会の起源は父なる神であると答えることができるだけでなく、さらに召会が中国人やスペイン人やアメリカ人で構成されているのでもないことを見る必要があります。召会は、父なる神の神聖な性質で満たされ、構成されている団体的な実体です。

あなたは神聖な性質の子たる身分が召会であることを聞くとき、「わたしたちはどのようにしてそのような存在であり得るのですか?」と答えるかもしれません。まず、わたしたちは再生される必要があり、次に、造り変えられる必要があります。わたしたちは中国人、日本人、アメリカ人、スペイン人、英国人のような国籍から生まれました。しかし、これはもはやわたしたちの起源ではありません。今日、わたしたちの起源は父なる神です。わたしたちは神の性質を持って生まれ、今や彼の性質はわたしたちの内側で造り変えの働きを行ないつつあります。彼の性質は生む性質であるだけでなく、造り変える性質でもあります。今日、だれが召会でしょうか? 起源である父なる神から出て来て、父なる神の現れをもたらし、父なる神の神聖な性質によって満たされ構成されているクリスチャンこそが召会です。

召会は神の家族である
エペソ人への手紙はまた、召会が神の家族であることを啓示しています(二・十九)。子たる身分と家族は密接に関係しています。もしあなたが子たる身分の中にいないなら、あなたはその家族に属していません。なぜなら、その家族は子たる身分に基づいているからです。「子たる身分」は源を示し、性質を暗示していますが、「家族」はわたしたちの家族の命を表しています。わたしたちの命は単独的な命ではなく、家族の命であるべきです。

父なる神には個々の子たちを持つ意図はありません。彼の意図は一つの家族を持つことであり、わたしたちが彼の家族です。わたしたちはみなその家族に属していますが、あるわんぱくな者たちは家族と一緒にとどまるのが好きではありません。むしろ、彼らは自分たちだけでどこかにいることを好みます。あなたがたの中には、兄弟姉妹から離れていることを好み、孤立することを享受している人がいるかもしれません。しかし、もしあなたが人の状況を考えるなら、人は個人に依存するのではなく、家庭に依存していることがわかるでしょう。召会は神の家族です。神の単位は団体的なものであり、個人的なものではありません。彼はあなたに一人息子であってもらいたくないのです。あなたは彼の一人息子ではあり得ません。なぜなら、彼はすでに彼のひとり子を持っておられるからです。あなたは彼の家族の一員でなければなりません。

ギリシャ語では、「家族」または「家庭」という言葉は、「家」または「住まい」という言葉と同じです。こういうわけで、召会は神の住まい、神の家また家庭です(Ⅰテモテ三・十五ヘブル三・六)。今日では、家族は家とは異なりますが、新約では家と家族は一つです。ある聖書の箇所では、そのギリシャ語を「家」と訳すか「家族」と訳すかを決めるのは困難です。神の目に、家は家族であり、家族は家です。あなたとわたしは単独では決して神の家になることはできません。神の家は団体的な事柄であって、個人的な事柄ではありません。もしわたしたちが召会であると言うなら、自分自身を調べて、わたしたちが神の家、神の住まいであるかどうかを見なければなりません。わたしたちの間には神の家があるでしょうか? もしなければ、わたしたちは召会であると言う資格がありません。召会の実際は、それが神の家であるということです。神はそこに住んでおられます。わたしたちが神の召会であると言うなら、わたしたちは必ず神の住まいでなければなりません。

召会はキリストのからだである
召会と御父の関係は、子たる身分と家庭です。今、わたしたちは召会とキリストの関係を見なければなりません。すべてのクリスチャンは召会がキリストのからだであることを知っています(エペソ一・二二―二三五・三〇)。キリストのからだは召会です。しかしながら、この用語はとても不正確な方法で使われてきました。キリストのからだとしての召会には三つの必要な事があります。それは、かしら、命、機能です。

まず、新約は、からだはかしらと一であるとはっきり言っています。かしらを持っていないなら、からだを持つことはできません。かしらがなければ、からだに似たものを持つでしょうが、それはからだではなく、死体であるでしょう。もしだれかが頭のない状態で集会の中を歩いているなら、わたしたちはみな恐怖に襲われるでしょう。しかし、今日のキリスト教の状況は、頭のない体が活発に動き回っているかのようです。もしわたしたちがからだであると主張するなら、わたしたちはかしらがどこにあるのかを問わなければなりません。わたしたちは召会生活において、かしらを持っているでしょうか? かしらは確かにキリストでなければなりません。わたしたちは召会生活において、キリストがかしらとしてここにおられることを本当に認識しているでしょうか? わたしたちは真にキリストの頭首権の下にいるでしょうか?

わたしたちの間で、わたしたちは確かにキリストの頭首権の感覚があり、それを適用しています。多くのとき、キリストの頭首権の感覚のゆえに、兄弟たちはある事を行なうことができません。彼らはキリストだけがかしらであって、彼らの間のだれもかしらではないことを認識しています。わたしたちは、彼だけがかしらであることを認識しているので、あえてあることを行なうことを決定しません。わたしたちはキリストの頭首権を尊び、それを今日の召会生活の実行の中で適用しなければなりません。もしかしらが取り除かれるなら、からだは終わりです。しかし、わたしたちがかしらを持つとき、からだをも持ちます。

また、からだである召会は命と機能を暗示しています。からだは生ける有機体です。もしその中に命がなければ、それはもはやからだではなく、死んだ体か組織です。体には命がなければなりません。体はまた機能を暗示します。人の体は眠っている時でさえ機能しています。しかしながら、死んだ体は全く機能しません。もしわたしたちが召会であると言うなら、わたしたちはからだに関するこの三つのもの、すなわち、頭首権、命、機能を実際化しなければなりません。

人の体には命があり、体は確かにこの命によって生きます。もし体が体の中の命によって生きなければ、それは病気であるに違いありません。なぜなら、体が病気であるとは、体の一部分がその体の命によって生きないことを意味するからです。わたしたちがキリストのからだである召会であると言うのは、からだの命、すなわちキリストご自身によって生きることを意味します。仮に、あなたが一人の兄弟の所に行って、いくらか彼と交わりを持ったり、接したりするとします。あなたはそのようにするとき、自分がからだの中におり、からだの中の命によって生きなければならないことを認識しなければなりません。あなたは自分自身の天然の命によってではなく、からだの中の命によって、その兄弟と交わり、接すべきです。わたしたちはからだの中の命によって生き、行動しなければならないことを認識する必要があります。これは、わたしたちがきよくあり、勝利を得て、霊的であるためではありません。それは、わたしたちが召会の一部分、からだの一部分となるためです。

召会では、あらゆる肢体が機能すべきです。わたしが語っているとき、わたしの体全体は機能しています。もしわたしの横隔膜が機能しなければ、声をあまり遠くまで響かせることができないでしょう。もしわたしの足が機能しなければ、わたしの体全体はそれを感じ、そのために苦しむでしょう。しかし今日、召会の中で、多くの肢体は機能することなく、来て集会の中で座って、別の人が彼らの替わりに機能することを望んでいて、このような状況に対して何の感覚も持たずにいます。これは彼らが宗教の伝統によって麻ひさせられていることを証明します。わたしたちの集会の中では、すべての人は機能しなければなりません。どれほど多くの人が共に集まっても、たとえ千人以上であっても、すべての人は機能しなければなりません。たとえあなたがからだの中で大きな責任を担っていなくても、やはりあなたは機能しなければなりません。もしわたしたちが心から自分たちは召会であると言うなら、わたしたちはみなからだの肢体として機能しなければなりません。

召会はキリストの配偶者である
召会はまたキリストの配偶者、彼の妻でもあります(エペソ五・二五―二七三二)。キリストの配偶者としての召会は、愛の中の満足と安息を暗示します。あらゆる夫は愛の中の満足と安息を得る必要があります。夫である兄弟たちは証しすることができますが、わたしたちの満足と安息はわたしたちの妻の中でのみ得ることができます。もしわたしたちが召会であると言うなら、キリストがわたしたちの間でご自身の安息を持っておられるかどうかを問わなければなりません。これは厳粛なことです。召会であるとは、キリストに愛の中で十分な満足と安息を持っていただくことです。キリストはこのような妻を必要とされます。召会は神に召された者たちの集まりであるだけではありません。それは、愛の中のキリストの満足と安息です。

召会は宮である
霊なる神にとって召会は宮です。コリント人への第一の手紙第三章十六節は言います、「あなたがたは神の宮であって、神の霊があなたがたの中に住んでおられることを、知らないのですか?」。特定の地方にいる団体的な一団としての信者たちは、神の霊によって内住された宮です。霊なる神にとって、わたしたちは彼ご自身で満たされた宮です。ですから、わたしたちは聖霊が内住する団体の経験を持たなければならないのです。これが召会生活の実際です。

召会は軍隊である
これ以外に、敵サタンにとって召会は軍隊です(エペソ六・十一―十三)。軍隊となることは個人的な事柄ではありません。あなたとわたしは、せいぜい兵士であることができるだけです。しかし、すべての兵士は軍隊へと形成され、構成されなければなりません。わたしたちが部隊から切り離されるときはいつも、わたしたちはとても危険な状況の中にあります。わたしたちは軍隊の中で保護されていなければなりません。今日、多くのクリスチャンは軍隊の中にいないので、絶えず敵の攻撃の下にいます。召会は絶対に団体的な実体です。わたしたちが見てきた召会のすべての面、すなわち、子たる身分、家族、からだ、配偶者、宮、軍隊はすべて団体的な実体です。

召会は新しい人である
これらすべての面に加えて、召会はまた新しい人でもあります(二・十五―十六)。新しい人としての召会は、わたしたちの生活のためです。ハレルヤ、地上には、そのような一人の新しい人がここで生きています! 御父にとって、召会は子たる身分また家族です。御子にとって、召会はからだまた配偶者です。その霊にとって、召会は宮です。サタンにとって、召会は軍隊です。わたしたちの生活のために、召会は新しい人です。主を賛美します。わたしたちは新しい人です! 個人的には、わたしたちは新しい人ではありません。神が欲しているのは、一人の団体的な新しい人、すなわち召会です。

実際の召会生活の回復
多くの聖書教師は、エペソ人への手紙は召会について語っていると言いますが、これは彼らにとっての神学にすぎません。あなたが彼らの実際の生活を見るなら、彼らは少しも召会に注意を払っていないことがわかるでしょう。しかし、わたしたちはどうでしょうか? 今日の主の最終の回復は、召会生活の回復であるということに、深い印象を持たなければなりません。主はキリスト教が失ったものを回復しつつあります。これは教理ではありません。今日、主は召会生活を回復しつつあります。実際の召会生活がない限り、主はまだ彼の回復を持っていません。聖書的で、聖別され、霊的である多くの積極的なものがありますが、どれも神に喜ばれる目標ではありません。聖別とどのように聖別されるかについての本はたくさんありますが、どのように召会になるかについての本は一冊もありません。もしわたしたちが神の心の願いにしたがって新約を読むなら、神の聖なる言葉の中で召会がどれほど強調されているかがわかり、神が喜ばれる召会がどのような実際を持つべきかが明らかになるでしょう。

召会は絶対に団体的な実体です。御父にとって、御子にとって、その霊にとって、敵にとって、またわたしたちの生活のために、召会は団体的な実体です。召会のこれらすべての面を見た後、わたしたちの個人主義は殺されます。神の目標は召会を得ることであって、単に罪人を救って、それから彼らの行為を改善し、彼らの命を深めることではないということを、わたしたちは強調しなければなりません。神は個々のクリスチャンを望んでおらず、彼が望んでおられるのは召会です。例えば、わたしたちがある場所に集会所を建築する時、大量の材料を買いますが、わたしたちの目標はたくさんの材料を用意することではなく、集会所を建築することです。同様に、神の心の願いは召会を得ることです。ですから、わたしたちはみなこれを見なければなりません! わたしたちが救われたのは召会のためであり、他の目的のためではありません。わたしたちが救われたのは、召会のためだけでなく、召会になるためです。このビジョンは、わたしたちの生活のすべてを支配し、制御し、導く必要があります。わたしたちは自分自身に問いかけなければなりません、「わたしたちの毎日の生活は召会の一部分でしょうか? 教理上、わたしたちは自分が召会の一部分であることを認めますが、実際上、わたしたちの生活は召会の一部分でしょうか? わたしたちの買い物は召会の一部分でしょうか? わたしたちの毎日の生活の中で、わたしたちは召会の一部分のように生きていないかもしれません。わたしたちにとって、召会は教理上、一つのことであって、実行上、別のことです。

使徒行伝第二章には、最初の地方召会、すなわち、エルサレムに在る召会の記録があります。四一節から四七節は、それらのクリスチャンが召会であることを啓示しています。彼らは教会の教理を持っていませんが、おそらく「召会」という言葉さえも持っていなかったかもしれませんが、彼らの生活の中で彼らは召会でした。彼らは日夜、召会生活を送っていました。彼らは召会について話したり、召会を教えたりはしていなかったかもしれませんが、彼らは召会でした。使徒行伝第二章で、主は彼が求めていたものを得ました。残念ながら、この目標が徐々にあいまいになり、失われるまで、それほど時間はかかりませんでした。今、この時代の終わりに、主はこの失われた目標を回復するために来られました。したがって、わたしたちがここにいるのは、聖別や、霊性や、福音の働きや、いかなる運動のためでもありません。わたしたちがここにいるのは、召会のためです。神は真の、実在する、実際の召会を望んでおられます。これが神の喜びであり、神の心の願いです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第3巻より引用