安息を得る道ーーキリストと結婚する

真理

ルツ記に記載されている歴史は、士師記の前半と同時期のものであり、士師記の付録と考えられます。士師記は、イスラエルの暗く、悲惨な歴史が記載されています。人はこれを読むとき、失望し悲しい気持ちになります。しかし、ルツ記は、人に賞賛され、励ましを与えます。ルツ記の中のルツとボアズ、この一組の夫婦の美しい物語は、わたしたちに真の安息を得る道を示しています。彼らは、いばらから生長するゆり、暗い夜における明るい星のようです。

ルツ記の目的と区分
ルツ記の主要な目的は、ダビデ王と主キリストの系図をたどることです(マタイ一・五十六)。一人の異邦人の女が、彼女の正しい選択によって、(ルツ一・十六―十七)、ダビデ王の曾祖母になりました。わたしたちの主も、人としては彼女の子孫にあたります。ルツ記には「安息」(一・九.参考、三・一)と「贖い」(四・四、六)という二つのキーワードがあります。ルツがボアズに贖われたとき、彼女は安息を得て、キリストをもたらす者となりました。安息という観点から、ルツ記は四つの区分に分けられます。

安息を失う(一・一―五)
イスラエルの地に飢きんがあったとき、エリメレクは妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘム(神の約束された地)を離れ、モアブの野(神がいない地)に向かいました(一・一―二)。神がいない地では、ただ災いと不幸があるだけで、神の民が安息を得ることは不可能なことでした。その後、エリメレクとその二人の息子は死に、ただ彼の妻のナオミと二人の嫁が残されました(三―五節)。ここから、飢きんは、わたしたちが神から離れてこの世に移ることの理由にはならないことが読み取れます。反逆(神を離れること)には災いと不幸があり、この世からの分離(神に戻ること)には祝福と安息があります。

安息を望む(一・六―二二)
十年間の苦しみの後、ナオミはエホバが神ご自身の民を見守っておられることを聞き、安息を求めてユダの地に戻ることを決意しました(六―七節)。彼女は二人の義理の娘、オルパとルツに彼女たちの母の家に戻るように説得しました(八―十三節)。オルパは自分の民と神のところに戻りましたが、(十四―十五節)ルツは義理の母に従ってイスラエルの地に行くことを選びました(十六―十八節)。

オルパは、神を必要としない異邦人を予表します。その時、彼女はより良い道、より良い運命を見つけたのかもしれませんが、数十年後にはそれも終わり、今では地上で彼女を覚えている人はだれもいません。ルツは神を求める異邦人を予表します。彼女が義母に従ってイスラエルの地を選んだのは、神とその約束、そして良き地の話をよく聞いていたからでしょう。彼女が聞いた良い知らせは、良い選択をするのに十分なものでした(参照、ローマ十・十七)。彼女は貧しいやもめのしゅうとめと一緒に、将来の不安を抱えて異邦の地から旅立ちましたが、間もなく祝福を受け、安息を得て、大きな褒賞を得ました。

安息を尋ね求める(第二章―第三章)
ナオミには、夫の親族にボアズという大いに財力のある人がいました(二・一)。ルツが畑に出て収穫の落ち穂拾いをする権利(レビ十九・九、二三・二二、申二四・十九)を行使したとき、彼女ははからずもボアズの畑にいました(ルツ二・二―三)。ボアズはルツを親切に扱い(八―十六節)、ルツはしゅうとめのナオミの世話を続けました(十七―二三節)。しかし、ルツは良き地の産物を享受しても、彼女はまだ安息を得られなかったので、ナオミはルツの安息する場所を見つけなければなりませんでした(三・一)。ルツがしゅうとめの命令通りにボアズに「贖い」を求めたところ、ボアズはそれを彼女に約束しました(一―十八節)。

安息を得る(第四章)
ボアズはこれを義なる手続きによって行ないました(一―八節)。やがてボアズは長老たちや民衆の証しの下で、ルツの死んだ夫の親族の財産を贖い、ルツを妻とし、彼女は一人の男の子を産みました(九―十三節)。これによって、ナオミも喜びと安息を得ました(十四―十七節)。ルツは安息を得ただけでなく、彼女の最大の褒賞は、彼女から王が出たことでした。彼女の息子の名はオベデで、彼はエッサイの父であり、彼はダビデの父でした(十七節)。

安息を得る道
イスラエルの地にやってきたルツは、その権利を行使して豊かな産物を享受していましたが、ルツには安息を得る家が必要でした。最終的にはボアズとの結婚で、ルツは安息を得ました。この結婚において、ボアズはキリストを予表します(三一―三二ページを参照)。そして、ルツは召会、すなわち、わたしたち救われた人々の予表です。ルツがボアズに嫁いだことは、わたしたちが救われて主を愛していても、安息としての家を得るためには、主イエスと結婚する必要があることを示しています。わたしたちが安息を得る唯一の方法は、主を夫として受け入れることです。わたしたちは、主を夫として知り、そして主を夫として受け入れ、主と最も近く、最も親密な接触の中で生きていかなければなりません(参照、Ⅰコリント二・九十六・二二)。主を夫として受け入れることは、わたしたちが安息を得るということだけでなく、神にも安息と満足を得させるということです。なぜなら、聖書全体が神聖なロマンスであり、神がご自身にふさわしい配偶者を求めていることを啓示しているからです(参照、啓二一・二のフットノート一)。

聖書は神聖なロマンスである
聖書はとてもロマンチックな書であり、神がどのようにして彼の選ばれた人を追い求め、やがて結婚するかを記載しています。旧約聖書の雅歌には、そのことがはっきりと書かれています。ある人たちは、どうしてそのような書、男と女との間のロマンスに関する書が聖書の中にあるのかと、疑問を持つかもしれません。この書は、実はわたしたちとキリストとの愛の関係を描いた図です。わたしたちと主との関係は、雅歌における「愛する方」と「愛する者」のようでなければなりません。そうでなければ、わたしたちはただの宗教的なクリスチャンであり、主の「愛する者」ではありません。わたしたちは、雅歌をよく読み、主との間の深い関係を築き、主に対する愛で我を忘れなければなりません。

人と神の「デート」で満ちている
神聖なロマンスとして、聖書は神の求愛、さらには人と神の「デート」の記録で満ちています。何度も聖書の中で、神はこのようにして人に来られます。ヤコブが父の家から逃げたとき、ベテルで神が夢の中で彼に現れました。神がヤコブを帰るようにされたときにも、再び、神はベテルで彼に現れました。これが「デート」の二つの例証です(創二八・十―二二、三五・九―十五)。もう一つの例証は、神がホレブの山でモーセに来られ、彼と話されたことです(出三・一―二二)。

人に対する神の求愛で満ちている
聖書はまた人に対する神の求愛で満ちています。若者が求愛している女性に絶えず注意を払って、彼女を煩わせてしまうように、主はわたしたちに求愛してわたしたちを「煩わせます」。わたしたちは新約聖書で、主イエスが彼の弟子たちを召したとき、彼らに求愛しておられたことを見ます。何度も、主イエスはこの求愛する方法でペテロを煩わせました。ペテロが主に来たのではなかったことは意義深いのです。主がペテロに来られたのです。ヨハネによる福音書第二一章で主はペテロに尋ねられました、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこれら以上にわたしを愛するか?」(十五節)。さらに二度、主は彼に、「あなたはわたしを愛するか?」(十六、十七節)と問われました。主イエスはペテロにこれらの質問をすることによって、彼に求愛しておられたのです。彼は子供が親を敬い、友人が別の友を顧み、裕福な人が貧しい人をあわれむように、ペテロがご自身を愛することを願われませんでした。そうではなく、主はペテロが愛情深い愛をもって、若い女性が自分を愛する男性に対するような愛をもって、ご自身を愛することを願われました。

第二一章を、第三章と一緒にして読むなら、ご自身を愛するかとペテロに尋ねていた方は、来て花嫁を持つ花婿であることを見出すことができます。わたしたちは第三章における花婿としての主イエスの啓示に基づいて、第二一章における彼とペテロとの会話は求愛の方法で行なわれたことを見ます。第十四章の主の言葉についても同じです。二一節で主は言われます、「わたしの戒めを持ち、それを守る者は、わたしを愛する者である.わたしを愛する者は、わたしの父に愛される.わたしも彼を愛して、わたし自身を彼に現す」。これは花婿によって彼の花嫁に語られた言葉です。それは「デート」の言葉、求愛する言葉です。二三節で主は続けます、「だれでもわたしを愛する者は、わたしの言を守る.そしてわたしの父は彼を愛され、わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る」。御父と御子が主イエスを愛する者と共に住まいを造るとは、結婚生活で共に生きることを言っています。主イエスと住まいを共有します。すなわち、彼の配偶者として彼と共に住みます。

主はしばしば花嫁と会話する花婿として語られたのですが、彼の言葉のこの面を認識しているクリスチャンは多くありません。主の言葉を完全に異なる意味に取る傾向がありました。ですから、神が彼の民と「デート」し、求愛しておられることについてのこの言葉について、わたしたちの観念が徹底的に変わるようにとわたしは望みます。主がわたしたちに来られるのは、彼がわたしたちと「デート」し、わたしたちに求愛することです。わたしたちは、聖書が求愛の書であることを見るでしょう。神が人に与えられた言葉は、旧約と新約のいずれも婚姻の契約、婚約の契約でした。

旧約は婚約の契約の方法で語られた
旧約全体は、婚約の契約の方法で語られています。これは預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセアがみな、神の民が神の妻であると言及している理由です。たとえ神の民が彼と離婚したくても、主は彼らをご自身に連れ戻そうとされます。彼は彼らを再びご自身に婚約させます。主はホセア書第二章十九節と二〇節で言われました、「わたしはあなたを、永遠にわたし自身と婚約させる.真に、義と公正と慈愛と深い同情の中で、あなたをわたし自身と婚約させる.真に、わたしは信実をもってあなたをわたし自身と婚約させる.そして、あなたはエホバを知る」。これらの節で主は三度、「婚約させる」という言葉を用いておられます。この二つの節は、原文のヘブル語では未来時制が用いられています。これは、神の民を彼に二度目に婚約させること、離婚した妻が彼女の夫としての主に戻されることを指しています。これは、旧約が求婚の、婚約の事柄であったことを示します。律法は婚約証書、婚姻契約の方法で与えられました。出エジプト記で、神は山の上で律法を彼の民に与えたとき、彼らをご自身に婚約させておられました。彼らに律法を与えることによって、神は彼らをかき立てて彼を愛し、彼以外の他のだれをも愛さないようにしておられたのです。

新約はロマンスと求愛の方法で書かれた
マタイによる福音書は花婿としてのキリストについて語っており、啓示録は小羊の婚姻を指し、小羊の妻としての新エルサレムの啓示で結んでいます。さらに、コリント人への第二の手紙第十一章二節でパウロは、「わたしは神のねたみをもって、あなたがたをねたんでいます.なぜなら、あなたがたを清純な処女としてキリストにささげるために、一人の夫に婚約させたからです」と言うとき、同じ観念を表現しています。ここにわたしたちは、パウロが召会を彼女の夫キリストに婚約させたのを認識していたことを見ます。そしてエペソ人への手紙でパウロは召会に対するキリストの愛に言及し、「キリストが召会を愛して、彼女のためにご自身を捨てられたように」妻を愛するよう夫に命じています(五・二五)。ですから、新約全体はロマンスの雰囲気の中で書かれました。主はわたしたちに求愛する方であり、わたしたちは彼の愛する者、彼の配偶者です。最終的に、新約の終わりには、キリストと彼の民との婚姻があります(啓十九・七二一・二)。

神の求愛に応じてキリストと結婚する
聖書の中でわたしたちは、神がわたしたちの愛を求めておられることがわかります。主がペテロに彼を愛しているかと尋ねられたとき、主はペテロに求愛、すなわちペテロの深い愛を求めておられました。聖書全体がそのような神の求愛についての言葉です。わたしたちは、神に応答し、深い愛を持って神の求愛の言葉に従う必要があります。主はペテロにそのような愛で主を愛しているのかと尋ねられ、またパウロはそのような愛で主を愛したので迫害されました(Ⅱコリント五・十四―十五)。すべての信者はこのように主を愛さなければなりません(ヨハネ十四・二一二三)。

わたしたちが、そのような愛でキリストを愛し、キリストを夫として受け入れて結婚し、召会をわたしたちの家とすることによって、わたしたちは適正で、十分な安息を得て、キリストを増し加え、キリストの御旨を遂行することができます。それはちょうどルツが夫(ボアズ)を得て、神のエコノミーのために、安息する場所としての家、すなわち褒賞を得たようにです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第2巻より引用

 

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