新約の中の 神聖なエコノミーとサタンの大混乱

真理

士師記は、その統治、礼拝、道徳において混乱したイスラエル人の堕落を描写されています。旧約の終わりまで読み通すと、イスラエル人、アブラハムの種族は、徹底的に神を失望させたのを見ます。それにもかかわらず、旧約聖書は失望をもって結んでいるのではありません。なぜなら、選ばれた種族の中の敬虔な人たちが、熱心にメシア(キリスト)を期待し、彼を待ち望んでいたからです。ですから、旧約はメシア、すなわち唯一の方が来られるという期待をもって結んでいます。

新約の開始において、わたしたちはキリストが来られたことを見ます。彼は新約の中心です。彼には神聖なエコノミー、神聖な分与、計り知れない豊富があります。サタンの大混乱は常に神のエコノミーと関係があります。実際には、サタンの大混乱が神のエコノミーを助けているのです。ですから、わたしたちは励まされて、神が新約エコノミーの中で、どのようにしてサタンの大混乱のすべての否定的な面を対処されたかを認識しなければなりません。そうすれば、わたしたちは勝利者となり、神のみこころを実行し、王国をもたらして、この時代を終結させることができます。

キリストと彼の務め
キリストと彼の務めに関して、新約は、神聖なエコノミーとサタンの大混乱の両方があることを啓示しています。

キリストと彼の務めにおける神聖なエコノミー
神聖なエコノミーにおいて、三一の神の具体化としてのキリストは、肉体と成って、イエス、すなわち、神・人となられました(ヨハネ一・一十四ルカ一・二六―三八マタイ一・十八―二三)。バプテスマのヨハネは出て来て、このイエスがキリストであることについて証しし、キリスト(メシア)を追い求める者たちも来て、彼に従って行きました。キリストは彼の務めの中で、王国を教え、福音を告げ知らせ、あらゆる種類の病をいやし、大群衆を引き付けて、ご自身に従わせられました。キリストは彼に従う者たちに、天の王国の奥義、キリストと召会、この時代の終極とキリストの再来、神聖な三一とキリストの信者との結合の奥義を啓示されました。

神の新約エコノミーの大きな部分は、十字架上でのキリストのすべてを含む身代わりの死でした。神はキリストを十字架で世の人の罪のために、また信者たちの罪のために裁かれました。キリストが釘づけられて死のうとしていたとき、ペテロと他の弟子たちはキリストを見捨てましたが、女たちはゲッセマネの園から彼に従いました。神の王国を待ち望んでいたヨセフは、すばらしい方法でキリストを葬りました。

その後、キリストに従っていた女たちは、彼の復活を見いだしました。復活のキリストはマリアに言いました、「わたしの兄弟たちの所へ行って、『わたしはわたしの父、またあなたがたの父、わたしの神、またあなたがたの神へ昇る』と彼らに言いなさい」(ヨハネ二〇・十七)。信者がキリストの兄弟であるということに関して、ヘブル人への手紙第二章十一節から十二節は次のように言います、「聖別する方と、聖別されつつある者たちは、すべてひとりの方から出ているのであり、それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされないで、『わたしはあなたの御名をわたしの兄弟たちに言い表し、召会のただ中で、わたしは賛美の歌をあなたに歌います』と言われるのです」。御父の御名を彼の兄弟たちに言い表すことが啓示しているのは、肉体の中にあったあのキリストが彼の復活の中で生まれて、神の長子となられたということと、また彼のすべての信者たちが同時に生まれて、神の多くの子たち、すなわちキリストの多くの兄弟たちとなり、彼のからだ、召会を構成したということでした。これは、神聖なエコノミーにおける大きな事柄です。次に使徒行伝第一章三節は、復活の中のキリストが、彼の弟子たちに四十日にわたって、神の王国について教えられたことを告げています。その後、弟子たちは彼が昇天したのを見て(九―十一節)、彼の再来を待ち望みました。

キリストを迫害する者たちと
キリストに従う者たちにおけるサタンの大混乱
マタイによる福音書第二章によれば、ヘロデは赤子のキリストを殺そうとしました(一―二二節)。キリストが彼の務めを遂行しておられるとき、パリサイ人は彼を非難し、冒涜し(九・十―十三三三―三四十二・二二―三五)、イスラエルの民はキリストと彼の教えを拒みました(十一・二〇―二四十三・五三―五八)。またパリサイ人とサドカイ人はキリストを試み、人々にパン種の教えを教えました(十六・一―十二)。

キリストに従う者たちの間では、サタンはペテロの中で働いて、キリストの十字架を遂行することを妨げようとしました(二一―二六節)。またキリストに従う者たちは、偉大な者になろうと競い合いました(ルカ二二・二四マタイ二〇・二一―二七)。彼らは天の王国について多くの事柄を聞きましたが、これらの事に注意を払うどころか、偉大な者になることに注意を払っていました。それから、サタンはユダにキリストを裏切るようにそそのかしました。ペテロは、サタンのふるいの下で三度、キリストを否みました。結局、残りの弟子たちは羊のように散らされ、主イエスだけが残されました。最後に、ユダヤ人はローマ政府と結託してキリストに死刑を宣告し、彼を十字架につけました。

キリストの復活は、祭司長、パリサイ人、長老たちにサタンの大混乱を巻き起こしました。キリストの十字架の日の後、祭司長とパリサイ人たちはピラトのところへ行って、三日の間、墓の番をするように命じるよう求めました。ピラトは兵士を遣わして彼らと共に行かせ、その墓を守らせました。それにもかかわらず、キリストは復活の中で、墓から出て来られました。祭司長と長老たちは番兵にわいろを与えてイエスの弟子たちがイエスの体を盗み去ったと言わせました(二七・六二―六六二八・十一―十五)。このうそは、ユダヤ人社会に大混乱を生じさせました。一方で、弟子たちは、キリストが復活されたと言いました。もう一方で、兵士たちは、イエスの体は彼の弟子たちが盗み去ったと言いました。これも確かに、サタンの大混乱のもう一つの面でした。

使徒たちの務めにおいて

神聖なエコノミーは
使徒たちの務めにおいて見られる
キリストが昇天した後、ペテロと約百二十人の弟子たちは共に集まり、十日間、一つ思いで祈りました。そこにおいて、その霊がペンテコステの日に彼らの上に注ぎ出されました(使徒一・十二―十五二・一―四十七―十八)。それは神聖なエコノミーにおいて大きな事でした。注ぎ出された霊は、実は霊なるキリストでした。キリストはご自身を、すべてを含む、複合の、究極的に完成された霊として、彼の弟子たちの上に注ぎ出されました。それは、彼らが彼のからだに構成されて、建造されるためでした。同時に、ペテロは宣べ伝えて、三千人が悔い改め、信じて、バプテスマされました。こうして召会が設立されました。これらの信者たちは使徒たちの教えと交わりを、そしてパンをさくことと祈りを堅く持ち続けました。また彼らはすべての所有物を共有にし、新しい信者は日ごとに増し加わりました(十四―四七節四・三二―三七)。神の言葉は成長し、弟子たちの数は日ごとに増し加わりました。

使徒行伝第八章になると、エルサレムに在る召会に大きな迫害がありました。弟子たちはユダヤとサマリアに散らされました。散らされた人たちはその地方を行き巡って、福音を宣べ伝えました(四節)。その後、福音がペテロの務めの下で広がり(九・三二―四三)。さらにパウロの務めを通して、福音は異邦人世界に広がり、多くの召会が起こされました(第十三章―第二八章)。ヨハネの書簡と啓示録がわたしたちに見せているのは、パウロの務めを通して起こされた諸召会が、ヨハネの務めの下で強められ、正常な状態へと戻されようとしていたということです。

サタンの大混乱は、常に使徒たちの務めと並行する
使徒行伝において
まずわたしたちが見るのは、サタンの大混乱がユダヤの宗教とローマの政治によって、使徒たちと召会を迫害したということです。次に、信者たちの間にも大混乱がありました。アナニヤとサッピラはその霊を欺き、死の刑罰を受けました。ユダヤの宣教者たちは、信者の間で割礼を強調しました。それは実に、否定的なものでした。第二一章に来ると大混乱がありました。エルサレムの指導的な長老たちが、パウロに、宮に戻って、律法の規定を守るよう勧告しました。パウロはその勧告に従いました。しかしながら、主はパウロに、そのユダヤ教の儀式を全うさせられませんでした。その儀式の最後の日に、騒動が起こり、パウロは獄に入れられました。最終的に、パウロはローマの獄に移されました。彼は釈放されましたが、一年以内に、再び捕まり、殉教しました。

パウロは獄中にあって、すばらしい、高い啓示に満ちている書簡を書きました。このサタンの大混乱によってパウロを獄に入れることがなければ、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、テモテへの第一と第二の手紙、テトスへの手紙はなかったでしょう。召会生活、クリスチャン生活、神のエコノミーと神聖な分与に関する深い真理は、これらの書簡の中にあるのです。もしこれらの書簡が新約になければ、大いなる欠陥があるでしょう。このことは、大混乱が最終的に、最もすばらしいものを生み出させたことを示しています。さらに、パウロの殉教は、全世紀を通じて聖徒たちに対する励ましとなっています。ですから、敵があの大混乱の状況で行なったことは、神の権益にとって益となったのです。

パウロの書簡において
コリント人への第一と第二の手紙において、わたしたちが見るのは、その召会には分裂、不品行、訴訟があったということと、彼らはまたパウロの使徒職を疑い、パウロは悪賢いと罪定めして、テトスを通して自分たちからだまし取ったとさえ言ったということです。ガラテヤ人への手紙において、ペテロとバルナバは、福音の真理を守ることで弱腰になり、パウロに叱責されました。ピリピ人への手紙において、ユダヤ教宣教者たちは、パウロと張り合って福音を宣べ伝えました。ユダヤ教宣教者たちは、犬ども、邪悪な働き人、切断の者、偽兄弟であって、諸召会に忍び込んできて、問題を引き起こしました。コロサイ人への手紙において、グノーシス派の人々が入ってきて、キリストに従わないで、人々の言い伝えとこの世の初歩的教えに従った彼らの哲学を通して、信者たちを奪い去りました。テモテへの第一と第二の手紙において、信仰の中にある神のエコノミー以外のさまざまな事柄の教えが、遂行されたことをわたしたちは見ます。

パウロの時代も今日も、異なる教え、パウロが教えた神聖なエコノミー以外の教えがありました。それから、教えの風が、諸召会に侵入し(エペソ四・十四)、分裂と分派を引き起こしました(ローマ十六・十七テトス三・十)。このような人は召会の中で分裂を引き起こします。ピリピに在る召会には、二人の同労していた姉妹たちがいましたが、一つ思いではありませんでした(ピリピ四・二―三)。

さらに異端を教える者ヒメナオと、使徒を攻撃したアレキサンデルがいました。パウロは、彼らが信仰と正しい良心を投げ捨て、その信仰について破船してしまったと言いました(Ⅰテモテ一・十九―二〇、参照、四・一―二)。ヒメナオやピレトは、真理に関して的からはずれてしまい、復活は済んでしまったと言いました(Ⅱテモテ二・十七―十八)。これは重大な異端であり、命の中の神聖な力を否定することです。パウロの同労者、デマスは今の世を愛し、使徒パウロを捨てました(四・十前半)。銅細工人アレキサンデルは、多くの悪事を使徒パウロに行ないました(十四―十五節)。アレキサンデルは、かつてパウロととても近かったのですが、後になって彼を憎み、彼の敵になりました(一・十五)。それから、パウロが最初に弁明した時、支援する者はだれもなく、かえってみな彼を見捨てました(四・十六―十七)。パウロほど、多くの苦難を受けた使徒はいませんでした。彼が行く所ではどこでも、大混乱が待ち受けていました。しかし、パウロの務めと常に並行した大混乱は、召会にとって益となったのです。

その他の書簡において
使徒ヨハネがわたしたちに告げているのは、ある者がキリストの教えを踏み越えて、その中にとどまらなかったということです(Ⅱヨハネ九―十一)。このような者たちは異端の者です。デオテレペスは、召会の中でかしらになりたがり、使徒たちを受け入れませんでした(Ⅲヨハネ九―十)。ユダの手紙は、ある者たちがカインの道に行ってしまい、利のためにバラムの誤りに陥り、コラの反逆によって滅びたと言っています(十一―十三節)。カイン、バラム、コラに関する物語が、召会生活の中で繰り返され、召会に大混乱をもたらしました。

啓示録第二章と第三章の七つの召会の中で、エペソに在る召会が、主に対する初めの愛を失いました。ペルガモに在る召会は、サタンの座があるこの世へと堕落し、偶像崇拝と淫行を伴うバラムの教えを保持し、聖職者階級と関係のあるニコライの者たちの教えをも保持しました。テアテラに在る召会は、淫行、偶像崇拝、サタンの深い事柄を伴うイゼベルの教えを持ちました。サルデスに在る召会は、生きているというのは名だけで、死んでおり、神の御前に何も完全なものはありませんでした。ラオデキヤに在る召会は、生ぬるく、自分が「富んでいること」を誇りましたが、自分が悩んでいて、みじめで、貧しく、盲目で、裸の状態であることを認識していませんでした。

サタンの大混乱の終結と
神聖なエコノミーの究極的完成
聖書の結論がわたしたちに見せているのは、サタンの大混乱、邪悪なサタン、旧創造、すべての否定的なものが、火の池で滅びることで終結させられるということです(啓二〇・九―二一・一二二・十五)。火の池は、宇宙的な「ごみ箱」であり、旧約と新約の中で大混乱を引き起こしたすべての否定的なものが、ここに集められるでしょう。ですから、火の池は、すべての大混乱を終結させるものとなります。

神聖なエコノミーは、手順を経た三一の神、新創造、生ける水の聖なる都で究極的に完成されます(啓第二一章―第二二章)。生ける水の聖なる都は新エルサレムであり、新エルサレムは、贖う三一の神と彼の贖われた三部分から成る人の構造、構成です。三一の神は、わたしたちが礼拝し、わたしたちが住むための宮となり、そしてわたしたちは、彼が住み、彼の満足として享受される彼の幕屋となります。ですから、新エルサレムは、神と人との永遠にわたる相互の住まい、相互に満足する場所です。

旧創造におけるサタンの大混乱と
新創造のための神聖なエコノミー
旧約はキリストの来臨に対する期待で結んでいます。新約において、キリストは来られました。キリストの最初の到来が、新約のエコノミーを開始しました。彼の再来は、新約のエコノミーを究極的に完成します。開始と究極的な完成の間に、召会生活の長い期間があります。召会生活はまた、キリストの来臨の一部分でもあります。キリストは来られましたが、彼の来臨は、召会生活の中でなおも起こりつつあります。

今日わたしたちはみな、召会生活の中でこの事を経験しています。召会生活は、キリストの来臨の過程です。毎回、罪人がバプテスマされるとき、それはキリストの来臨のさらに進んだ段階です。同じように、わたしたちの命における成長も、彼の来臨のさらに進んだ段階です。わたしたちが前進すればするほど、ますますキリストはすぐに来臨されます。もしキリストの来臨を早めたいなら、わたしたちはさらに早く前進する必要があります。わたしたちは、キリストの来臨の過程としての召会生活の中にいるので、どのような種類の大混乱にも悩まされたり、失望したりするべきではありません。なぜなら、あらゆる種類の大混乱は、神の選びの民にとって、またキリストのからだにとって、すべてが助けになるからです。

ある人は「主よ、わたしたちを大混乱から救ってください」と祈るかもしれません。しかし、パウロは、わたしたちが主の中で力づけられて、悪魔の策略に敵対して立つようにと告げています(エペソ六・十)。また彼は次のように言っています、「神のすべての武具を取りなさい.それは、あなたがたが邪悪な日にあって抵抗することができ、またすべてのことをやり抜いた後も、なお立つことができるためです」(十三節)。ですから、神はわたしたちを大混乱から救い出すことを望んでいるのではなく、わたしたちが大混乱を「克服」し、「征服」することを望んでおられます。勝利者は、大混乱を耐え忍び、失望したり、落胆したりしない者です。彼らは、キリスト・イエスの恵みによって強められ、神聖なエコノミーのために立ち、神聖なエコノミーを生かし出します。もしわたしたちが主によって強められ、すべての大混乱を征服するなら、わたしたちは勝利を得て王国の中へと入ります。

聖書においてもわたしたちの経験においても、サタンの大混乱は常に神聖なエコノミーと並行します。サタンの大混乱は旧創造の中にありますが、神聖なエコノミーは新創造のためです。神聖なエコノミーは、大混乱の旧創造から新創造を生み出すことです。この新創造を生み出すことは、千年王国の終わりまで継続します。そのとき、サタンの大混乱は終結させられ、聖なる都、新エルサレムは、神聖なエコノミーの究極的完成となります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第2巻より引用

 

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