神の行政における 頭を覆うことの意義

真理

士師記第四章から第五章には、それまでイスラエルには女のリーダーはいなかったのに、神が女のデボラをイスラエルの士師として起こしたことについて記録されています。 この事は、イスラエルのすべての男が神を失望させたことを示す尋常でない出来事であり、神は一人の女を起こすことを余儀なくされたのです。 デボラは有能な人で、神は彼女をリーダーにしましたが、彼女は自分のおおいとなる男、バラクを必要としました。 事実、バラクはほとんど何もしていなかったのですが、デボラはバラクを「おおい」としていました。 パウロはコリント人への第一の手紙第十一章三節で次のように言っています、「キリストはあらゆる人のかしらであり、男は女のかしらであり、神はキリストのかしらです」。 デボラは覆われるという地位を保ったので、国全体は完全で正しくなり、彼女が起こされたことはイスラエルの全状況を変えました。

聖書の中の頭のおおいについての教えは、いかなる宗教的実行や人の習慣でもなく、神の行政上の管理における頭首権に基づいていました。 頭を覆うことは、神の行政と関係があります。 神の行政を認識していなければ、頭を覆うことはできません。 もしわたしたちが神の言葉に啓示されているものを見るなら、頭のおおいを見ることがいかに重要であるかを見るようになります。

宇宙におけるかしら
パウロは、コリント人への第一の手紙第十一章三節で次のように言います、「あなたがたに知ってもらいたいのですが、キリストはあらゆる人のかしらであり、男は女のかしらであり、神はキリストのかしらです」。 わたしたちは、宇宙において、特に神の行政上の管理において、秩序があることを見ます。 神ご自身がかしらです。 そして神はキリストを立てて、かしらとされました。 さらに神は男を立てて、かしらとされました。 これらは神の行政上の三つの大きな原則です。 神はキリストのかしらです。 これは神が大きいか、キリストが大きいかという問題とは無関係です。 それは行政上、神ご自身がキリストのかしらであることを意味します。 同じように、神の行政上、キリストはあらゆる人のかしらであり、男は女のかしらです。 これは神が立てられたことであり、神が定められたことです。

ピリピ人への手紙第二章はこの事について非常に明らかです。 主イエスは彼の本質において「神と等し」いのです(六節)。 しかし、神の行政上、主イエスはキリスト(油塗られた方)ですから、神は彼のかしらです。 ヨハネによる福音書の中で、主は「わたしが天から下って来たのは、自分の意志を行なうためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行なうためだからである」と言われました(六・三八)。 主イエスは神の行政上の立場に立って、自分自身からは語らず、自分自身からは何も行なわれませんでした。 神は神であり、神はキリストであり、キリストは油塗られた方であって、神の言葉を聞かれます。 神の行政上、主イエスは子なる神の地位に立つのでなく、神によって遣わされた方の地位に立っておられます。

パウロはコリント人への第一の手紙第十一章三節でわたしたちに三種類のかしらを見せています。 神はかしらです。 キリストはかしらです。 男はかしらです。 神はご自身がかしらであることと、キリストが神の下にある方となるよう定められました。 また神はキリストがかしらであり、あらゆる人がキリストに服することを定められました。 さらに神は男がかしらであること、女は服従のしるしを持つべきであることを定められました。 今日、召会が地上において神の証しを保つために、召会の中での頭のおおいを必要とするのは、それが神の頭首権と関係があるからです。 召会の集会で、姉妹たちは頭のおおいを着けて、わたしたちが神の権威を認め、彼の頭首権を尊び、神に対して反逆する民ではないことを表すべきです。 わたしたちはむしろ、絶対的に彼に服します。 召会がそのようなしるしを持って、わたしたちが神の頭首権の下にある民であることを宣言するべきであることを、聖書が啓示していることは事実です。

神聖な啓示における頭のおおいについての教え
コリント人への第一の手紙第十一章のパウロの頭のおおいについての教えは、地中海沿岸地域にあった習慣に基づいているのではありません。 その反対に、彼の教えは神聖な啓示にしたがっているのです。 四節から五節はわたしたちに頭のおおいの意義について見せています。 姉妹たちは頭のおおいを代表しています。 頭のおおいの意義は、自分自身を神の行政の下に置くことです。 人はこの地位を受け入れます。 キリストが神をかしらとして受け入れたように、あらゆる人もキリストをかしらとして受け入れるべきです。 同じように、代表することにおいて、女はまたそのように男をかしらとして受け入れるべきです。 頭のおおいの意義は、「あたかもわたしには頭がないかのように、頭を覆い隠すこと」を意味します。

男が頭を覆うなら、頭を辱めることになる
四節は言います、「だれでも男が頭を覆って祈ったり、預言したりするなら、自分の頭を辱めることになります」。ここで預言するとは、神のために語ることを意味します。男は女の上に頭首権を持っており、また神のかたちと栄光(七節)であるので、男が神に祈ったり、神のために語ったりして、神の行政の御座に触れるとき、頭を表しておくべきであり、隠したり、覆ったりしてはなりません。そうでないと、彼は自分の頭の誉れを傷つけ、辱めることになります。

わたしたちは祈ることや、預言して神のために語ることを、重要でない事柄であると考えるべきではありません。わたしたちの祈りも神のために語ることも、大きな事であり、神の行政と関係があります。それらは神の権威と頭首権と関係があります。ですから、神のかたちと栄光である者として、男は祈ったり預言したりするとき、頭を覆うべきではありません。わたしたちの頭を覆うことは自分の頭を辱めることです。

女が頭を覆わないなら、自分の頭を辱めることになる
五節は言います、「しかし、だれでも女が頭を覆わないで祈ったり、預言したりするなら、自分の頭を辱めることになります.なぜなら、それは髪を剃られるのと同じ事だからです」。女は男の頭首権の下にあります。ですから、女が神に祈ったり、神のために語ったりして、神聖な行政に触れるとき、自分の頭を覆って、露出すべきではありません。そうでないと、彼女は自分の頭の誉れを傷つけ、辱めることになります。それは、彼女の頭が剃られたようなものです。なぜなら、彼女は神の権威に触れるとき、観察している天使たちに自分の頭を露出することによって(十節)、神聖な行政上の定めを否むからです。パウロは頭を辱める女は、髪を剃られるのと同じ事であると告げます。これは、女が頭を剃ったり髪を切ったりするのは恥ずかしいことであるということを、強く示しています(六節)。六節は言います、「もし女がおおいをしないなら、髪も切りなさい.もし、自分の髪を切ったり、剃ったりするのが、女にとって恥ずかしいことであるなら、おおいをしなさい」。これは、頭のおおいが、長い頭髪に付け加えられたおおいであることを示しています。女が髪を長くしており、頭を剃らないのは、神の行政上の定めを拒否しないことを意味します。そして女が長い頭髪に加えて、頭のおおいをするのは、神聖な定めにアーメンを言うことを示します。

頭のおおいの理由

男は神のかたちと栄光であり、女は男の栄光である
頭のおおいについての一つの理由が、七節にあります、「男は神のかたちと栄光ですから、自分の頭を覆うべきではありません.ところが、女は男の栄光です」。男は神のかたちに造られました(創一・二六)。それは神を表現し、神の栄光を現すためです。男は神のかたちと栄光を帯びており、神を代表するので、自分の頭を覆うべきではありません。もし覆うなら、神のかたちと栄光は隠されます。女は男の栄光ですから、自分の頭を露出すべきではなく、それを覆うべきです。女は自分を表現すべきではなく、彼女が服している男を表現すべきです。使徒はこれも、頭のおおいについての教えの根拠としました。男は祈ったり預言したりして、神の権威の御座に触れるとき、頭を覆うべきではありません。しかし、女は祈ったり預言したりするとき、覆われるべきです。

女が男から出て来た
頭のおおいについての第二の理由は次の通りです、「それは、男が女から出たのではなく、女が男から出たからです」(Ⅰコリント十一・八)。これが神の働きです。神は創造のとき、女を創造されたのではありません。神は地のちりから男の体を形づくり、この体に命の息を吹き込まれました。その結果、アダムと名づけられた男が、生きた魂となりました(創二・七)。神はその人を深く眠らせ、彼のわきを開き、一本のあばら骨を取り出して、そのあばら骨を用いて女を建造されました。ですから、女は創造されたのではなく、男から出て来たのです(二一―二三節)。これは、女の地位が、男のわき腹であることを示しています。

しかしながら、男は女との関係で、自分の地位について誇るべきではありません。コリント人への第一の手紙第十一章十一節と十二節で言っていることに注意してください、「しかしながら、主にあっては、男なしには女はいないし、女なしには男もいません。なぜなら、女が男から出るように、男も女を通して出るからです.しかし、すべてのものは神から出ているのです」。主のご計画と案配では、男なしには女はいないし、女なしには男もいません。男は女の存在の源です。ですから女は男から出ます。女は男が生まれる手段です。ですから男は女を通して出ます。

男と女との間の関係について、パウロはバランスが取れています。一方で、彼は、女は男から出ると言います。なぜなら、女はアダムのあばら骨から建造されたからです。もう一方で、パウロは、男は女を通して出ると言います。なぜなら、男は母親を通して存在するようになるからです。わたしたちもバランスが取られ、女が男から出ること、男が女を通して出ることを認識すべきです。

女が男のために創造された
九節は言います、「そして、男が女のために創造されたのではなく、女が男のために創造されたからです」。ここでパウロは、神が男と女を創造された目的を、頭のおおいについての教えのさらに強力な根拠としました。その教えは、人が定めたいかなる習慣にも基づいておらず、創造における神聖な目的に基づいています。神の創造において女が造られた目的は、男にふさわしい配偶者となるためです(創二・十八、二四)。

女は権威に服従するしるしを自分の頭に持つ
コリント人への第一の手紙第十一章十節でパウロは続けてこう言います、「こういうわけで、女は天使たちのために、権威に服従するしるしを自分の頭に持つべきです」。ここの権威は頭のおおいであり、それは女に対する男の頭首権の権威を表徴します。この節は、頭のおおいについての教えに対するもう一つの根拠をわたしたちに見せています。頭のおおいは神の頭首権、神の権威と密接な関係があります。天使長がその配下にいる者と共に、神の頭首権に反逆し(エゼキエル二八・十三―十八、イザヤ十四・十二―十五、マタイ二五・四一)、彼の暗やみの王国を打ち建て(十二・二六コロサイ一・十三)、サタン、すなわち神の敵となりました。神が人を創造された後、サタンは人を誘惑して、自分に従わせ、神に反逆させました。そこで神は御子を遣わして、サタンを滅ぼし、人をサタンの権威から救い出して、神の王国に連れ戻されました(Ⅰヨハネ三・八ヘブル二・十四コロサイ一・十三)。今や、信者たちが神に祈り、神のために語って神を礼拝するとき、神の頭首権、神聖な権威の下にいる、というしるしを帯びるべきです。すなわち、この事柄を見守っている天使たちに(参照、Ⅰコリント四・九)、彼ら(信者たち)が神の行政の下で、神の定められた秩序を守っていることを見せるのです。このために、姉妹たちは権威に服従するしるしを自分の頭に持つべきです。

パウロが、女は天使たちのために、権威に服従するしるしを自分の頭に持つべきであると言っているのは意義深いです。サタン、天使長は、神のために宇宙を統御するように任命されていました。しかし彼は反逆し、ある天使たちは彼に従いました。もちろん、多くの御使いたちは神に対して忠信なままでした。神は人を創造して、反逆の天使たちを取り扱わせようとしました。しかしサタンは人を誘惑し、人はサタンに従いました。そこで贖いにおいて、神は入って来て、堕落した人をご自身に連れ戻されました。神の贖われた民は今や召会です。召会として、わたしたちは天使たちに対して(反逆した者にも服従した者に対しても)、神の贖われた民として神の頭首権に反逆しておらず、神の頭首権の下にとどまっていることを宣言すべきです。わたしたちは永遠における来たるべき王国時代において、神の頭首権の下にあるだけでなく、この今日の反逆の時代においてさえ、彼の権威に服従します。姉妹たちの頭のおおいは、天使たちに対してこれを宣言しているしるしです。

コリント人への第一の手紙第十一章十三節でパウロは次のように尋ねています、「このことを、あなたがた自身で判断しなさい.女がおおいをしないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか?」。ここでパウロは、彼が与えた理由にしたがって判断し、女がおおいをしないで神に祈るのはふさわしくないことを示しています。

女が長い髪をしているなら、それは女にとって栄光である
十四節と十五節は次のように言っています、「生まれながらの性質そのものも、あなたがたに教えてはいないでしょうか? すなわち、もし男が長い髪をしているなら、それは彼にとって恥ですが、女が長い髪をしているなら、それは彼女にとって栄光です」。ここの生まれながらの性質そのものは、神の創造によるわたしたちの生まれつきの性質のことを指しています。生まれながらの性質そのものとは、男が髪を長くすべきでなく、女が髪を長くすべきであることを告げています。女はその女性的な性質によって、長い髪を持って頭を覆うのが栄光であることを認識します。これも、頭のおおいに関する使徒の教えの強力な根拠です。彼の教えは、人が立てた風習や規定によるのではなく、神が創造された、人の生まれながらの性質そのものによります。

ある姉妹がどれほど大胆であっても、もし自分の夫の権威を奪うなら、平安を感じないでしょう。だれもこれについて、不安を感じるように教える必要はありません。神の創造の生まれつきの性質によって、姉妹たちは自分の夫の権威を奪うべきではないことを知ります。女の性質が男の構成と異なっていることは、疑う余地がありません。ですから、わたしたちの生まれつきの性質が持っている感覚でさえ、頭のおおいに関するパウロの教えを支持します。

十五節でパウロは、女の長い髪はおおいとして彼女に与えられたと言います。頭のおおいについて論争する人たちは、頭のおおいは単に、女の長い髪を指していると主張します。彼らの意見によれば、女は長い髪を持っている限り、頭のおおいをしているのです。しかし、これらの節を注意深く読むなら、頭のおおいは女の長い髪に付け加えるものであることがわかるでしょう。女が長い髪を持つことは、彼女が自分に対する神の権威を認めることを示しています。彼女が頭のおおいを着けるとき、これは彼女が神の行政上の案配にアーメンを言うことを示します。

頭のおおいと神の行政との関係
頭のおおいについて語るとき、姉妹たちが単に教理的な方法で外側の実行を受け入れることが、わたしたちの目的ではありません。姉妹たちは頭のおおいを着けるとき、頭のおおいの意義を認識する必要があります。実際に、キリストの頭は神の御前で覆われており、すべての人の頭はキリストの御前で覆われています。しかし、実行上、神は男の前で頭を覆うことを女だけに要求されます。それは深遠な原則を表現しています。姉妹たちの頭のおおいは、キリストが神の御前で取っておられる地位を取り、またそれぞれがキリストの御前で頭を覆うことを意味します。女は自分のために頭を覆うだけではなく、あらゆる人を代表して、またキリストを代表して頭を覆っているのです。彼女がキリストの御前で頭を覆うことはあらゆる人を代表して頭を覆うことであり、神の御前で頭を覆うことはキリストを代表して頭を覆うことです。神は姉妹たちを代表として、姉妹たちが頭に従順のしるしをつけて、神の行政の案配を示すために召しておられます。わたしたちがみな、このような認識を持つようになるなら、頭のおおいがいかに大きな証しであるかが明らかになり、神の行政の下で正しい秩序を保つことができるようになります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第2巻より引用