旧約聖書の全体的な観点によれば、神はシナイ山でイスラエルと結婚しました(参照、出二〇・六)。神はご自身の概念と願いにおいて、イスラエルの夫となり、またイスラエルが妻となって、このすばらしい結婚の結びつきの中で、神との最も親密な関係において生きることを願っておられます。
しかしながら、士師記はわたしたちに、イスラエルが夫に対してどのように生きていたかを見せています。イスラエルにはエホバの妻となる心がなく、彼女は夫である神を捨て、他の神々と姦淫し、これらの神を拝みました。ですから、神はイスラエルに怒りましたが、イスラエル人が神に叫び求めるときはいつでも、神は彼らをあわれまれ、士師を起こしてイスラエルを敵の手から救い出しました。
しかし、士師が死んだ後、イスラエル人は再び悪に向きを変え、他の神々に従ったので、神は再び怒りました(二・十九)。このようなサイクルから、神は義であり、人の罪を追及されることがわかります。彼はまた愛と恵みに満ちており、人が神に悔い改めるなら、あわれみをもって人を救い出してくださいます。
士師記
本書が士師記と名づけられたのは、神が多くの士師たちを起こして彼の民を統治させ、敵との戦いで彼らを導き、敵の手から彼らを救ったことを記録しているからです。
ヨシュアの死からサウルが王になるまでのこの時期は、士師の時代と呼ぶことができます。この期間に、イスラエル人はカナンの地に残っている七つの部族をすべて追い払わなかったので、その必然的な結果は次の通りでした。それは、徐々に神を捨て、異邦人の習慣にしたがい、異邦人と結婚し、他の神々を拝んだということです。ですから、神は以前に何度も警告したように、彼らを異邦人の手に渡されました。しかし、彼らが悔い改めたとき、神は彼らの祈りに答え、士師を通して彼らを救われました。これは、士師記の唯一の方程式です。それは、神を捨てる、異邦人の手に渡される、悔い改める、救われる、神を捨てるです。士師記にはそのようなサイクルが七回あります。
著者
士師記の著者は不明です。しかし、最後の数章で四回、次のように述べています、「それらの日々、イスラエルには王がなかった」(十七・六、十八・一、十九・一、二一・二五)。ですから、士師記はイスラエル人が王を持った後に書かれたと結論づけることができ、最後の士師であり、預言者であるサムエルによって書かれた可能性があります。
性質
士師記は悲惨な歴史であり、イスラエル人がカナンの地を嗣業として得た後、繰り返し神を怒らせ、繰り返し王国を滅ぼしたことを記録しています。民数記は、イスラエル人が罪のために四十年間荒野をさまよったことを伝える悲劇的な書です。しかし、士師記はさらに悲劇的な書であり、彼らの失敗は四十年だけでなく、四十年の十倍にも及ぶと述べられています。この書はまた暗い歴史の書であり、イスラエル人が神に反逆し、偶像を礼拝し、部族の間で争ったことを記録しています。それぞれが自分の目に正しいことを行ない、淫行、汚れ、残酷な殺りくなどのあらゆる種類の邪悪な行為に陥りました。この時期はイスラエルの歴史の中で最も暗い時期であると言うことができます。
区分
序言ーー神に信頼する(士一・一--二・五)
士師記の冒頭は、イスラエル人がエホバに尋ねたことを示しています(一・一―二〇)。これは、イスラエルが神に信頼したことの麗しい状況を描写しています。神と一であるというこの美しい絵は、神と神の民の有機的な結合を表します。それは、ヨシュア記においてイスラエル人が最初に良き地に入ったときの一の継続です。
堕落の歴史――神を捨てる(士師記二・六――十六)
士師記第二章六節から二三節は、イスラエル人の堕落の歴史の要約です。この箇所の前後に、七回背き、七回奴隷とされることがあります。イスラエル人は堕落し、神を捨てました。しかし、彼らが悔い改めて神に叫び求めたとき、神は士師を起こして、彼らを救われました。
付録――イスラエルは徐々に腐敗していく(第十七章―第二一章)
この箇所が記録しているのは、イスラエルの礼拝における混乱(第十七章―第十八章)、道徳における腐敗(第十九章)、部族間の殺りくです(第二〇章―第二一章)。
イスラエルが神を捨てた理由
第二章六節から十節で、イスラエルが神を捨てた理由を見ることができます。第一に、ヨシュアが死に、エホバがイスラエル人のために大いなる事を行なわれたのを見た長老たちとその世代の人々も死んだからです。ヨシュアが人々を追い払ったとき、イスラエル人はそれぞれ自分の土地に属していました。ヨシュアが生きていた時、またヨシュアが死んだ後、エホバがイスラエル人のために大いなる事を行なわれるのを見た長老たちがまだそこにいた間、人々はエホバに仕えました。しかし、結局、全世代の人々が死にました。これが、イスラエルが神を捨てた理由です(六―十節前半)。第二に、「別の世代」、すなわち、エホバと、エホバがイスラエル人のために行なわれた事を知らない世代の者たちが起こされたからです(十節後半)。
イスラエルが神を捨てたという悲惨な歴史のサイクル
イスラエル人はエホバを捨てる
イスラエル人はエホバの目に悪を行ない、カナン人の偶像に仕えました(十一―十三節)。彼らは、自分たちをエジプトの地から連れ出されたエホバ、彼らの父祖の神を捨てて他の神々、すなわち周囲にいる民の神々に従いました。
エホバの怒りがイスラエルに向かって燃え上がる
神は彼らを略奪者の手に渡され、周りの敵の手に渡されました。イスラエル人が出て行くときはいつも、エホバの御手が災いをもって彼らに敵対しました(十四―十五節)。
イスラエル人がうめくと、エホバは彼らをあわれまれ、士師たちを起こす
イスラエル人は押しつぶされ、しいたげられていたために、ため息をつき、うめいたので、エホバは彼らをあわれまれ、士師たちを起こして彼らを敵から救い出されました(十六―十八節)。
士師たちが死んだ後、イスラエル人はさらに多くの悪を行なうようになる
エホバによって起こされた士師たちが死んだ後、イスラエル人は翻って先祖たちよりもさらに堕落して悪を行ない、他の神々に従い、それらの神々に仕え、拝みました。彼らは自分たちの行ないやかたくなな道を、やめようとしませんでした(十九節)。
エホバの怒りが再びイスラエル人に向かって燃え上がる
人々は翻ってさらに悪を行ない、エホバの怒りが再びイスラエルに向かって燃え上がりました(二〇節)。
士師記にはそのようなサイクルが七回あります。神が起こした士師は十四人います。それは、オテニエル(三・九)、エホデとシャムガル(十五、三一節)、デボラとバラク(四・四、六)、ギデオン(六・十二)、アビメレク(九・二二)、トラとヤイル(十・二―三)、エフタ、イブザン、エロン、アブドン(十二・七―八、十一、十四)、サムソン(十五・二〇)です。さらに、士師記の時期には他の士師たちがいましたが、士師記には記載されていません。それは、エリ(サムエル上四・十八)、サムエル(七・十三)、ヨエル、アビヤなどです(八・二)。
これらのサイクルは神に背く傾向があることについて語っています。それは、イスラエルの民が神の大能によってエジプトから救い出され、神によって奇跡的にカナンに導かれても、彼らが神に背くということです。士師記は、神は義であると言っています。人々が神を捨て、罪を犯した時、この義なる神は必ず罪を罰しました。一方で、士師記は神の恵みと信実を表しています。イスラエル人が真に悔い改めて、神を呼び求めるなら、神は彼らの祈りに耳を傾け、敵の手から彼らを救われました。士師記において、イスラエルの民は七回背き、七回奴隷にされましたが、七回悔い改め、七回救われました。
神の警告に背く
イスラエルの民が神に背いた結果は、実はイスラエルの民が良き地に入るかなり前から彼らに語られていました。申命記において、モーセはイスラエルの民に、神から離れないように繰り返し思い起こさせ、離れた場合の結果を警告しました。
心がエホバから離れないようにする
モーセは特に、イスラエルの民のうちでいかなる人も、心がエホバ・彼らの神から離れて、諸国民の神々に仕えることがないようにと語りました(申二九・十八前半)。神は、イスラエルがいつか神から離れ、偶像の道を行くのではないかと憂慮していました。これは神に対する侮辱であり、神は人々を厳しく罰せざるを得ませんでした。
それだけでなく、イスラエルの民のうちに、毒の実や苦よもぎを生じる根があってはならず(十八節後半)、人は心の中で自分を祝福して、「自分の心のかたくなさの中を歩いても、わたしには平安がある.潤ったものも乾いたものも共に滅びるのだから」と言ってはなりませんでした(十九節)。ここで言う悪の根は、民の間から起こる反逆者を指しており、使徒行伝第二〇章三〇節に書かれている、曲がった事柄を語って弟子たちを引き離す者たちのようです。そのような反逆者は、悪の根となり、毒の実や苦よもぎを生じます。ヘブル語の慣用句「湿ったものと乾いたものを共に滅ぼす」は、人の行く手にある全てのものを滅ぼすことを示しています。モーセは、「エホバは決してそのような者を担って赦そうとされない.むしろ、エホバの怒りとねたみがその者に対して燃え上がり、この書物に記されているすべてののろいが彼の上にとどまり、エホバは彼の名を天の下から消し去られる」と言っています(申二九・二〇)。
モーセはイスラエル人の前に、命と幸い、死と災いを置いた
モーセはイスラエルの民に、彼らがエホバ・彼らの神の戒めに従い、彼を愛し、彼の道に歩み、彼の戒めと彼のおきてと彼の規定を守るなら、彼らは生きて増し加わり、神は彼らが入って所有しようとしている地で彼らを祝福されると言いました(三〇・十六)。彼らの心が変わって聞き従わず、惑わされて他の神々を拝み、それらに仕えるなら、彼らは必ず滅び失せました。彼らがヨルダン川を渡り、行って所有しようとしている地で、彼らの日が長くなることはありませんでした(十七―十八節)。モーセは天と地を呼んで彼らに対する証しとしました。彼は彼らの前に、命と死、祝福とのろいを置きました。モーセは彼らに命を選ぶように促しました。それは彼らも彼らの子孫も生き、またエホバ・彼らの神を愛して、彼の御声に聞き従い、彼にしっかり結び付くためであり、また彼が彼らの命であり、彼らの日数の長さであるためでした。このようにして、彼らはエホバが彼らの先祖に与えると誓われた地に住むことができました(十九―二〇節)。
再び語り聞かせる
申命記の終わりで、モーセが律法の言葉を書き終えたとき、彼はイスラエルの部族の長老たちとつかさたちをみな集め、これらの言葉を彼らに語り聞かせ、天と地を呼んで彼らに対する証しとしました(三一・二四、二八)。モーセは彼らに言いました、「わたしが死んだ後、あなたがたが堕落に堕落を重ねて、わたしが命じた道から離れ去ることを、わたしは知っているからだ.そして終わりの日に、災難があなたがたに臨む.これは、あなたがたがエホバの目に邪悪を行ない、あなたがたの手のわざによって、彼を怒らせるからである」(二九節)。
モーセは去ろうとしていました。彼の心はイスラエル人に集中していましたが、彼は落ち着かなかったので、警告を繰り返しました。彼は人々に次のように言っていたかのようです、「わたしはあなたがたに安心していません。わたしはあなたがたを信じていません。わたしが生きていたとき、あなたがたは何度も反逆しましたが、わたしが去った後、あなたがたがさらに反逆するのではないかと心配しています」。結局、モーセのイスラエルの民に対する心配は、実際のものとなりました。彼らはしばらくして再び反逆したからです。モーセはイスラエル人が彼らの性情において反逆的であり、反逆の要素が彼らの一部であることを知っていました。彼らは反逆的な性情を持っていたので、最終的にさらに神に反逆しました。民がモーセからどれだけ学んだとしても、彼らは依然として別の神々に従い、偶像を礼拝しました。彼らは宮に偶像を立てることさえしました。イスラエルの民は異教徒よりも悪いようでした。彼らはどれだけ訓練を受けたとしても、同じであり、反逆し続けました。
イスラエルの民は今日のわたしたちである
イスラエルの民についての前述の説明は、まさに今日のわたしたちの絵であるということを忘れてはなりません。この絵はわたしたちが何であるかを示しています。わたしたちはイスラエル人と同じ性情であるので、彼らに対する暴露は、わたしたちに対する暴露でもあります。長年わたしたちは召会生活をしており、多くのメッセージを聞き、聖書を読んでいますが、反逆的な性情と存在を持っているので、決して自分に信頼してはなりません。わたしたちは反逆で構成されています。ですから、わたしたちは真に主のあわれみと恵みを必要とします。今わたしたちは、モーセがこの世を去る直前にイスラエルの民に対してどれほど心配していたかを理解することができます。彼の最後の勧告は、実は彼が過去に言った多くの語りかけの繰り返しでした。彼は特にイスラエルにエホバ・彼らの神を捨てて、他の神々に従わないように勧告しました。彼はイスラエルの民にこのように言っているようでした、「あなたがたが何であるかを忘れないでください。エホバ・あなたがたの神があなたがたに何を望んでおられるかを忘れないでください。わたしがあなたがたに語り聞かせたことと、わたしがあなたがたに言ったことを覚えておいてください」。
今日わたしたちはみな、わたしたちの性情がイスラエルの民のようであり、自分自身に決して信頼してはならないことを認識する必要があります。わたしたちは自分自身で立ち、召会生活にとどまることができるという確信を持ってはなりません。わたしたちは朝に主を享受するかもしれませんが、数時間後に主に反逆するかもしれません。わたしたちは常に主に忠信であることを保証することはできません。ですから、わたしたちは主に戻り、主を吸い込み、主を言葉としてわたしたちの中に受け入れなければなりません。
神は愛と義の神である
神は愛の神であり、すべてを含んでいますが、義の神として、非常に厳格で狭いです。神は彼の愛の中で寛大であり、彼の義の中で狭いです。ある聖徒たちはあまりにも自由で、神を畏れていません。ですから、神は彼の義において、わたしたちが行ないたい事に対してしばしば「ノー」と言われます。わたしたちはいったん神の対処の御手に触れるなら、神を畏れます。彼はわたしたちに対して義であり、わたしたちを完全で義とならせます。良き地に入り、良き地を相続し、所有し、享受したいと思うすべての人々は、日常生活のあらゆる面で義であることを学ばなければなりません。わたしたちは神の愛と義を知らなければならず、また自分の真の状態を知り、自分自身に信頼しないようにする必要があります。わたしたちは神を知る必要があります。特に神が愛であり、またわたしたちが対処されているときは、神は義であることを知る必要があります。わたしたちはまた、自分自身が失敗であることを認識する必要があります。わたしたちはこの認識を持っているなら、もはや自分自身に信頼するのではなく、信実な方である神に信頼するでしょう。
神の愛は最終的に神の民のために働き、彼らに神のみこころと
先見性にしたがって完全な祝福を享受させる
わたしたちは神を愛し神を畏れることに失敗したにもかかわらず、またわたしたちが不忠信であったにもかかわらず、神は成功しなければなりません。神の民の状態にかかわらず、神は最後まで信実であり、最終的に神のみこころを成就し、わたしたちに彼の満ち満ちた祝福を享受させます。申命記において、モーセは民を強く叱責しましたが、最後にはモーセの歌と各部族に対する満ち満ちた祝福がありました。最終的に、神によって選ばれ、贖われた人々は、良き地に入り、その地を所有し、そこに住み、その地を享受しました。これは神が成功したことであるので、誇りと栄光は神だけのものです。
聖書全体がわたしたちに見せているのは、神が愛であり、義で信実であることと、わたしたちがいかに不忠信であるか、いかに失敗してきたか、そして将来いかに失敗するかです。しかし、これらすべての不忠信と失敗にもかかわらず、神はまだ彼の選ばれた人が豊富なキリストに入り、彼を所有し、彼を享受し、彼を経験し、そして彼を生きることさえ可能にします。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第1巻より引用