カナンの地の産物を 食べることは 神の宮と王国の ためである

真理

イスラエル人は過越の小羊を食べることによって、エジプトから出て行きました。そして彼らは荒野では天からのマナを食べました。イスラエルの子たちは荒野にいたとき、彼らは幕屋を持っていましたが、王国を持っていませんでした。イスラエル人は石、鉄、銅を持っていなかったので、宮の建造のための地を獲得するために戦うことができませんでした。

イスラエル人は良き地の中へと入ったとき、マナを食べることをやめて、その地の産物を食べ始めました(ヨシュア五・十二)。彼らはもはや天から降ってくるものを食べず、地から生じるものを食べました。天からのマナは、その中に鉱物がありませんでした。しかし、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリブのような食物は、鉱物を含んでいます。良き地の「石は鉄であって、その山々からは銅を掘り出すことができ」ます(申八・九)。石は建造のためであり、山は神の王国を表徴します。荒野における幕屋は神の王国をもたらすことができませんでした。良き地において建造された宮だけが神の王国をもたらすことができました。宮が建造されたとき、神の王国は地上において設立されました。

わたしたちがここで見る必要があるのは、神が三つの段階で、すなわち、三種類の方法で、ご自身の選ばれた民を養い、彼らが「食べる」ことによって、エジプトを出て行き、荒野を経過し、良き地に入って、宮を建造し、王国を設立することができるようにさせたということです。

わたしたちが食べることにおいて前進する必要
イスラエル人は、エジプト、荒野、良き地において、三つの段階において食べることを経験しました。この三つの段階は、信者たちが、キリストを食べて享受することの三つの段階を表徴しています。わたしたちはみな三種類の食べることに関して、すなわちエジプトにおいて食べること、荒野において食べること、良き地において食べることに関してはっきりしているべきです。エジプトで小羊を食べることは初期の食べることであり、荒野でマナを食べることはより高い食べることであり、良き地で鉱物を伴う固い食物を食べることは最高の食べることです。最初の食べることはわたしたちを強めてこの世から逃れさせます。第二の食べることによってわたしたちは天の要素で再構成されて、幕屋となります。しかし、幕屋は良いものでしたが、それは堅固でもなく、確立されてもいませんでした。しかし、この宮は確立されており、堅固であり、固定されていました。召会が宮になるためには、多くの聖徒たちが第三種類のものを食べることによって、すなわち鉱物を含む固い食物を食べることによって、石、鉄、銅にならなければなりません。

キリストを良き地の産物として食べる方法

集める必要がある
マナは神から直接来ます。それは天から降ります。マナを得るために、土地を耕し、種をまき、土壌を培養する必要はありません。しかしながら、マナを食べることにおいてさえ、わたしたちは怠惰であるわけにはいきません。もしわたしたちが朝遅くまで寝ているなら、マナを得ることはできないでしょう。なぜなら、日が熱くなると、それは溶けてしまうからです(出十六・二一)。さらに、マナは毎日集められなければなりません(十九―二一節)。わたしたちはある日それを集めて、次の日のためにそれを取って置くことはできません。イスラエルの民がこのことを行なおうとしたとき、彼らはマナに「虫が付き、悪臭を放った」ことを見いだしました(二〇節)。こういうわけで、わたしたちは勤勉に毎朝早く起きて、その日のためのマナを集める必要があります。荒野において神はマナを天から地上に送り、営所の境界にさえ送りましたが、神はそれをイスラエル人の口の中へと送らず、彼らの天幕の中へとさえ送りませんでした。彼らは早く起きて、それを集めなければなりませんでした。それにもかかわらず、彼らはマナをまくことも、育てることもする必要がなかったという事実に変わりはありません。彼らが行なわなければならなかったのは、それを集めることだけでした。マナを食べることはそのように簡単なことでした。

良き地の産物を食べることは、マナを食べることとは大いに異なります。良き地の産物を食べるために、わたしたちは地の上で労苦しなければなりません。神はわたしたちに土地を与えました。また彼は雨も送るでしょう。しかし、わたしたちはその地で働かなければなりません。その地はキリストです。地へとまかれる種もキリストです。わたしたちはキリストの中におり、キリストは地です。わたしたちの中におられるキリストは種であり、わたしたちがその中にいるキリストは地です。外側でキリストは地であり、内側で彼は種です。わたしたちは彼の中におり、彼はわたしたちの中におられます。キリストはすべてです。わたしたちは地と種の両方を持っていることを否むことはできません。わたしたちは地としてのキリストの中にいることを否むことはできませんし、キリストが種としてわたしたちの中におられることを否むこともできません。今わたしたちがしなければならないすべては、その種を伴う地の上で労苦することです。

固い食物としての、良き地の産物としてのキリストを食べるために、わたしたちは第一に収穫物を持たなければなりません。主はわたしたちに地と種を与え、そして雨が来つつあります。しかしながら、主はわたしたちに収穫物を与えることができません。このために、わたしたちは農耕の働きを行なう必要があります。そうでなければ、わたしたちはキリストを成長させることはできませんし、何の収穫物もないでしょう。わたしたちはマナが主の側からやって来ることをすでに見てきました。主はマナを与え、わたしたちはそれを集め、それを食べます。しかしながら、良き地の固い食物を食べることは異なります。わたしたちがその地に働きかけない限り何の収穫物もありません。

キリストのえり抜きの分け前をもって神を礼拝する
わたしたちは地と種の両方を持っているかもしれませんが、依然として神の家を必要とします。主が命じたのは、イスラエルの子たちがその地の中へと入った後、彼が選んだ場所で神を礼拝するということです。彼らは神を礼拝すべきでした。それは神の御前にひれ伏すことによってではなく、神の御前でその地の産物のえり抜きの分け前を食べることによってです(申十二・七、十七―十八、十四・二三)。神はイスラエル人に次のように言っているかのようでした、「良き地において、あなたがたはわたしの選んだ場所で、わたしと共にあなたがたの産物の最高の部分を食べることによって、わたしを礼拝しなければならない。わたしは、むなしくて宗教的な礼拝を欲しない。あなたはわたしの選びの場所に来るとき、空手で来てはならない。小麦あるいは大麦をもって、ぶどう酒あるいは油をもって、またはあなたがたの羊と牛の初子を持って来なさい。わたしはあなたにこの最高の分け前をもってわたしを礼拝してもらいたいのである」。イスラエル人がこのえり抜きの分け前を得ようとするなら、彼らはまず収穫物を得なければなりませんでした。彼らが収穫物を得ることができる唯一の方法は、その地で働くことによって、すなわち農耕の働きを行なうことによってです。

イスラエルの子たちは、収穫物の最上の十分の一を自分の家で食べることを禁じられていました(十二・十七―十八)。彼らは定められたときに、神の選びの場所で神を礼拝しに行くまで、この十分の一を取っておかなければなりませんでした。それから彼らは神の選びの場所に彼らの収穫物の最上の十分の一を携えて行きました。神の御前で、神と共に、互いに、彼らはこのキリストの分け前を享受しました。この享受は神が求めている礼拝を生み出します。それはまた召会生活を構成し、王国を確立します。このキリストの最上の十分の一は、わたしたちを石、鉄、銅とする鉱物をわたしたちに与えます。わたしたちはこれらの鉱物を持つとき、宮を建造し、敵を打ち破り、王国をもたらすように資格づけられます。

霊の解放を通してキリストを展覧する
イスラエルの子たちがシオンの山に集まったとき、彼らは共に自分の十分の一を携えて来ました。一人一人のイスラエル人はそれほど多く持っていなかったかもしれませんが、すべての十分の一が一緒にされたとき、初穂の山があったに違いありません。最終的に、良き地の豊富な産物の展覧がありました。同様に、わたしたちは集会においてわたしたちのキリストの豊富を一緒にし、それらを展覧する必要があります。わたしたちはみな最善を尽くして霊を解放しなければなりません。それはキリストが出て来て、聖徒たちを養うためです。わたしたちはこのことを行なうとき、キリストの最高の分け前を享受します。

仮にだれもキリストの上で労苦しないとします。聖徒たちは集会に集まるとき、彼らはキリストを持たずに空手でしょう。このことは彼らがキリストを信じていないことを意味するのではありません。それは彼らがキリストを経験していないことを意味します。言い換えると、彼らは小麦、大麦、ぶどう酒、いちじく、ざくろ、オリブを持っていないのです。兄弟姉妹は自分の聖書や詩歌を持っているかもしれませんが、霊の中に何のキリストの収穫物も持っていません。このゆえに、集会においてキリストからのものが全く彼らの口から出て来ません。それどころか、彼らは空気の抜けたタイヤのようにそこに座り、ある兄弟がメッセージをするのを待っています。このような主の回復の召会はあわれです。召会の中では、とても多くの聖徒がキリストに満ちていなければなりません。彼らは手に聖書を持っているだけではありません。彼らは彼らの霊の中にキリストを持っています。こうして、集会には満ちあふれる良き地の豊富の各項目があるようになります。兄弟姉妹が一人一人立ち上がってキリストに対する彼らの経験を証しするとき、それは何とすばらしい集会でしょう!

食べることは道である
申命記第十二章において、イスラエル人が良き地に入ろうとしていたとき、神は何を食べるべきかについて彼らに命じました。神は、イスラエルの全部族の中から選んで彼の御名を置かれる場所で、すなわち、「エホバ……の御前で食べ」るように命じられました(七節)。申命記第十二章、第十四章、第十五章、第十六章で述べられた食べることは、神を礼拝することと関係があります。神を正しく礼拝するために、わたしたちは食べなければなりません。天然の、宗教的な観念によれば、神を礼拝することは正しい事を行なうことにかかっています。この観念は間違っています。宗教においては「行なう」事柄ですが、神のエコノミーにおいては「食べる」事柄です。正しく食べることによってのみ、わたしたちは神を礼拝し、神の定められた御旨を成就することができます。ですから、イスラエルの子たちが良き地に入ろうとしていたとき、神は彼らの食べることを顧みるように彼らに命じました。食べることによって彼らは神を礼拝し、食べることによって彼らは敵を打ち破り、食べることによって彼らは宮を建造し、神の王国をもたらしました。イスラエルの子たちにとって、食べることはすべてでした。食べることは道です。

あなたは神を礼拝したいでしょうか? それではあなたはキリストを食べなければなりません。あなたは神の宮を建造するという神の定められた御旨を完成したいでしょうか? それではあなたはキリストを食べなければなりません。あなたは神の敵を打ち破り、神の民に真の平和をもたらしたいでしょうか? それではあなたはキリストを食べなければなりません。わたしたちは神の王国をもたらしたいなら、主を食べる必要があります。食べることの最終段階において、すなわち良き地で食べることにおいて、すべての敵は打ち破られ、土地は獲得され、神の宮は建造され、神の王国は確立されます。

召会の中で、多くの新しい人たちは小羊を食べています。彼らは依然としてこの世におり、まだ荒野にはいません。マナを食べている他の人たちもいます。マナを食べることによって、彼らは蜜を入れて作られた極薄のパンとなりました。しかし、彼らは、敵が攻撃してきても、幼くて、未熟で、力強くないので、あえて戦おうとしません。たとえば、あなたが極薄のパンに水を注ぐなら、極薄のパンは容易に台無しになってしまうでしょう。しかしあなたが石、鉄、銅に水を注いでも、それらはそのままです。召会の中で、ある聖徒たちは極薄のパンのようです。あなたが触れると崩れてしまうので、気をつけなければなりません。また、ある聖徒は石のように硬く、人のあらゆる困難や状況のあらゆる圧迫に耐えることができます。彼らは鉄と銅のように、敵を討ち、宮を建造し、さらには王国を設立することができます。あなたの地方の聖徒は、甘くて、柔らかく、もろい極薄のパンでしょうか? それとも堅固な石、鉄、銅でしょうか? 堅固で力強い人は、どのような暴風や洪水にも耐えることができます。彼らは敵にも対抗することができます。これは、宮という段階における召会です。召会を宮のようにしたいのであれば、わたしたちはキリストを単にマナとして経験するだけでなく、石、鉄、銅として経験する必要があります。

大家族のように、召会は三つの食事を提供すべきです。一つは赤ん坊のためであり、一つは強い者のため、そして一つは年配者のためです。神の定められた御旨の成就のために、わたしたちは赤ん坊であるべきでなく、また年配者であるべきでもありません。わたしたちは円熟している必要がありますが、老いているべきではありません。わたしたちは信仰を持ったばかりのころ、多くの小羊とマナを食べていました。今やわたしたちは小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリブを食べます。わたしたちはまたキリストを動物の命として享受します。こういうわけで、わたしたちはキリストによって強められます。わたしたちは最高の食べることへと、すなわち鉱物を伴う固い食物を食べることへと前進しなければなりません。これらの鉱物はわたしたちを神の建造のための岩とし、王国を確立させます。そしてそれらはまたわたしたちを鉄や銅にして、戦わせ、敵を征服させます。

キリストは豊富で広大な土地であり、多くの種類の食物や鉱物を生み出します。疑いもなく、キリストはまず小羊であり、それからマナであり、究極的に良き地です。あなたはキリストを小羊として、またマナとして享受しているのでしょうか、それとも地として享受しているのでしょうか? わたしたちのうちのある人たちはキリストを小羊としてのみ享受しており、またある人たちはキリストをマナとして享受しており、さらには別のある人たちはキリストをすべてを含む良き地として享受しています。この最終段階においてわたしたちが食べるキリストは、小羊やマナよりもまさっているに違いありません。彼は良き地の豊富な産物であるに違いありません。わたしたちはみな、自分がどの段階のキリストを享受しているのかについてはっきりとしていなければなりません。

わたしたちは成長させたキリストを食べて建造する
キリストのえり抜きの分け前を食べるために必要な三つの事柄を覚えておいてください。第一に、わたしたちは収穫物を得なければなりません。この収穫物は忍耐、辛抱強さ、学課、苦難、十字架を負うことの収穫物ではありません。わたしたちはキリストの収穫物を必要とします。わたしたちは来る日も来る日も忍耐を成長させるのではなく、キリストを成長させているのです。わたしたちはキリストによって、キリストと共に生き、わたしたちの内側で成長する機会を彼に与えることを必要とします。そうすれば、わたしたちはキリストの収穫物を得るでしょう。第二に、わたしたちは何が一の唯一の場所であるかを識別しなければなりません。わたしたちは分裂の場所に、すなわち、主の臨在も主の語りかけもない場所に行ってはなりません。第三に、わたしたちがキリストの収穫物を持って一の場所に来るとき、わたしたちの霊を解放してキリストを他の人たちに分け与えることによって、機能しなければなりません。わたしたちがこのすべてを行なうとき、召会の集会はキリストの豊富で満たされます。このようにしてわたしたちはキリストの最高の分け前を享受します! このようにキリストを享受することは、建造のためにわたしたちを強くし、堅固にします。それはわたしたちを山とならせ、その山から敵を打ち破るために必要とされる鉄と銅が出てきます。ハレルヤ、これが神のエコノミーです!

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第1巻より引用

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