ヨシュア記第六章には、イスラエルがカナンの地で行なった最初の戦いと、その壊滅の記録が記されています。エリコで、イスラエルは祭司の肩にあった箱(三一の神の具体化としてのキリストの予表)と共に、町の周囲を行進しました。この光景の霊的な意義は、団体の神・人の絵であり、神と人、人と神が、一人のパースンとして共に歩くことです。これは、イスラエルの子たちがヨルダン川を渡った方法であり、これは、彼らがエリコの町を破壊した方法でした。神とイスラエルは共に戦っていました。しかしながら、実は、神が戦っておられたのであって、イスラエルはただ叫び、宣言し、証しして、町を占領したのです。
この戦いの前に、神は遊女ラハブを神のエコノミーのために備えました。しかし、イスラエルはエリコで勝利した後、アイという小さな町で敗北してしまいました。この歴史は、神の民が主の導きを求め、主の臨在を持ち、神の権益のために自分自身を犠牲にし、神が得たものにあずかって、神の王国を拡大し、神の永遠のエコノミーを完成する必要があることをわたしたちに示しています。
神はラハブを備える
イスラエル人は、ヨルダン川を渡る前に、アモリ人の二人の王、シホンとオグを打ち破り、彼らをすべて滅ぼしました(ヨシュア二・十、民二一・二一―三五)。彼らはヨルダン川を渡った後、カナンの地を攻め取るために、まずエリコに向かう必要がありました。ヨシュア記第二章は、ヨシュアが密かに二人の斥候を遣わして、その地、特にエリコを探るように命じたという記録から開始しています。二人の斥候は行って、ラハブという名の遊女の家に来ました。二人の斥候はエリコに来たとき、ラハブとの間に良い交流を持ったに違いありません。ラハブは、二人の斥候を探していた者たちから、二人の斥候をかくまいました(一―七節)。
ラハブは、神がイスラエルのためにエジプトと荒野で行なわれたことを聞き、また神がどのようにして、カナンの門衛であった二人の強い王、シホンとオグを打ち破られたか、聞いたことを斥候に告げました。彼女は良き知らせを聞き、そしてイスラエルの神を信じ、彼の民の間の一人になることを待ち望みました。彼女は自分の父の家を慈しみをもって、彼らの命を死から救い出すようにと斥候に求めたとき、斥候たちは、窓に赤い糸のひもを結び付けておくよう彼女に告げました(十―十三、十八節)。斥候の言葉にしたがって、彼女は自分自身と全家族の救いのために、窓から赤い糸のひもをしるしとしてつり下げました(二一節)。これは、キリストの血による贖いを通しての、全家族に対するキリストの救いを予表します。この交流を通して、ラハブは神のエコノミーのために斥候たちと一になりました。
エリコでの勝利
二人の斥候は引き返し、ヨシュアに自分たちに起こった事をすべて話しました。彼らは、エホバがあの地をすべてイスラエル人の手に与えてくださったことと、さらにあの地の住民はみな、イスラエル人の前に溶けていたことを告げました(二三―二四節)。斥候の報告は、信仰の中にある正しい語りかけでした。イスラエル人は神の信仰によってその地を獲得する必要がありました。
あらゆることにおいて神に信頼する
イスラエルの子たちは良き地を獲得するために、敵を打ち破り、邪悪な勢力を追い払わなければなりませんでした。それにもかかわらず、イスラエルの子たちは実は戦う必要がありませんでした。彼らはただ神を信じ、神に信頼する必要がありました。聖書がわたしたちに示しているのは、彼らがヨルダンを渡ったとき、神はすべてのことを行なわれたということです。同じ原則で、神の民はエリコを破壊するのに何も行なう必要はありませんでした。
ヨシュア記第六章一節は次のように言っています、「エリコはイスラエルの子たちのゆえに堅く閉ざしていて、だれも出入りしなかった」。エリコには強力な要塞がありました。しかしエリコの王は、エホバがご自身の民のために行なわれたことを聞いたとき、彼の心は溶け、彼は彼の霊、彼の大胆さを失いました(参照、五・一)。彼はなすべきことがわからず、町の門を閉ざし、城壁を用いて自分自身と彼の民を守りました。エリコの民は制限されて、何もすることができませんでした。往来、出入りはありませんでした。これは、暗やみの力が縛られたこと、天的な場所で悪の霊的な勢力を真に縛っていたことを示しています。エリコの王は城壁に信頼し、イスラエル人が城壁を破壊するいかなる武器も持っていないことを知っていました。たとえイスラエル人がヨルダン川を渡ったとしても、城壁を越えることはできないと彼は思いました。彼は神が何をされるかについて何も考えませんでした。神が城壁を破壊されるのは容易な事柄でした。イスラエルに対するエリコの王の反応を見ると、これは、イスラエルが上って行って町を取る前でさえ、エリコがすでに打ち破られていたことを意味します。
神の約束とその霊の導き
ヨシュア記第六章二節において、エホバはヨシュアに約束して次のように言われました、「見よ、わたしはエリコとその王、また力ある勇士たちをあなたの手に渡した」。それから、神はヨシュアに次のように指示されました、「あなたがた勇士はみな、町を巡り、町の周囲を一度回らなければならない。こうして、あなたは六日の間、そのようにしなければならない。七人の祭司たちが雄羊の角の角笛七本を持って、箱の前を行かなければならない。そして七日目には町を七度巡り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない」(三―四節)。イスラエル人はイスラエルの軍隊の司令官であるヨシュアの指示を聞き、契約の箱を運び、キリストを高く上げました。祭司は自分の意志によって角笛を吹かず、司令官の命令を待っていました。町を七度巡り、祭司は角笛を吹きました。この吹き鳴らすことは、高く上げられたキリストを告げ知らせることを表徴しています。このことからわたしたちは、霊的戦いにおいてわたしたちが行なうべき第一の事は、キリストを高く上げることであることを見ます。イスラエル人が指示と導きを必要としたように、今日、わたしたちもその霊の導きを必要とします。
神が命じた言葉を信じ、
神と神の契約の箱を証しし、高く上げる
エホバはヨシュアに民に命じるように指示し、民はエホバが命じたとおりに行動しました。最初の六日の間、イスラエルの軍勢は契約の箱を担いで町を巡るだけでした。武装した者たちは、エホバの箱の前を歩きました。契約の箱は、三一の神の具体化であるキリストを表徴します。七人の祭司たちはエホバの御前を進み、角笛を吹き鳴らし、エホバの契約の箱は彼らの後を行きました。武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前を行き、しんがりは箱の後を行き、祭司たちは絶えず角笛を鳴り響かせました(六―九節)。ヨシュアは民にこう命じて言いました、「あなたがたは叫んではならない.あなたがたの声を聞かせてはならない.一言も口から発してはならない.わたしがあなたがたに『叫べ!』と言う日までは。そのときに、あなたがたは叫ばなければならない」(十節)。ここで、民が黙っていたことは、主と一になって主の方法で事柄を完成し、何の考え、意見、感覚も発表しないことを意味します。
こうしてヨシュアはエホバの箱が町を巡るようにしました。エホバの箱は町を巡り、一度だけその周囲を回り、そして二日目も同じことを行ない、一度だけ町を巡りました。彼らはこれを六日間、行ないました(十四節)。エリコの人々の多くは城壁から、イスラエル人のこの特別な行動を見ていましたが、イスラエル人が何をしているのかわからなかったでしょう。そして七日目に、イスラエル人は同じようにして町を七度巡りました。その日だけ、彼らは町を七度巡りました。七度目に祭司たちが角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に言いました、「叫べ! エホバがあなたがたにこの町を与えてくださったからだ」(十五―十六節)。民は叫び、祭司も角笛を吹き鳴らしました。民が角笛の音を聞いたとき、民は大声で叫びました。すると城壁は崩れ落ちました。民はそれぞれ真っすぐ町へと上って行き、その町を奪い取りました。彼らは町にある人も家畜もすべて、剣の刃で徹底的に滅ぼしました。彼らは町とその中のすべての物を火で焼きました(二〇―二一、二四節前半)。
町を火で焼く前、ヨシュアはその地を探った二人の者に次のように言いました、「あの遊女の家に行って、あなたがたがあの女に誓ったように、そこから彼女と彼女に属するすべての者を連れ出しなさい」。斥候であったその若者たちは行って、ラハブと彼女の父と母と兄弟と彼女に属するすべての者を連れ出しました。彼らは彼女の家族をみな連れ出して、イスラエルの営所の外に置きました(二二―二三節)。このことが示しているのは、神の救いが個別の信者のためであっても、神の救いの単位は家族であるということです。
戦いの中で離れているべきもの
ヨシュアは民に次のように語りました、「この町とその中のすべてのものは、エホバの御前で滅ぼし尽くされなければならない……あなたがたは、神にささげる滅ぼし尽くすべきものから離れていなければならない.それは、あなたがたが神にささげる滅ぼし尽くすべきものを取ることによって、自らを神にささげる滅ぼし尽くすべきものとし、イスラエルの営所をも神にささげる滅ぼし尽くすべきものとして、災いをもたらすことがないためである」。ですから、民は滅ぼし尽くすべきものは取りませんでした。ただし、すべての銀と金、そして青銅と鉄の器はエホバに聖なるものであったので、それらをエホバの宝物倉に入れました(十七―十九、二四節後半)。
アイでの敗北と勝利
ヨルダンを渡った後の、イスラエルの最初の戦いにおけるエリコに対する勝利が勝ち取られたのは、イスラエルが戦うことによってではなく、彼らが角笛を吹き鳴らし、叫ぶことによって、神の指示する言葉における彼らの信仰を通して、彼らが箱と共におられる神を証しし、告げ知らせることによってでした。これらは彼らに勝利を勝ち取らせることができる極めて重要な要因でした。しかし、ヨシュア記第七章において、イスラエルの子たちは最初、上って行ってアイを破壊しようとしたとき、敗北しました。この敗北には四つの理由がありました。第一に、イスラエルは罪を犯しました。神の民は、特に戦争のときは聖で、聖別されていなければなりません。しかしユダの部族からの勇士の一人が、神にささげる滅ぼし尽くすべきものを盗むことによって罪を犯したのです。第二に、彼らは主の臨在を失いました。第三に、彼らは自分自身に信頼しました。第四に、彼らは神との一を失いました。
アイを探らせる
エリコを破壊することで、イスラエル人には戦いの必要はありませんでした。神はイスラエル人と共に戦いました。ヨシュアは神のエコノミーにしたがって斥候を遣わしました。その目的は、ラハブを得ることでした。しかしエリコを滅ぼした後、アカンが神にささげる滅ぼし尽くすべきもののことで、不忠実に振る舞ったので、エホバの怒りは、イスラエル人に向かって燃え上がりました(七・一)。イスラエル人は主の臨在を失ったので、ヨシュアは戦いのために斥候を遣わし、アイを探らせました。斥候はヨシュアの所に帰って来て次のように言いました、「すべての民が上って行く必要はありません.二、三千人ほどを上って行かせ、アイを討たせましょう。敵はわずかですから、すべての民をそこで労苦させるには及びません」(二―三節)。ですから、彼らは二、三千人ほどを上って行かせました。この反応が示しているのは、イスラエル人が自分自身で行動し、主の導きを求めず、主の臨在を持たなかったということです。
このゆえに、神はイスラエル人から離れ、神の臨在を彼らから遠ざけました。このことは、ヨシュアとイスラエルの子たちがみな、アイを攻撃することで愚かになり、高ぶり、盲目になったことの原因です。神の臨在を失うことは、とても重大な事柄です。何も彼と置き換えることはできません。わたしたちは神なしに生きることはできません。彼を離れて、わたしは存在することができません。ヨシュアは民にこう言うべきでした、「わたしたちがエリコで経験したことを忘れてはならない。わたしたちは戦ったのではなく、神と共に一になって歩いたのだ」。もしヨシュアがこれを言ったなら、彼は賢い人であったし、イスラエルの子たちは彼の賢い助言に従っていたでしょう。
イスラエル人はアイの民に敗北し討たれた
ヨシュアは斥候からの報告を聞いて、約三千人をアイに上って行かせて、攻めさせました。ところが、彼らはアイの人々の前から逃げました。アイの人々は、彼らのうち三十六人ほどを討ちました。そしてイスラエル人を城門の前からシバリムまで追って、坂道で彼らを討ちました。そこでイスラエルの民の心は溶けて水のようになりました。このとき、ヨシュアは何かがおかしいことに気づき、ヨシュアとイスラエルの長老たちは悲しんでエホバに叫び求めました。ヨシュアは衣服を裂き、彼とイスラエルの長老たちは、エホバの箱の前で夕方まで顔を地に伏せていました。ヨシュアは次のように言いました、「ああ、主エホバよ! あなたはなぜこの民をヨルダンにもたらされたのですか? わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼさせるのですか? わたしたちは、ヨルダンの向こう側に満足してとどまっていればよかったのです! おお、主よ、イスラエルが敵の前に背を向けたからには、わたしは何を言うことができるでしょう?」(六―八節)。ヨシュアは続けてエホバに次のように尋ねました、「あなたはあなたの大いなる御名のために、何をしようとされるのですか?」(九節)。
エホバの命令――罪を犯した者に対して
神はヨシュアに次のように言われました、「イスラエルは罪を犯した」(十一節前半)。個人が罪を犯したのですが、それは神の民全体に影響しました。この事は、イスラエルの子たちが敵の前に立つことができず、敵の前に背を向けた原因です。エホバは神にささげる滅ぼし尽くすべきものを盗んだ者、彼と彼に属するすべてのものを火で焼くようにと命じられました。神はヨシュアに、イスラエルがその罪を裁かなければ、神はもはや共にいないと言われました(十二節)。この敗北の後、ヨシュアは箱の前で主と共にとどまるという学課を学びました。最後に、主は入って来て彼に語り、行なうべきことを彼に告げられました。
まず、イスラエルは罪を犯した者を見つけ出しました。彼らがこれを行なったのは、大祭司の裁きの胸当にあるウリムとトンミムによってでした(出二八・三〇)。ヨシュアは民を集め、部族(ユダ)、家族(ゼラ)、罪を犯した者(アカン)を見つけ出しました(ヨシュア七・十六―十八)。ヨシュアはアカンに自分のしたことを告げるように命じたところ、アカンは次のように答えて言いました、「真に、わたしはエホバ・イスラエルの神に対して罪を犯しました.わたしがしたことはこうです.わたしは略奪したもののうちに、シナルの美しい外套一枚と、銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本があるのを見て欲しくなり、それらを取りました。それらは今、わたしの天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります」(十九―二一節)。
イスラエル人は、アカンとその子供たちと、その家畜すべてを石打ちにし、彼と彼の所有していたすべてのものを火で焼きました。人々はアカンの上に石を積み上げて大きな塚としました。このようにして、イスラエル人は清められて、神へと回復され、再び神と一になりました。こうしてエホバは彼の燃える怒りを収められました(二二―二六節)。
アイに対する勝利
第八章一節から二九節でわたしたちは、アイに対する勝利を見ます。エホバはヨシュアに、恐れてはならない、おののいてはならない、戦いの民をすべて連れてアイを攻撃するようにと命じられました。エホバはヨシュアに、アイの王、民、町、地を彼の手に渡したことを約束されました。そしてエホバはヨシュアに、エリコとその王にしたとおり、アイとその王にし、アイの略奪したものと家畜をイスラエルの戦利品とするようにと命じられました。最後に、エホバはヨシュアに、アイの町の背後に伏兵を置くようにと指示されました。ヨシュアはエホバの指示にしたがって攻撃を成し遂げました。そしてイスラエルは、アイの町の家畜と略奪したものを、エホバがヨシュアに命じられたとおり、自分たちの戦利品として取りました。
正しい人を得る必要がある
旧約の歴史と預言を学ぶことで、わたしたちは神の永遠のエコノミーについて、聖書の完全な展望を考える必要があります。ヨシュア記の内在的な意義は、地を取ること(わたしたちがキリストを獲得することを予表する)と、正しい人を得てキリストを生み出すことであり、それはキリストが開展し、拡増するためです。
神は、人なしにすべてのことを行なうことができますが、ヨシュア記の記録によれば、人がご自身と一であることを願われます。神は地を得るためにヨシュアを備えられました。しかしながら、キリストを開展させるためには異邦人の女が必要であり、このために神は遊女ラハブを備えられました。ラハブはエリコの町の遊女であり、エリコは神が永遠にのろいを置かれた場所でした。ラハブは神と神の民に転向して、キリストの主要な先祖の一人となり(マタイ五・一)、肉体と成ることにおけるキリストに結び付けられました。それは神の永遠のエコノミーを完成するためでした。
肉体と成る原則を保って、神はすべてのことを人を通して、人と共に、さらには人の中で行なうことを願われます。イスラエルのアイに対する敗北のかぎは、彼らが神の臨在を失ってしまったことでした。この歴史の内在的な意義は、わたしたちが単に主に従うだけではなく、彼と共に歩み、彼と共に生活し、彼と共に存在する必要があるということです。これがクリスチャンとして歩み、神の子供として戦い、キリストのからだを建造する道です。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第1巻より引用