ヨシュア記は、豊かで深遠な予表を持つ書です。その内在的な意義は、地を取ることです。わたしたちはその地の予表と良き地の霊的な意義を見て、イスラエル人がカナンに入って戦ったことの意義を理解する必要があります。
旧約聖書には、新約聖書で啓示されている霊的な事柄の多くの予表があります。実際、新約聖書で啓示されている霊的な事柄のほとんどすべてのものには、旧約聖書にそのことの予表があります。旧約聖書の中で最も偉大で、すべてを含む予表は、イスラエルの歴史です。予表としてのイスラエルの民は出エジプト記第一章で始まり、旧約聖書の最後の書であるマラキ書で終わっています。イスラエルの民は、まずエジプトで過越を経験しました。出エジプト記第十二章の過越が一つの予表であることは、すべての人が知っています。実際、キリストがわたしたちの過越です。過越の小羊はイスラエル人によって殺されて、その血は家の門柱とかもいに注がれました。続いて彼らは紅海を渡り、荒野へと入り、そこで彼らはマナを食べ、裂かれた岩から水を飲みました。これらのさまざまな経験はすべて予表です。過越の小羊と過越のあらゆる事柄はまさにキリストです。マナはキリストですし、岩から流れ出た水も命を与える霊として流れ出たキリストです。さらにカナンの地の産物もすべてを含むキリストの豊かな予表です。そしてまたカナンの地全体もすべてを含むキリストの予表です。
その地の予表の積極的な面
その地はキリストの予表である
まず聖書では、その地はキリストの図、象徴です。キリストは良き地です。創世記第一章九節が言っている、三日目に死の水から出てきた地は、三日目に死の中から出て来られた復活のキリストの予表です。すべての命は、植物、動物、人の命を含めて、地から生じました。人でさえ、その復活の地のちりから造られました。医学的に言って、わたしたちの肉体は、地と同じ成分を含んでいます。地にもわたしたちの体にも、銅、鉄、硫黄などの成分があります。ですから、人は地から生じました。地はキリストの図です。これは、キリストがあらゆる種類の命の源であることを表徴します。キリストは、良き地、死の水から出てきた地、高く上げられ、死の水に取り囲まれた土地として、カナンの地によって描写されました。カナンの地は、高く上げられ、水に取り囲まれた土地です。この地はキリストの絵です。
地が予表するのは、わたしたちは
神が選ばれた民であり、神の正当な民であること
聖書では、地の土壌はわたしたち、神に選ばれた者を予表します。神はわたしたちを選んで土壌とし、ご自身をその中にまいて、彼ご自身がわたしたちの中で成長するようにされました(マタイ十三・三、二三)。わたしたちは神の土壌です。最終的に、わたしたちはキリストを成長させる神の耕された地、神の農場となり、キリストを生み出します(Ⅰコリント三・九)。この事柄は、実に重みがあり、また意義深いです。
地はまた神の正当な民を表徴します。その反対に、海はサタンによって腐敗させられ、汚染され、荒廃させられたこの世を表徴します。言い換えれば、地は常に神の民を表徴し、海はこの世の民、サタンによって汚染され、腐敗させられ、荒廃させられ、強奪された人々を表徴します。
その地の予表の消極的な面
創世記第一章においてわたしたちは見ますが、神の敵サタンは侵入して、神の創造を、特に地を駄目にしました。ですから、地は神によって水で裁かれました(二節)。全地は裁く水の下にありました。それは地を覆う一種の死でした。その後、神が入って来て、死の水で覆われていた地を起こし、三日目に死の水から引き上げられました。
しかし、またしてもサタンがやって来て、神が六日目に創造した人を駄目にしてしまいました。アダムが駄目にされた後、人は最終的に肉となり(六・三)、神は入って来てその肉を裁かれました。神は肉を裁いた時、地を裁かれました。なぜなら、肉、すなわち人類は、地と分離されることができないからです(十二―十三節)。神の目に、また神の概念によれば、人は常に地と関係があります。人が裁かれるとき、地が裁かれ、地が裁かれるとき、人が裁かれます。神は常にこれら二つのものを一緒に取り扱われます。洪水によって、神は肉と地を裁かれました。
洪水の後、ノアと他の七人が箱船から出て来たとき、彼らは新しい地で生活しました。この箱船によって救われた人たちは、新しい地で生活しました。その新しい地は復活したキリストを予表しました。ノアとその家族が新しい地で生活したことは、彼らがキリストの中で生きたことを表徴しました。しかし、それは長続きせず、サタンが再びやって来て、人を堕落させ、汚しました。
創世記第十章が啓示しているように、サタンはクシの子ニムロデを利用して、バベルを建てました(参照、八節のフットノート一)。サタンがクシとニムロデを腐敗させ汚したことは、サタンがまたもや人類を腐敗させたことを意味しました。神の目に、その汚染された人類は、カルデアの地と一つになりました。神の目に、人類は常に地と関係があります。イスラエルの歴史を聖書の記録にしたがって読むなら、神は常にイスラエルと地を一つにしておられることを見るでしょう。いくつかの節は、地と民の両方に言及しています。なぜなら、神は常にこの二つを一つと見ておられるからです(イザヤ一・七―九、二七)。アメリカ合衆国の人々が腐敗するなら、それはアメリカ合衆国が腐敗することを意味します。その地の人々が汚されるなら、神の目に、その地も汚されることを意味します。わたしたちは民と地を分離することはできません。
地、キリスト、人
多くの聖書教師は、創世記第一章の三日目に水から出てきた地が、復活したキリストの図であることを認めています。この地は復活したキリストの予表であり、この方からすべての命が存在するに至ります。この土地から、神は彼を表現し代行する人を、ご自身のかたちに造られました(二六―二八節)。神は、死の水から復活した地からちりを取り、それを用いて人を造られました(二・七)。ですから、人は土から造られ、神を表現するように定められました。人の体は、復活した地のちりで造られましたが、人自身は神を表現するようにと、神のかたちに造られました。
創世記第一章二六節は、人は神のかたちに造られたと言い、コロサイ人への手紙第一章十五節は、キリストは見えない神のかたちであると言っています。ですから、人はキリストのかたちに造られ、キリストのかたちを帯びました。もしアダムを見ることができたなら、キリストのかたちを見たでしょう。ですから、アダムという人には、地のちりとキリストのかたちがありました。このちりである人は、神を表現するようにと神のかたちに造られただけでなく、神の主権を行使し、地上に神の王国を形成するようにと、神の権威を託されました。それゆえに、アダムに三つのもの、地、キリスト、人を見ます。これら三つのものは結び合わされて、神の表現と神の王国になります。
地、キリスト、人という三つのものが共に結び合わされたものが、神の表現であり、神の栄光と権威がある神の王国です。これは、わたしたちがみな入らなければならない範囲です。それは、わたしたちがみな達しなければならない領域です。ここにわたしたちの安息と満足があります。ここで神は完全に表現され、住まい、住居を持たれます。ですから、神の表現と王国は、完全に地と関係があります。人は復活した地から生じて、神を表現し、神を代行し、神の表現と神の王国を形成するようにと、この地上で生活しなければなりません。王国を伴うこの表現が神の目標であり、わたしたちはそれに入らなければなりません。
啓示録第二一章一節は言います、「またわたしは、新しい天と新しい地を見た.それは、第一の天と第一の地が過ぎ去って、もはや海もないからである」。ここで、古い天と古い地が過ぎ去って、新しい天と新しい地があるようになることを見ます。この新しい天と新しい地には新エルサレムがあり、新エルサレムの内側ではキリストにある神が、流れる霊を象徴する生ける水として流れています。啓示録第二一章をよく見るなら、その地、キリスト、神が選び、再生し、聖別し、栄光化された人のすべての絵を見るでしょう。地、キリスト、わたしたちが結び合わされたものが、神の王国を伴う神の表現です。これがわたしたちの良き地、わたしたちがみな励んで入らなければならない土地です。ここで、わたしたちは安息と満足を持ちます。
良き地は神の永遠の定められた御旨である
神の神聖な御言の全体的な啓示から、神は永遠の過去、ご自身を表現しようと計画されたのを見ることができます。神の永遠の定められた御旨とは、多くの人から成る団体の実体を通して、実行的、実際的な方法で神ご自身を表現することです。これが神の永遠の定められた御旨です。この永遠の定められた御旨を達成するために、神は天と地を創造されました。
バベルのとき、人はカルデアの地と一つになりました。神は入って来て、アブラハムを腐敗したカルデアから召し出されました。それは、腐敗した人類の中から彼を召し出されたことを意味します。神はアブラハムをその地から、高く上げられた地、カナンの良き地へともたらされました。カナンの地は高く上げられた地です。地理によれば、カナンの地は地中海、死海、ヨルダン川と、水で囲まれています。これは、この地が、死の水から出て来て、その上に高く上げられたことを表徴します。これはキリストと神の正当な民を表徴する地です。神の目に、神は常に、キリストである良き地と、彼の正当な民を一つと見ておられます。
アブラハムはカナンの良き地に入りました。彼の子孫が良き地から堕落し去ったとき、神は彼らを堕落した場所から連れ出し、良き地へと回復されました。イスラエルの子たちが良き地に入ることの究極的な完成は何でしょうか? それは宮でした。一方で、宮は神の表現であり、もう一方では、神の王国、統治、行政でした。その宮に、神の表現と神の王国を見ることができます。その宮で、神と彼のすべての民は安息し、満足することができました。良き地は、正しい地と正しい民との組み合わせであり、それをもって神の住まいが建造されて、宇宙で神を表現し、神の権威を行使します。これが良き地です。
旧約に、良き地の縮図を見ます。それは高く上げられ、死の水に囲まれ、神の住まいに満ちた地です。その地には神の表現と行政がありました。これは旧約での縮図です。この絵の実際は、新約に見いだされます。主イエスは肉体と成ったとき(ヨハネ一・十四)、来て、ちりとなられました。彼が来て人と結合されたとき、それは彼が来て地と結合されたことを意味しました。究極的に、新約で、神は新しい地を持たれます。彼はある地域ではなく、新しい地全体を、復活させ、あらゆる死を越えて高く上げられた地を持たれます。この新しい地には、もはや海はなく、死はなく、夜はありません(啓二一・一、四、二五)。すべての海、死、夜は永遠に過ぎ去り、清く、澄んで、乾いた地があって、そこに純粋な川が流れているでしょう。新エルサレムがそこにあります。それは神の永遠の住まい、表現、行政です。そこで神は完全に表現され、彼の権威は完全に行使されます。それが良き地の成就です。
良き地に入ることの究極的な完成
ヘブル人への手紙第三章と第四章では良き地は神の民の安息として啓示されています。彼らはエジプトを去り、荒野を通過し、ヨルダン川を渡り、良き地へと入って行きました。申命記第十二章九節も良き地のことを安息と呼んでいます。しかし良き地は単に安息のためではありませんでした。神の民であるイスラエルをカナンへともたらす神の意図は、単に彼らを安息させるためだけでなく、そこに王国を建造するためでもありました。神の民が安息を必要としていただけでなく、神ご自身もまた王国を欲しておられたのです。彼の民をカナンの良き地へともたらした神の目的は、地上に彼の王国を設立することでした。良き地において神は彼の民を通して、民と共に、民の間に王国を建造されましたが、それは地上にある神の王国でした。
それ以前には、神は天におられる神でした(ネヘミヤ一・四)が、彼は自ら地上に下ってきて、ご自身を表現することを切望しておられました。ところが当時の人の状況において彼らの協力を得ることはとても難しかったのです。ですから、彼は彼と協力する一群の人を得るために働かれ、待たれ、待ち望んでおられました。ついに彼は彼の民をサタンの支配、エジプトから連れ出し、荒野を通って、良き地へと導き入れられました。最終的に彼は良き地にいるすべての敵どもを彼の民を通して打ち破られたので、彼の民はそこに宮と都を建造しました。都と宮の建造が王国の建造でした。
宮が完成し、それが奉献されると、神の栄光がそこに満ちました。神の栄光とはまさに神ご自身です。神ご自身が天から降りてきて、彼の住まいの中に入られました。しかし彼が得られたのは彼が住むための家だけではなく、その家をも含んだ都でした。その都のゆえに、彼の住まいは入ることができるのであり、また守られるのです。彼の住まいを保護する都は、王国と権威を象徴しています。神は最終的にご自身が住まわれ、ご自身を表現する王国の象徴としての都の内側に、地上における一つの家を持たれました。ですから、良き地は神の民に対する安息としてのキリストの予表だけでなく、王国としてのキリストの予表でもあります。
まず、わたしたちはキリストを良き地として享受します。最終的に、わたしたち、キリストを享受した者が王国となります。わたしたちが救われたとき、わたしたちは主イエスを小さな小羊として享受したにすぎませんでした。わたしたちは小羊のほんの少しの分にあずかっただけであったかもしれません。そのときから、わたしたちは主イエスを少しずつ食べ始め、ついにどんなときにも彼を十分に享受できるほどまでになったことでしょう。キリストの享受の究極的な完成は王国です。王国は、命なるキリストの円熟したものです。それは、わたしたちがキリストを享受することの究極的な完成です。
霊的戦いが必要である
イスラエル人は、自分たちが享受するための地を取るために、良き地の敵を打ち破らなければなりませんでした。わたしたちはすべてを含むキリストを獲得するために戦わなければなりません。キリストはわたしたちの良き地です。わたしたちは団体の戦士(キリストのからだである召会)となって、サタンの勢力に敵対して戦わなければなりません。わたしたちはサタンの勢力を打ち破り、キリストをさらに多く得て、キリストのからだを建造し、新しい人をもたらし、神の王国を拡大して、キリストが再来し再び地を得ていただくようにしなければなりません。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第1巻より引用