今日のヨシュアとカレブ

真理

聖書は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のモーセ五書に始まり、ヨシュア記からエステル記までの十二冊の歴史書があります。ヨシュア記は、この十二冊の歴史書の中で最初に書かれたもので、ヨシュアがイスラエル人を乳と蜜の約束の地に導き、その地を獲得し、所有し、分配し、享受することが描かれています。

ヨシュアの歴史の中で、彼にはカレブというパートナーがいました。モーセがカナンの地を偵察するために十二人の斥候を送り、彼らが戻って来たとき、そのうちの十人が不信仰という邪悪な心から人に悪い知らせを報告したので、イスラエルの子たちはみな、神を信じず、従いませんでした。しかし、ヨシュアとカレブは、神に対して別の霊を持っていたので、ひたすら神に従い、状況を見て消極的に語るのではなく、神の約束を信じて積極的に語りました。イスラエル人の不信仰は神を怒らせ、彼らはみな、カナンの地に入ることを許されずに荒野で倒れました。しかし、ヨシュアとカレブはカナンの地に入り、神が約束した祝福を享受することができました。

ヨシュアという人
ヨシュア記の筆者はヨシュアです。聖書の中でヨシュアに関する最初の記録は、出エジプト記第十七章にあります。「その時、アマレクがやって来て、レピデムでイスラエルと戦った。モーセはヨシュアに言った、『わたしたちのために人々を選び、出て行って、アマレクと戦いなさい。明日、わたしは神の杖を手にして丘の頂に立つ』。ヨシュアはモーセが言ったとおりに行ない、アマレクと戦った.モーセ、アロン、ホルは丘の頂に登った。モーセが手を挙げていると、イスラエルが優勢になり、手を下ろしていると、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなったので、アロンとホルが一つの石を取り、それをモーセの下に置くと、彼はその上に座った.そして彼らは、一人はこちら側で、一人はあちら側で、モーセの手を支えた。それで彼の手は、日が沈むまでしっかりしていた」(八―十二節)。モーセが丘の上で手を挙げたのは、天上でのキリストのとりなしを予表しています。このとりなしによって、ヨシュアはアマレクの王とその民を剣で打ち破り、イスラエル人にとって最初の勝利を収めたのです(十三―十四節)。これは、ヨシュアが若い頃、勇敢な戦う霊を持っていたことを示しています。

また、ヨシュアはモーセに選ばれて彼の助け手となり、常にモーセに同行しました。モーセが四十日間、神と直接会って律法と幕屋の青写真を受け取ったときも、ヨシュアはそばで待っていました(二四・十三)。モーセが至聖所で神と話をしているときも、ヨシュアは幕屋の中でモーセのそばにいました(三三・十一)。モーセがカナンの地を探らせるために十二人の斥候を遣わしたとき、ヨシュアはその一人に選ばれました。

モーセは、自分がカナン人の良き地に入ることができないことを知り、イスラエル人の中から会衆を治める人を任命してほしいと神に願い出ました。「そこで、モーセはエホバに語って言った、『エホバ、すべての肉なる者の霊の神が、集団の上に一人の人を立ててくださいますように.彼らに先立って出て行き、先立って入って来て、また彼らを導き出し、導き入れて、エホバの集団が牧者のいない羊のようにならないようにしてくださいますように』。エホバはモーセに言われた、『霊が内側にある人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て、あなたの手を彼の上に置きなさい.そして、彼を祭司エレアザルと全集団の前に立たせ、彼らの目の前で彼に任務を与えなさい。また、あなたの威厳を彼の上に置き、イスラエルの子たちの全集団が彼に従うようにしなければならない。彼は祭司エレアザルの前に立ち、エレアザルは彼のために、エホバの御前でウリムの判断によって尋ねなければならない。ヨシュアと、彼と共にいるイスラエルのすべての子たち、すなわち全集団は、エレアザルの言葉によって出て行き、彼の言葉によって入って来なければならない』。そこで、モーセは、エホバが命じられたとおりに行なった.彼はヨシュアを連れて来て、祭司エレアザルと全集団の前に立たせた。そして、自分の手を彼の上に置いて、彼に任務を与えた.エホバがモーセを通して語られたとおりである」(民二七・十五―二三)。ヨシュアはモーセの模範に従いました。モーセもまた彼をリーダーとなるように成就しました。モーセの死後、ヨシュアはイスラエル人を忠実に、そして勇気を持ってカナンの地に導きました。

ヨシュアはキリストを予表する
ヨシュア記第一章一節から二節によれば、モーセが死んだ後、エホバはヨシュアに言われました、「今、立って、あなたとこのすべての民は、このヨルダンを渡り、わたしが彼らイスラエルの子たちに与えようとしている地に入りなさい」。モーセは律法を表徴し、民をエジプトから連れ出しました。神の主権の下で、神はモーセが間違いを犯すことを許し、彼がイスラエルを導いてカナンの地へと入ることができなくさせました。ヨシュアという名はヘブル語で「エホバ救い主」、あるいは「エホバの救い」を意味します。この名のギリシャ語は「イエス」です。マタイによる福音書第一章二一節は、「彼(主)の名をイエスと呼びなさい.彼は自分の民を、彼らの罪から救うからです」とわたしたちに告げています。ヨシュアはキリストの予表です。キリストは神の救いであり、神の民を良き地へともたらすことができます。カナンの地に入ることは神の目的に到達することを表徴します。モーセがイスラエルの民をカナンの地にもたらすことに成功したとするなら、それは律法によって神の目的が成し遂げられることを表徴します。しかし、最終的には、キリストを予表するヨシュアが神の民を導き、カナンの地へともたらし、神の目的を成し遂げました。なぜなら、キリストこそがわたしたちの真のヨシュアであり、わたしたちを良き地の安息へともたらすからです(ヘブル四・八―九)。

カレブ――ヨシュアのパートナー
民数記第十三章で、神はモーセに命じられました、「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子たちに与えようとしているカナンの地を探らせなさい.父祖の部族ごとに一人ずつ、すべて族長を遣わさなければならない」(二節)。この十二人の斥候の中で、ユダの部族からは、エフンネの子カレブが(六節)、エフライムの部族からは、ヌンの子ホセアが(八節)遣わされました。モーセはヌンの子ホセアをヨシュアと呼びました(十六節)。そして、これらの斥候が出て行って、その地がどのようであるか、そこに住んでいる民は強いか弱いか、少ないか多いか、彼らが住んでいる土地は良いか悪いか、彼らが住んでいる町々は天幕造りのようであるか、とりでのある町か、その土地は肥えているかやせているか、そこには木があるかないかを見る必要がありました。その時期はぶどうが最初に熟す季節だったので、エシコルの谷から一房のぶどうの枝を切り取り、それを二人が棒で担ぎ、またいくらかのざくろやいちじくも担いで持ち帰りました(十八―二四節)。このことから、この地がいかに豊富であったかを見ることができます。

その十二人は帰ってきて、カナンの地はまことに乳と蜜の流れる地です、と言いました。そしてその地の果実を人々に見せました。しかし、ほとんどの人が続けて言ったことは、その地に住む人々は強く、町々は強くて広く、そこにアナク(ネピリム―巨人)の子孫を見たということでした(二六―二九節)。そこで、カレブはモーセの前で民を静めて言いました、「わたしたちは今すぐ上って行って、そこを攻め取りましょう.わたしたちは必ず打ち勝つことができます」(三〇節)。ところが、彼と一緒に上って行った者たちは言いました、「わたしたちは、あの民に立ち向かって上って行くことはできません.彼らはわたしたちより強いからです」(三一節)。そして、斥候たちは自分たちが行って探って来た地は、そこに住む民を食い尽くす地であり、そこで見た民はみな、背の高い者たちであると言いました。それらの斥候は自分たちをいなごのようであると見なしました(三二―三三節)。

そこで、イスラエルの全集団は大声を上げて、泣き、モーセとアロンにつぶやいて、言いました、「わたしたちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに! あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのに! なぜ、エホバはわたしたちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか? わたしたちの妻と幼い者は捕虜となるだろう。エジプトに引き返したほうが良いのではないか?」(十四・一―三)。六節から九節は言います、「すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、自分たちの着物を引き裂いた。そして、イスラエルの子たちの全集団に語って言った、『わたしたちが行き巡って探って来た地は、全くすばらしい良い地です。もし、エホバがわたしたちを良しとされるなら、わたしたちをその地に導き入れ、それをわたしたちに与えてくださるでしょう.それは乳と蜜の流れている地です。ただ、決してエホバに背いてはなりません.その地の人々を恐れてはなりません.彼らはわたしたちの食物であるからです。彼らの保護は、彼らから取り去られており、エホバがわたしたちと共におられるのです.彼らを恐れてはなりません』」。

「全集団は彼らを石で石打ちにしようと言った。その時、エホバの栄光が集会の天幕で、イスラエルのすべての子たちに現れた」(十節)。神はそれらのつぶやき、罪を犯した者たちが良き地に入って、それを見ることを許されませんでした。彼は言われました、「わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない.わたしを侮った者はだれも、それを見ることはない。わたしのしもべカレブだけは、別の霊を持っていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が入った地に彼を導き入れる.彼の子孫はそれを所有するようになる。……ただエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別である。……しかし、あなたがたは必ず死体となってこの荒野に倒れる」(二三―二四、三〇、三二節)

キリストのパートナーとなって、良き地に入る
神の民であるイスラエル人は、わたしたち新約の信者の予表です。ヘブル人への手紙第三章十四節から十五節は言います、「まことに、初めの確信を最後まで堅く保っているなら、わたしたちはキリストのパートナーとなっているのです.今日、あなたがたが彼の御声を聞くなら、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」。これは、信者はすでにキリストのパートナーとなったのですが、まだ危険性があるということを意味しています。それはわたしたちがそらされ、良き地に入ることができないかもしれないということです。

本来ならば、エジプトから出てきたイスラエルの民の全員が良き地に入るはずでしたが、実際にはヨシュアと一緒に入ったのはカレブ一人だけでした。ヨシュアであるキリストに対して、わたしたちはカレブであり、彼のパートナーであり、仲間です。ヨシュアにはカレブという一人のパートナーがいましたが、今日、キリストには多くのパートナーがいます。彼のからだのすべての肢体が彼のパートナーです。

「パートナー」、このギリシャ語の同じ言葉が第三章一節「天の召しにあずかっている者」、第六章四節「聖霊にあずかる者」、第十二章八節「すべての子が受ける取り扱い」で用いられています。この三箇所で述べているのは、わたしたちは天の召し、聖霊、取り扱いに共にあずかるということです。第三章十四節の意味は、わたしたちとキリストが共にあずかるということです。ですから「パートナー」という言葉に訳されています。一方において、わたしたちは天的な、聖なる、霊的な事柄にあずかる者として、天の召し、聖霊と霊的な取り扱いにあずかっています。もう一方では、わたしたちはキリストのパートナーとして、各肢体がかしらと共にその霊にあずかっているように、彼と共に霊の油塗りにあずかっています(一・九)。わたしたちもまた、カレブがヨシュアと良き地の安息に共にあずかったように、天の安息にキリストと共にあずかっています。

ヘブル人への手紙第三章七節から十五節は、神の民の安息としての良き地に入ることを取り扱っています。それはヨシュアの導きの下で、イスラエルの民が良き地に入るということで予表されています。ヨシュアが指導者であり、カレブは良き地を所有するための彼のパートナー、同伴者でした。今日、キリストは真のヨシュアであり、わたしたちは多くのカレブです。このことでは、わたしたちはキリストにあずかる者たちではなく、彼のパートナーなのです。以下の例は、あずかる者とパートナーとが異なっていることを示しています。わたしたちが食物にあずかる者たちであると言うときは、それはわたしたちが食物を享受する者たちという意味です。しかし、わたしたちが会社のパートナーであると言うとき、それはその会社の共同の所有者であるという意味です。わたしたちは偉大な会社におけるキリストのパートナーです。

神はこの宇宙に偉大な「会社」を持っておられ、この会社は共同経営事業です。この会社における神の活動は、ご自身の栄光の表現を完成することです。神の御子は神のご計画を執行し、また先頭に立って、栄光の会社である神の会社を率いるように任命されました。神の会社におけるキリストのパートナーとして、わたしたちも同じ「仕事」をし、同じ興味と関心を持っています。キリストは長子であり、わたしたちは彼の兄弟たちです。キリストはからだのかしらであり、わたしたちは彼の肢体です。キリストは油塗られた方であり、わたしたちは彼のパートナーです。キリストは神の委託を遂行するために、神によって油塗られ、わたしたちと彼は共にこの油塗りにあずかっています。このように、わたしたちは彼と共に神の委託を遂行し、神が栄光の中で完全に表現されることを成就する神の活動に共にあずかっています。

キリストを享受する時、わたしたちは彼にあずかる者です。そして彼に従う時、わたしたちは彼のパートナーです。彼のパートナーとして、わたしたちは彼と共に働いて、彼に協力します。あずかることには、わたしたちをパートナーにする目的があります。キリストにあずかる者として、わたしたちは彼の豊富と養いにあずかります。わたしたちは、神聖な事業における、キリストのパートナーであり、彼と共に働き、彼と協力します。このように彼を享受した後、わたしたちの経験の中では彼は率先するキャプテンですから、彼のパートナーであるわたしたちは彼に従います。彼が行進する時、わたしたちも彼と共に行進します。彼はキャプテンであり、わたしたちは軍隊です。キリストのパートナーとして彼に従うことによって、わたしたちは彼の安息へと入り(四・八―九)、彼の栄光へと導き入れられるでしょう(二・十)。

神の臨在と語りかけをリーダーとする
エホバはヨシュアに言われました、「あなたの生涯のすべての日々、だれもあなたの前に立ちはだかることはできない。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる.わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ、大胆であれ.なぜなら、わたしが父祖たちに与えると誓った地を、あなたはこの民に嗣がせるからである。ただ強く、大いに大胆であれ.わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法にしたがって、守り行ないなさい。そこから右にも左にもそれてはならない.そうすれば、あなたはどこへ行っても成功する」(ヨシュア一・五―七)。神が語りかけを通して働いたどの時代の中にも、必ず一人のリーダーがいました。律法の時代にはモーセがリーダーでした。モーセの後にはヨシュアがリーダーになりました。しかし実際には、律法の時代の人たちはモーセに従っていたのではなく、モーセを通して語られた神の言葉に従っていたのです。ですから、リーダーはそれらの人ではなく、リーダーは神の言葉でした。

すべての新約の時代においても、神は彼の選びの民に同じように語りかけられます。イスラエルに十二部族があるように、神の新約の選びの民、「神の(真の)イスラエル」(ガラテヤ六・十六)の中にも十二部族があります。神が初期の使徒たちに語りかけ、次に教父たちに語りかけ、ローマ帝国時代の殉教者たちに語りかけ、ローマ帝国時代から宗教改革の時代までの個々の改革者たちに語りかけられたことは間違いありません。そして、特に宗教改革の時代には、マルチン・ルターに語りかけられました。神は続けて、奥義派の人たちに語り、モラビアの兄弟たちに、英国のブラザレンに、内なる命派のクリスチャンたちに、福音主義のクリスチャンたちに、そしてペンテコステ派のクリスチャンたちに語り続けられました。今日、彼は主の回復に語っておられます。この回復は、新約の啓示を、初期の使徒たちが見たものに回復します。

わたしたちの中での主の回復は、ウオッチマン・ニー兄弟から始まりました。神は、異邦人の、また異教徒の、古く保守的な中国において、このような若者を起こされました。彼の語りかけは、すべての宣教師に衝撃を与えました。彼らは中国の土着民である一人の若者が、神の言葉をこれほどまでに尋常ではなく語ることができることに驚きました。一九二二年から投獄された一九五二年までの三十年間、神は彼を用いてわたしたちの間で語られました。リー兄弟がニー兄弟と一緒にいたときは、いつもニー兄弟を権威としていたので、神の言葉はニー兄弟を通してわたしたちにもたらされました。しかし、それはニー兄弟が導いたというのではなく、神の言葉が導いたのでした。神の言葉がリーダーでした。

ヨシュアが神の民をキリストの良き地の享受へと導いたように、主の回復の務めは、わたしたちを神の永遠の定められた御旨の実現、すなわち新エルサレムへと導きます。一九七七年、リー兄弟は自分の聖書に貴重なメモを残しました。「一九三三年、わたしが主に召されて全時間で仕えるようになったとき、主はヨシュア記第一章五節から七節の約束を与えてくださいました。それ以来、その約束は四十年にわたってわたしに対して成就されてきました」(リー兄弟の聖書の中のメモ――ヨシュア記の四ページ)。主を賛美します!

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第1巻より引用