主がわたしたちにこれらの尊い真理を与えてくださったのは、わたしたちがクリスチャンに対してだけではなく、未信者に対してさえ、これらの真理を普及させるためです。今日、主が必要としていることは、主を愛し、主に生き、別のことを知らず、ただ主の回復を知る、主の親愛なる無数の聖徒たちが、一つの道を歩み、同じ真理を普及させて、時に応じて主の民に食物を給仕する忠信で思慮深い奴隷となることです。主の証しを拡大するために、わたしたちは神聖な真理を普及させる必要があります。
神聖な真理は福音の内容である
マルコによる福音書第十六章十五節で主は言います、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。これは主がわたしたちに与えた委託であり、わたしたちは全地に行って、福音を伝える必要があります。福音の内容は何でしょうか? それは神が啓示した神聖な真理であり、聖書がわたしたちに提示した神聖な啓示です。これらの啓示された真理は、神の新約エコノミーを指しており、それはまた福音でもあります。
パウロは彼が書いたローマ人への手紙を、「神の福音」と呼びました(一・一)。ローマ人への手紙における神の福音は、最初の四つの章の、信仰によって義とされることに関する真理を含むだけでなく、第十二章で語っているキリストのからだと、第十六章の諸地方召会も含んでいます。諸地方召会でさえ、福音の中に含まれているのです。召会がなければ、どこに福音があるでしょうか? 召会がなければ、福音は極めて不十分であり、貧しいのです。実は、新約全体、マタイによる福音書の最初のページから、啓示録の最後のページまでが福音です。福音としての新約は、旧約で予表されています。ですから、福音は実は聖書全体を含むと言うことができます。
神は語りかけによって働かれる
神はすでに聖書の中で語られました。そして今日なお、神は語っておられます。聖書は、過去における神の語りかけの記録ですが、神は語りかけを停止したことがありません。彼は今日、御子の中でなおも語っておられます(ヘブル一・二)。そして御子は彼のしもべ、からだの肢体の中で、語っておられます(Ⅱコリント十三・三)。彼のしもべにおける彼の語りかけは、神の福音であって、それにはすべての神聖な真理が含まれています。
神は語りかけによって、すべての事を行なわれます。創世記第一章は、神の語りかけが彼の働きであったことを見せています。神は言われました、「光あれ、すると光があった」(三節)。語りかけは神の働きです。ヨハネによる福音書第五章二五節で主は言われました、「死人が神の子の声を聞き、そして聞く者が生きる時が来る.それは今である」。エペソ人への手紙第二章一節、五節、コロサイ人への手紙第二章十三節によれば、「死人」は、霊の中で死んでいる者たちのことを指しています。ですから、ヨハネによる福音書第五章二五節の「生きる」とは、霊の中で生かされることを意味します。これは、救いでさえ、神の語りかけによって完成されることを示します。
わたしたちの語りかけは、神の語りかけから来ます。わたしたちは自分の言葉を語るのではなく、神の言葉、彼が語られる言葉を語るのです。神が語られると、旧創造がありました。神が語られると、新創造があります。すなわち、キリストにある信者が存在するに至ります。ヘブル人への手紙第一章一節は、神は語られたと言っています。それだけでなく、神はキリストのからだの各肢体の中でなおも語っておられます。キリストのからだのあらゆる肢体は、神の語りかけの出口です。ですから、コリント人への第一の手紙第十四章三一節は、わたしたちがみな預言することができると言っているのです。兄弟が預言することができるだけでなく、姉妹も預言することができます(Ⅰコリント十一・五、使徒二・十七―十八)。わたしたちはキリストのからだの肢体として、みな主のために語ることができますし、また主のために語るべきです。主の回復は、主のために語る人たちを通して広がります。
人は神の言葉を理解していない
神は聖書の中で語ってこられましたが、人は神が何を語られたのか、理解していません。例えば、聖書は「エコノミー」という言葉について語っています。このギリシャ語の原文は「オイコノミア(oikonomia)」であり、新約では「案配」、あるいは「執事職」と訳されています。エペソ人への手紙で、このギリシャ語は、第一章十節、第三章二節、第三章九節で三回使われています。しかし主の回復の外で、だれが聖書の中の神のエコノミーの真理について教え、宣べ伝え、解説したことがあるでしょうか? 人々は、夫たちに妻を愛するよう教え、妻たちに夫に服従するよう教えるでしょう。しかしだれが、神のエコノミーと神の分与が何であるかを知っているでしょうか? 「教会(church)」というギリシャ語「エクレシア(ekklesia)」という言葉でさえ、誤解されてきました。多くの人たちは、教会は高い塔の建築物であると思っています。しかしながら、エクレシアという言葉は、召し出された会衆を指しており、最高の訳語は召会です。これは再び、神は聖書の中で語っておられるのに、人は神が語られたことをあまり理解していないことを示しています。
今日キリスト教の中に、神聖な真理が欠けています。今日のキリスト教で語られていることの多くは、浅薄であり、迷信的でさえあります。何百万冊もの聖書が売られてきましたが、聖書が語っていることが何であるかを十分に、正確に、だれが知っているでしょうか? 神は聖書の中で語ってこられました。しかし神が真に語られたことを、だれが理解しているでしょうか?
神は真理をわたしたちに与える
事実上、主はすでに神聖な真理をわたしたちに与えました。ですから、わたしたちは一つの負担を持つ必要があります。それは、主の回復の真理を全地に広めることです。今、わたしたちは主が神聖な真理をわたしたちに与える四つの手順があることを見る必要があります。第一に、聖書の文書によって(Ⅱテモテ三・十六)。第二に、聖書の翻訳によって。第三に、聖書の解釈によって。第四に、聖書の理解によってです。
聖書の文書と翻訳
わたしたちには聖書の中の神聖な啓示、すなわち聖書の文書があります。旧約聖書はヘブル語で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれました。神聖な真理を得るために、聖書の翻訳の必要があります。神はすでにヘブル語とギリシャ語で語られましたが、神が語られたことは正確に翻訳される必要があります。主イエスが人々に語るのに用いられた旧約でさえ、原文ではなく、ギリシャ語訳、すなわち七十人訳でした。この訳は、ヘブル語の旧約をギリシャ語に翻訳したもので、キリストが生まれる約三百年前に完成しました。それは七十人のユダヤ人学者によって翻訳されたものであり、主イエスや初期の使徒たちは、何度もその中の言葉を引用しました。聖書を翻訳することは、大きなことです。もし聖書を多くの言語に翻訳することがなければ、大多数の人は読むことができません。
聖書の解釈
聖書の翻訳に加えて、聖書の解釈の必要があります(使徒八・二七―三七、ヘブル五・十一―十二、九・一―十、特に五節、Ⅱテモテ二・十五、Ⅱペテロ三・十五―十六)。例えば、使徒行伝第八章に、ピリポがエチオピアの宦官に出会った物語があり、それは主の言葉の解釈の必要を説明しています。この宦官はエルサレムに来て礼拝し、エチオピアに戻って行くところでした。ピリポが彼の馬車に近づいた時、彼はイザヤ書第五三章を読んでいました。ピリポは彼が読んでいる声を聞いて、「あなたは読んでいる事がわかりますか?」と尋ねました(八・三〇)。そこで宦官は、「だれかがわたしを導いてくださるのでなければ、どうしてわかるでしょう?」と言いました(三一節)。ある人にとって、イザヤ書第五三章は理解しやすいのですが、その宦官には難しかったのです。これは、聖書の正確な解釈と解説がなければ、人は理解することができないことを示しています。
人がもしただ聖書を読むだけで、聖書の正確な解説がないなら、聖書の多くの部分を理解することができないでしょう。今日、主の回復の中には大量の真理があります。例えば、わたしたちは、聖書全六十六冊についてのライフスタディメッセージを出版しました。ある人は、ライフスタディは必要ない、純粋に聖書を読めばよいと言いました。事実上、ライフスタディは聖書と置き換わりません。むしろ、それは聖書を開き、聖書を解説し、聖書の中の計り知れない豊富を解き放つのです。
聖書に対する理解――
翻訳され解釈された聖書を
研究して読むことによって神聖な真理を学ぶ
聖書がすでに翻訳され解釈されたからには、わたしたちは聖書を理解することができます。わたしたちは翻訳され解釈された聖書を研究して読むことによって、神聖な真理を学ばなければなりません(Ⅱテモテ三・十五)。わたしたちはこのように祈る必要があります、「主よ、わたしの耳を開いて聞くことができるようにしてください。わたしの目を開いて見ることができるようにしてください」。パウロはエペソ人への手紙第一章で、主が知恵と啓示の霊をわたしたちに与えてくださるようにと祈りました(十七節)。補充本詩歌五二四番の二節はこう言っています、「わたしたちが霊を活用するとき、ビジョンはとても明確です」(全訳)。翻訳され解釈された聖書の正しい理解を持つためには、わたしたちの霊を活用する必要があります。わたしたちは神と接触し、神に祈り、へりくだって言う必要があります、「主よ、わたしは何も知りません。あなたが必要です」。このようにして御言に来る時、光がそこにあり、わたしは御言を理解することができます。
多くの聖徒たちは、新約のライフスタディのセットを買っています。しかしある人たちはそれを本棚に置いておくだけで、その中に入り込んでいません。わたしたちは解釈された聖書を研究して読むことによって、神聖な真理を学ぶ必要があります。最近、主は何人かが各地に行くことを必要としています。多くの場所は神聖な真理の飢きんに苦しんでいます。わたしたちは主の回復に対して真剣であるなら、わたしたちが出版した本をすべて研究して読まなければなりません。わたしたちの多くは、聖書の言葉が解釈された後、自分にとって新しいものになったと証しすることができます。わたしたちは聖書の正しい解釈を研究して読むことによって、その中の真理を学ばなければなりません。
使徒行伝第八章に記録されていることにしたがって、わたしたちは多くの聖徒たちが各地に移住することを望みます。あの時、弟子たちはエルサレムから散らされて、神の言葉を福音として伝えました。わたしは多くの人が、世界各地へ聖書を教えに行くことを望みます。他の国の大学で学ぶ負担のある若い人たちは、神のエコノミー、神の分与、キリストと召会の真理をクラスメイト一人一人に、語ることができます。わたしたちはこのようにして、人を救い、人を得るでしょう。ある人は仕事やビジネスをするために、各国へ行くかもしれません。そこで働いている時、人と接触して、主のために人を得ることができます。全地の開展に行って、真理を普及させるために自分を準備する最も良い方法は、わたしたちが出版したすべての聖書を解釈する文書を研究して読むことです。わたしたちは神聖な真理を学び、それからこの真理を全地に普及させる必要があります。
累積した真理
すべての真理は聖書の中にありますが、人の愚かさ、不忠信、怠慢、不従順を通して、多くの真理が失われ、人から隠されました。宗教改革の時期から始まって、十九世紀の英国ブラザレンに至るまで、今日もなお、主は多くの聖徒を起こして、主の言葉の中の真理を回復してこられました。これらの真理は少しずつ回復され、神の民に見られるようになりました。これらの新しく現れた真理は、神の新創造ではなく、人の新発見です。
ですから、神の真理は累積したものであり、過去の真理を覆しません。過去の真理はすべて、今日の真理の基礎です。わたしたちが今日見ているものはみな、神の啓示の累積です。わたしたちは今日の真理を認識するだけでなく、翻訳されたものを広め、解釈され解明された神聖な真理を得て、キリストを人に供給し、召会が拡増するようにする必要があります。
この数十年の間に、わたしたちは召会歴史に関する本、優れたクリスチャンの伝記と自伝、そして何世紀にもわたる霊的な著者の中心的なメッセージと聖書解説の著作を含め、一世紀からの多くの古典的な著作を収集しました。わたしたちはこれらの著作を研究して読み、その中に含まれている適切な聖書の要点を受け取り、それらの要点をわたしたちの定期刊行物に載せました。特に、聖書回復訳の注解とライフスタディメッセージは、一世紀から現在まで聖徒たちが受けた神の啓示の要点の「結晶」と見なすことができます。わたしたちの前面を歩いた聖書教師たちの著作から多くの霊的な豊富を受け取りましたが、主はわたしたちに彼の言葉の中でさらに多くの豊富を見せてくださいました。
わたしたちは前世紀のすべての解釈を受け、前面の教師たちの肩に立っています。このゆえに、わたしたちは主に感謝しなければなりません。それだけでなく、わたしたちは、この数十年の間に主がわたしたちにさらに多くのものを見せてくださったことのゆえに、主に感謝しなければなりません。例えば、召会生活の実行、すべてを含む命を与える複合の霊、さらには七つの霊、神のエコノミー、神の分与、召会の究極的完成、すなわち新エルサレムであり、この新エルサレムは、手順を経た三一の神と造り変えられた三部分から成る人のミングリングであり、神に永遠の現れと表現を得させます。
真理の上で確立され、命において成長し、外国語を学び、主の証しを拡大させる
わたしたちの観察によれば、かつての真理と命の回復は、今日のわたしたちの間にあるほどには進展していませんでした。わたしたちは主の回復の中で前進するとき、聖書のさらに深い真理を認識し、その霊の中の命を十分に経験する必要があると、ますます感じます。主が彼の回復を完成するために順調な道を持つためには、一群れの青年たちが聖書と聖書を正確に解釈する書物の中に入り込まなければなりません。わたしたちが主の必要に間に合うためには、聖書の中のさらに深い真理に対する基本的な認識を持ち、その霊の中の命を経験し、言語を学ぶ必要があります(Ⅱテモテ三・十六―十七、ローマ八・四)。
したがって、わたしたちは次の五年間をささげることを決心し、真理の上で労苦し、時間を費やして毎日ライフスタディメッセージと新約聖書回復訳のフットノートを読み、新約の基本的な認識を得るべきです。さらに、わたしたちの将来の用途のために、別に五年間を用いて母国語と外国語の能力を向上させる必要があります。特に、適切な聖書の参考書を使用することができるように、新約聖書を書くために使用されたギリシャ語を学ぶ必要があります。青年たちがもし次の十年間を費やして、聖書の中のさらに深い真理を研究し、召会生活をして、神聖な命において成長し、言語を学ぶなら、成就されて有用な人となり、全地に主の証しを確立するという必要を満たすでしょう。
主の証しを拡大するために、解釈された神聖な真理を広める必要がある
今日、主の証しを拡大するためには、解釈された神聖な真理を広める必要があります。わたしたちは、ローマ人への手紙第十章十四節から十五節を引用して言うことができます、「宣べ伝える者がいなくては、どのように聞くのでしょうか? 解釈され、理解された神聖な真理を広める者の足は、何と麗しいことであろう!」。もしわたしたちが各地に行って福音を宣べ伝える負担があるなら、日夜、時間を取って、わたしたちの間で出版された真理のメッセージを学ばなければなりません。そうすれば、主の回復が何であるかを知り、真の負担を持って各地へ行き、神聖な真理を人に教えるでしょう。主はわたしたちに、マタイによる福音書第二八章十九節で、行って諸国民を弟子とするようにと命じておられます。ここでの主の言葉は、わたしたちが負担を持って出て行き、すべての諸国民に教えるべきであることを見せています。
主の回復を拡大するために、翻訳され、解釈され、理解された真理を広める必要があります。主は語ることによってすべての事を行なわれます。主の語りかけがないなら、主の働きはありません。神聖な真理の語りかけがないなら、全地に回復はあり得ません。全地の何百万もの人々には、これらの神聖な真理に対する認識が全くありません。
神聖な真理を広めることによって、主の復興がもたらされます。イザヤ書第十一章によれば、復興が来るのは、「水が海を覆っているように、地はエホバを知る知識で満ちる」(九節)からです。わたしたちは主のために語って、この復興をもたらさなければなりません。神聖な真理を広める者がいなくては、人々はどのようにして聞くのでしょうか? 解釈され、理解された神聖な真理を広める者の足は、何と麗しいことでしょう!
こういうわけで、わたしたちはこれらの真理を研究しなければなりません。そうでないと、各地に行く資格はありません。わたしたちは行って、浅薄な方法で人々に語るべきではありません。わたしたちはヨハネによる福音書第三章十六節を、人々に語ることはできるでしょう、「神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された。それは、彼の中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである」。しかしながら、だれかが永遠の命とは何かと尋ねるなら、わたしたちは彼らに言うことはできないでしょう。わたしたちが解釈された言葉の中に真に入り込むなら、この一節について、多くのメッセージを与えることができるでしょう。第一のメッセージは神はだれであるかについて語り、第二のメッセージは愛について語り、第三は世の人について語ります。次に、神がどのように彼の御子をわたしたちに与えられたかを語ることができます。神は彼の御子を、天から地に投げ落としたのではありません。神は、肉体と成ることを通して、ご自分の御子をわたしたちに与えられたのです。それから、もう一つのメッセージは、ひとり子についてでも良いでしょう。さらに、滅びるとは何か、永遠の命を持つとは何かについても言うことができます。まだまだ語ることのできるものがあります。ヨハネによる福音書第三章十六節について、メッセージに次ぐメッセージを与えることができるでしょう。
わたしたちは伝統的な方法で人々に説教しているのではなく、彼らにすべての神聖な真理を伝えています。わたしたちの語りかけを通して、何人かの人々は確実に救われるでしょう。もしわたしたちがヨハネによる福音書第三章十六節の中のさらに深い真理を告げれば、彼らはこの一節を決して忘れないでしょう。どうか主がわたしたちに神聖な真理を学ぶ負担を与えて、主の証しを拡大するために、これらの真理を至る所に広めてくださいますように。
主が召会を起こして彼の証しを拡大させるのは、宣教団を設立したり、伝道者をさまざまな場所に遣わしたりすることによってではなく、主を愛し、主を生き、真理を受け入れ、語る信者たちを分散させることによってでした(使徒八・一、四)。召会の拡増は真理の普及にかかっているので、真理だけが人を征服し、人を得ることができます。同じ原則で、主の回復は、組織的な方法で宣教師派遣の働きを行なうことにかかっているのではなく、真理で構成され神の命の中で円熟することにかかっています。ですから、わたしたちは聖書を読み、勤勉に務めの書物を研究し、力を尽くして母国語、外国語、ギリシャ語を勉強し、忠実に真理を説明できるようにならなければなりません。そして、その霊の中の命の経験を求め、召会生活の中で成長しなければなりません。わたしたちがこれらの事を忠信に実行することができるなら、どこへ行っても、主にとって非常に有用であり、主の回復の前途は非常に大きな望みがあります。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第7巻より引用