主観的な真理はその霊と命につながっており、その霊と命で構成されています。その霊と命は主観的な真理の本質です。ヨハネによる福音書は命の書であり、この命は三一の神ご自身です。キリストの死と復活を通して、彼は命を与える霊と成り(Ⅰコリント十五・四五)、霊と命を解き放ち、わたしたちの中へと分与しました。わたしたちがその霊と命によって生きるとき、わたしたちは主観的な真理の経験を持ち、これが召会を生み出します。
ヨハネによる福音書には「召会」という用語は用いられていませんが、わたしたちが見る必要があるのは、キリストがわたしたちの中へと入ったので、この一粒の神聖な麦はわたしたちを多くの麦粒にしたということです(ヨハネ十二・二四)。これが召会の産出です。もしキリストがわたしたちの中へと入らなかったなら、わたしたちはアダムの種族の一部分のままで、キリストの一部分ではなかったでしょう。言い換えると、わたしたちがキリストを主観的に経験することによって召会は生み出されます。主の今日の回復において、わたしたちは主観的な真理の中へと入り、キリストに対する主観的な経験を持ち、主が彼の得たい召会を得ることができるようにする必要があります。
召会――命の結果
命には常に結果があります。生きているものは実を結びます。三一の神は神聖な命であり、この神聖な命が召会を生み出しました。ヨハネによる福音書には「召会」という用語はありませんが、それは麦粒、主の兄弟たち、御父の家、ぶどうの木とその枝、その霊の新しい子供、キリストの花嫁、羊の群れについて述べています。これら七つの言葉は、明らかに召会の存在を示しており、またその構成要素が何であるかを示しています。
麦粒
召会はこの神聖な麦粒であるキリストが生み出した多くの麦粒です。ヨハネによる福音書第十二章二四節は言います、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ」。人の子イエスの栄光が現されたのは、彼の復活においてでした。彼の神聖な要素、神聖な命は、彼の人性の殻の中から解放され、復活の中で多くの信者を生み出しました。一粒の麦が地に落ちて、命の要素を解放し、地の中から出て来て、多くの実を結ぶのと同じです。
主はこのようにご自身を、地に落ちて死ぬ一粒の麦にたとえられました。その結果、生じた麦粒が召会です。予表からわたしたちは知っていますが、多くの麦粒はひとかたまりのパンを作るためです。最初キリストはただひとりでしたが、彼の死と復活の後、多くの麦粒が生じました。これらの穀粒を一つのパンへと共にブレンディングすることによって、キリストのからだとしての召会が生み出されました。ですから、わたしたちはキリストのからだとしての召会が、彼の復活した命から生み出されたものであることを見ることができます。
主の兄弟たち
主が死なれる前、彼の弟子たちへの最も親密な呼び名は友でした(ヨハネ十五・十四―十五)。しかし、主イエスが復活した後、彼は、「わたしの兄弟たちの所へ行って」と言いました(二〇・十七)。彼はもともと御父のひとり子であり、ただ彼だけが御父の表現でした。今、彼の死と復活を通して、父のひとり子は多くの兄弟たちの間の長子と成りました(ローマ八・二九)。主はもはや神のひとり子であるだけでなく、彼の死と復活を通して、今や神の長子と成っており、わたしたちは神の多くの子たちであり、御父の表現となっています。主はわたしたちの長兄であり、わたしたちは彼の多くの兄弟たちです。主は、「わたしの弟子たちの所へ行って」と言ったのではなく、「罪人の所へ行って」と言ったのでもありません。主は、彼の兄弟たちと集会する必要があると言いました。これは主がヘブル人への手紙第二章十二節で言ったことと符合します、「わたしはあなたの御名をわたしの兄弟たちに言い表し、召会のただ中で、わたしは賛美の歌をあなたに歌います」。
ですから、主の多くの兄弟たちは神の多くの子たちであり、また召会です。召会は主の兄弟たちが復活の中で集会することであり、御子の中で父なる神の団体的な表現となります。わたしたちはこのように宣言することができます、「わたしたちは主の兄弟たちです。ハレルヤ! わたしたちは彼の兄弟という身分を持って召会の中で集会します。わたしたちは罪人ではありません。尋ね求める者でさえありません。わたしたちは主の兄弟たちです」。わたしたちは集会に来る時、それはわたしたちの兄弟たちに会いに来ることです。おお、これは小さい事ではありません! わたしたちは復活の中で、キリストの復活によって再生されました(Ⅰペテロ一・三)。ですから、わたしたちは主の兄弟たちとなりました。彼は神の御子であり、わたしたちは神の子たちです。彼は神の命を持っており、わたしたちも持っています。彼は神の性質を持っており、わたしたちも持っています。
御父の家
召会は御父の家です。キリストは宮を清められた時、「わたしの父の家を商売の家とするな」(ヨハネ二・十六)と言われました。ユダヤ人が彼の権威のしるしを求めた時、主は彼らに、「この宮を壊しなさい.そうすれば、わたしは三日のうちにそれを起こす」と告げられました(十九節)。主の言葉は彼らが理解していたこととは違い、彼はご自分の体の宮のことを言っておられたのです。彼が地上におられた時、彼の物質の体は神の宮でした。
旧約の予表は、まず幕屋であり、次に宮でした。いずれもキリストを予表しています。ヨハネによる福音書第一章十四節は言います、「言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた」。彼の人の体は幕屋でした。旧約の時の幕屋のように、彼の肉体は地上における神の住まいでした。それから第二章で、主はご自分の物質の体を宮にたとえられました。彼は、ユダヤ人が彼を殺し、彼の体を滅ぼすが、三日のうちにそれは復活させられることを予言されました。このことは、彼がご自分の体を神の宮または神の家、すなわち地上において神が住まわれる場所と考えておられたことを明らかに示しています。
キリストは復活の中で、彼の物質の体だけでなく、またわたしたちを含む彼の奥義的なからだを起こされました。ペテロの第一の手紙第一章三節は、「イエス・キリストの死人の中からの復活を通してわたしたちを再生し、生ける望みを持たせ」と言っています。彼の奥義的なからだは、復活の中で彼と共に生み出されたものです。ですから、キリストの体は、物質的にも奥義的にも神の家です。わたしたちが知っているように、キリストのこの奥義的なからだは召会です。ですから、キリストの物質の体は、彼の奥義的なからだの小さな予表でした。今日キリストは、さらに大きなからだを持っており、このからだは召会であり、また神の家です。
父の住まいのための家は(ヨハネ十四・二)、神聖な家庭を指しており、神から生まれた子供たちを持っています(一・十二―十三)。また、これは天を地にもたらし、地を天に結び付ける天のはしごのための場所であるベテル(神の家)を指しています(五一節)。父の家はまた、神の家としての神の宮です。それは、復活の前のキリストご自身であり、彼の復活の中で彼の信者たちを通して拡大されました(二・十六―二二)。さらに、父の家は、御父と御子によって建造された、三一の神と信者たちとのための相互の住まいであり(十四・二三)、新エルサレムにおいて究極的に完成します(啓第二一章)。その霊は御父と御子と共にこの住まいに内住され、三一の神と彼の造り変えられた選びの民との相互の住まいとなります。
主はヨハネによる福音書第十四章でわたしたちに告げました、「わたしの父の家には多くの住まいがある.もしそうでなかったなら、わたしはあなたがたに話したであろう.あなたがたのために、場所を用意しに行くのである。わたしが行って、あなたがたのために場所を用意したなら、再び来て、あなたがたをわたし自身に迎える.わたしがいる所に、あなたがたもいるようになるためである」(二―三節)。わたしたちは第二章十六節から知っていますが、御父の家は宮でした。それは今日の召会、神の家です。神の家には多くの住まいがあります。
第十四章二三節は言います、「だれでもわたしを愛する者は、わたしの言を守る.そしてわたしの父は彼を愛され、わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る」。わたしたちはこの節を二節と比較することによって、神の家にある住まいが、主イエスを愛する者たちであることをはっきりと見ることができます。召会の一人一人の肢体は、神の家の中の一つの住まい、あるいは一つの部屋です。主が弟子たちに暗示したのは、彼の死と復活によって、彼は行って彼らのために住まいを用意されたということでした。わたしたちは聖書によって聖書を解釈しなければならず、わたしたちの天然的で、宗教的で、伝統的な観念にしたがって解釈してはなりません。これらの主を愛する者たちは、御父と御子のための住まいとなります。
何世紀にもわたって、ヨハネによる福音書第十四章二節は誤解されてきました。第二章十六節が御父の家を述べているとき、聖書教師たちはそれを天の邸宅と結び付けません。彼らはみな、御父の家はこの地上における宮を指していることを承認しています。それではなぜ彼らは、第十四章二節の御父の家は天を指していると考えるのでしょうか? わたしたちが聖書によって聖書を理解しなければならないというのは、聖書の解釈の原則です。この時代のこの地上における神の住まいは、召会です。ですから、ヨハネによる福音書第十四章の御父の家は召会を指しています。わたしたち再生された者たちは、この家にある住まいです。
使徒パウロも言っています、「それは、もしわたしが遅れた場合、神の家の中でどのように振る舞うべきかを、あなたに知ってもらうためです.神の家とは生ける神の召会であって、真理の柱また基礎です」(Ⅰテモテ三・十五)。肢体であるわたしたちはみな、この家の中の住まいであり、この家はキリストの死と復活によって用意されました。主は召会を用意するために死を経過し、復活の中へと入られました。こうして彼はあらゆる妨害を除き去り、神聖な命の豊富を解き放たれました。彼の死と復活なしに、わたしたちが召会となる道はありませんでした。わたしたちはもともと罪、肉、旧創造、この世、悪魔によって妨げられていました。しかし、彼は死と復活によって罪を取り除き、悪魔を滅ぼし、神聖な命を解き放たれました。こうして彼は召会を用意され、わたしたちをみな神の家にある住まいとされました。
ぶどうの木とその枝
この構成体である召会はまた、御子のぶどうの木として表現され、拡大して御父を表現します。主はヨハネによる福音書第十五章五節で言いました、「わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ」。ぶどうの木の枝は召会です。実は団体的に結ぶものです。ぶどうの木の枝は団体的な実体、すなわち召会を形成します。御子はぶどうの木であり、わたしたちはその枝であって、実を結び、御父の栄光を現します。すなわち、ぶどうの木の源、栽培者としての御父を表現します(一、四―十六節)。
その霊の新しい子供
御父は彼の住まいのための家を必要とされ、御子は彼の拡大のためのぶどうの木を必要とされ、その霊は彼の動きのための子供を必要とされます(十六・二〇―二二)。この子供は新生の子であり、成長して新しい人となります。新しい人はキリストです。彼は新しい人のすべての肢体であり、すべての肢体の中におられます(コロサイ三・十―十一)。
この新生の子は十字架上のキリストによって、数々の規定から成っている戒めの律法を彼の肉体の中で廃棄することによって、創造されました(エペソ二・十五)。キリストは人々を互いに分離する律法の規定を廃棄されました。それを通して、彼はユダヤ人と異邦人を共に一人の新しい人に創造されました。ある意味で、一人の新しい人は創造されたものです。別の意味で、彼はその霊によって新生の子として生まれました。新しい人の肢体たちは御父によって、キリストの復活の中で再生され、神の家の構成要素である神の子供たちとなりました(Ⅰペテロ一・三、ヨハネ一・十二―十三)。ペテロの第一の手紙第一章三節は、わたしたちはみなキリストの復活を通して父なる神によって再生されたと言っています。
新生の子供はその霊によって、信者たちの霊の中で生まれました(ヨハネ三・六後半)。神の選びの民は、苦しみ、子を産む女です(十六・二〇―二一)。一方で、わたしたちは生まれる子供です。もう一方で、わたしたちは産む女です。わたしたちは子供であり、母親でもあります。これは奥義です。さらに、この子供は死によって信者たちを離れ、戻って来られるキリストです。ヨハネによる福音書第十六章二二節で、主は弟子たちに言われました、「あなたがたにも、今は悲しみがある。しかし、わたしは再びあなたがたに会う。その時、あなたがたの心は歓喜する。そしてあなたがたの喜びを、あなたがたから奪い去る者はいない」。その新生の子供は戻って来られるキリストでした。こうして、神の選びの民は母親であると同時に子供であり、その子供はキリストです。今や彼は新しい人です。この新しい人の中にはどのような天然の人の地位もありません。キリストに地位があるだけです。彼は新しい人のすべての肢体であり、すべての肢体の中におられます。この新しい人は、信者たちの思いの霊の中での更新を通して信者たちによって着られ(エペソ四・二三―二四)、キリストのからだを究極的に完成します。
キリストの花嫁
さらに、聖書は召会がキリストの花嫁であるとも言っています。「花嫁を持つ者は花婿である.花婿の友は立って花婿の声を聞き、その声のゆえに喜び歓喜する。こうして、わたしはこの喜びに満たされている」(ヨハネ三・二九)。もちろん、ここの花嫁は召会であり、キリストは花婿です。ヨハネによる福音書第三章は再生に関する章です。わたしたちは花嫁が再生された人たちの総合計であることを知っています。神の子供たちは再生によって生み出されます。彼らは一緒にされて花嫁を形成します。啓示録において、使徒ヨハネは、新しいエルサレムが夫のために着飾った花嫁のように整えられて、天から出て下って来るのを見ました(二一・二)。彼は、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ.そしてわたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」という約束を聞きました(七節)。神の子たちは花嫁の構成要素です。このような言葉はわたしたちの頭の理解を超えていますが、これが聖書の啓示していることです。わたしたちは再生を、神聖な命の行動であると言っても良いでしょう。この行動の結果は、キリストの花嫁を構成する神の子たちを生み出すことです。この花嫁は召会であり、新エルサレムにおいて究極的に完成します。
羊の群れ
ヨハネによる福音書第十章十六節で主は言われました、「わたしには、この囲いのものではない他の羊もいる.わたしは彼らをも導かなければならない.彼らはわたしの声を聞く.こうして一つの群れ、ひとりの牧者となる」。羊の群れは羊全体です。神の民は神の羊の群れです。主イエスは、ユダヤ人の囲いにいる羊のほかに、彼には他の羊もいると言っておられました。彼はそれらすべてを共に集めて、一つの羊の群れとしています。
羊の囲いは羊が守られ、危険や悪天候の影響を受けないようにするための一つの囲われた場所です。羊たちは、羊飼いが一緒にいない夜や嵐の間、また冬にその囲いの中にとどまっていました。キリストが来られるまで、ユダヤ人はずっと宗教の囲いの中に保たれ、彼のいない寒くて暗い期間、保護されてきました。今や主は牧者として来て、羊の群れを共に集め、彼らを連れ出されました。律法の後見人の下で守られてきた群れのほかに、この唯一の牧者には他の羊、すなわち信じた異邦人がいました。彼らはユダヤ人と一緒にもたらされて一つの群れを形成しなければなりません。この一つの群れが召会です。
ヨハネによる福音書第十章はまた、わたしたちに一つの群れについて告げることに加えて、キリストが来られたのは、わたしたちが命を得、「しかも豊かに得るためである」と言っています(十節)。主が来て、わたしたちに命を得させることは、召会と密接に関係しています。命と群れは、この一つの章の中で一緒にされています。わたしたちはキリストの命を享受すればするほど、ますます群れと共にいることを願うでしょう。もしわたしたちが命に何の興味もなく、また命の成長もないなら、わたしたちは召会生活を気にとめないでしょう。わたしたちがキリストから命を受け、その命がわたしたちの中で成長し、それによってわたしたちがさらに豊かに命を享受するとき、わたしたちの内側には召会生活に対する渇望が湧き上がってきます。わたしたちは、散らされた羊のようであると感じます。ですから、わたしたちの切なる願いは、集会して一つの群れとなることです。このように、命に関する章であるヨハネによる福音書第十章は、召会が一つの群れであることを示唆しているのです。
神は召会を通して豊満の表現を得る
主は第十二章二三節から二四節で言いました、「人の子の栄光が現される時が来た。……一粒の麦が……死んだなら、多くの実を結ぶ」。この多くの麦粒は、キリストの復活における拡大となりました。この拡大は、キリストが死と復活を経過して入られた栄光です。前述の召会の七つの面の存在と構成は、すべてこの栄光の奥義を詳しく述べています。キリストはもともと神と共に栄光を持っていました(十七・五)。彼は肉体と成ることによって、彼の神聖な栄光は彼の肉体の中に隠されました。彼の死と復活を通して、彼のこの栄光は解き放たれ、多くの麦粒を生み出し、彼の拡大となり、彼の栄光を現しました。
この栄光は、彼が最後に弟子たちに対して語った第十四章から第十六章の語りかけの中で、三つの具体的な団体の表現を持っています。それは、第十四章二節が言っている御父の家(召会)、第十五章一節から五節が言っているぶどうの木の枝(キリストのからだの構成要素)、第十六章二一節が言っている新生の団体の人(新しい人)です。これら三者はすべて召会を指しており、召会とは栄光のキリストが死と復活を経過して生み出した栄光の拡大であることを説明しています。この栄光の拡大の中で、神の御子キリストの栄光は現され、父なる神は御子の栄光が現されることの中でご自身の栄光を現されます。すなわち、召会を通して、豊満の表現を得られます(エペソ三・十九―二一)。これは三一の神の中の一をもって維持されなければなりません。ですから、主はヨハネによる福音書第十七章の最後の祈りで、特別にこのために祈り求めました(二〇―二三節)。キリストのこの栄光の拡大は、ヨハネによる福音書の奥義の啓示の高嶺であり、その究極的完成はヨハネが書いた啓示録の新エルサレムです。その新しい都は、キリストの歴代の拡大の集大成であり、キリストのその神聖な栄光は、そこにおいて完全に満ち満ちた程度に表現されます。父なる神は子なる神の栄光が現されることの中で、永遠の比類なき栄光を現し、それは永遠において豊満の表現となり、彼の永遠のエコノミーを完成します。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第7巻より引用