真理で構成されて、神のエコノミーを完成する

真理

パウロは、「わたしは天のビジョンに背かず」(使徒二六・十九)と言いました。主がパウロに見せた天のビジョンとは、神のエコノミーです。すなわち、神のエコノミーは、新約全体の啓示の総合計です。ニー兄弟から始まって今日まで、わたしたちは神のエコノミーをそっくりそのまま、完璧に、徹底的に取り扱ってきました。御言のこれらすべての尊い啓示がわたしたちに与えられましたが、残念なことに、ニー兄弟の時代には、それらは本として印刷されることがありませんでした。その結果、リー兄弟は、一九七四年に、ライフスタディとして、聖書全体を学ぶ負担を持ったのです。わたしたちは年二回の定期訓練で新約聖書を、そして平日に旧約聖書を、同時進行で扱うことにしました。このようにわたしたちは、創世記から啓示録に至る、神のエコノミーの洞察力のある解釈を伴ったライフスタディの全集を持つようになりました。

その後、主はリー兄弟を導いて、聖書のライフスタディよりもさらに深い聖書の結晶の学びを開始させました。ライフスタディは全聖書を一般的な方法で開いています。しかし、わたしたちは聖書の深み、聖書の結晶に触れる必要があります。このような結晶の学びによって、主はわたしたちに神聖な啓示の内在的な本質を一項目ずつ啓示することができます。

神のエコノミーの各段階の結晶の意義
神のエコノミーの第一段階は、神が肉体と成られたことです。この後に、キリストが経られた人の生活、十字架の死、復活の各段階があります。最終的に、新エルサレムがあります。キリストの誕生、地上での生活、十字架による死、死からの復活はいずれも、キリスト教ではよく知られた用語です。ところが、悲しいことに、過去二千年の召会歴史を通じて、教える者も、教えられる者も、これらの用語について単に知っているだけでした。それらの内在的な意義の中へと深く入り込んだ人は、ごくわずかでした。主がニー兄弟から始まった中国における回復をもたらしたので、これらの事柄の結晶の意義が一つ一つわたしたちに明らかにされたのです。

神が肉体と成られたことの結晶の意義
神が肉体と成る事柄について、この事は一般的に、「キリストの誕生」として述べられています。一般的なクリスチャンが知っていることは、キリストが誕生した夜、主の御使いが野宿しながら夜の見張りをしていた羊飼いたちに現れて、すべての民におよぶ大いなる喜びの良きおとずれ、すなわち、ダビデの町に、彼らのために一人の救い主が誕生したことを伝えたということです(ルカ二・八―十四)。聖書の読者はみな、説明しなくても、このことを理解することができます。キリストは確かに救い主として生まれました。しかし、これは神が肉体と成られたことの結晶の意義ではありません。

わたしたちは、神ご自身が言であり、この言が肉体と成ったことを知らなければなりません(ヨハネ一・一十四)。神が肉体と成られたのは、ご自身を人の中へともたらすためです。これは、宇宙における非常に大きな出来事です。これは、神性が人性の中へともたらされることだけでなく、神が人の中へともたらされることであり、それは神が人とミングリングされて、神・人になることです。このゆえに、「言は肉体と成った」は、「キリストの誕生」という浅薄な表現よりも深いのです。これがこの結晶の意義です。

キリストが人の生活を経過したことの結晶の意義
キリストは肉体と成られた後、三十三年半にわたって人の生活を経過されました。キリスト教の神学は、この事に大して注意を払わないばかりか、その結晶の意義の中へと入り込もうとしません。神が肉体と成られたとは、彼がご自身を人の中へともたらされたということです。神は人の命の中で、人の生活を経過しました。この事は、神が肉体の中で神・人の生活をして、人の美徳の中で、神聖な属性を生かし出したということです。主イエスが地上におられた時、神を表現されたということを知っている人もいるかもしれませんが、彼らは主イエスがどのように神を表現したのかを知りません。実際に、主イエスは人となって、人の生活をすることによって、彼の神聖な属性の中で、神であるすべてを生かし出して、それらを彼の人性の美徳とならせました。これが、キリストが人の生活を経過したことの結晶の意義です。

キリストの十字架の結晶の意義
キリストは人の生活を経過された後、十字架に行き、釘づけられました。一般に、クリスチャンは、イエスがわたしたちを愛されたので、わたしたちの罪を担い、わたしたちの代わりに死んで、わたしたちを贖われたと言います。このように言うことは正しいのですが、それはあまりにも浅薄です。キリストの十字架の結晶の意義は、彼がすべてを含む死を成し遂げられたということです。消極面で、彼の死は旧創造を終わらせました(ローマ六・六)。その中には、旧創造と関係のあるすべての人と物事が含まれています。すなわち、これらは、サタン(ヘブル二・十四)、罪(ローマ八・三後半ヨハネ一・二九ヘブル九・二六後半二八前半)、この世(ヨハネ十二・三一ガラテヤ六・十四後半)、人の肉(ガラテヤ五・二四ローマ八・三後半)、数々の規定から成っている戒めの律法(エペソ二・十五前半)、神以外のすべてのものが含まれています。このように、キリストの死は、宇宙における、サタンの反逆と人の堕落を通してもたらされたすべての汚れと腐敗を完全に取り除き、徹底的に終わらせました。

積極面で、キリストの死は、神の新創造の基本要素として、彼の中にある神聖な命を解き放ちました。キリストの死は、旧創造を終わらせただけでなく、神聖な命を解き放ちました。彼の死は、一粒の麦の死でした(ヨハネ十二・二四)。キリストは一粒の麦として、地に落ちて死なれました。実際、その死は彼を生かしました。種の中に含まれた命の豊富は、死を通してのみ解き放たれることができます。同様に、キリストが一粒の麦として、地に落ちて死んだ時、彼の内側の命の成分は極めて活発になって、彼の中に隠されていた神聖な命(まさに神ご自身)を解き放ち、多くの麦粒の中へと分け与えたのです。これが、キリストの死の結晶の意義です。

キリストの復活の結晶の意義
新創造の始まりであるキリストの復活の結晶には、三重の意義があります。この復活において、神の長子と神の多くの子たちが同時に生み出され、キリストご自身は命を与える霊と成られました(Ⅰコリント十五・四五後半)。

使徒行伝第十三章三三節は、「あなたはわたしの子である。この日わたしはあなたを生んだ」と言います。「この日」とは、キリストが復活された日です。キリストの復活は、彼が神によって長子として生まれることでした(ローマ一・四)。また「神……は……イエス・キリストの死人の中からの復活を通してわたしたちを再生し」ました(Ⅰペテロ一・三)。このように、神はキリストの復活を通して、彼の選ばれたすべての民を再生させて、彼の多くの子たちとされました。ですから、かしらである神の長子と、からだである彼の多くの子たちは、宇宙的な団体の一人の新しい人を構成します。

さらに、この復活の中で、肉体と成ったキリストは命を与える霊と成られました。命を与える霊、長子の霊、イエス・キリストの霊は、多くの子たちの中へと入って、彼らの満ちあふれる供給となります(ピリピ一・十九)。これが、神が信者たちの中へと入って、彼らを再生し、聖別し、更新し、造り変え、神の長子のかたちに同形化し、最終的に彼らを栄光化することです。

キリストの第一の「成った」は、彼が肉体と成った(ヨハネ一・四)ことであり、それは彼が人の間にやって来られて、彼らと共にいるためです。しかしながら、彼はまだ彼らの中へと入ることはできませんでした。彼はもう一つの「成った」を経過する必要がありました。それは、彼が命を与える霊に成られたことです。ヨハネによる福音書第十四章三節で、主は、「わたしが行っ……たなら、再び来て」と言われました。彼が行くことは、彼が死と復活を経過することです。彼が来ることは、彼が彼の弟子たちの所に来て、彼らの中へと入ることです。復活の中で、彼は神の長子として生まれました。彼のその誕生において、神の多くの子たちも生まれました。その上、彼ご自身がその多くの子たちの中へと入り、住み、彼らの命の供給となるために、彼は命を与える霊と成られました。これが、キリストの復活の結晶の意義です。

神のエコノミーの四つの段階の結果は、キリストのからだである
神のエコノミーのこれら四つの段階を経て、神の多くの子たちが生み出されました。団体的には、神の多くの子たちは召会です。有機的には、彼らはキリストのからだです。キリストのからだは、召会、神の家、神の王国、キリストの花嫁、キリストの配偶者です。これらの各面で、召会はキリストのからだをその有機的な要因としています。

キリストのからだがなければ、召会は命のない、単なる人為的な組織にすぎません。それゆえに、キリストのからだがなければ、キリストの命がなく、父なる神から生まれた子たちから成る神の家もあり得ませんし、神の命の領域である神の王国もあり得ません。キリストの命がなければ、キリストの花嫁もあり得ません。彼らは、彼の配偶者として、彼と結婚するために、彼にふさわしくなければなりません。エバはアダムから出て、アダムにふさわしかったので、アダムの伴侶となることができました。同じように、召会もキリストの配偶者となるために、彼の命を持っていなければなりません。神の家、神の王国、キリストの花嫁である召会は、キリストのからだをその有機的な要因とします。

キリストのからだの結晶の意義
聖書全体の中で、使徒パウロだけがキリストのからだについて語っています。マタイによる福音書第十六章と第十八章で、主イエスははっきりと召会に言及されましたが、ご自身のからだについては、「キリストのからだ」という表現をあからさまに使わずに、むしろ隠された、暗示する方法で語られただけでした。たとえば、ヨハネによる福音書第十五章の真のぶどうの木のたとえは、キリストとそのからだを指していますが、「キリストのからだ」という用語はそこでは使われていません。使徒ペテロやヨハネを含む他の書簡の著者たちは、この表現を決して使いませんでした。それを使ったのは唯一パウロだけでした。

パウロの十四の書簡の中で、キリストのからだと関連があるのはそのうちの四冊だけです。すなわち、ローマ人への手紙、コリント人への第一の手紙、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙です。その中で最も中心的で、根本的な事柄に言及しているのは、エペソ人への手紙です。エペソ人への手紙第一章は、キリストは昇天において、聖霊を注ぎ、こうして、彼のからだである、またすべての中ですべてを満たしている方の豊満である召会を生み出したと言っています(二三節)。これは、キリストのからだの簡潔な定義です。

次に、エペソ人への手紙第四章で、パウロが勧める第一の事は、その霊の一を保つことです(三節)。次に、四節から六節はさらに進んで、その霊の一の七つの項目を述べています。「一つからだと一つ霊、それはあなたがたも、あなたがたの召しの一つ望みの中で召されたようにです」。これら三つのものは、最初のグループを形成します。「一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ」。これが第二のグループです。「すべてのものの神また父は一つ、この方はすべての上に、すべてを貫き、すべての中におられるのです」。これが第三のグループです。

使徒パウロは、エペソ人への手紙第四章四節から六節において、キリストのからだの結晶について語っています。これらの三つの節がわたしたちに見せているのは、三一の神とわたしたち贖われた者たちが、ミングリングされて、一つの構成体となっているということです。この構成体はキリストのからだです。キリストのからだは、三一の神と彼の贖われた者たちの構成体であり、それは三一の神が彼の贖われた者たちと一つの実体となるためです。

結晶の意義を語ることを学ぶ
わたしたちはまた、神のエコノミーの各段階の結晶の意義について見ました。このような表現は、キリスト教で用いている伝統的な表現とは全く異なっています。わたしたちは新しい表現を持つように、主によって照らされました。わたしたちはこれらのすべての新しい表現と言葉を学ばなければなりません。人々を訪問して福音を宣べ伝える時でさえも、わたしたちは神のエコノミーを語るべきです。わたしたちは、人がすでに耳にした古いことを語るべきではありません。わたしたちは、神のエコノミーの結晶の意義を語る必要があります。このような事柄だけが人々を徹底的に救うことができます。それを受け入れるかどうかは、それを聞く人に任されています。しかし、それを語ることはわたしたちに任されています。ですから、わたしたちはそれらを学んで、語ることができるようになる必要があります。

霊的な文化のために新しい用語を発明する
わたしたちは、言語は文化から生まれることを知っていなければなりません。西洋の宣教師たちが聖書を中国語に訳し始めた時、彼らは「キリストの中で」というような表現を訳すことができませんでした。なぜなら、中国の文化には、「によって」、「を通して」、「のゆえに」という言い方しかないからです。しかし、聖書には、また新約の原文にはしばしば、「恵みの中で」、「力の中で」、「光の中で」、「実際の中で」という表現があります。例えば、中国語和合訳は、ピリピ人への手紙第三章一節を、「主によって喜びなさい」と訳し、一部の翻訳では、それを「主のゆえに喜びなさい」と訳しています。しかし、原文は「主の中で喜びなさい」と言っています。ノアの八人の家族は、外面的に「箱船によって」救われたのではなく、箱船の中へと入って、「箱船の中で」救われたのです。このゆえに、ある西洋の宣教師たちは、新しい言語で、新しい文化を語るために、「キリストの中で」という新しい表現を作ったのです。

神聖な三一の神の真理に関して、ダラス神学校の創設者であるW・H・グリフィス・トマスは、わたしたちが三一を定義するのに、わたしたち人の言語は不十分であるために、「パースン」という用語を用いてもよいが、それをあまり極端に強調し過ぎると、三神論に陥ってしまうと言いました。ですから、わたしたちは霊的な文化のために、新しい用語を発明する必要があるのです。

主の回復の中で、わたしたちは固有の文化を持った特別な民です。わたしたちには、この文化にふさわしい言語が必要です。その昔、「電話」や「コンピューター」のような用語は存在しませんでした。なぜなら、それらの物はまだ発明されていなかったからです。これは、ある文化がなければ、それを表現するための用語もあり得ないことを示します。わたしたちが最初にエペソ人への手紙第四章三節から六節を学ぼうとした時、この箇所の正しい解釈を得ようとして、さまざまな文書を参考にしましたが、その道を見いだすことはできませんでした。徐々に、神はわたしたちにこの箇所を開いてくださいました。しかしながら、わたしたちは、中国語も、英語も、その他の言語も、主が御言の中でわたしたちに開いてくださったことを適切に表現することはできないと感じています。そのゆえに、主はいくつかの新しい表現を発明するようにわたしたちを導かれました。

わたしたちがアメリカ合衆国において真理を解き放とうとした時、神聖で霊的な思想を表現するために、いくつかの英語の用語を作りました。例えば、「息子化する(sonize)」という言葉は英語にはありません。また「召会の実行(church practice)」という表現を使いました。これは、ありふれた英語の表現ではありませんでしたが、それ以上に良い表現がなかったために、最終的に、わたしたちはそれを採用しました。

ニー兄弟の時代において、クリスチャンの間では「聖潔」という言葉しか使いませんでしたが、ニー兄がそれを発展させて「聖別」という言葉を使うようになりました。なぜなら、彼はこの言葉が本来意味することが、「分離すること」であるのを知っていたからです。「聖潔」とは、汚れたものを清めることに過ぎず、原文の「分離すること」という意味を表現していないので、ニー兄弟はその代わりに「聖別」という言葉を使ったのです。その後、わたしたちはさらにそれを発展させて、「聖化」という言葉を使いました。なぜなら、「聖化」という言葉は、分離するだけでなく、人を変えるものであることがわかったからです。例えば、「手順を経た」、「究極的完成」などの表現は、わたしたちの間ではあまりにも一般的ですが、それらは英語と中国語では真新しい表現です。もしわたしたちがその真理について考えたり、評価したりせず、新しい用語を発明したりしないなら、わたしたちの特別な文化についてどのように説明することができるでしょうか?

これは霊的な文化、天的な文化、神のエコノミーの文化です。それは地上のどの言語によっても説明できず、ただ霊的で天的な言語をもってでしか説明することができません。今日、コンピューターの研究者たちは、部外者には理解できない専門用語を持っています。これらの新しい語りかけや表現は、わたしたちの何十年にもわたる聖書研究の結晶であり、これらは神から解き放たれたものです。しかし、一般のクリスチャンにとっては、わたしたちが解き放つほとんどすべてのメッセージは、全体として新しい言葉です。わたしたちは新しい霊的な言語の中に努力して入る必要があります。それは、わたしたちが霊的な真理の結晶を表現するためであり、神聖なエコノミーを宣べ伝えるためです。

神のエコノミーのビジョンを見る必要がある
中国の著名な教育者であり、哲学者でもある胡適は、中国語和合訳聖書が日常で使われている中国語を大きく進歩させたことを評価しました。これは、彼が聖書を読んでおり、そこに優れた母国語を見いだしたということを示しています。しかし彼は聖書の本質を見ていませんでした。わたしたちは草花の開花と花の香りに注意を払うかもしれませんが、その起源、始まりについて考えることはほとんどありません。開花した花と、その香りよりも、花の起源、始まりに注意を払う人は追求心のある人です。同様に、聖書を研究するとき、わたしたちは枝に注意を払う代わりに、根と幹の中に深く入り込むべきです。例えば、バプテスマについて考えてみましょう。人々は一般にバプテスマの問題を持ち出す時、彼らの関心はお湯を使うのか、あるいは、冷たい水を使うのかというような小さな事ばかりにあります。さらに、彼らはこのような小さな事柄で多く議論します。議論すればするほど、彼らはますます重要な事からそらされてしまっています。神のエコノミーによれば、バプテスマされるとは本来、キリストの死の中に入り、彼と共に葬られ、こうして、彼の死と復活の中で、彼と一つになることです(ローマ六・四)。このような見方を持つなら、わたしたちは神のエコノミーと結合されて、「根と幹」の中に入っているのです。

ですから、わたしたちが人々に聖書について語るとき、次のように言うことを学ばなければなりません。聖書には二つの大きな区分があります。それは旧約と新約です。旧約聖書は、予表と予言です。新約は、旧約のすべての予表と予言の成就です。聖書が述べているすべての事柄は、神のエコノミーの成就と実現のためです。神のエコノミーとは、神が肉体と成り、人の生活を経過し、死んで、復活し、その霊と成り、命として人の中へと入って、神をわたしたちの中へと分与することです。それはわたしたちが造り変えられて、召会、すなわち、キリストのからだ、神の家、神の王国、キリストの配偶者となり、新エルサレムにおいて究極的に完成するためです。

もしわたしたちがこの言葉を祈るなら、神のエコノミーのビジョンを見て、そのビジョンにしたがった生活と働きを認識することができます。わたしたちが行なうすべての働きと行動は、このビジョンによって制御され、支配されていなければなりません。わたしたちは、神聖な真理の表面にとどまってしまうことから救われて、聖書の中の神のエコノミーの結晶の中へと深く入り込み、神のエコノミーの各段階の結晶の意義で構成される必要があります。

神聖なエコノミーを完成するために、わたしたちは真理で構成される必要があります(Ⅰヨハネ二・四Ⅱヨハネ一―二)。わたしたちは真理を学ぶために代価を払わなければなりません(箴二三・二三)。わたしたちは真理を学んだ後、キリストを経験して、彼にわたしたちの実際となっていただかなければなりません。このようにして、わたしたちは人々に語るとき、知識や教理を供給するのではなく、キリストを供給します。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期7巻より引用