今日の主の回復の主要な項目の極めて重要な点

真理

主の回復は、神の聖なる御言(Ⅱテモテ三・十六)である聖書の中で啓示されている神聖な真理の回復です。聖書の中で啓示されている真理は、各時代を通して失われ、見逃され、誤解され、誤って解釈され、また間違って教えられてきました。ですから、主の回復の必要があります。さまざまな時代を経て、主は、ご自身とご自身の聖なる御言を愛する何人かの聖徒たちを通して、失われた真理を常に回復して来られました。

主の回復における主要な項目の中で、いくつかの点は他の点よりさらに重要です。本書において、わたしたちは、今日の主の回復の主要な項目の極めて重要な点を見たいと思います。この極めて重要な点とは、三一の神、すべてを含むキリスト、究極的に完成された霊、永遠の命、召会、キリストのからだの一、召会の地方の立場です。

三一の神

二つの基本的な神聖な称号
聖書が最初に神について述べているのは、創世記第一章一節においてです。それは言います、「初めに、神は天と地を創造された」。ここで「神」という言葉は、ヘブル語では「エロヒム(Elohim)」です。創世記第一章一節で「エロヒム」という主語は、神の創造に関連して用いられ、複数形です。ところが「創造した(created)」という動詞は単数形です。「エロヒム」という称号は、唯一であるが三一である神を示し、旧約の中で二千五百回以上用いられています。

「エホバ」は、神のもう一つの神聖な称号(創二・四)で、それは神と人との関係の中で用いられています。この「エホバ」という称号は文字どおりには、「彼はあるという方、それゆえ、永遠にわたしはある」です。啓示録第一章四節は「今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方」について語っています。過去に彼はおられました。現在、彼はおられます。また将来、彼は来られます。彼は「大いなるわたしはある」です。「エホバ」という称号は、永遠に存在しているだけでなく、永遠にある方としての三一の神を示し、旧約の中で七千回以上用いられています。

神聖な三一はご自身を人の中へと分与する
聖書の六十六巻の全啓示によれば、神聖な三一、すなわち、父、子、霊は、神の分与のため、すなわち、神の選びの民の中へと神を分与するためです。この分与を遂行するために彼は三一である必要があります。

コリント人への第二の手紙第十三章十四節は言います、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように」。ここで三つのことが述べられています。すなわち、恵み、愛、交わりです。これは、神がなぜ三一であるかを示しています。こうして神はご自身をわたしたちの中へと分与します。それは、わたしたちが彼を享受し、彼がわたしたちのすべてとなるためです。

神の愛、すなわち、父の愛は源です。キリストの恵み、すなわち、子の恵みは父の愛の流れ出です。そして聖霊の交わりは、わたしたちが享受するために、子の恵みと父の愛がわたしたちの中へと流れ込むことです。これはわたしたちが三一の神、すなわち父、子、霊を享受するためです。父の愛、子の恵み、聖霊の交わりは、三つの異なったものではなく、わたしたちが所有し、享受するための一つのものの三つの面です。同様に父、子、霊は三つの分離した神ではなく、わたしたちが所有し、享受するための、ひとりの神の三つの面です。コリント人への第二の手紙第十三章十四節は、神聖な三一が組織神学の教理上の理解のためではなく、神の選びの民の中へと神ご自身を分与するためであることの強力な証拠です。

神聖な三一は永遠に同時同存し、相互内在する
わたしたちは、父、子、霊が永遠から永遠に同時同存するということについてはっきりしていなければなりません。疑いもなく、父は神であり(Ⅰペテロ一・二エペソ一・十七)、子は神であり(ヘブル一・八ヨハネ一・一ローマ九・五)、霊は神です(使徒五・三―四)。彼らは三人の神ではなく、ひとりの神です。聖書はわたしたちにはっきりと明確に、神は唯一(Ⅰコリント八・四、イザヤ四五・五、詩八六・十)ですが、また三、すなわち父、子、霊であることを告げています。神は三一の神です。

父は永遠です(イザヤ九・六)。子は永遠です(ヘブル一・十二七・三)。霊は永遠です(ヘブル九・十四)。そして彼らは同時同存しています(ヨハネ十四・十六―十七エペソ三・十四―十七Ⅱコリント十三・十四)。

父、子、霊の間の関係は、彼らが同時同存するというものであるだけではなく、また相互に内在しているというものです。父は子と霊の中に存在されます。子は父と霊の中に存在されます。そして霊は父と子の中に存在されます。神格の三の間のこの相互の内在を、「相互内在」と言います。ヨハネによる福音書第十四章十節から十一節で主イエスは言われました、「わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを、あなたは信じないのか? ……わたしを信じなさい。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられる……」。ここでは、父と子は同時同存されるだけでなく、相互内在しています。

本質上の三一とエコノミー上の三一
本質上の三一は、彼の存在のための、三一の神の本質のことを言います。彼の本質において、神は一であり、唯一の神です(イザヤ四五・十八後半、Ⅰコリント八・四)。本質上の三一の中で、父、子、霊は、同時に、同じ方法で、順位もなく、同時同存し、相互内在します。第一であるもの、第二であるもの、第三であるものというようなものは存在しません。

本質上、神は一です。しかしエコノミー上、彼は三です。すなわち、父、子、霊です(マタイ二八・十九Ⅱコリント十三・十四)。神のご計画、神の行政上の案配、神のエコノミーの中で、父は第一の段階を取られ、子は第二の段階を取られ、その霊は第三の段階を取られました。父は計画しました(エペソ一・四―六)。子は成就しました(七―十二節)。そしてその霊は、子が父のご計画にしたがって成就したものを適用します(十三―十四節)。これは、神の永遠の定められた御旨を達成するための、神のエコノミーにおける一連の手続きあるいは継続です。

神聖な三一の三は区別はあるが分離していない
神聖な三一の三の間には、区別はありますが分離はありません。父は子と区別があり、子は霊と区別があります。そして霊は子と父と区別があります。しかしわたしたちは、彼らが分離しているということはできません。なぜなら、彼らは相互内在しているからです。彼らの同時同存の中で、神格の三一には区別がありますが、彼らの相互内在は彼らを一にします。

わたしたちの三一の神は
わたしたちの経験と享受のためである
新約によれば、父、子、霊はみな、わたしたちの中におられます(エペソ四・六コロサイ一・二七ヨハネ十四・十七)。父、子、霊はみな、わたしたちの中におられますが、わたしたちの経験によれば、ただひとりの方がわたしたちの中におられると感じます。わたしたちの中に住まわれる方は、三一の神です。

マタイによる福音書において、主はわたしたちに諸国民を「父と子と聖霊の名の中へと」バプテスマするように命じておられます(二八・十九)。神聖な三一に対して一つの名があります。その名は神聖な存在の総合計で、彼のパースンに等しいです。人々を三一の神の名の中へとバプテスマすることは、三一の神であるすべての中へと彼らを浸すことです。いったんわたしたちがキリストの中へと信じ、神聖な三一のパースンの中へとバプテスマされるなら、わたしたちは、父なる神の愛、子なるキリストの恵み、聖霊の交わり(Ⅱコリント十三・十四)にあずかることによって、日ごとに三一の神を享受すべきです。最終的に、わたしたちは永遠において、彼の神聖な分与において神聖な三一を極みまで享受します(啓二二・一)。

すべてを含むキリスト
聖書に啓示されているキリストは、すべてを含み、またすべてに拡張します(エペソ一・二三三・十八)。すべての時代を通して、キリストは異端の始祖たち(異端の創始者)によって見逃され、誤解され、間違って教えられてきました。異端の始祖たちとは、一世紀のケリントス、グノーシス主義、ドケチストであり、五世紀のネストリウス派であり、十三世紀以上にもわたって存在してきた悪魔的カトリック主義であり、二世紀半以上にもわたって存在してきた、いわゆる高等批判、そして今の近代主義者たちです。

これらはみな、キリストのパースンと働きのさまざまな面を否定しました。ケリントス主義者たちはキリストの神性を否定しました。またドケチスト派の者たちは、キリストの人性を否定しました。他の者たちは、キリストの贖いの死と彼の復活を否定しました。彼らの異端によると、キリストは無です。すべての破壊的な異端の下で、神のすべてを含むキリストに関する真理は、多くの面で劇的な回復を必要としています。すべてのものの中で第一位であり、すべての中ですべてを満たしており、神のエコノミーの中心性と普遍性であり、そして聖徒たちの贖い、命、命の供給、またあらゆるものである、すべてを含むキリストを、わたしたちは見る必要があります。これらすべての項目は極めて重要です。それは、信者たちが彼らの享受のためにこれらすべてにあずかり、これらをもって構成されて、彼の有機的な肢体となり、この時代において、また永遠に至るまで彼を生き表現するためです。

究極的に完成された霊
「究極的に完成された霊」という用語は、その霊が手順を経て、究極的に完成された霊となられたことを暗示します。究極的に完成された霊に関して、三つの主要で極めて重要な点があります。第一に、神の霊は複合されて、複合の霊となりました(出三〇・二三―二五)。第二に、イエスが復活において栄光を現す前には、その霊はまだありませんでした(ヨハネ七・三九)。第三に、その霊は、神の七つの霊、神の御座の前の七つのともし火、小羊の七つの目であると考えられます(啓一・四四・五五・六)。

これに加えて、神の霊は、新約を英語に翻訳した人々によって、神の働きのための神の霊としての手段であって、神聖な三一の他の二つのパースンと共に位置づけられるパースンではない、と考えられていました。これはマタイによる福音書第二八章十九節の中で主によって強く述べられていることとは対照的です。その節で主は言われました、「だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして」。この節によると、神聖な三一の三は、区別のあるパースンです。ですから、神の聖霊は、神の力、手段であるだけでなく、またパースンです。

永遠の命
一般に、クリスチャンの間で永遠の命は、「永続する命」と呼ばれていて、命としてではなく、キリストの信者たちが、彼らが死んだ後に天国で永遠に享受するための、一種の幸福に満ちた環境として理解されています。今日でさえ、「天国へ行く」という事柄に関するキリスト教の教えはとても強いです。「これは何という誤りでしょう!」。

しかし主に感謝します。過去何年間にわたって、主はわたしたちの間で、神の永遠の命についての聖書の見方と正しい認識を回復されました。わたしたちはそれを、神の御子イエス・キリストを信じることを通して神から受けました。それは最高水準の命で、神の神聖な命また非受造の、不滅の、不朽の、そして永遠でもある三一の神全体でさえあります。わたしたちはこの永遠の命によって、再生され、造り変えられて、わたしたちの永遠の栄光としての、究極的に完成された三一の神によって栄光化されます。

召会
新約の啓示と模範によると、召会は、神によってこの世から召し出された、キリストを信じる者たちの集まりです。そのような集まりは、一方で、生ける神の家(Ⅰテモテ三・十五)です。またもう一方で、それはキリストの有機的なからだ(エペソ一・二二―二三)です。それは、キリストが彼の表現のために彼と有機的な結合の中にある、配偶者を持つためです。この召会は神の新創造(コロサイ三・十ガラテヤ六・十五)としての新しい人です。そのような召会は、宇宙的に一であって、多くの地方召会として多くの地方において地上で現れ、表現されます。

召会はほんの短い期間だけ、そのような神聖な状態の中にとどまりました。歴史がわたしたちに告げているのは、召会は生み出されてすぐに堕落し、何世紀にもわたって堕落し続け、完全に失敗して、完全に堕落したということです。そのため、主は地上での証しを回復するために何かをしなければなりませんでした。

召会生活の実行の回復の最初の段階は、宗教改革から開始して、十八世紀のモラビア兄弟団の間で召会生活が最初に実行されるまでの間に起こりました。それから、十九世紀になって英国ブラザレンは、召会生活の実行を大いに回復しました。しかしながら、その栄光の状況はあまり長く続きませんでした。半世紀余り経過した後に、英国ブラザレンは何百もの分裂的な集まりへと分裂してしまいました。

一九二〇年代から、主は強いられて、召会の実行のために、処女地としての異教の保守的な中国において、新しい開始としての回復を起こされました。この新しい行動において、また主のこのような回復の中で、わたしたちは真の召会を実行し、すべてを含むキリスト、究極的に完成された霊、永遠の命、空虚な文字ではなく実際のすべての神聖な真理に注意を払い、また組織、教理上の規定、儀式、聖職者階級制度、伝統から逃れます。この事は、わたしたちに普遍的な祭司職を実行させます。すなわち、召会生活の中でキリストのすべての肢体に、普遍的に機能することを実行させて、神の永遠のエコノミーの中でキリストのからだを建造させます。

キリストのからだの一
キリストのからだの一は、その霊の一(エペソ四・三)、また神聖な三一による神聖な構成の一(ヨハネ十七・二一―二三)です。これは、召会の立場の唯一無二の構成の面です。この神聖な一は、すべての信者たちを共に結合してキリストの一つからだとします。

召会の立場のための召会の一の実行面もあります。キリストにある信者たちは、キリストのからだの構成要素です。実行面では、彼らはこの地上の多くの都市に散らされており、当然、多くの単位を形成しています。神によって設立され定められた新約の模範によれば、信者たちはキリストの唯一のからだの地方的な表現として、住んでいるそれぞれの都市において、二つ以上の単位を持つことは認められていません。また他の地方召会とキリストのからだの中での交わりなしに、ある地方に地方召会を持つことも許されていません(使徒八・一十三・一ローマ十六・一Ⅰコリント一・二啓一・十一)。これらすべての制限は、キリストのからだの中のいかなる種類の分裂も避けるための、召会生活における保護です。

召会の地方の立場
召会の地方の立場は、諸地方召会において実行されるキリストのからだの唯一の一です。キリストの宇宙的なからだと諸地方召会はみな、唯一無二です。この唯一の一は、召会生活の基本的な要素です。

キリストのからだの一は、その霊の一です(エペソ四・三)。ですから、地方召会において実行される一は、その霊の行動の中に、またその霊の管理の下になければなりません。これに加えて、地方召会はその地方に密接な関係を持っているので、地方召会はその地方における、召会の立場の極めて重要な要素です。ですから、ある地方召会が建造される召会の立場は、「一」をもって構成され、「一」の中で維持されなければなりません。そしてこの一は、その霊によって遂行され、その地方に在る召会によって保たれます。

わたしたちは信仰を固く保ち、分裂を引き起こすあらゆるもの、また程度の低い教理の観念を放棄して、その信仰の一に、また神の御子を知る全き知識の一に到達し、一人の完全に成長した人に到達し、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達する必要があります(エペソ四・十三)。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第7巻より引用

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