ダビデのかぎーー開いた門と建造の道

真理

神の目標は聖書の始めから啓示されています。神はご自身のかたちにしたがって、またご自身の姿にしたがって人を造られ、人に神を表現させ、さらに人に権威を与えて神を代行させて万物を管理させられました(創一・二六)。人は堕落によって神の定められた御旨を成就する道を失いました。こういうわけで、神は入って来て新しい種族のかしらとしてアブラハムを召されました。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセは、神の定められた御旨を十分に成就しませんでした。しかしながら、ダビデは表徴において、神の定められた御旨を成就する道を見いだしました。彼はすべての敵を打ち破り、聖なる宮、すなわち神の宮を建造する基礎の地を得ました。神は権威のかぎをダビデに与えられたので、このかぎは「ダビデのかぎ」と呼ばれています。またダビデの子孫、すなわちキリストはこのかぎを受け継ぎました。今日、キリストは真のダビデであり(マタイ十二・三―四)、神は権威のかぎを彼に与えられました(二八・十八)。ただキリストだけがこの唯一のかぎを握っておられ、彼の回復のために門を開くことができ、しかもだれも閉じることができません。このかぎは信者を神の宮の柱とし、新エルサレムの一部分とならせます。

ダビデのかぎ
啓示録第三章七節は言います、「ヒラデルヒヤに在る召会の使者に書き送りなさい.『聖なる者、真実なる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれも閉じることはなく、閉じればだれも開くことのない者が、こう言われる』」。この節の聖書はヒラデルヒヤに在る召会に書かれた手紙の序文であり、その中で聖書教師たちが最も理解しがたい言葉は、「ダビデのかぎ」です。

権威と関係がある
キリストはダビデのかぎ、王国のかぎを持ち、開いたり閉じたりする権威を持っておられます。創世記第一章によれば、神が人を創造されたとき、彼に全被造物に対する統治権を与えられました。これは、神の意図は、人が地上で神を代行することであることを示します。しかしながら、堕落のゆえに、人はこの権威を失い、それを完全に回復することはできませんでした。神の統治は宇宙全体を、特に人類を含んでいます。この統治にはかぎがあり、それは王国のための戦い、宮の建造のために備えをした人によって所有されています。その人の名をダビデと言います。ダビデが持つかぎは神の統治のかぎです。ダビデは地上に神の王国を設立することで神を代行しました。ですから、彼は宇宙において神の統治のかぎを持っていました。しかしながら、ダビデは単に予表であって、実際ではありませんでした。真のダビデはキリスト、さらに大いなるダビデです。彼は神の宮、召会を建造し、神の王国を設立した方です。ですから、今日、家と王国の両方である召会の中で、わたしたちは神の表現と代行を持っています。さらに大いなるダビデとして、キリストは神の家、真の宮を建造し、また神の王国、すなわち神の統治権を設立しました。その中で彼は完全な権威を行使して、神を代行しておられます。ですから、彼はダビデのかぎを持っておられます。

復活と関係がある
「ダビデのかぎ」という言葉は、啓示録第一章において主が「死とハデス[陰府]のかぎを持っている」(十八節)と言われたことと関係があります。キリストは死から復活し、「死とハデス[陰府]のかぎを持って」おられます。ですからこの意味は、主は死人を復活させる権威を持っておられるということです。聖書の他の各書の中で、イザヤ書だけが同じ言葉を用いました。イザヤ書第二二章は言います、「わたしはダビデの家のかぎを彼の肩に置く.彼が開けば、だれも閉じることはなく、彼が閉じれば、だれも開くことはない」(二二節)。この言葉は主キリストを指しています。彼はダビデの家の主であり、すべての約束のかぎを管理しておられます。

使徒行伝第十三章は言います、「神は彼を復活させて、子孫であるわたしたちに、この約束を完全に成し遂げられました.それは詩篇第二篇にも、『あなたはわたしの子である.この日わたしはあなたを生んだ』と書き記されているとおりです。また、神がイエスを死人の中から復活させ、もはや朽ち果てることの中に戻らせることがないことについて、神はこのように言われました、『わたしは、ダビデのあの聖なるもの、信実なものを、あなたがたに与える』。このゆえに、神はまた他の詩篇で言っておられます、『あなたは、あなたの聖なる者が朽ち果てるのを見ることを許されない』。さて、ダビデは神のみこころによって彼自身の世代に仕え、眠りにつき、彼の父祖と共に葬られて、朽ち果てました.ところが、神が復活させた方は、朽ち果てるのを見ることがありませんでした」(三三―三七節)。キリストはすでに復活されており、墓、ハデスの門は彼に打ち勝つことができません。こういうわけで、ダビデのかぎは墓を開くかぎであるということを見ることができます。

主イエスがハデスの門を開かれるとき、だれも彼の信者たちを内に閉じ込めておくことはできませんでした。彼は未信者をその中に閉じ込めるとき、だれも開くことができません。彼がアビスの穴を開かれるとき、無数のいなごが出てきて、人を害します(啓第九章)。彼がアビスの穴を閉じると、サタンは千年間そこに閉じ込められます(二〇・二―三)。両方の力はどちらも重要です。そして主イエスは絶対的に両方の所有者です。それゆえに主は「捕らわれた人たちに『出よ』と言い、暗やみの中にいる者に『自分を現せ』と言う」(イザヤ四九・九)。また彼は罪人たちを集められます、「彼らは、囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、多くの日の後、罰せられる」(イザヤ二四・二二)。主イエスはハデスに勝つ絶対的な力を持っておられます。彼は死の権威を握っている者であるサタンに打ち勝つことができます。

開き、閉じることができる
ダビデのかぎを持つ者として、主イエスは信者にとって復活の主であり、王国の王です。ハデスの門の開閉は彼の意志と権威によります。彼は、今まだこの権威を執行し、世界を支配しておられませんが、彼はすでに神によって「主またキリスト」とされています(使徒二・三六)。彼は、こうして彼の権威を啓示して、眠った勝利の信者たちを慰められます。その時が来れば、勝利者の褒賞として、彼らは特別で、卓越した復活にあずかることを、主は彼らに知らせられます(ピリピ三・十一)。しばらくすると、主は生きている勝利者たちにも門を開かれます。彼は外側で何も干渉しておられないかのようです。未信者に対して彼は沈黙を守り、現在の混乱と困難を無視しておられます。それは、かつて激しい風と波が船を襲った時、主がなさったのと同じようにです(マタイ八・二四)。しかしながら、彼は決して彼の権威を放棄しておられるのではありません。彼はいっさいの行政のかぎを握っておられます。そして彼だけが開くことができ、閉じることができます。

多くの時、肉の人がわたしたちの門を閉じているかのようです。しかしながら、彼らは主の意志の中で用いられている道具にすぎません。わたしたちは閉じられている門を開く必要はありません。なぜなら閉じられるのは主であるからです。もう一方で、もし主が開かれるなら、だれも閉じることができないことを知って、安息することができます。主ご自身がダビデのかぎを持っておられます。ですから、信者たちはこの世の人と他の信者を仰ぎ望む必要はありません。彼はかぎを持っておられます。また彼が持っておられるものは、わたしたちに欠けているものです。人はどこででも働くことができます。しかしながら、聖なる者、まことなる者は、すべてに主権ある主です。わたしたちは力がありませんし、門を開けることができませんが、主はわたしたちのために門を開き、わたしたちを広くて制限のない所に導いてくださいます。

主観的なかぎ
主は彼の回復の召会のためにこのかぎを用いて門を開いてくださいます。今日も主はそれを用いておられます。それは、彼の回復の中で主を尋ね求め、主を愛する者であるわたしたちに開かれた門を得させるためです。それは客観的な方法で主の回復を拡大するだけでなく、わたしたちを白い石(啓二・十七)とならせ、建造された神の宮の柱とならせます。その上には三つの名、すなわち神の御名、神の都の名、主の新しい名が書き記されています(三・十二)。神の宮は神の家であり、今の時代の召会です(Ⅰコリント三・十六―十七Ⅰテモテ三・十五)。最終的に、永遠において宮は新エルサレムになります。マタイによる福音書第十六章十八節から十九節において、主イエスはペテロに言われました、「わたしはこの岩の上に、わたしの召会を建てる……わたしはあなたに天の王国のかぎを与える」。神の今日の住まいとして、召会は新エルサレムにおいて究極的に完成し、神の幕屋と神の宮として彼を住まわせ、永遠に至ります(啓二一・三二二)。

わたしたちを白い石とし、
建造された神の宮の柱とならせる
わたしたちはどのようにして、白い石と建造された神の宮の柱となることができるのでしょうか? 内なる命についての書物は、聖別されることと霊的であることについて多く述べています。聖別されることと霊的であることはあまり難しいことではありません。もし、わたしたちが願いを持つなら、わたしたちはみな聖別されて霊的になることができます。しかしながら、内なる命についての書物は、わたしたちが白い石と、三つの名(三つのしるし)が書かれた柱になる道を提供していません。「わたしの神の御名」は、柱が神であることを示しています。「わたしの神の都」は、柱が新エルサレムであることを示しています。「わたしの新しい名」は、柱が新しい意義を持つキリストであることを示しています。柱としての勝利者は、神(神格においてではなく、命と性質において)となり、新エルサレムとなり、経験において新しい意義を持つキリストとなります。わたしたち自身によるなら、これは不可能ですが、ダビデのかぎを持つあの方には道があります。

高嶺の真理のかぎ
近年において、神は新約の真理の高嶺をわたしたちに見せてくださいました。わたしたちはこれらの真理のアウトラインを読むなら、これらのアウトラインは、わたしたちが神、新エルサレム、新しいキリストの一部分となる道を開くかぎを与えるのを見ることができます。わたしたちはこれらのアウトラインを用いて、祈り読みし、研究し、調べ、記憶し、暗唱し、預言する必要があります。その結果、わたしたちは、実際、すなわち神、新エルサレム、キリストの一部分となることに入るための開いた門を持つことができます。

主はラオデキヤに在る召会、すなわち回復の後にまた堕落した召会に告げました。彼らは悩んでいて、みじめで、貧しくて、盲目で、裸であり、代価を払って金、白い衣、見えるようになるための目に塗る目薬を買う必要があります(十七―十八節)。主の言葉を聞いた勝利者は主と共に食事をし(二〇節)、彼と共に彼の御座に着きます(二一節)。こうして、回復の後にまた堕落した召会を再び主の回復へともたらします。わたしたちはすでに見てきましたが、回復の召会に対する主の約束は、かぎを勝利者に与え、勝利者を白い石と神、新エルサレム、新しいキリストの一部分としての柱にならせることです。これは金、白い衣、目薬、すべての積極的な事物の実際です。なぜなら、これらすべてはみな神、新エルサレム、キリストの一部分であるからです。

新しいキリスト
新エルサレムは、究極的に完成された神と新しいキリストです。大多数の人は四福音書におけるキリストしか知らず、神は新エルサレムにおいて新しいキリストであることを知りません。この新しいキリストは四福音書におけるあの方が拡増し、拡大し、増殖して団体のからだとなった方であり、このからだは新エルサレムにおいて究極的に完成します。わたしたちは、主がどのようにして彼の回復の中で門を開いたかを証しすることができます。何年も前に、わたしたちは回復の門がアメリカ全土で開かれることを信じなかったかもしれません。この務めは、大多数の人にとって新しいキリストである領域へとわたしたちをもたらしました。主は、アメリカを彼の回復に開かせ、彼の回復を英語圏にもたらし、さらに他の多くの言語へと拡大しました。これだけでなく、多くの人は主に得られ、彼らを白い石と神、新エルサレム、キリストの一部分としての柱になる主観的な面のダビデのかぎを得ました。

新エルサレムは拡大し、拡張した神です。神の拡大と拡張として、わたしたちは命と性質において(神格においてではなく)神であり、またわたしたちは新しい意義を持つキリストです。わたしたちは新しいキリストであり、四福音書における彼とは異なります(参照、Ⅰコリント十五・四五)。ヨハネによる福音書第三章二九節から三〇節は言います、「花嫁を持つ者は花婿である……彼は必ず増し加わるが、わたしは必ず減少する」。花婿の増し加わりとしての花嫁は新エルサレムであり、神によって再生されたすべての人を含みます(啓二一・九―十)。

御子の中に住んで三一の神と一になるかぎ
主イエスは言われました、「わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む」(ヨハネ十五・四)。かぎは彼の中にいることであり、わたしたち自身の中にいないことです。わたしたち自身から出てきて、彼の中に入ることがかぎです。このために、わたしたちは自己を否み、自己を十字架上にとどめ(マタイ十六・二四)、生きているのはもはやわたしたちではなく、キリストがわたしたちの中に生きておられるようにしなければなりません(ガラテヤ二・二〇)。わたしたちが御子の中にいるとき、わたしたちは御父の中にもいます。このような方法で三一の神と一になることは、造り変えられて、神の宮の柱に建造される秘訣です。こうして、わたしたちは神の一部分、キリストの一部分、新エルサレムの一部分となります。この新エルサレムは神の拡大とキリストの増し加わりです。

ダビデのかぎを持つキリストは、客観的な面において、彼の回復の召会に開いた門を与えられました。主の回復がどこに拡大しても、だれも主が開けた門を閉じることはできません。門は常に主の回復に対して開いていました。しかしながら、わたしたちはこの程度にまでしか、ダビデのかぎを理解していないなら、わたしたちの理解は客観的すぎます。またわたしたちの存在とは関係がありません。ダビデのかぎは主観的であり、主はかぎを持っておられ、主観的にわたしたちを白い石へと造り変え、またわたしたちを神の宮の柱へと造り変え、神、新エルサレム、新しい意義を持つキリストの一部分とならせます。これは何というかぎでしょう!

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第6巻より引用

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