自己から離れ、肢体として、ブレンディングされ一となり、からだを表現する

真理

新約聖書の二十七冊の書において、最初の四福音書は神の御子、イエス・キリストの伝記であり、次の使徒行伝はこの伝記の継続です。主イエスは小さなナザレ人として、三十三年半の間、地上で生活し、行動し、働きました。それから彼は天に昇り、天からの一つの経路を通して、地で絶えず働き始めました。この経路はキリストのからだであり、このからだは続く二十二冊の書の説明を必要とします。

書簡の中の一つであるローマ人への手紙は、クリスチャン生活の概略についてであり、四つの停留所があります。旅は最初の義認という停留所から始まり、それは聖別を経過してからだに到達します。最後に、からだを表現する諸召会があります。この概略から、この書の実際の中心点はキリストのからだであることを見ます。

キリストのからだは召会の内在的な意義です。からだがなければ、召会には意義がありません。このからだが十分に現されない限り、主イエスは戻って来られないでしょう。ですから、からだは神の継続的な働きの最終目標であり、サタンが行ないたい最大の事は、キリストのからだを「解体させる」ことです。したがって、人は罪から逃れてキリストの中へと入って救われるだけでなく、個人から救われてからだに入り、からだの中で一つにブレンディングされ、キリストのからだの実際を生み出して、神のエコノミーのたかに到達する必要があります。

個人から離れてからだに入る
ローマ人への手紙第十二章四節から五節は言います、「一つの体の中には多くの肢体があり、そしてすべての肢体が同じ機能を持っていないように、わたしたちも数は多いのですが、キリストの中で一つからだであり、そして各自は互いに肢体なのです」。神の救いの目的は、何千万人もの聖徒の中にキリストの繁殖を得ることです。そうすることで、わたしたちは彼のからだの肢体になることができ、別々の完全な個別の単位になるのではなく、生ける、機能する、共に組み合わされる、からだの多くの部分となります。ですから、信者がからだを失うと、クリスチャン生活の中心を失い、目標も目的も方向性もなくなります。ローマ人への手紙は、クリスチャン生活の中心はからだであり、信者の生活行動の主要な道はからだの中に住むことであることを示しています。

からだの反対は個人であり、個人の命はわたしたちがキリストのからだに入るのを妨げます。ですから、アダムの命の中では、罪と天然の命の対処が必要なだけでなく、個人的な命も対処を必要とします。個人的な命は、わたしの単独の存在、単独の生活、単独の行動であり、それはちょうどわたし一人だけが世界に生きているようなものです。わたしたちがからだの中に入りたいのであれば、個人から離れなければなりません。

神は、わたしたちが個人であることは許していますが、個人主義的であることは許していません。ですから、わたしたちは自分を信者と見なすだけでなく、自分を肢体とも見なさなければなりません。わたしは一肢体です。ですから、わたしはからだのすべてでもなければ、またからだの半分でさえありません。わたしはからだの小さな一部分にすぎません。わたしたちはまずキリストを見て、そして救われました。同じ原則で、わたしたちはからだを見ると、自然に個人主義から解放され、一肢体となります。以前、あなたはすべての事柄を、個人主義的な方法で考えていたかもしれません。あなたの働きは個人の働きでした。あなたの生活は個人の生活でした。あなたがからだを見て、自分がからだの一肢体にすぎないことがわかれば、これはあなたにとって一つの大きな救いとなり、自然に個人主義から離れることができるでしょう。神は、からだをご自身の団体の器としたいのです。もしわたしたちの個人主義が打ち砕かれないなら、神はご計画を成就するための器を得ることができず、キリストの豊かさを表現することができません。この神の団体的な器は、すべての肢体が一つのからだとして結合されてはじめて、実現されることができます。少しも欠けてはいけません。

肢体とからだの関係
一肢体であるとはどういう意味でしょうか? それは、わたしたちのすべての働きと生活が、からだに基づいているということです。からだが活動の単位です。わたしの手が働く時、働いているのはわたしの手ではありません。働いているのはわたしの体です。わたしの足が歩く時、歩いているのはわたしの足ではなく、わたしの体なのです。肢体の行なうあらゆることは、からだをその単位とします。ですから、肢体が行なうことは、からだが行なうことです。肢体が行なうことで、自分のために行なっているものは何一つありません。肢体が行なうことはすべて、からだのためです。肢体のすべての動きは、からだに基づいています。それは決して肢体に基づいてはいません。

一つの肢体は、からだ全体に取って代わることはできません。しかし、肢体はからだに影響を与えます。したがって、わたしたちは肢体とからだの関係を重視する必要があります。一肢体の失敗でも、からだは影響を受けます。個人が勝利を得ず、聖別されていないなら、からだは損害を受けます。ですから、からだのために、わたしたちは愛の命を追い求め、聖別された生活を追い求め、霊的成長を追い求めなければなりません。ですから、神があなたを最初に置かれても構いませんし、最後に置いても構わないのです。からだを見ている人は高ぶることはなく、からだを見ている人は嫉妬することもありません。

命があふれ流れることは、キリストの表現である
からだは、命が現れる所です。この命は一つですが、異なる肢体の中で表現されるとき、それは異なる機能として現れます。この命が耳に流れる時、耳は聞くことができます。この命が目に流れる時、目は見ることができます。この命が足に流れる時、足は歩くことができます。この命が口に流れる時、口は話すことができます。この命が歯に流れる時、歯は物をかむことができます。機能は異なっていますが、命は一つです。同じ原則で、あなたの中に流れ込むものと、他の聖徒の中に流れ込むものは、同じキリストの命です。しかし、あなたの中で現される機能は、彼の中で現される機能とは異なります。ある事のためには、ある兄弟が必要です。また他の事のためには、ある姉妹が必要です。もしあなたが別の人を用いれば、決してうまくいかないでしょう。キリストのからだの中で、各肢体は特別な機能を持っています。肢体の機能はそれぞれ異なりますが、すべて同じ命の表現です。

わたしたちが受けた恵みは小さ過ぎると思ったり、召会(キリストのからだ)の中で自分には機能はないと思ったりすることが、決してあってはなりません。覚えておいてください。あなたは肢体であるなら、必ず機能があります。神の命を持つ人はだれでも、キリストのからだの肢体です。どんなに小さな肢体にも、すべて機能があります。すべての肢体の中で最も小さい肢体であっても、からだの中でその機能を持っています。キリストの命があなたの中に流れ込んで、出て来た機能は、別の肢体が代わりをすることのできないものです。ああ、もしわたしたちがこのことを見るなら、わたしたちは喜びのあまり跳び上がるでしょう。新約聖書が四つの福音書を使って四つの角度から主イエスについて書いているのも不思議ではありません。ペテロの書簡を読む時、キリストの偉大さを見ます。わたしたちがパウロの書簡を読む時、別の方法で表現されている事柄を見いだします。わたしたちがヨハネの書簡を読む時、彼がキリストの卓越性を、他のどの人にも見られない方法で記述しているのを見いだします。わたしたちの主は、あまりにも偉大な方であるので、この方を十分に表現するには、古今東西、歴代のすべての信者が必要です。

肢体はからだの中で機能する
エペソ人への手紙第四章十六節は言います、「この方から、からだ全体は、その豊富な供給のあらゆる節々を通して、またそれぞれの部分の度量に応じた活動を通して、結合され組み合わされ、からだを成長させ、愛の中でそれ自身を建て上げるに至るのです」。主のために生きている人、自己から離れている人の外側の生活の最も重要な部分は、キリストのからだの中で彼の機能を示すことができることです。主に属する人はみな、キリストがその人の中に住んでおり、主に属している人はだれにでもその人の分があります。一人一人がキリストの中で得たその分は、その人の奉仕の特徴となります。目は見、耳は聞き、鼻はにおいをかぎます。それぞれの部分には特別な機能があります。すべての肢体が見たり、聞いたり、においをかぐ必要はありません。一つ一つの肢体には行なうべき分があります。それが彼らの務めです。したがって、目が見るとき、体も見るのです。目は体に視覚を供給します。これは肢体の奉仕です。手ではにおいを感じることはできませんが、鼻はきゅう覚を用いてからだに仕えます。したがって、嗅覚は鼻の専門の務めであり、聴覚は耳の専門の務めです。あなたの専門の務めは何でしょうか? それはあなたが主から特別に学んだことであり、あなたが主から特別に得たものです。あなたは主の御前で何かを学んだので、かしらの命をからだに供給し、召会が必要とするものを供給することができます。それぞれの務めの働きの結果は、からだの度量を増し加え、からだがさらに多くキリストを得ることができるようにします。

キリストのからだ(召会)は決して教理でも案配でもなく命です。それは、キリストの命の表現です。キリスト以外のどんなものも、命以外のいかなるものも、キリストのからだに供給することはできません。ですから、わたしたちがキリストを召会に供給する時にのみ、召会は建造されます。その人がキリストをどれほど認識しているかによって、召会に供給できる命の量が決定されるのです。あらゆる種類の苦痛、管理、試練などがわたしたちに臨むのは、わたしたちが神の命の言で構成されるためであり、わたしたちがからだに供給するものを持つことができるようになるためです。わたしたちがキリストのからだに仕えるとは、わたしたちがからだのためにかしらから命を受け、かしらの命を召会に供給することを意味します。命を持つ人たちは、集会の中で、ただ一言「アーメン」と言うだけで、からだに命を供給することができます。

主が今日願っておられることは、何人かの人を獲得し、ご自身の命を彼らの中に置き、彼らにからだの命を増し加える働きをさせること、すなわち彼らに召会が以前に得ることがなかった命を得させる働きをさせることです。主は、彼らをからだの中の命の経路として用いたいのです。彼らは主から受けた命を流し出し、キリストのからだの身の丈の度量を増し加えます。

肢体はからだの中でブレンディングされて
一となる必要がある
わたしたちは、神が用いたい器は召会であって、個人ではないことを知るべきです。キリストの命と力が豊かに現されることができるのは、からだを通してだけです。主が福音を伝え、彼の働きを遂行し、地上でご自身のみこころを成就するためには、主はご自分のからだを通して働く必要があります。ですから、神の働きはわたしたちを一つにすることですが、サタンの主要な働きは、キリストのからだを「解体」させることです。あなたとわたしがこの点に注意を払うなら、兄弟姉妹たちの間で互いに疑ったり、容易に多くの誤解が生じたりするのは、サタンがそこで解体の働きを行なっているということを見ることができます。あなたは兄弟について不平を言ったり、姉妹に対してつぶやいたりするかもしれません。しかし、この理由をよくよく見るなら、わたしたちはその理由がわたしたちの間におけるサタンの解体の働き以外の何ものでもないことを発見するでしょう。サタンは、神の子供たちを分裂させ、神の子供たちを解体したいのです。

したがって、最も重大な事は、あなたが肉を対処するかどうか、自己を否むかどうか、この世を愛するかどうか、などではありません。重大な事は、サタンがこれらの事を通して解体の働きを行なっているという事実です。あなたが肉と、自己と、この世にとどまっているなら、サタンに余地を残しています。例えば、セメントを混ぜる時に使用される砂に泥が付着していると、でき上がったコンクリートは、中がぎっしり詰まった固いものにはならないでしょう。一を破壊するために、サタンは多くの事を行なう必要はありません。彼はわたしたちの内側に少しの泥を、すなわち神の命に相反するものを入れさえすればよいのです。そうすれば、わたしたちに解体が起こります。わたしたちはいつも共に集会することができているとしても、やはり解体されていてばらばらになっていることがあり得るのです。表面的には、だれも喧嘩することも、争うこともありませんが、無意識のうちにすでにわたしたちはばらばらに解体されてしまっているのです! わたしたちが神以外のすべてのものを捨てて神の中に生きる時、神ご自身はわたしたちの内で一となります。なぜなら真の一は、わたしたちの内におられる神ご自身であるからです。一は別のものの中にあるのではなく、命の中にあります。一とは、神がわたしたちの中で完全な地位を得ていることを意味します。一とは、すべての人の中に神だけがいることを意味し、すべての人が神だけで満たされることを意味します。神の子供たちは神に満ちており、互いにブレンディングされて一となることができます。

三部分を活用する人は、からだの生活を実際化する
わたしたちはクリスチャン生活のこの中心点、すなわちキリストのからだを実際化しようとするなら、命の中でキリストと有機的に一であるという徹底的な認識をもって、キリストの中での有機的な結合を完全に経験する必要があります。ローマ人への手紙第六章三節は、わたしたちが「キリスト・イエスの中へとバプテスマされた」と告げています。五節は言います、「もしわたしたちが、彼の死の様の中で彼と結合して生長したなら、彼の復活の様の中でも彼と結合して生長するのです」。これが有機的な結合です。第八章はこの結合がどのように生み出されるかを啓示しています。第一に、神の命はわたしたちという人の中へと入り、すなわちわたしたちの霊の中へと入って、わたしたちの魂に浸透し、最終的にわたしたちの体にまで浸透します。第十二章は、神のみこころがキリストのために有機的な結合によって生み出されたからだを得ることであることを示しています。五節は、「わたしたちも……キリストの中で一つからだであり」と言っています。これは、わたしたちがキリストと有機的に結合されていることを示しています。それによって、わたしたちは命においてキリストと一であり、また彼のからだのすべての肢体と一になっています。この有機的な結合を根拠に、わたしたちは自分の存在の三部分をすべて活用して、からだの生活を実際化する必要があります。一節は、わたしたちの体を生ける犠牲としてささげるようわたしたちに命じています。二節は、わたしたちの思いを新しくする必要があることをわたしたちに示しています。思いは魂の主要な部分であるので、これは魂の造り変えを指しています。そして十一節は、わたしたちが霊の中で燃える必要があると語っています。これは、人の霊を活用すること、ミングリングされた霊を活用することを指しています。

兄弟姉妹、もしあなたがキリストの中での有機的な結合を認識していないなら、またあなたが体をささげておらず、思いが新しくされることによってあなたの魂が造り変えられていないなら、またあなたの霊が燃えていないなら、事実上、あなたはからだの外におり、からだから離れているのです。したがって、わたしたちの存在の三部分すべてを活用して、からだの生活を実際化する必要があります。時間と機会が許せば、最も良いのは、二、三人で交わり、祈ることです。結婚している人たちは、常に少なくとも二人はいるということで特権を持っています。キリストのからだはとても奥義的であるので、わたしたちはみなこのからだを見るにはより強いビジョンを必要とします。そのように見ることは、わたしたちの実際のからだの生活への入り口となります。キリストのからだの明確なビジョンがあれば、わたしたちはからだの命を経験し、実際のからだの生活の中へと入ることができます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第6巻より引用