キリストのからだの表現としての諸地方召会

真理

マタイによる福音書第十六章十八節において啓示された召会は、宇宙召会であり、キリストの唯一のからだです。第十八章十七節で啓示された召会は、地方召会であり、キリストのからだが一地方において表現されているものです。このゆえに、召会はキリストのからだの地方における表現であって、すべての地方召会はキリストの唯一の、宇宙的なからだの一部分です。それは、このからだの一地方における表現です。召会は多いのですが、諸召会が一つの神聖な性質、一つの神聖な要素、一つの神聖な本質、一つの神聖な表現、一つの神聖な機能、一つの神聖な証しを持っているということを、わたしたちは見る必要があります。なぜなら、諸召会は一つからだであるからです。

地方ごとの召会の行政

さまざまな地方でのキリストのからだの
表現を保持するためである
地方召会はキリストのからだの表現のためです。それらはさまざまな地方におけるキリストのからだの現れです。これは月のようです。ただ一つの月がありますが、その現れはさまざまな地方においてです。同様に、宇宙にただ一つのキリストのからだがありますが、それは多くの地方において現されます。地方でのそれぞれの表現は、キリストのからだの表現です。

政治的な領域で実行される独立と自治とは
絶対的に異なっている
召会の歴史について見てみましょう。一八二八年ごろ、主は英国に一群れの兄弟たちを起こされました。彼らの間には多くの偉大な教師たちがいました。彼らは聖書の中に多くの光を見ました。その中の一人の指導者は、ダービー(J・N・ダービー)でした。ダービーは新約聖書全体の啓示に基づいて、各地の召会は同一であることを見て、すべての召会が統一されることを主張しました。真理の面で言えば、召会は同一ですが、統一化されることはできません。同一であることは一つの事であり、それは、すべてが同じであるという事を意味しています。統一化されることは政治的な意味合いを持ちます。召会が統一化される必要があると言うなら、それは、アメリカ合衆国の連邦(federation)のような意味合いを持ってしまいます。これはもちろん間違っています。同一であることと統一化されることは、表面的には同じような言葉ですが、その意義は全く違います。

召会は、七つの金の燭台(啓一・十二)のように完全に同一であり、絶対的に同一です。あなたが七つの燭台を一緒に置くなら、それらに番号を付けなければ決してどれがどれかを識別することはできないでしょう。なぜなら、それらは同一であるからです。しかし、このような同一は、統一化ではありません。統一化は政治的なものです。地方召会はさまざまな地方におけるキリストのからだの現れです。それらに政治的な性質はありません。

ブラザレンの中に、ラング(G. H. Lang)という名の一人の教師がいました。彼の著書には「神の教会(The Churches of God)」があります。その本の中で彼は、それぞれの召会には自治があるべきであると語りました。これはアメリカ合衆国の各州の自治のようなものです。それぞれの州にはそれぞれの自治があります。しかし、キリストの召会は政治的な団体ではありません。キリストの召会は、わたしたちの体のように、有機体です。

エペソ人への手紙第一章二三節は言います、「この召会は、キリストのからだであり」。ですから、キリストは元首であり、かしらであり、召会は彼のからだです。これは明確な事実です。わたしたちの人の体を例に取りましょう。もし肩に一つの自治があり、腕に一つの自治があり、手のひらにもう一つの自治があり、鼻、目、足にそれぞれ一つ一つの自治があるとするなら、その体は完全に分かれ切断されてしまい、もはやその体は存在しなくなるでしょう。

こういうわけで、わたしたちは、召会が政治的な団体ではないことを見なければなりません。召会は完全に有機体です。召会は有機的なからだであるので、それは分離され得ず、自治的ではあり得ません。アメリカ合衆国の州政府組織が連邦政府を形成していることを、召会に例えようとするなら、完全に間違っています。もしわたしたちが自治について語り、その方法を召会にもたらすなら、重大な過ちを犯すだけではなく、召会を殺してしまうでしょう。しかし、人々がこのような方法を好むのは、すべての人が独立することを好み、平等であることを好むからであり、また他の人の下にいることを好まないからです。聖書は有機的なからだを用いて、召会について語っています。キリストのからだは、とても完璧なものであって、多くの困難を避けることができます。

召会の行政は、政治の行政とは異なっている
わたしたちが「行政」という言葉を用いて召会について語るとき、召会の行政と政治の行政は同じものではないので、とても注意深くなければなりません。これは、家庭の行政と政府の行政との違いのようなものです。家庭は命に重きを置き、政府は組織に重きを置きます。政府の行政部門間の関係は完全に組織化されており、有機的な関係はまったくありません。家庭の行政には命と血の関係があり、親、子供、兄弟、姉妹の関係です。この関係は完全に、血の関係であり、命の関係です。

しかしながら、今日のキリスト教は完全に大きな政治的な団体です。特にカトリック(Catholic Church)はそうです。カトリックの形成は、イグナチウス(Ignatius)という初期の教会教父が持ち込んだ誤った観念によって、第二世紀に始まりました。彼は、新約の監督は長老よりも身分が高いと間違って考えました。しかし使徒行伝第二〇章は、パウロがエペソに人を遣わし、そこの召会の長老たちを呼んだことを示しています。長老たちが来た時、パウロは彼らに、「聖霊は彼らの間に、あなたがたを監督として立てられ」たと言いました(二八節)。これは、「監督」と「長老」は同意語であり、同じ人々のグループであることを指しています。長老という言葉はその個人を指しており、監督は務めと働きを指しています。

イグナチウスの誤った教えは、宗教の聖職者階級制度の根拠となりました。それは主教、大司教、枢機卿、教皇から成る宗教組織をもたらしました。教皇は、監督する最高主教です。これは巨大な政治組織となりました。プロテスタントでも同じような実行が発展しました。特に、米国聖公会[監督派教会](Episcopalian Church)がそうです。その名自体が、監督する主教という意味を含んでおり、監督する主教を持った組織の体系の上に建てられました。原則において、この体系から自由にされている宗派はありません。わたしたちは注意深くなければ、この落とし穴に落ちてしまうでしょう。こういうわけで、わたしたちは、召会が有機体であることをはっきりと見なければなりません。召会はキリストのからだであり、政治的な体系の中へと落ち込んでしまってはなりません。ひとたび召会が政治的な体系の中へと落ち込んでしまうなら、命から離れ、完全に組織となってしまいます。

地方召会は有機的であり、組織的ではない
ペテロの第一の手紙第五章一節から三節は次のように言っています、「わたしは……あなたがたの間の長老たちに勧めます.あなたがたの間の神の群れを牧養しなさい.強いられてではなく、自ら進んで、神にしたがって監督し、卑しい手段で利得を求めることによってではなく、熱心に監督しなさい.また割り当てられた人たちの上に、権力を振るうのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」。牧養することは有機的ですが、権力を振るうことは組織的です。有機的なものと、組織的なものは対照的です。なぜ、わたしたちは組織の中へと落ち込んでしまうのでしょうか? この理由は、わたしたちが有機的な面で十分に成就されていないからです。それは子供を育てる母親のようなものです。母親が子供に十分な栄養を与え、病から守るなら、その子供の行動は、それらが何であれ有機的でしょう。しかしある日、ある子供が小児麻痺(ポリオ)にかかり、脚と腕が動かなくなり、重要な機能が失われると、脚と腕が機能できるように義肢を装着する必要がありますが、それは有機的なものではありません。それは組織的なものとなってしまうでしょう。

同様に、わたしたちの間の同労者たちと長老たちは、聖徒たちを十分に成就することをせず、また十分な養いを与えてこなかったので、聖徒たちは正常な命の度量に到達しませんでした。家庭の集まり、小組の集まり、地区集会、福音の宣べ伝えに対する心も、負担もありません。負担に欠けているので、すべては導き、奨励、案配によって行なわれます。これは聖徒たちによる有機的な機能がほとんどないことの証拠です。その結果として、表現されるものはほとんどが人工的なものであり、ほとんど組織になってしまっています。

今日すべてのキリスト教は、命の供給と命における成長に非常に欠けており、ただ組織によって維持されているだけです。主の回復の新しい道において、この種の組織はあるべきではありません。むしろ、すべての兄弟姉妹は主に導かれ、成就されるべきです。彼らは毎日復興され、勝利の生活をし、主と接触し、主と交わらなければなりません。このようにして、聖霊はわたしたちの内側で命の循環を持ちます。この事はわたしたちに負担を持たせ、人々を訪問させ、福音を宣べ伝えさせます。それだけでなく、家庭の集まり、小組の集まり、地区集会でさえ有機的でなければなりません。わたしたちは最善を尽くして、組織のような案配を避けなければなりません。

各地の召会は、
諸事を扱う方法においては同じではないが、霊的な命の性質と証しにおいては同じである
各地の召会は、諸事を扱う方法においては同じではないかもしれません。例えば、福音を宣べ伝えた後に人々をバプテスマするとき、いくつかの場所では浴槽を用い、海に近い場所では人々を海でバプテスマします。その実行においては同じではないかもしれません。ある召会はパンさき集会を主日の夜にするかもしれませんし、別の召会は主日の朝にするかもしれません。各地は、パンさきの集会の時間をその地方の状況、兄弟姉妹の状態に基づいて決定します。その行動においても同じでないかもしれません。集会所に向かう交通手段として、あるときは、バスで集会に来ます。車で来たり、オートバイで来たりもします。これらの諸事、実行、行動は同じでないかもしれませんし、わたしたちはこれらを統一化することもできません。

しかしながら、各地の召会はその霊的な命の性質と証しにおいて完全に同じであるべきです。それは啓示録の七つの金の燭台(啓一・十二二〇二・一)がその性質と形において完全に同じであって、違いがないようにです。ある召会は命と性質において金であり、また別の召会は青銅であり、さらにまた別の召会は銀であると言うことはできません。この結果は、召会を金の燭台ではなく、銀の燭台、青銅の燭台、鉄の燭台とさえしてしまうでしょう。これは間違っています。各地の召会は、金の燭台であり、その性質と証しにおいて完全に同じであるべきです。それは、各地の召会は性質と証しにおいて、ただ同じであるだけでなく、一つであるとさえ言えます。各地の召会の間に相違があるのは、召会の間違いや、消極面においてです。しかし、積極的な面においては、召会はすべて金の燭台であり、性質においては、すべてが金であり、また形においては、それらはみな燭台です。また絶対的に同じであり、また同一のものです。

各地方召会はみな、主の語りかけと
使徒の語りかけを聞くべきである
啓示録で、主は七つの諸地方召会に七つの書簡を書き送られました。消極的な面で叱責の言葉はそれぞれの召会に対して異なっていますが、すべての書簡の結びで、主はいつもこう言われました、「耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい」(啓二・七十一十七二九三・六十三二二)。主が一つの召会に宛てて書いたものを、七つの地方召会はみな聞くべきでした。ですから、七つの地方召会は七つのすべての書簡を聞かなければなりませんでした。この七つの地方召会はみな、積極的な面においては同じであるのを、わたしたちは見る必要があります。七つの金の燭台は別々のものでしたが、それらは同一のものです。

コロサイ人への手紙第四章十六節でわたしたちが見るのは、使徒パウロがコロサイの聖徒たちに命じて、コロサイに在る召会とラオデキヤに在る召会に、それぞれに宛てられた書簡を、互いに読んで、受け入れるようにさせたということでした。これらは、異なる地方に在る二つの別個の召会でしたが、彼らが受けた教えは同じでした。

使徒たちが各地の召会で教えた時、彼らの教えはすべて同じでした(Ⅰコリント四・十七七・十七十一・十六十四・三四)。一つの場所である種類の教えがあり、もう一つの場所でもう一種類の教えがあるというようなことはありません。使徒たちはあらゆる召会で同じ事を教えました。すべて同じ教えを用いました。その結果として生み出された召会は、諸事と実行において違いはありましたが、その性質と表現においては同じでした。

地方における建造は、
キリストの宇宙的なからだのためである
エペソ人への手紙第四章十二節は、キリストのからだの建造のために、その務めの働きへと聖徒たちを成就するさまざまな賜物を持った聖徒たちについて述べています。この賜物のある人たちの働きとは、聖徒たちを成就し、キリストのからだを建造する働きです。この種の実行と建造は、地方的なものであり、宇宙的なものではありません。キリストのからだは地方において現されますが、地方のためではありません。ですから地方召会は、キリストのからだの宇宙における有機的な建造のためであり、地方の組織の「集まり」を作るためではありません。キリストのからだは宇宙的ですが、その実行上の建造はさまざまな地方の諸地方召会において遂行されます。もしそうでなければ、からだの建造は名ばかりのものとなり、実際に欠けるでしょう。しかし、さまざまな地方での召会の建造は、地方での集まりにおける召会のためではありません。それはキリストの宇宙的なからだのためです。

キリストのからだの建造の究極的なゴールは新しい人の成長と円熟であり、キリストの豊満の身の丈の度量へと至るためです。エペソ人への手紙第四章十三節は次のように言っています、「ついにわたしたちすべては、その信仰の一に、また神の御子を知る全き知識の一に到達し、一人の完全に成長した人に到達し、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達するのです」。この節の「一」とは、実行上、わたしたちの生活における一です。わたしたちは実際、すでに神聖な命の一を持っているので、ただそれを保持する必要があるだけです。しかし、わたしたちが実行上、生活における一に到達するためには、さらに前進する必要があります。わたしたちは命において成長すればするほど、ますますその信仰とキリストの認識をしっかりと保ち、分裂を引き起こす、あまり重要でない、低い教理の観念をすべて放棄するようになります。そうして、わたしたちは実行上の一に到達し、それを達成します。

宇宙には、ただ一つのキリストのからだがあるだけであり、わたしたちはそのからだの肢体です。すべての肢体は同じ命を享受し、互いに有機的な関係を持っています。この一つの有機体には、すべての聖徒たちと、すべての地方召会が含まれています。諸地方召会は一つのからだであり、すべての地方召会は一であるべきですが、これは地方召会が統一化されたり、連合したりすることを意味するものではありません。わたしたちはどのような連盟にも参加していませんし、組織において一であるのでもありません。わたしたちは有機的に一です。なぜならわたしたちは、キリストという同じ命を持っているからです。もしわたしたちが、このからだが表現されている地方に行くなら、その表現されている場所における肢体です。なぜならわたしたちは、キリストの唯一の、宇宙的なからだの肢体であるからです。わたしたちはある国に行って、そこにいる聖徒たちと集まるとき、彼らと一になります。わたしたちはどこに行っても、この神聖な命の中で一です。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第6巻より引用