神聖な啓示の高嶺

真理

主は、彼の回復において、神聖な啓示の高嶺をわたしたちに示しました。この高嶺は、次の言葉で要約することができます。「神が人と成ったのは、人が神格においててはなく、命と性質において、神となるためである」。この言葉は聖書に合致しているだけでなく、神の新約エコノミーについての啓示全体を具体的に表現しています。このメッセージでは、手順を経て究極的に完成された三一の神と、手順を経て究極的に完成された神によって選ばれ、贖われた民を含む、神のエコノミーの内容に基づいて、「神は人と成り、人は神となる」という意味を明らかにします。

手順を経て究極的に完成された三一の神の達成
手順を経て究極的に完成された三一の神の達成、すなわち彼が成し遂げ、またわたしたちのために今も行なっておられるすべての事柄、これらはすべて彼のエコノミーを完成させるためです。神が達成された最も重要な事柄の一つ目は肉体と成ることです。その後、彼は人の生活を経過し、すべてを含む死を達成し、すべてを征服する復活を成し遂げられ、すべてを超越する昇天へと入られました。肉体と成ること、人の生活、死、復活、昇天、これらは神が経た手順であり、神の動きの五つの段階でもあります。

肉体と成る
神が肉体と成る(ヨハネ一・十四)とは、神が肉にある一人の人と成ることによって、神を人の中へともたらすことを示します。神が人と成ることは、神が神性と人性をミングリングされ、神と人、神性と人性を一つの実体とすることを意味します。 キリストは神聖な霊によって受胎され、人の処女から生まれました(マタイ一・二〇)。キリストの誕生は一人の神・人、すなわちインマヌエル(マタイ一・二三)を生み出し、多くの神・人を大量生産するための原型となりました。

三十三年半の間、人の生活を経過される
手順を経て究極的に完成された三一の神の第二の大きな達成は、三十三年半の間、人の生活を経過することでした。神は地上において一人の人と成られました。そして人の生活を送られました。しかし、彼は人間的なものは何も表現せず、神聖な属性を人性の美徳を通して表し、こうして人性において神を表現されました。キリストは十字架につけられた人の生活を生きることによって、神聖な命を表現されました。三一の神が、このように人の生活を経過したのは、来たるべき多くの神・人のために模範を打ち立てるためでした。すなわち、神・人が十字架につけられて死に、そして生きるためでした。それによって神は人性を通して表現されます。

すべてを含む死
キリストは十字架上ですべてを含む死を成し遂げられました。彼の死において、まず第一に対処されたものは、わたしたちの肉でした(ガラテヤ五・二四、ローマ八・三後半)。彼はまた、罪を罪定めしました(罪は肉の中にある[ローマ七・十八]、そしてキリストはその様において罪の肉となることによって罪とされた[Ⅱコリント五・二一前半])。そして、彼は彼の血を流すことによって罪(もろもろの罪を含む)を取り除きました(ローマ八・三後半、ヨハネ一・二九、ヘブル九・二六後半、二八前半、ヨハネ十九・三四後半)。キリストはまた、彼のすべてを含む死において、死の権能を持つ者、すなわち罪の肉に関係する悪魔を滅ぼしました(ヘブル二・十四、ヨハネ十二・三一後半)。肉、罪、サタン、この世、これら四つのものは互いに関連します。キリストは彼の死において、この世を裁き、その支配者である悪魔を追い出しました(ヨハネ十二・三一、ガラテヤ六・十四後半)。キリストはまた古い人を十字架につけました(ローマ六・六、ガラテヤ二・二〇前半、六・十四後半)。また、旧創造を終結させました(ローマ六・六)。そして、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄しました(エペソ二・十五前半)。規定とは、人間の生活や礼拝における形式や方法です。これら数々の規定は人々を分裂させます。ですからキリストはそれらを彼の死において廃棄したのです。

キリストは、彼の死において、七つの否定的なものを対処されました。それは肉、罪、サタン、この世、古い人、旧創造、律法における規定です。しかし、キリストの死には一つの肯定的な点があります。キリストは、彼の死において、一粒の麦から多くの麦粒へと神聖な命を解き放たれました。これはキリストが死なれたとき流れた水によって表徴されています(ヨハネ十二・二四、十九・三四後半)。血は贖いのためであり、水は命の分与のためです。

すべてを征服する復活
すべてを征服する復活において、神の長子が生み出されました。神はただ一人の御子、彼のひとり子しか持っていませんでした(ヨハネ一・十八、三・十六)。しかし復活において、神に別の種類の御子、すなわち神の長子が生み出されました。これは復活において、キリストの人性を彼の神性へと引き上げることによって、またキリストが神から生まれることによって(使徒十三・三三、詩二・七)、すなわちキリストの神性(聖別の霊)により、復活の力の中で神の長子と定めることによって起こりました(ローマ一・四、八・二九、ヘブル一・三―六)。

キリストのすべてを征服する復活において、すべての神の選ばれた民は再生されました。それは彼らが神の多くの子たちとなり、また神の長子、復活した神・人であるキリストの多くの兄弟たちとなるためでした(Ⅰペテロ一・三、ヘブル二・十、ローマ八・二九)。同じ復活の中で、このすばらしいキリストは命を与える霊と成りました(Ⅰコリント十五・四五後半)。命を与える霊はキリストの霊、つまり霊なるキリスト、それはニューマ化されたキリストの霊です(ローマ八・九)。命を与える霊はまた、手順を経て究極的に完成された三一の神の究極的完成です。この三一の神は、ニューマ化されたキリストの中に具体化され、命を与える霊として実際化されます。

すべてを超越する昇天
キリストは彼の昇天において、逆らう四つの層を超越しました。彼はハデス、地、空中、天を超越しました(エペソ一・二〇―二一、四・八―十、へブル四・十四―七・二六)。ハデスが第一の層で、地の下の死んだ者たちがとどめられている所です。地は、堕落した人が神に逆らって行動している場所です。空中は、サタンと彼の暗やみの力が神に逆らって活動している場所です。天は、サタンが行くことのできる場所です(ヨブ一・六―十二前半、二・一―六)。キリストは彼の昇天において、この四つの層を超越しました。今日、彼はハデス、地、空中の上にいるだけでなく、彼はまた第三の天の上にまでも至っています。彼はすべての天よりも高い所におられます。

このような超越したキリストは、召会の中に伝達されました。召会はキリストのからだ、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です(エペソ一・二二―二三)。彼はからだ、すなわち召会のかしらであり、すべてのことにおいて第一の地位を持っています(コロサイ一・十八)。彼の昇天において、この方は主とキリスト(使徒二・三六)、また(すべての王たちの)元首、救い主(五・三一)とされました。もし彼がすべての王たちの支配者、元首でなければ、彼は救い主となることはできません。なぜなら、彼はすべての王たちの支配者であるので、彼は神が選んだ者たちが救われるために、すべての環境を管理することができるからです。

キリストは彼の昇天において、わたしたちの大祭司でもあります。神の御前でわたしたちを担い、わたしたちのすべての必要を顧みてくださいます。彼はまた、新約(新契約)の仲保者と執行者です(ヘブル八・六、九・十五)。さらにまさった契約の保証です(ヘブル七・二二)。天の至聖所の奉仕者です(ヘブル八・二)。新約の信者の慰め主(弁護者)です(Ⅰヨハネ二・一、ヨハネ十四・十六、二六、十五・二六、十六・七)。そしてとりなす者であり、神の右と信者たちの中で、とりなしておられます(ローマ八・三四、二六)。

手順を経て究極的に完成された 三部分から成る人
命を与える霊は、手順を経た三一の神の究極的完成です。このすばらしい霊が神によって選ばれ、贖われた民に入るとき、彼らは不思議な手順を経て、神格においてではなく、命と性質において、神となります。この手順は、再生から始まり、更新、聖別、造り変え、同形化、そして栄光化へと続きます。この手順はまた、神の全体的で有機的な救いでもあります。

神はわたしたちを再生して、
わたしたちに神の神聖な命を持たせる

再生とは、神の霊が彼の神聖な命をもって、わたしたちの霊の中でわたしたちを再生することです。再生は、外側の事柄ではありません。それは人々が一般的に言う、「行ないを改めて、新しい生活を始める」ということではなく、また中国人が言うような、「過去のすべては昨日死に、今後のすべては今日生まれる」ということでもありません。再生の実際は、二つの霊と関係があります。一つは、神の神聖な霊、すなわち命を与える霊であり、またそれは霊なるキリストでもあります。もう一つは、わたしたちの創造された人の霊です。ある日、わたしたちが主の御名の中へと信じることによって、悔い改めて主を受け入れたとき、神聖な霊としての彼は、わたしたちの霊の中に入って来て、わたしたちの霊を生かされました。こうして、わたしたちの創造された霊は再生されました。これが再生の真の意義です。

ですから、再生はわたしたちを神から生まれさせ、神の種族とならせます(ヨハネ一・十三)。すなわち、わたしたちを神と同じ種類とします。わたしたちは、神のかたちにしたがって創造されて、神の種類でしたが、わたしたちには神の命、彼の神聖な性質はありませんでした。しかしながら、わたしたちの霊が再生を通して彼の霊によって生かされた時、わたしたちは神の子供たちとして生まれました(ヨハネ一・十二)。神の子供たちは神の種族です。やぎはやぎを生み、牛は牛を生み、人は人を生みます。同じように、神は神を生みます。神から生まれたわたしたちは、すべて神の種族です。わたしたちには神の神格、神位はありませんが、神の命と神の性質を持ちます。これが、神の心の願いであり、大いなる喜びです。それは、彼の命と性質を持ち、さらには彼の表現となることができる、彼と全く同じである人々のグループを持つことです。わたしたちが再生される必要があるのは、わたしたちに罪があるからではなく、神が、わたしたちに神の命を持ち、完全に神のようになることを望んでおられるからです。

神はわたしたちを更新して、
わたしたちを神の神聖な新創造とならせる

わたしたちは神聖な命と性質をもって再生されましたが、思いが新しくされることによって、なおも造り変えられる必要があります(ローマ十二・二)。わたしたちの思いが更新される時、わたしたちの全存在は造り変えられます。聖霊が新しいもの、新しい人の神聖な本質を、わたしたちの中に分け与えられます。こうして、わたしたちは古い状態から完全に新しい状態へと、旧創造から新創造へと移行します(テトス三・五)。わたしたちの中の神の働きは、日ごとに旧創造を壊し、新創造を建て上げています。これは、わたしたちクリスチャンが、全生涯を通して経験しなければならないことです。

神はわたしたちを聖別して、
わたしたちに神の聖なる性質を持たせる

わたしたちは神によってご自身のために創造されましたが、堕落して神から分離したので、地位と性質において失われ、俗なものとなりました。それゆえ、神は彼の全体的な救いの中で、地位において法理的に、また性質において有機的に、わたしたちを聖別されます。わたしたちの法理的な地位上の聖別は、キリストの贖う血を通して達成されます(ヘブル十三・十二、十・二九、Ⅰコリント一・二、ローマ一・七、参照、マタイ二三・十七)。わたしたちの有機的な性質においての聖別は、聖霊によって神の聖なる性質をもって遂行されます(ローマ十五・十六、六・十九、二二、Ⅱペテロ一・四)。

神はわたしたちを造り変えて、
わたしたちに神の神聖なかたちを持たせる
造り変えは(Ⅱコリント三・十八)、外側の変化や矯正ではなく、わたしたちの中での神の命の新陳代謝的な作用であって、キリストの神聖な命の要素をわたしたちの全存在に加えることにより、わたしたちが外側でキリストのかたちを表現するためです。

神はわたしたちを同形化して、
わたしたちに神の神聖な要素を持たせる

わたしたちは再生された後、さらに神によって更新され、聖別され、造り変えられて成長し、神聖な命において円熟して完全に成長した人となり、キリストの豊満の身の丈の度量に至り(コロサイ一・二八、エペソ四・十三)、神の長子キリストのかたちに同形化されます(ローマ八・二九)。わたしたちの同形化は神聖な命における円熟です。そのような同形化は、わたしたちを神の長子の複製とし、彼と全く同じになり、神の義と神の聖において完全に神に似るようにします(Ⅰヨハネ三・二、エペソ四・二四)。

神はわたしたちを栄光化して、
わたしたちに完全に神の神聖なかたちを持たせる

栄光化は(ローマ八・三〇、ヘブル二・十)、神の有機的な救いの最終段階であり、同形化された信者たちを神の栄光の中にもたらします。多くのクリスチャンは今日、わたしたちの栄光化は主イエスが戻って来られる時、一瞬にして起こるという、間違った観念を持っています。そのような観念は、全く不正確です。栄光化は徐々に進む過程を通して成し遂げられ、再生に始まり、更新、聖別、造り変え、同形化に続いて、最終的に栄光化に達し、それによってわたしたちは完全に彼の神聖なかたちを持ちます。わたしたちは、全生涯、神の栄光で浸透されることを通して内側からも、また神の栄光の中へもたらされることを通して外側からも、栄光化されます。内側の浸透は全生涯の過程ですが、わたしたちが外側で神の栄光の中へもたらされるのは一瞬のことです。わたしたちはそのような栄光化によって、神の神聖なかたちを持つことでの完成に到達します。

神と人のミングリングの究極的完成
聖書の終わりには、すばらしい夫婦がいます。その霊(手順を経て究極的に完成された三一の神)と花嫁(造り変えを経て究極的に完成された三部分の(人)召会)が結婚します(啓二二・十七前半)。これは「神が人と成ったのは、人が神格においてではなく、命と性質において、神となるためである」の究極的完成です。これは神と人が永遠の夫婦となり、同じ種類のカップルとなり、この宇宙における三一の神の完全な現れとして、ミングリングされて永遠に一つの実体となります。

わたしたちは礼拝の対象として、神の神格において神になるのではありません。それはキリストに具体化されたすばらしい三一の神だけが礼拝に値します。彼だけがからだのかしらであり、すべての主でもあります。さらに驚くべきことは、わたしたちが再生を通して、神の命と性質を得て、神の子供たち、つまり神の子たちとなったことです。過去の永遠において、神はわたしたちを選び、わたしたちを聖別して、わたしたちを子たる身分へと定められました(エペソ一・四―五)。今日、わたしたちは聖なる手順を経て、徐々に「息子化」されています。つまり、わたしたちは神格においてではなく、命と性質において、徐々に神になりつつあります。わたしたちはキリストを生きるために、霊にしたがって歩くことを切望しています。同時に、わたしたちはキリストが出現(来臨)される日を待ち望んでいます。その時、わたしたちは彼の神格においてではなく、命と性質と姿において、完全に彼のようになるでしょう。この神聖な啓示の高嶺をわたしたちに示してくださった主に感謝します!

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第6巻より引用