箴言第一章七節は言います、「エホバを畏れることは知識の初めである」。これは、わたしたちが正常な人の生活をするときの第一の原則は、主を畏れることであると言っています。ここでは、二つの旧約の中の反逆の事例から主を畏れることの内在的意義を見て、さらに進んで主を畏れる人がどのような霊を持つべきかを見ます。
主を畏れることは
ただ罪を逃れることではない
主を畏れるとはすべてのことで主を顧慮し、尊重することです。神の目には、人が自分の意志に従って歩き、神の権威に従わないとき、罪を犯しています。罪とは、人が自分自身の性質に従って行動することです。もし人が神の権威の下に来ないなら、彼の行動が善であるときでさえも、彼は罪を犯しているのです。神の目には、自分の意志に従って行なわれるすべての善は、不法です。神は、人がささげる羊や家畜の数、脂肪の量には関心がありません。神は、服従と従順を要求しています(サムエル上十五・二二)。服従と従順は、権威に対してするものです。しかし、いけにえは主の意志に対してではなく、神を怒らせるかもしれません。
ですから、主を畏れることは、罪から逃れることだけでなく、それにもまして、自己を拒絶することです。主を畏れることは、単にわたしたちが罪を犯したことやこの世的であることを恐れることだけではなく、わたしたちが行なっている事が主からではなく、自分自身からであることを恐れることです。主はわたしたちを創造されたすばらしい神であることを決して忘れてはなりません。わたしたちは主を怒らせることを恐れ、彼の臨在を失うことを恐れるべきです。
主を畏れることは
自己を拒絶することである
祭司は全焼のささげ物の祭壇からの火で、
エホバの御前に香をたかなければならない
旧約の祭司の正常な神への奉仕の結果、火がエホバの御前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪の部分を焼き尽くしました(レビ九・二四)。青銅の祭壇の上のすべてのささげ物を焼き尽くすこの火は、天から下って来たものであり、焼き尽くすことによって、民のささげ物を受け入れました(参照、歴代上二一・二六、歴代下七・一)。この火は人によって点火されたのではなく、神から来ました。そしてこの火は、それが来た時から、決して消えませんでした。その火は日ごとに、夕から朝まで、いつも燃えていました。その火は聖なる火であって、異火ではありませんでした。レビ記第十六章十二節はわたしたちに、祭司は全焼のささげ物の火をもって、エホバの御前に香をたくべきであると告げています。この火によって、二つの祭壇、すなわち香壇と全焼のささげ物の祭壇は、一つにつながりました。全焼のささげ物の祭壇はささげ物を燃やすためであり、香壇は香をたくためです。この火が二つの祭壇を一つにします。
全焼のささげ物の祭壇の上の火は、神の御前でのすべての天然的で消極的な事柄を焼いて灰にします。神へと昇っていくことができるものは何であれ、まず祭壇において神聖な火で燃やされなければなりません。祭壇の上で神聖な火をもって燃やされたものは何であれ、神に受け入れられます。こういうわけで、香壇において神の前で香をたくために、神から下って来る火が必要とされるのです。これは、わたしたちの奉仕のために必要なものは神聖な火であることを示しています。
ナダブとアビフは異火を献げた
しかしながら、「アロンの子たち、ナダブとアビフは、それぞれ自分の香炉を取って、火をそれに入れ、香をその上に盛って、異火をエホバの御前に献げた.それは、エホバが彼らに命じておられなかったことである」(レビ十・一)。ナダブとアビフが献げた火は祭壇からの火、すなわち神から、天から出て来た火ではなく、人から、地から出て来た火でした。これは聖なる火ではなく、俗的な火でした。異火は、神にささげられる人の天然の熱心、天然の愛情、天然の力、天然の能力を表徴します。このことは、わたしたちが天然の熱心を奉仕の中へと持ち込むべきではないことを啓示しています。それが良くても悪くても、純粋でも不純でも、それはやはり天然的です。
第九章は、ささげ物をささげたのはアロンであったことを見せています。アロンの子たちは、彼の助手に過ぎませんでした(二、七、十八節)。ナダブとアビフはアロンが行なったことを見て、何も特別なことではないかのように、自分たちも同じことをすることができると考えました。彼らは異火を献げました。それは、神の命令に従ったものではありませんでした。ここにはささげ物はありましたが、聞き従うことがありませんでした。自己の決定に従って、自分の好きなことをしており、完全に神を顧慮し尊重していませんでした。
祭司の奉仕における異火は死をもたらす
「すると、火がエホバの御前から出て来て、彼らを焼き尽くしたので、彼らはエホバの御前で死んだ」(十・二)。この火は裁きのためであり、受け入れるためではありません。アロンの二人の子たちは良い心と良い意図をもってささげましたが、結果は死でした。これはわたしたちの警告となるべきです。わたしたちは今日の祭司です。そしてわたしたちは何を神にささげるかについて注意しなければなりません。今日、多くのクリスチャンは、一種の天然の熱心、天然の熱意をもって奉仕します。この熱心は十字架によって対処されておらず、全く復活の中にないものであり、神の目には厳粛な罪です。過去において、召会の中で何人かの有能な人たちが熱心に主に仕えてきました。しかし、彼らが奉仕すればするほど、ますます他の人たちに死をもたらすようになり、おもに彼ら自身に死をもたらしました。彼らは天然的に奉仕をしたので、霊的な死に至り、最終的に彼らは奉仕の中から消え去りました。彼らの祭司職は失われました。これは何とおそろしいことでしょう!
主を畏れることは
主を怒らせることを恐れ、
彼の臨在を失うことを恐れることである
ミリアムとアロンがモーセを非難する
民数記第十二章一節は言います、「ミリアムとアロンは、モーセがめとっていたクシ人の女のことで彼を非難した」。モーセはクシの女、すなわちハムの子孫をめとりました(彼はセムの子孫でした)。ですから、彼がしたことは間違っていました。ミリアムは姉であり、アロンは兄でした。本来彼らは家族の中では兄と姉ですから、義理の妹に対して不満があれば、彼女を非難することもできますが、ミリアムとアロンは言いました、「エホバはただモーセを通して語られるのでしょうか? わたしたちを通しても語られるのではないでしょうか?」(二節)。この言葉が語られたなら、それは違ったものとなります。彼らはこの問題を、家族の範囲から、神の働きの範囲に移してしまいました。
イスラエル人が紅海を渡って救われた時、ミリアムは歌を歌って預言し(出十五・二〇―二一)、神はまたアロンをモーセの口として用いました。しかし神は、モーセはアロンにとって神のようになるとも言われました(四・十六、参照七・一)。神は、働きの権威をモーセにゆだねられました。もしアロンとミリアムの不満が家族の中だけに制限されていたなら、良かったかもしれません。しかし、彼らが神の働きに触れるとすぐに、彼らは大きな間違いを犯しました。神の奉仕者を非難する資格があるのは、神だけでした。他にだれも、神のしもべを非難する資格はありません。神の働きにおいて、唯一神だけが、モーセを責める地位を持っておられました。モーセの兄も、彼の姉も、そうすることはできませんでした。多くの人は、家族の問題と神の働きを混同しています。これは大きな間違いです。
神の代理権威を犯すことを怖れる
民数記第十二章二節後半は続けます、「エホバはこれを聞かれた」。モーセはアロンとミリアムの言葉を聞いていなかったかのようでした。彼が何も言わなかったからです。しかし、神はそれを聞かれました。モーセの反応については、聖書はただこう言います、「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に柔和であった」(三節)。突然、エホバは三人に集会の天幕に出て来るように言われ、雲の柱の中で下りて来て天幕の入り口に立ちました。これは神がミリアムとアロンの非難をとても重く見ておられたことを表しています。なぜなら、このことは神の権威を否定することであり、神の御座を攻撃していたからです。ここで、神はアロンとミリアムに対して言われました、「もしあなたがたの間に預言者がいるなら、わたし、エホバはビジョンの中でその者にわたし自身を知らせ、夢の中でその者に語る。しかし、わたしのしもべモーセはそうではない.彼はわたしの家全体において忠信である。彼には、わたしは口と口とで明らかに語って、なぞで話すことはしない.彼はまたエホバの形を見つめている」(六―八節前半)。ここで神はこのように言われたかのようです、「ミリアムよ、たとえあなたが女預言者であっても、せいぜいわたしは、ビジョンの中で、また夢の中であなたに語っただけでしょう。しかし、モーセとは、わたしは口と口とで語ります」。また神は言われました、「なぜあなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか?」(八節後半)。神の怒りが、彼ら二人に対して燃え上がりました。モーセ、すなわち神のしもべを非難することは、小さなことではありません。それは、神の怒りを引き起こします。
神の働きの上で、モーセは神のしもべでした。彼に権威を与えたのは神でした。ですからもし人がモーセを怒らせるなら、それはモーセを怒らせるのではなく、モーセを選んだ神を怒らせるのです。神の怒りが燃え上がった原因は、アロンとミリアムが怒ったのがモーセ自身にではなく、彼が代行する権威にだったからです。神が怒らないなら、神の代理権威も怒りません。一人の人が神の代理権威に怒るなら、それは神に怒るのです。人が神を怒らせることを恐れるなら、神の代理権威を怒らせることも恐れるべきです。
神の臨在は厳粛なことである
神の怒りが、ミリアムとアロンに対して燃え上がった時、雲が集会の天幕から離れ去りました。これは、主の臨在が去ったことを表徴します。さらに、ミリアムはらい病になりました。らい病は汚れていて、七日間神の民の宿営から隔離されなければなりませんでした。ミリアムが連れ戻されるまで、民は進みませんでした。これがわたしたちに告げているのは、非難があるときはいつでも、神の臨在がなくなり、神の民の行動は妨げられるということです。これはとても厳粛なことです。神がミリアムを罰し、アロンを罰しなかったのは、この反逆はミリアムによって先導され、動かされたものであったからでしょう。さらに、女の反逆は特にふさわしくないので、神はミリアムを罰してイスラエルの子たちのすべての女に警告し、警戒させて、ミリアムに従わないようにさせました。
このように、神のしもべに対するわたしたちの態度が間違っているなら、わたしたちは完全に間違っており、前進するすべはありません。わたしたちは、神のしもべに軽々しく語ることはできません。今日多くの人は、事態の重大さを認識せずに、前面にいる人を非難し、神のしもべを軽々しく取り扱っています。人が権威に触れるとき、頭をぶつけたことのある人が壁を恐れるのと同じように、不注意であることはできません。神がわたしたちの目を開いてくださり、権威の重大さを見ることができますように。このようであってはじめて正しく主を畏れることができます。主をあがめます。
主を畏れる人のあるべき霊
霊の中で貧しく純粋な心
クリスチャンは霊の中で貧しく、心が純粋であるべきです(マタイ五・三、八、イザヤ六六・二)。霊の中で貧しいとは、あなたが何も持っていないこと、何も知らないこと、何もできないこと、何者でもないことを認めることです。キリストも命を与える霊も持っていないなら、人は何者でもありません。霊の中で貧しいことは純粋な心と組み合わされ、わたしたちの霊の中で、わたしたちの存在の最も深い部分において、空にされなければなりません。心が純粋であることは動機と関係があり、目的が単一であり、ただ一つの目標をもって神のみこころを完成して、神に栄光を帰すことです。
喜んで従う霊
詩篇第五一篇十二節で、ダビデは主に言いました、「あなたの救いの喜びをわたしに戻し、喜んで従う霊をもってわたしを支えてください」。信者は主のことと召会のことに対して、いつも喜んで従う霊を持っているべきです。しかしながら、わたしたちはしばしば主の権益のことに関して不満を抱きます。わたしたちは霊の中で貧しく、主の権益に関することで喜んで従う必要があります。
歓喜の霊
神の霊は歓喜の油です(イザヤ六一・一、へブル一・九)。わたしたちは神の霊をもって歓喜しているべきです。ですから、わたしたちは喜びの人であり、一日中歓喜していなければなりません(九節、使徒十三・五二、ローマ十四・十七)。またあらゆることで神に感謝をささげるべきです(エペソ五・二〇、コロサイ三・十七)。
知恵と聡明の霊、助言と勢力の霊、
神を知る知識と畏れの霊
神を畏れる人は、知恵と聡明の霊、助言と勢力の霊、神を知る知識と神に対する畏れの霊を持っているべきです(イザヤ十一・二―三)。人が神の霊を持っているなら、その霊には多くの面があることを理解しなければなりません。その霊は知恵と導きに満ちており、助言と勢力に満ちています。助言とは正しい事を行なう方法を指しており、勢力は正しいことを行なう能力を指しています。
その霊はまた神を知り畏れる霊です。預言者イザヤは知識とエホバを畏れることを一緒にしました。ただ神を畏れることで、わたしたちは守られ、不法から逃れることができます。わたしたちは主を畏れ、知識を持つ必要があります。わたしたちが知識を持てば持つほど、ますます神を畏れるべきです。人が神の霊を持っているなら、知恵を持つことができ、聡明と導きに満たされ、物事を行なう正しい方法と能力を持つでしょう。人が神の霊を持っているなら、無知で、不注意で、神を畏れないことはできないでしょう。それどころか、わたしたちは非常に知識を持つようになり、神に対する畏れで満ちるでしょう。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第5巻より引用