聖書の中の中心的な事柄と中心から外れた事柄を識別する

真理

もしわたしたちが、強い思いを持つ倫理的な人であり、真に道徳的な人として完全でありたいという願いを持っているなら、確かに聖書の中の箴言の書はわたしたちを助けて、完全さを追い求めることにおいて成功させるでしょう。しかしながら、それは箴言の書の中心的な事柄ではなく、また聖書の中心点でもありません。聖書は神の息吹かれたものであり、わたしたちが吸い込んで、神の言から享受を得て、わたしたちの命としての神を受けるためです。

聖書の中の中心的な事柄と中心から外れた事柄を識別することを訓練する
わたしたちが聖書を読み、神を享受したいなら、聖書の中には、中心的な事柄があり、また中心から外れた事柄があることを見る必要があります。言い換えれば、聖書の中には根本となる事柄と、その枝葉のような事柄があるということです。木には根と幹がありますが、それには枝と葉もあります。根と幹、枝と葉の間には基本的な違いがあります。わたしたちはまた、皮だけでなく肉のある調理された鶏の例を用いることができます。もし調理する前に、羽が徹底的に引き抜かれていなければ、なおも羽が残っているかもしません。調理された鶏の中心的な事柄は肉であり、中心から外れた事柄は皮と羽です。同じように、聖書の中には中心的な事柄があり、同様に中心から外れた事柄があります。

聖書の中心的な事柄とは何でしょうか? それは神があなたの中に入り、あなたの命となることです。あなたは神の中にいて、はじめて真の喜びを持つことができます。あなたは、神の中にいるなら、神の平安が真にあなたの心と思考とを護衛してくださいます。あなたは神の中にいなければなりません。そうして秘訣を持つことができます。あなたは神の中にいなければなりません。そうしてこそ、あなたはすべてのことを行なうことができ、神もまた、すべてのことであなたの力となることができます。これらの「神の中」は、中心的なことであり、これらすべては、神が御子の中で人の命となるということを言っています。これらのことが、神の主要な目的です。しかし、わたしたちが聖書を読むとき、ただ外側にあることだけを読み、神が最もわたしたちに告げたいことを読み取ることができないかもしれません。

聖書の中心から外れた事柄

苦難の慰め
聖書の中の第一の部類の中心外にある事柄は、苦難、問題の慰めと解放に関する事柄です。聖書の中で、多くのこの部類の事柄を見いだすことができます。神の中心思想と目的は、ご自身を人の中へと造り込んで、人の命となることですが、人の側に多くの問題があり、人が神の命を受け取ることができなくなっています。第一の大きな問題は、人に苦難があることです。人生にはいつでも苦難が伴います。ですから命としての神が人の中に入って、多かれ少なかれ人に代わって事を行なってくださいます。多くの人は、神をすべての問題を解決する神としてしまっています。あなたは仕事がないのですか? 神はあなたに仕事を探してくださいます。あなたは進学先がまだ決まっていないのですか? 神があなたに学校を手配してくださいます。あなたは家庭を持ちたいのですか? 神があなたに道を開いてくださいます。多くの人は、神を信じないならともかく、神を信じたなら、神がその人に代わって、あの事この事を行なって欲しいと思います。神がその人の祈りを聞き、その人のためにこの事、あの事を行なうと、その人は神に感謝し、神を賛美します。しかしある時、その人が祈っても、神が彼に何も行なわれなかったとしたら、すぐにその人は、「イエスはどうしたのでしょうか? なぜ、神はある人々をひいきするのでしょうか? おそらく神は信実な神ではなく、信頼に値しないのです」と言うでしょう。そして腹を立て、集会に行かなくなり、個人的な祈りもやめてしまいます。

人がこのような反応をするのは、人が神を知らないからであり、神は寛大で温厚な神だと思っています。神は人に対して、盲目的に愛とあわれみを分与すると考えます。このような間違った考えによって覆われているので、神が人において何を行ないたいのかを理解することができません。人には全く神の観念というものがなく、ただ自分の苦難によって完全に占有されています。福音を宣べ伝える者たちでさえ、イエスを信じるなら、すぐに問題が解決し、人生の苦難が解決すると言います。イエスを信じれば、幸せに満ちて、祝福があり、健康になると言います。これは、人生には苦難があり、また人は神の意図を理解できないので、主を信じたとしても、ただこれらの事にしか注意を払えないのです。

聖書の中では、確かにこれらの事を述べていますが、それらは重要な点ではありません。聖書は、わたしたちに神は実にあわれみ深く人を顧みておられるかを見せています。あなたは苦しいですか? 神はあなたの苦しみを和らげられます。あなたは病気ですか? 神はあなたをいやしてくださいます。聖書は実にこのような多くの甘い約束を述べていますが、これらの事は神の心にある中心的な目的ではありません。神の中心的な目的は、あなたの病をいやしたり、あなたの苦難を取り除いたりすることではありません。神の中心的な目的は、あなたの中へと入って、あなたの命となることです。しかし、あなたが苦しんでいるので、神はあなたを慰めずにはいられません。あなたが病んでいるので、神はあなたをいやさないではいられません。あなたに多くの必要があるので、神は聖書の中であなたに約束を与えないではいられないのです。しかしながら、このような約束は聖書の中心から外れた事柄です。それらは根や幹ではなく、むしろ枝や葉です。

道徳を建て上げる
聖書の中の第二の部類の中心から外れた事柄は、道徳と関係があります。神が人の中へと入って、人の命となるために、神は人が邪悪な人のままでいることを許しません。もし、あなたがコップの中に水を入れたいなら、最初にそれをよく洗って、きれいにしてから水を入れる必要があります。あなたの目的はコップの中に水を入れることですが、最初にコップをきれいに洗わなければなりません。同じように、神がわたしたちを彼の器とし、わたしたちの命としての神ご自身をわたしたちの中へと入れるには、神はわたしたちという器をきれいにして、わたしたちが罪を犯さず、悪を行なわないようにしなければなりません。しかしながら、これは中心から外れた準備の働きにすぎません。

人はまた、この種の道徳の観念で満ちています。ですから、彼が聖書を読んで、道徳について何かを見いだすとき、すぐに応答し、共感します。大部分の人の聖書を開いてみるなら、重要な節として下線が引かれているのは、互いに愛し合うこと、柔和、へりくだり、義、公義などについてです。多くの人がこれらの節を読んでとても良いと感じ、励ましを受けます。これは、聖書の中の多くの教えが悪いと言っているのではありません。これらの教えは良いのです。しかしながら、わたしたちは、これらが中心から外れた事柄であることを認識しなければなりません。これらは神の中心的なみこころではありません。もしわたしたちが聖書を読んで、これらの事柄しか見いだすことができないなら、聖書は、他の宗教書や聖人の教えと何が違っていると言えるのでしょうか? 聖書の中心は、絶対にこれらの事柄ではありません。

生き方の秘訣
聖書の中の第三の部類の中心から外れた事柄は、生き方の秘訣についてです。人としてわたしたちは、地上でどのように生きるべきでしょうか? わたしたちはどのように人間関係を取り扱うべきでしょうか? わたしたちは親として、または子供として、どのように振る舞うべきでしょうか? わたしたちは配偶者とどのようにかかわりを持つべきでしょうか? どのようにして友人を作るのでしょうか? 金銭に対してどのような態度を持つべきでしょうか? 富んでいる人はどのようにすべきでしょうか? 貧しい人はどのようにすべきでしょうか? このような事柄は、聖書の多くの箇所で見いだすことができます。特に箴言においては、ほとんどがこのような種類の言葉です。多くの人がこれらの言葉を尊いと考えています。しかしながら、これらもやはり中心から外れた事柄なのです。

宗教的な熱心
聖書の中の中心から外れた事柄の第四の部類は、宗教的な熱心さと関係があります。あらゆるクリスチャンには、神に仕え、神にささげ、神を愛し、神に忠信である熱心さがあります。これらはすべて良いのですが、宗教的な観念です。これらはやはり聖書の中心点ではありません。

聖書の外側から聖書の中心へと
読むことを実行する
聖書には少なくとも四つの部類の外側の事柄があります。人の苦難に対しては、神の慰めがあり、神の解放があり、神の約束があります。また、神は人の道徳を建て上げられます。また、神は生き方の秘訣を人に与えます。神は人に神に対して忠信で熱心であることも求められます。しかし、人が聖書を読むときには、神がわたしたちの命となるという認識は全く持っていないのと同時に、四つの部類の観念と必要に満ちています。ですから、いくら読んでも外側の事柄しか読み取ることができず、最も中心的な事柄を読み取ることはできません。これが、わたしたちが聖書を読むことで大いに欠けているものです。

しかし、そのようであったとしても、わたしたちは落胆すべきではありません。たとえわたしたちが読んでいる時に、中心的な事柄を見いだせなくても、読み続けるべきです。わたしたちは聖書を読む必要があります。たとえ慰めの言葉しか見いだせなくても、悪くはないでしょう。それはちょうど、「何事にも思い煩うことなく、あらゆることにおいて、感謝をささげることを伴う祈りと願い求めによって、あなたがたの要望を神に知らせなさい」(ピリピ四・六)や、「あなたがたの心配事をすべて、神に投げてしまいなさい.なぜなら、あなたがたに関することを、彼は心にかけていてくださるからです」(Ⅰペテロ五・七)などと同じです。これらを読み取ることができたなら、それは悪くありません。何も食べないよりは、少しでも何かを食べるほうが良いのです。聖書を読み続けることで、外側の領域から徐々に中心へと読み進めていくことができます。まず、鶏の皮を食べ、徐々に鶏の肉を食べることへと進んでいくことができます。なぜなら、あなたが食べ進んでいくうちに、どの場所が肉であるかを知るようになるからです。ですから落胆して、聖書を読まなくなることが絶対にあってはなりません。また聖書を自分はよく読めていると自己満足していてはいけません。

この聖書には、大きく二つに分類されるものがあります。一つは中心的な事柄、もう一つは皮や毛のような事柄です。中心的な事柄とは神の目的であり、毛、皮とは、わたしたちの必要に合った事柄です。わたしたちが自分の必要、感覚、気持ちの側に立つなら、わたしたちは聖書の中心から外れた事柄、皮や、毛しか得ることができないでしょう。しかしながら、わたしたちがそのような事柄から救い出されて、神の目的と神の心の側に立つなら、聖書の中心的な事柄を見いだすでしょう。

しかし、わたしたちがまだその段階にまで達していないときでも、少しの皮の部分は見いだすことができます。そして、わたしたちの神の御前での生活を維持することができ、わたしたちが少し主に触れることができるようになります。いくらか主の言葉を食べ、栄養を受け取ることができ、わたしたちの助けともなります。ですから、わたしたちが、聖書の中心的な事柄を見いだすことが、遠く及ばないことと考えるべきではありません。わたしたちは決して落胆して聖書を脇に置いて読むのをやめてしまうべきではありません。たとえ今は中心的な事柄を見いだすことができなくても、霊を用いて読み、自分自身の思想を否み、わたしたちに触れる言葉をすべて祈りに換えることをなおも学び、その中の栄養を受け取る必要があります。わたしたちは皮の部分を読んでいるかもしれませんが、それでもわたしたちはいくらかの助けを得るでしょう。もしあなたがこのように実行するなら、神はあなたの目を開いてくださり、あなたを前進させ、あなたが聖書の中心的な事柄を見いだすことができるようにされます。

聖書の中心は神が御子の中で
人の命となることである
聖書の中で、最も中心的で、根本的な事柄は、神が御子の中で、人の命となることです。この言葉はとても単純なものですが、聖書の本質について語っています。全聖書は、神がどのようにして、神の御子の中で人の命となるかを語っています。神は彼ご自身を彼の御子の中へと置かれ、また彼の御子を人に与えられます。人が神の御子を受け入れたなら、神は聖霊の中で人の中へと入り、人の命となります。そのようにして神が人の命となられたのは、食物という形で人が受け入れ、消化し、完全に人の内側の要素となるためです。そして人はこの命によって生き、この命に依存し、神の御前に生きます。これが聖書の中心です。

聖書の創世記の初めにおいて、人は命の木の前に置かれました。啓示録の終わりにおいても、わたしたちは命の木がなおも人の間に存在することを見ます。正統な聖書の読み方をしている者たちはみな、この二つの命の木の絵が、神がご自身を命として人の前に置かれ、神を食物の形で人に食べさせ、神を人の命とすることを表徴しているということを認めています。創世記第三章から始まり、啓示録第二二章に至るまで、このことがどのように完成されるかが記録されています。今や神は人の中へと入り、人にとって命となりました。神はどのようにして人の中へと入られたのでしょうか? それは、神の御子の中で、そして聖霊を通してです。神は彼の御子の中で、聖霊を通して人の中へと入られ、人の中で消化されて、人の満足となり、命となり、人を神によって生きさせます。

神はあなたの中へと入り、あなたの命となられます。神はあなたの中へとやって来て、あなたの食物となられ、あなたを満足させます。あなたを満足させたなら、彼はあなたの内側の力となって、あなたを導き、すべての試練と困難を経過させます。神があなたを満足させたなら、神はあなたの中で知恵となられ、人生を生きる秘訣となられます。あなたが満足するとき、あなたは自然に神の美徳を生かし出し、あなたに道徳を建て上げさせるでしょう。あなたが満足を得たなら、あなたは、主のために燃えて、彼に忠信に尽くします。ですから、聖書はこの中心的な事柄に焦点づけられています。この中心を持つなら、それらの中心から外れている枝葉のような事柄も自然に持つようになります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第5巻より引用

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