神の知恵の設計と建築―― 新エルサレム

真理

神は唯一の創造主(Ⅰコリント八・六前半)であり、彼の知恵によって多くのものを創造されました。新エルサレムは、神の無限の知恵を表す召会(エペソ三・十)の究極的完成として、神の知恵に満ちています。この都は神の知恵によって、設計者であり建築者(ヘブル十一・十)でもある神ご自身を人の中に分与することによって建てられます。それは、神のエコノミーの究極的完成であり、神の無限の知恵を明らかに表現しています。もしわたしたちが、新エルサレムが物質的な都ではなく、霊的で、かつ神聖なものを表すしるしだということを理解するなら、わたしたちはこの都の中に神の無限の知恵を見ることができるでしょう。

新エルサレムは
聖書全体のすべての項目の総括である
六十六冊から成る聖書は神の神聖な啓示であり、新エルサレムはその総括です。この大きな書の中に、神のエコノミーと神の永遠のご計画が、彼の神聖な目的を伴って十分に啓示されています。この神聖な目的は宇宙の中で最も高い目的です。そして新エルサレムこそが、この目的、このご計画、このエコノミーの究極的完成です。

わたしたちは聖書の中のどの書にも十分な結論がないことを見なければなりません。最後の書である啓示録に聖書の結論があります。新エルサレムは聖書全体の最終的結論です。それだけでなく、新エルサレムはまた聖書の中のすべての項目の究極的完成でもあります。三一の神、神のエコノミー、キリストの贖い、神の救い、信者、召会、王国、これらすべての項目は新エルサレムで総括されています。わたしたちは、新エルサレムがこの神聖な聖書の中に記録されているすべての題目、項目、事柄、人、物の究極的完成であることを見る必要があります。究極的完成であるからには、それはとても重要な項目です。

すでに述べた数点に基づいて、わたしたちは新エルサレムが決して神の贖われた民が永遠に住む物質の邸宅ではあり得ないと言うことを認識することができます。そのように言うのは低すぎます。これは幼稚園の本の結論のようです。神聖な書である聖書には、偉大で、目的を持つ神の啓示全体が示されているゆえに、当然そのようには終わりません。新エルサレムは神のエコノミーを伴った三一の神の究極的完成であり、すばらしい召会と驚くべき王国の究極的完成です。この究極的完成の意義は、これらのすべての点にふさわしくなければなりません。聖書の神聖な啓示全体から見て、わたしたちは新エルサレムが確かに物質的な住居ではあり得ないと言うことができます。わたしたちは、新エルサレムが聖書全体のすべての神聖な項目の究極的完成であることを覚えておかなければなりません。この究極的完成は聖書のわずか一章と少しを占めるだけですが、ここには神聖な啓示全体のすべての基本的で、内在的で、必要な、真実の項目が含まれています。わたしたちはこれを見なければなりません。

新エルサレムはしるしであり、
物質の邸宅ではない
わたしたちは、しるしの角度から新エルサレムを理解しなければなりません。新エルサレムが物質的な邸宅であり得ない六つの理由を以下で提示します。

啓示録はしるしの書である
まず、わたしたちは啓示録の第一章一節で、本書がどのように書かれたか告げていることを認識しなければなりません。「イエス・キリストの啓示.これは、すぐにも起こるべき事を、神が彼の奴隷たちに示すために、彼に与えられたものである.彼はそれを彼の御使いによって、彼の奴隷ヨハネに送り、しるしによって示された」。主イエスは、この神が与えられた啓示を、しるしによってわたしたちに示されました。「しるし」という言葉は啓示録全体を解釈するかぎの言葉です。啓示録はしるしの書です。啓示録のすべての数はしるしです。七はしるしであり、四もしるし、十二もしるしであり、十もしるしです。燭台、ほふられた小羊、獅子、七つの星、これらすべてはしるしです。第四章三節で、座している方は、碧玉や赤めのうのようであると述べています。碧玉や赤めのうもしるしです。啓示録第十二章一節にある十二の星の冠を頭にかぶり、太陽を着て、月を足の下にした宇宙的な女は、大いなるしるしです。そのようなすばらしい女は単なる単独の個人的な女であり得るでしょうか? そのように解釈するのは論理的ではありません。また啓示録第十二章には大きな赤い龍(三節)がいます。これもしるしです。男の子(五節)もしるしです。それから次の章の第十三章には地中海から出て来る獣を見ます。その獣は来たるべきローマ帝国のやがて現れるカイザルを表徴します。それは一人の人のしるしです。

啓示録第十四章十五節の収穫物もしるしであって、それは神の生きた民を表徴します。啓示録第十四章四節の初穂は、神の民の間で生きている勝利者を表徴します。第十五章二節のガラスの海はもう一つのしるしです。さらに第十七章に大遊女(一節)、大いなるバビロン(五節)を見ます。これは確かに今日のイラクのバグダッドである物質のバビロンという都市ではありません。「奥義、大いなるバビロン」はしるしです。第十九章には細糸の亜麻布の衣を着ている小羊の妻、花嫁を見ます。主イエスが戻って来たときに、細糸の亜麻布の衣を着た女性と結婚されると信じますか? このようにして聖書のしるしを解釈することは重大な誤りです。わたしたちは啓示録の中のすべてのしるしを見る必要があります。特に最後のしるしである新エルサレムを、わたしたちは見なければなりません。

論理的ではない
新エルサレムが物質的な邸宅、物質的な都であり得ない第二の理由は、そのように言うことが論理的ではないからです。新エルサレム、聖なる都は金の山です(啓二一・十六十八)。この都は正方形で、その長さ、幅、高さはすべて一万二千スタディアです。一万二千スタディアは約千三百五十マイルであり、ニューヨークからダラスまでの距離です。そのような高い山に一つの大通りがあって、その山の頂上かららせん状に下って都の四つの面の十二の門すべてに達します。もしこれが住むべき実際の都であるなら、すべての時代の神の贖われたすべての民が、ただ一つのらせん状の大通りのある都に、どのようにして住むことができるでしょうか? これらの民が、ただ一つの大通りがある都の中で、どのようにして行動することができるでしょうか?

わたしたちは、啓示録がしるしの方法で書かれたことを見てきました。もしあなたが、最後のしるしである新エルサレムは物質の、現実の都であると言うなら、本書の最初のしるしである燭台はどうでしょうか? 第一章の七つの星は本当の星でしょうか? 小羊についてはどうでしょうか? 神の小羊としてのキリストは、四本足と小さな尾がある本当の小羊であるとあなたは信じるでしょうか? ユダ族の獅子は動物園にいるような本当のライオンでしょうか? 啓示録のしるしをこのように解釈するのは論理的ではありません。

小羊の妻
新エルサレムが物質的な邸宅であり得ない第三の理由は、この都が小羊の妻であるからです(啓二一・九)。聖書全体によれば、創造者、贖い主である神(男性)と彼の贖われた民(女性)の間には、神聖なロマンスがあります。これは聖書に啓示された基本的な事柄です。旧約において神は贖われた民であるイスラエルに、神は彼らの夫であり、彼らは彼の妻であると告げられました(エレミヤ三・十四)。主イエスが来られたとき、バプテスマのヨハネは弟子たちに、キリストは召会である花嫁を迎えに来る花婿であると告げました(ヨハネ三・二九)。それからパウロはエペソ人への手紙第五章で、召会は妻によって予表され、キリストは夫によって予表されていると告げています(二四―二五節)。こういうわけでキリストは夫であり、召会は妻です。またパウロはわたしたちを処女としてキリストである一人の夫に婚約させたと言いました(Ⅱコリント十一・二)。さらに啓示録第十九章七節は言います、「小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えたからである」。この妻はアブラハムから主の再来までの勝利の聖徒たちの総合計です。旧約のすべての勝利者たちと新約のすべての勝利者たちの総合計が啓示録第十九章七節の妻であり、キリストの婚姻のために用意を整えます。新エルサレムは神の配偶者の究極的完成、神の贖われ完成されたすべての民の総合計です。聖書の中には、アダムとエバから始まり、啓示録の終わりまで、多くの箇所で神が宇宙的な夫であり、神の贖われ完成された民が神の宇宙的な配偶者であることを啓示しています。このような啓示は究極的完成を必要としており、その究極的完成は三一の神の具体化である贖い主、小羊、キリストの妻としての新エルサレムです。

幕屋と宮の究極的完成
新エルサレムが物質の建物であり得ない第四の理由は、啓示録が告げているように、新エルサレムは神の幕屋であり(二一・三)、新エルサレムが神の宮であるからです(二一・二二)。ヨハネは「わたしはその中に宮を見なかった。主なる神、全能者と小羊が、その宮だからである」と言いました。旧約の予表の幕屋は神の住まいだけでなく、すべて神に仕える祭司たちの住まいでもありました。神に仕える祭司たちは、幕屋の中で神と共に住みました。ですから幕屋は神と神に仕える者たちの住まいです。啓示録第二二章三節は、永遠の世では、神に贖われ完成された聖徒たちはみな、神に仕える者であると告げています。ですから彼らはみな神と共に幕屋の中で住みます。予表によれば、幕屋は宮の前の段階のものであり、幕屋が宮をもたらしました。ヨハネは宮を見ませんでした。しかし、神と小羊が宮だからであると言いました。これは宮が、神と小羊が神に仕える者たちの住まいとなったことを示しています。この言葉は詩篇第九〇篇一節と一致します、「主よ、あなたはすべての世代にわたって、わたしたちの住まいです」。こういうわけで幕屋は神と神に仕える者たちの神の住まいであり、この幕屋の中に住む神は宮、すなわち神に仕える者たちの住まいです。それゆえ、わたしたちは新エルサレムが神の子供たちが住む物質の邸宅であると言うことは、とても大きな間違った観念であることを認識しなければなりません。

啓示録が言うように、神と小羊が宮となり、神に仕えるわたしたちの住まいとなります。永遠の世で、わたしたちの住まいは神ご自身です。わたしたちは、これを大いに強調しなければなりません。神と小羊は、神の民と神に仕える者たちが住む永遠の宮となります。わたしたちは大邸宅マンションに住むのではありません。わたしたちは神の中に住みます。ハレルヤ! 彼はわたしたちの宮であり、わたしたちは彼の幕屋です。彼はわたしたちの中に住み、わたしたちは彼の中に住みます。この相互の住まいが新エルサレムであって、それは神にとって幕屋であり、わたしたちにとっては宮であるのです。

わたしたちは、聖書全体は幕屋と宮の歴史であると言うことを認識しなければなりません。出エジプト記第二五章の初めに幕屋を見ますが、それは旧約の歴史の中心となりました。次に、この幕屋は良き地に入ると、それは宮に置き換わりました。この宮は続いてマラキ書まで、旧約の歴史の中心になりました。ですから、旧約は幕屋と宮の歴史です。新約において主イエスは、まずヨハネによる福音書第一章十四節で幕屋であり、ヨハネによる福音書第二章十九節から二二節では彼は宮でした。この宮は復活の中で、拡大されて召会である団体の宮となります(Ⅰコリント三・十六エペソ二・二一)。こういうわけで幕屋と宮は新約の歴史の中心でもあります。聖書全体は幕屋と宮の書です。これには究極的完成を必要とします。幕屋と宮の究極的完成は新エルサレムです。なぜなら、新エルサレムは神のための永遠の幕屋であり、わたしたちのための永遠の宮であるからです。新エルサレムは聖書にある幕屋と宮の究極的完成です。

神の建造の究極的完成
新エルサレムが物質の建物であり得ない第五の理由は、聖書が神の建造について語られている書だからです。まず、神は箱船を建造するようノアに命じられました。次に、わたしたちは旧約で、アブラハムが都を待ち望んでいたこと、彼の子孫であるイスラエルの子たちが幕屋を建造したことを見ます。後ほど、彼らは良き地へと入って宮を建造しました。新約で主は、彼の召会を建てると言われました(マタイ十六・十八)。また彼はユダヤ人たちに、ヨハネによる福音書第二章十九節で、「この宮を壊しなさい。そうすれば、わたしは三日のうちにそれを起こす」と言われました(宮とは、ご自分の体の宮のことを言っています)。ペテロでさえユダヤ人を叱責して、建造する者である彼らが、神の建造の隅の石としてのキリストを捨てたと言いました(使徒四・十一)。またパウロは、わたしたちは神の家であり(Ⅰテモテ三・十五)、神の建物である(Ⅰコリント三・九)と告げました。賢い建築家であるパウロは、土台を据えました。そしてわたしたちはその土台の上に、木、草、刈り株でなく、金、銀、宝石をもって建てなければなりません(Ⅰコリント三・十―十二)。次にペテロは彼の第一の手紙で、キリストは神の建造のための生ける石であり、わたしたち自身も彼のように生ける石として、霊の家に建造されていきながら、と告げています(Ⅰペテロ二・四―五)。わたしたちは、神の建造が全聖書を貫く路線であり、この建造の究極的完成が新エルサレムであるのを見ることができます。

神であるすべて、神が成就し、完成された究極的完成
今、わたしたちは新エルサレムが物質的な邸宅として解釈され得ない最後の理由を見なければなりません。わたしたちの神は偉大なる三一の神――父、子、霊です。御父には驚くべきエコノミーを伴った永遠のご計画があり、御子は肉体と成って、地上で生活をし、すべてを含む死を遂げ、復活と昇天の中へと入ることによって、このエコノミーを完成されました。御子の成就は、卓越した、すばらしい、実に意味深いものでした。次にその霊が来ました。それは御子が成就されたすべてをわたしたちの上に適用させるためです。その霊はまず、わたしたちを再生するために働き、今もなお、わたしたちの内側で働いておられ、わたしたちを造り変え、わたしたちの体を贖い、わたしたちを変貌させ、わたしたちをキリストと全く同じにしてくださいます。これらすべてを通して、召会は生み出され、建造され、一つの王国となります。神の選びの民の中の勝利者たちは、その王国の中でキリストと共に王となります。偉大なる三一の神が彼の成就されたすべてと、そのすべての時代に及ぶ働きには、確かにすばらしい究極的完成を必要とします。神であるすべて、神が成就し、完成されたすべての究極的完成は、新エルサレムです。

究極的完成
もしこのビジョンを受け入れないなら、妻のしるしである新エルサレムに関する質問にどのように答えることができるでしょうか? 妻のしるしは聖書の中で、すべての女性の究極的完成であり、これは神の配偶者を予表します。また、神の幕屋のしるしはすべて、聖書全体の幕屋と宮の究極的完成です。聖書の建造に関する質問に、わたしたちはどのように答えることができるでしょうか? 聖書の中の建造には究極的完成が必要であり、知恵ある偉大な設計者、また建築者である神の偉大なるエコノミーと、彼のすべての偉大なる成就についても究極的完成が必要です。新エルサレムなしには、すべての事柄の完成がありません。物質の住まいに神の無数の贖われた民が、どのように入れるのかを説明することができるでしょうか? わたしたちはこの結論を受け入れるべきです。全聖書の結論としての新エルサレムは、神の計画された偉大なエコノミーと偉大なる成就の究極的完成です。

この究極的完成は、神が選び、贖い、再生し、造り変え、栄光化されたすべての民の生ける構成です。このような生ける構成は、全聖書の究極的完成であり、この構成は相互の住まい、相互の住みか、相互の住居です。神は彼の贖われた民の中に住み、彼の贖われた民は神の中に住みます。生ける構成としての神の贖われた民は神の幕屋となり、神と小羊は彼らの宮となるでしょう。知恵ある設計者であり、建築者でもある神は、彼の多種多様な知恵の完全な現れとして、このような都を設計し、建造されます。これが、全聖書が告げている、神であるすべて、神が完成し、成就し、到達されたすべての結論です。これがわたしたちのビジョンです。主を賛美します!三一の神と神の選び贖われたすべての民は、この唯一の究極的完成の一部分となるでしょう。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第5巻より引用