神・人が神のエコノミーを完成することができる

真理

ヨブという人は、内側が完全であったばかりでなく、外側も正しく、積極面では神を畏れ、消極面では悪から遠ざかっていました(ヨブ一・一)。ヨブのような良い人が多くの苦難を受けたのは、彼が間違っていたので神に責められたということではありません。それは神が、彼の神聖なエコノミーにおいて取られた一つの段階であって、自ら満足していたヨブに対して消耗とはぎ取りを実行して、ヨブがさらに深く神を追い求めるように導くことでした。それはヨブに神を獲得させるためであり、神の祝福を獲得させることでも、自分の完全さと高潔さを達成させることでもありませんでした。神がヨブにおいてはぎ取りと消耗を実行されたのは、ヨブを取り壊し、神ご自身をもって彼を再建し、彼を神・人にし、命と性質において神と同じにし(しかし神格には何の分もありません)、神を表現させるための根拠と道を神が持たれるためでした。これが神のヨブに対するみこころであり、また神のわたしたちに対するみこころでもあります。

神・人
聖書は、神が彼のエコノミーにおける目的を啓示しており、それは多くの神・人を彼の複製として生み出すことです。イエス・キリストは、神が肉体と成った人です(ヨハネ一・一十四)。彼はそのような方、すなわち神・人です。そればかりでなく、彼は神・人の型、原型であり、多くの神・人を生み出します(ローマ一・三―四八・二九)。それは全世界のすべての親愛なる聖徒たちを含みます。わたしたちがどのような国籍であっても、また男であっても女であっても、若くても年長でも、わたしたち信者はすべて神・人であることを、わたしたちは信じなければなりません。

神から生まれて、神の子たちとなる
神・人の第一の特徴は、彼らが神から生まれて神の子たちとなったということです(ヨハネ一・十二―十三ヘブル二・十)。もともと、わたしたちは創造された人にすぎませんでした。創造された後、わたしたちは堕落した罪人となりました。しかし神を賛美します。神は彼の永遠のエコノミーにしたがって、アダムを創造した四千年後に、永遠から出て来られ、時間の中へと入って来られ、名をイエス・キリストという、一人の人と成られました。過去二千年の人類歴史の中で、イエス・キリストは神・人として、全世界に影響を及ぼしてきました。今日もなお、彼は同じことを行なっておられます。しかし彼はそれを彼自身が単独で行なっておられるのではなく、非常に多くの神・人によって、すなわち彼を原型とする大量の複製によって行なっておられます。聖書によれば、すべてキリストの中にある信者たちは、みな神から生まれて、神の子たちとなりました(ローマ八・十四ガラテヤ三・二六)。神の子たちとして、確かにわたしたちは神・人です。わたしたちは、わたしたちを生んでくださった方と同じです。わたしたちは神から生まれたのですから、神の子ではないということはあり得ません。神の子たちであるからには、わたしたちは神・人です。

神聖な命を持つ
神の子たちとして、また神・人として、わたしたちは神聖な命を持っています(ヨハネ三・十五三六前半)。天然の命は、わたしたちを天然の人にします。神聖な命は、わたしたちを神聖な人にします。再生を通して、わたしたちは、わたしたちの天然の命に加えて別のもう一つの命を得ました。この命は聖で、天的であるだけでなく、神聖でもあります。ですから、わたしたちはみな神聖になったのです。わたしたちはみな、自分が神聖な人になったと誇って言うことができます。なぜなら、わたしたちは神聖な命から生まれたからです。

わたしたちは神聖な人であるかもしれませんが、自分の生活での行動や、振る舞いが神聖な人にふさわしいものかどうかを自らに尋ねてみる必要があります。ある人たちは、自分が人として十分な資格がないのに、まして神聖な人としてなど言うには及ばないと感じるでしょう。わたしたちは自分のあわれな振る舞いのゆえに、自分は「亀」であって人ではないと考えるかもしれません。それにもかかわらず、わたしたちは神から生まれて神聖な命を持っているので、わたしたちは亀よりも高いだけでなく、最も高い人よりもさらに高いとさえ言うことができます。わたしたちは、自分にはこう言う資格はないと感じるかもしれませんが、実際にはわたしたちにはこの資格があるのです。

クリスチャンの真の完全さは、信者たちがキリストのすべての豊かな要素をもって、すべてを含む究極的に完成された霊の満ちあふれる供給によって、キリストの復活の力とキリストの十字架の死を通して生み出されます。聖書は、神のエコノミーによれば、神によって選ばれたすべての人、すなわちキリストの中へと信じ、そしてその霊によって再生された神・人は、神聖な人であるとわたしたちに教えています。キリストを信じ、その霊によって再生されて神・人となったすべての神に選ばれた者は、神聖な人であると教えています(ガラテヤ二・二〇ピリピ一・十九―二一前半)。

神聖な性質を持つ
神・人は神から生まれた者として、神聖な命だけでなく、神聖な性質も持っています。これは聖書の中ではっきりと語られています。ペテロの第二の手紙第一章四節は言っています、「あなたがたが……神聖な性質にあずかる者となる」。わたしたちは聖書のその節に印をつけておき、聖書を開く時に、そのような節が目立つようにすべきです。わたしたちは亀ではありません。なぜなら、わたしたちには亀の性質がないからです。わたしたちは人です。なぜなら、わたしたちには確かに人の性質があるからです。しかし、わたしたちはまた神から生まれた、神の子供たちです。ですから、わたしたちには神の性質があります。わたしたちに神の性質があるからには、わたしたちは神ではないでしょうか? 事実、わたしたちは神の命と性質において(神格においてではなく)神です。

人の命と神聖な命という
二種類の命と二種類の性質
神・人として、わたしたちはまた人と神の二つの命を持って、一つの命のように、一つの生活をします。わたしたちは、どうして二つの命が一つの命のように、一つの生活をすることができるのだろうかと思うかもしれません。これは接ぎ木の例をもって説明できます。一本の木の枝を、別の木に接ぎ木すると、二つは共に結ばれ、二つの命が一つの命のようになり、共に一つの生活をするようになります。同じ原則で、わたしたち信者は、すでにキリストへと接ぎ木され(ローマ十一・十七―十九)、彼との有機的結合の中で生きています。このような結合の中で、人の命と神聖な命が結合されて一つになり、両者が共に生活し、ミングリングされた命によって、一つの生活をします。神・人は二つの命を持っているだけでなく、人性と神性の二つの性質も持っています。神を賛美します、わたしたちはミングリングされた命によって物事を行なうだけでなく、神性と人性が混ざり合った神・人の生活を生かし出すことができるのです。

神・人は新しい人の構成要素である
すべての神・人は団体のキリストです。この団体のキリストは、新しい人のすべての構成要素、「肢体」の中にあります。つまり、すべての神・人の総合計である新しい人は、団体のキリストとなるということです。聖書は、神・人が新しい人を構成し、新しい人は団体のキリストであると教えています。聖書は決してわたしたちに、多くの新しい人と言っているのではなく、ただ一人の新しい人だけであると言っています(エペソ二・十五)。この一人の新しい人は個人ではなく、団体です。この団体の新しい人は、すべての神・人の集大成です。わたしたちがすべての神・人を一緒にする時、それは一人の団体の人です。

神・人は神のエコノミーを完成する
この団体の神・人は成長します。それはキリストの有機的なからだを建造し、神の永遠のエコノミーを完成するためです(エペソ四・十二―十三十五―十六)。神は、キリストのからだを通して現されることができます。キリストのからだは神の現れであり、神の永遠のエコノミーを完成するためです。わたしたちの天然の自己がどれほど建て上げられても、またわたしたちの天然の能力がどれほど磨かれても、わたしたちの天然は決して神の現れになることはできず、決してキリストのからだの一部分となることはできません。これは神・人の責任です。神・人は神から生まれて、神の命と性質を持ち、ミングリングされた命によって、ミングリングされた性質の中で生きて、神の現れとしてのキリストのからだを建造します。これが聖書の啓示です。人は必ず神から生まれて、神・人とならなければなりません。この神・人は必ず養われて、必ず成長しなければなりません。こうして、すべての神・人は、神の現れとなるため、また神のエコノミーを完成するために、どのようにキリストのからだとしての自分自身を建造するのかを知ります。

神・人はキリストのからだを建造する
神・人は、キリストのからだとしての自分自身を建造する必要がありますが、それには、からだと神・人との間の関係を知る必要があります。
神の子供たちとなる――神の子供たちとしての神・人は、キリストのからだの肢体です(ローマ十二・五)。神・人がキリストのからだの肢体であるとは、彼らがからだの構成要素であることを意味します。

新しい人としての神・人――新しい人としての神・人は、キリストのからだの建造のためです(エペソ四・十二)。彼らはキリストのからだの肢体であるだけでなく、からだを建造する者でもあります。からだはその肢体によって建造されます。すなわち、からだ自身によって建造されます(十六節)。

執事としての神・人――執事としての神・人は(ルカ十二・四二コロサイ一・二五)、キリストのからだの成長と円熟のために奮闘します(コロサイ一・二八―二九)。神・人がからだを建造する者であるだけでは、十分ではありません。神・人の何人かは、パウロのように執事となって、キリストのからだの成長のために苦闘し、奮闘する必要があります。キリストのからだの肢体として、わたしたちは成長する必要がありますが、キリストのからだを建造するためには、成長するだけでなく、円熟する必要があります。成長するだけでは不十分であり、円熟する必要があります。わたしたちが成長することは、キリストのからだの肢体が成長することを意味するだけでなく、からだ自身が成長していることを意味します。からだは肢体を必要としており、からだは建造する人を必要としています。からだはまた、からだ自身の成長と円熟を促進する執事を必要としています。

神・人の複製となる――三一の神の無数の増殖した複製としての神・人は、キリストの増し加わり(ヨハネ三・三〇)と豊満(エペソ一・二三)としてのキリストのからだを究極的に完成し、手順を経て完成された三一の神の表現としての団体的な拡大と豊満となります(エペソ三・十九)。キリストのからだに関して、神・人は肢体、建造する人、家令であるだけでなく、三一の神の再生産でもあります。三一の神の複製として、彼らは彼の増し加わりと豊満として、キリストのからだを完成します。最終的に、この増し加わりと豊満は拡大し、手順を経て完成された三一の神の拡大となって、彼を永遠に表現するでしょう。

神・人は敵の三つの戦線に打ち勝ち、
勝利者となる
わたしたち神・人が再生されたのは、救われるためだけでなく、勝利を得るためでもあります。ヨハネの第一の手紙第三章九節は言っていますが、「すべて神から生まれた者は、罪を実行しません」。それは、神から生まれた者は罪に打ち勝つことができるという意味です。次に第五章四節は、神から生まれたわたしたちは、この世に打ち勝つことを啓示しています。罪とこの世は、二つの大きな誘惑するものです。罪はわたしたちの内側で絶えずわたしたちを誘惑し、この世はわたしたちの外側でわたしたちを誘惑します。勝利者となるために、わたしたちは罪とこの世に打ち勝たなければなりません。戦争には多くの戦線があります。わたしたちが神から生まれたのは、敵が設けた第一の戦線に打ち勝つためです。

それだけではなく、神・人はすべての反対や迫害、困難な環境、難しい状況に打ち勝つように、神によって運命づけられています(ローマ八・三一三六―三九)。わたしたち神・人は、救われた後、平たんで順調な大路を歩むように定められたのではなく、患難、試練、誘惑、迫害、攻撃や反対に満ちたでこぼこの道を歩むように運命づけられています(ヨハネ十五・二〇使徒十四・二二Ⅰテサロニケ三・四Ⅱテモテ三・十二Ⅱコリント十一・二三―二七)。多くのクリスチャンは救われた後、罪とこの世に打ち勝つことができず、反対に情欲を放縦し、この世の宴楽を享受します。ある信者たちは、一時的に罪とこの世に打ち勝ちますが、問題や困難やあらゆる種類の攻撃、批判、迫害、反対に打ち勝つことができません。彼らは主の道を歩もうとしません。それは、その道が狭くてでこぼこだからです(マタイ七・十四)。ですから、彼らは反対に遭遇すると、妥協してしまいます。例えば、主を信じている夫が、まだ救われていない妻を喜ばせようと妥協してしまい、彼女と一緒にこの世の娯楽や宴席を享受してしまうかもしれません。多くのクリスチャンは、ある特定の事柄に打ち勝つべきであることを知っていますが、反対を恐れて妥協してしまいます。これは、敵が設けた第二の戦線であり、わたしたちは必ずこれに打ち勝たなければなりません。わたしたちはすでに打ち勝つように運命づけられています。

最後に、敵が設けた第三の戦線は、諸召会の中の堕落です。これは、多くのキリストを愛する人々が彼にしたがって前進するのを妨げます。しかし、神・人は堕落した諸召会の中で、主の召しに応えて、勝利者となり(啓二・七十一十七二六三・五十二二一)、敵の設けた第三の戦線に打ち勝ちます。

ですから、神・人が勝利者となるためには、まずキリストを愛し、彼にしたがって行かなければなりません(ヨハネ二一・十五―十七十九後半)。次に、勝利者としての神・人はまた、キリストを追い求め、彼を獲得し(ピリピ三・十二―十五)、キリストの復活の力によって、彼の死に同形化されなければなりません(十節)。あらゆることで、わたしたちはキリストの死に同形化される必要があります。あらゆることで、わたしたちは十字架につけられるべきです。わたしたちは自分自身によって、キリストの死に同形化することは不可能です。しかし、わたしたちの中には復活のキリストが生きておられます。わたしたちは彼の復活の力に依り頼んで、あらゆることで彼の死に同形化されることができます。第三に、勝利者はまた、キリストのすべてを含む霊の満ちあふれる供給によってキリストを生き、彼を大きく表現する必要があります(ピリピ一・十九―二一)。第四に、神・人は勝利を得るために、キリストと共に生き、彼と共に労苦する必要があります(ガラテヤ二・二〇前半コロサイ一・二九)。最後に、彼らはただ個人的なクリスチャン生活をするべきではなく、からだの生活をして、キリストのからだを建造し、神の新約エコノミーを完成しなければなりません(エペソ四・十二十六一・十)。

神・人は新エルサレムを建造し、
神のエコノミーを完成する
最後に、聖書の終わりで見せているのは、新エルサレムの構成要素が命のない材料ではなく、生きた人、すなわち神から生まれて神・人となったすべての人であるということです。

わたしたちが今の時代にキリストのからだを建造しているのは、次の時代の新エルサレムのためです。わたしたち、すなわちキリストのからだの肢体は、今まさにキリストのからだを建造しています。しかし、わたしたちは何を用いて建造するのでしょうか? わたしたちは自分自身を用いてキリストのからだを建造します。しかしながら、わたしたちは堕落した人性の中にある腐敗した自分自身を用いて建造するのではなく、更新され、造り変えられ、同形化され、将来は栄光化される自分自身を用いて建造するのです。今日、わたしたちは再生された新しい人を用いて、キリストのからだを建造しています。

キリストは、彼の贖いまた命を解き放つ死を通して、新しい人を創造されました(エペソ二・十五)。新しい人を創造するために、キリストは消極的なことを終わらせただけでなく、さらに多くのことをしなければなりませんでした。彼はご自身の内側から、神聖な命を解き放ち、この命を贖われた人の中へと分け与えなければなりませんでした。神・人はこのような種類の人であり、彼らは新エルサレムの構成要素としての新しい人を構成するだけでなく、彼らはまた、新エルサレムを建造するために、キリストのからだを建造します。何と栄光なことでしょう。わたしたちは今まさに、新エルサレムを建造している神・人です!

神・人はキリストのからだを建造するだけでなく、勝利者となって、新エルサレムを完成します。新エルサレムの完成には、円熟と拡増が必要です。キリストのからだとしての召会が建造されるには円熟、すなわちキリストの豊満の身の丈の度量に到達する必要があります。しかしながら、わたしたちは建造しても完成しないことがあり得ます。完成は建造の一部分ですが、完成にはとても特別な面があります。集会所の建築を例に取ってみます。集会所の建築が完成した後、電気工事が必要なように、ある物が加えられる必要があります。それで初めて集会所は完成します。同様に、勝利者である神・人が、新エルサレムを完成する必要があります。

聖書の啓示は、わたしたちを天然の良い人に建て上げることではなく、わたしたちを神・人にすることです。わたしたちを正しい神・人に建て上げるだけでなく、団体の人を建て上げなければなりません。この団体の人は、最終的に拡大して新エルサレム(団体の人の究極的完成であり、あらゆる神・人の集大成)、神のエコノミーの完成となる必要があります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第4巻より引用