苦難に直面したときに持つべき見方

真理

旧約でヨブが経験した神の消耗させることとはぎ取ることは、新約におけるパウロの経験にはるかに及びません。神の消耗させることはわたしたちを疲れ果てさせます。神のはぎ取ることはわたしたちから財物を取り去ることです。旧約において、ヨブは彼が受けた苦難について理解していませんでした。新約において、パウロは神の消耗させることとはぎ取ることを喜ばしい事と見なしました。それはパウロが、神の民に対する対処の目的は人に最も満ち満ちた程度にまで神ご自身を獲得させるためであると認識していたからです。

「完璧」なヨブ
ヨブという人は完全で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっており、高潔な人でした(ヨブ一・一、二・三)。ヨブには妻がいて、七人の息子と三人の娘を生みました。またたくさんの家畜、羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、非常に多くのしもべを所有していました(一・三前半)。ヨブはすべての東の子たちにまさって偉大でした(三節後半)。しかしながら、神だけが、このように完璧に見えるヨブに必要があること、彼は神に欠けていることを知っておられました。ですから、神はサタンがヨブを攻撃し、取り壊し、試みることを許しました。

ヨブが受けた苦難
ある日、使者がヨブの所に来て、シバ人が襲って来て、牛と雌ろばを奪い去り、しもべたちを剣の刃で討ったと報告しました(十三―十五節)。この使者がまだ語っている間に、他の者が来て、神の火が天から下り、羊としもべたちを焼き尽くしたと報告しました(十六節)。この時、他の者が来て、カルデア人が三組になってらくだを襲い、それを奪い、しもべたちを剣の刃で討ったと報告しました(十七節)。最後に、他の者が来て、ヨブの子供たちが一番上の兄弟の家で食事をし、酒を飲んでいると、突風が荒野から吹いて来て、家の四隅を打ったので、それが若い人たちの上に倒れ、彼らは死んだと、知らせに来ました(十八―十九節)。その突風は、おそらくつむじ風であったでしょう。それは火のように、サタンによって扇動された自然災害でした。

ヨブはこれらの起こったことを聞くと、立ち上がり、上着を裂き、頭をそり、地にひれ伏して神を礼拝しました(二〇節)。そして彼は続けて宣言しました、「エホバが与え、エホバが取り去られる.エホバの御名はほむべきかな」(二一節後半)。しかし災難は止むことなく、神はまたサタンがヨブ自身を攻撃することを許しました。サタンはヨブを、足の裏から頭の頂まで、ひどい腫れ物で討つことによって攻撃しました(二・七)。ヨブは陶器のかけらを取って自分をかきむしり、灰の中に座りました(八節)。彼の全身を覆った腫れ物はひどい痛みでした。彼は痛みの中でそこに座ったとき、何も言いませんでした。

ヨブの反応と結末
ヨブの試練に対して、彼の妻はヨブをあざけって言いました、「あなたはまだ自分の高潔さを堅く保っているのですか? 神をのろって死になさい」(九節)。この後、ヨブの三人の友はヨブの状況について聞き、彼を訪問しました(十一―十三節)。すべての人(ヨブ自身を含む)はみな当惑し、何がヨブに降りかかったのか、理由を見いだすことができず、ついにヨブは自分の生まれた日をのろいました(三・一)。これは人から出た、自分を正しいとする多くの弁論を引き起こしました。しかし、これらの弁論は依然としてヨブの問題を解決することができませんでした。

ヨブ記第三八章に至って、神はヨブに語られました。ヨブはついに神を見、個人の経験において神を得、自分を忌み嫌いました(四二・五―六)。結局ヨブは神聖な啓示に欠けていましたが、神はまた物質の祝福をもってヨブを祝福しました(十―十七節)。これは、神が彼を愛する者を対処することで、完全で慈しみがあることを示します。今日でさえ、神はわたしたちをはぎ取り消耗させることによってわたしたちを対処し、また彼の目的が達成された後、神はわたしたちに彼の物質の祝福を与えられます。しかしながら、神が彼の民を対処する目的は、彼らに物質の祝福を与えることではなく、ご自身を彼らの永遠の分け前として与えることであり、この分け前は最終的に新エルサレムにおいて究極的に完成します。

神がご自身の民を対処される目的
神は彼のパースンにおいてだけでなく、彼の定められた御旨において、彼の願いにおいてとても奥義的です。古代のヨブ記は奥義的ですから、わたしたちはパウロの書いた文書の光の中でそれを読む必要があります。パウロの書簡がなければ、ヨブ記を理解することは難しいでしょう。なぜならヨブ記の結論は、神が神の民を対処する目的について、明確な観点を与えていないからです。しかしながら、新約の観点においてとてもはっきりしているのは、神が彼の聖なる民を対処する目的とは、彼らがあらゆることで空になり、ただ神だけを彼らの益として受けるのを、神が願っておられるということです。神の心の願いは、わたしたちが神を命として、命の供給として、わたしたちの存在のすべてとして完全に獲得することです。

パウロが受けた苦難とその反応

外側の苦難に対して
コリント人への第二の手紙第十一章で、使徒パウロは主に奉仕する人が経過した苦難と十字架の働きについて語っています。二三節から二九節は言います、「労苦はなお一層多く、入獄はもっと多く、むちで打たれることは極端であり、死に面したこともしばしばです。ユダヤ人の手の下で、四十に一つ足りないむち打ちを受けたことが五回、杖で打ちたたかれたことが三回、石打ちにされたことが一回、難船したことが三回、一昼夜、深い海の中を漂ったこともありました.多くの長旅をして、川の難、盗賊の難、同族からの難、異邦人からの難、都会での難、荒野での難、海上での難、偽兄弟の間での難に遭い、労苦し困難に遭い、しばしば眠らず、飢え渇き、しばしば食べず、寒さと裸であったこともあります.ここに述べなかった事柄のほかにも、日ごとにわたしの上にのしかかってくるたくさんの圧迫、すべての召会に対する心配事があります。だれかが弱っているのに、わたしが弱らないでおれましょうか? だれかがつまずいているのに、わたし自身が燃えないでおれましょうか?」。これはパウロが環境上受けた苦難であり、日ごとに彼の上にのしかかってきた苦難です。

これらの苦難に対して、パウロは三〇節で言います、「もし、わたしが誇らなければならないとしたら、自分の弱さについて誇りましょう」。ここでパウロは使徒の苦難と困難のことを言っています。それらは、彼の敵の目に、彼を低く、弱く、卑しく見せました。彼は、これらの事によって、真の使徒であることを立証しました。

肉体の病の苦痛に対して
外側の環境上の苦難のほかに、パウロの体には病の苦痛もありました。コリント人への第二の手紙第十二章七節から八節は言います、「そして、その啓示があまりにもすばらしいために、わたしが高ぶり過ぎないようにと、肉体に一つのとげが与えられました.それは、わたしが高ぶり過ぎないように、わたしを打つためのサタンの使いなのです。これについてわたしは、それが取り去られるようにと、三度も主に懇願しました」。苦難と試練はしばしば、わたしたちがキリストを恵みと力として経験するために、主がわたしたちに定められたものです。神はパウロをへりくだらせる最上の方法をご存知であり、それは彼の肉体にとげを残しておくことでした。しかしながら、神はまたパウロに十分な恵みも与えて、彼がこの苦難を耐え忍ぶことができるようにしました。パウロの経験の中で、神の恵みは力となり、パウロの弱さにおいて完全に現されました。パウロは神を恵みとして経験したので、自分の弱さを大いに喜んで誇りました。それはキリストの力が彼の上に幕屋を張るためです(九節)。パウロが経験した恵みは、実際には主イエス・キリストご自身です。パウロは彼の経験の中で、主の恵みが力となって、天幕のように自分の上に張られたことを、認識したに違いありません。このように、この恵みの力はパウロが苦難の中で住む場所となりました。パウロは苦しんでいた時、彼の上に張られた幕屋の中に住むことができました。この幕屋は、彼を支え、指示し、維持し、守りました。

苦難を誇りまた喜ばしい事と見なす
これらの多くの苦難に対して、パウロの反応は困惑や消極的なものではなく、むしろ誇りと喜びでした。パウロは十節で結論を言います、「こういうわけで、わたしはキリストのために、弱さの中で、侮辱の中で、貧困の中で、迫害と苦悩の中で、十分に喜んでいます.なぜなら、わたしは弱い時にこそ、強いからです」。これが使徒の苦難に対する態度です。わたしたちの苦難に対する態度もこのようであるべきです。

神の道には苦難がある
昔から今日に至るまで、神に祝福されている人は苦難を持つはずがないという観念があります。多くの人はパウロの苦難を、彼が神のものではない、あるいは神の祝福の下にいないしるしと考えました。パウロの観念は異なっていました。ここでパウロはこう言っているかのようです、「もしあなたがたが真に神のものであるなら、神はあなたがたを多く苦しませるでしょう。キリストの真の奉仕者は苦しむ人です」。今日、多くのクリスチャンは、人が裕福で、繁栄し、栄えているなら、神の忠信なしもべであり、神によって祝福されているという観念を持っています。彼らはまた、苦難や困難に耐えなければならない人は、神の祝福の下にいないという観念を持っています。

人から言えば、パウロは栄光や誉れを持っていませんでした。パウロはとても困難な環境にありました。彼は大いに苦しみ、食物に不足さえしていました。神は彼と共におられず、彼を尊んでおられなかったかのようです。主はパウロに供給されなかったかのようです。主は彼が難船し、一昼夜、海の中を漂うことさえ許されました。パウロはなぜ、誉れでも栄光でもない事を強調したのでしょうか?

なぜならこれは、パウロの道が神聖な道であることを示しているからです。コリント人への第二の手紙で描写されているパウロの生活は、確かに主イエスの生活に符合します。主は地上にいた時、苦難を受けられました。彼は神の御子でしたが、彼の生活は繁栄や外側の祝福の生活ではありませんでした。一見して、主イエスは神によって祝福されませんでした。彼が十字架につけられた時、ユダヤ人は彼を潮笑し、もし彼が神の子であるなら、神は十字架から救い出すと言いました(参照、マタイ二七・四〇―四三)。しかし神は御使いたちを送って主イエスを救うことをしないで、彼が十字架上で死ぬことを許されました。原則的に、パウロの経験は同じでした。

パウロはこのようにコリント人への第二の手紙を書くことによって、コリントの信者たちにだけでなく、歴代のキリストにあるすべての信者たちに、神の道が何であるかを明らかにしました。神の道は、真の使徒たちに見られます。偽使徒たちは繁栄し、栄えています。しかし真の使徒たちは、全地が神のエコノミーに反対しているので、逆境や苦難を経験します。さらに、今の時代は、わたしたちが繁栄し、栄える時ではありません。むしろ、わたしたちがキリストのために苦しむ時です。

主イエスは十字架上で、わたしたちの贖いのために苦しまれました。しかし主は地上で生活されたとき、からだの建造のために苦しまれたのです。わたしたちは、贖いのためのキリストの苦しみにあずかることはできません。わたしたちがそのような苦しみにあずかることができると言うのは冒とくです。しかしながら、わたしたちは、キリストのからだのための苦しみに、あずからなければなりません。これは、わたしたちが彼の道、狭い道に従わなければならないことを意味します。わたしたちは彼の足跡にしたがい、十字架を負わなければなりません(マタイ十六・二四マルコ八・三四ルカ九・二三)。主イエスは苦難の生涯を生きられました。わたしたちは同じことを行なわなければなりません。これはキリストのからだなる召会の建造のために、キリストの苦しみの欠けたところを補い満たすことです(コロサイ一・二四)。

キリストの苦難にあずかる
ペテロの第一の手紙第四章十二節から十三節は言います、「あなたがたを試すために臨んでいる、あなたがたの間の烈火のような苦難を、……怪しんではなりません.……あなたがたは、キリストの苦難にあずかった程度に応じて喜びなさい.それは、彼の栄光の出現の時に、あなたがたも大いに歓喜するためです」。迫害は燃焼を通してわたしたちをきよめる試練ですが、烈火のような苦難を経験することによって、わたしたちはキリストの苦難にあずかります。ここで、クリスチャンが経験する苦難はキリストの苦難であると言います。わたしたちが遭遇する苦難がなぜキリストの苦難なのでしょうか? もしわたしたちがクリスチャンでなかったなら、確かにこのような迫害を受けることはないでしょう。そのような迫害は、わたしたちがクリスチャンであることによります。わたしたちがキリストを信じ、キリストを愛し、キリストを生き、キリストの証しを担い、この時代に彼を証ししているので、この世は立ち上がってわたしたちに反対するのです。この時代は悪しき者の手の下にあります。こういうわけで、信じない者は、キリストを信じ、彼を証しする者を迫害するのです。神の目に、このような苦難はキリストの苦難と考えられます。例えば、ある兄弟は金持ちになる機会を持つかもしれません。しかし彼はキリストを信じ、キリストを愛し、キリストに従うので、彼の事業は苦難を受け、また彼は裕福になる機会を失うかもしれません。実際には、彼は貧乏でさえあるかもしれません。この種の貧乏はキリストの苦難です。キリストのためのこれらの苦難は、キリストの苦難として神によって勘定されます。

キリストは苦難の生涯を送られました。今やわたしたちはキリストにあずかる者たちであるだけでなく、彼と同じ生活をしている彼のパートナーです(ヘブル三・十四)。わたしたちは苦難の生活をすることにおいて、彼と協力します。わたしたちは苦難の道に沿って彼に従います。これは、キリストが苦しまれたことをわたしたちも苦しむことを意味します。こういうわけで、わたしたちがこのようにしてキリストのために苦しむとき、わたしたちの苦難はキリストの苦難として神によって勘定されるのです。

わたしたちは失望すべきではありません。なぜなら、クリスチャンは苦難を受けなければならないからです。これらの苦難は積極的でありまた非常に貴重です。キリストのもろもろの苦難を経験するとは、何という特権でしょう! パウロは、自分はキリストのからだ、召会のために、キリストの苦難の欠けているところを補うとさえ言うことができました(コロサイ一・二四)。彼はまた、ピリピ第三章十節で、キリストの苦難の交わりについて語っています。今日わたしたちクリスチャンはキリストに従い、キリストの苦難を受ける人です。わたしたちはキリストのもろもろの豊富だけでなく、キリストのもろもろの苦難にもあずかる必要があります。もしわたしたちがこの観点を取るなら、わたしたちがキリストのために苦難を受けるどのような時でも励まされるでしょう。わたしたちはこの種の苦難を歓迎さえするかもしれません。いかにも、わたしたちは烈火のような苦難に直面するでしょう。しかしこれらはキリストの苦難であって、わたしたちはキリストの苦難にあずかる特権を持っています。

わたしたちがキリストのもろもろの苦難にあずかる時、歓喜しているべきです。それは彼の栄光の出現の時にも、わたしたちが大いに歓喜することができるためです(Ⅰペテロ四・十三)。わたしたちは内側で歓喜に満ちているだけでなく、わたしたちの歓喜の声を外側に響かせます。同時に、わたしたちは腕を伸ばし、また歓喜のために跳びはねるでしょう。これは大いに歓喜することです。主の栄光が現される時、わたしたちは大いに歓喜するでしょう。わたしは、わたしたちは叫び、歓喜し、またおそらくは歓喜のあまり跳びはねるだろうと思います。わたしたちは極度に興奮し、歓喜で我を忘れるでしょう。今日キリストの苦難にあずかるとき、わたしたちは歓喜で喜ぶだけでなく、主の出現の時に、わたしたちは大いに歓喜するでしょう。わたしたちが苦しめば苦しむほど、迫害を受ければ受けるほど、さらに栄光がわたしたちの上にあるようになります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第4巻より引用