ヨブ記の重要な意義からクリスチャンの完成を見る

真理

旧約聖書は全体で三十九巻あります。それは歴史書、詩歌書、預言書と大きく三つに分けることができます。その詩歌書の中にはヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌の五つの書があります。詩歌書の内容は、神の民が聖霊の感動を受けて、生活の中で得た各種の霊的な経験であり、それらが詩の言葉を通して外側へと語り出されたものであり、それは抽象的でもなく、空想でもなく、現実離れしたものの発表でもありません。ヨブ記が詩歌書の最初に置かれていることは、わたしたちを神の学校へと導き入れるためです。わたしたちはヨブ記の中で、各種の教育を通して神を知ります。ヨブ記における霊的な意義には、注意を払うべき多くの価値あるものがあります。

ヨブ記という区分の重要な意義
聖書は聖霊の啓示によるものです。聖霊はそれぞれの書の順序を案配しました。それらはみな、霊的な意義と経験によります。旧約聖書の一部分は歴史書です。それは創世記からエステル記において、神と人、人と神の関係、また神と人の交流をわたしたちに見せていますが、神の民が、神の御前でどのような経験を持ったのかは見せていません。ですから歴史書の後に続けて、詩歌書という部分があり、これらの神に属する人の経験が描写されているのです。詩歌書には五つの書があります。ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書と雅歌の原文は詩の体裁で書かれています。聖書を読む人たちによって、それらは一つの組とされ、詩歌書と呼ばれました。この五つの書は、その書かれた様式が同じであるだけでなく、その性質も一貫しています。すなわち霊的な経験から言えば、それらは一つの組に分類されるべきものです。この五つの書は、五つの異なった種類の経験ではなく、クリスチャンの全体的な経験の五つの段階であり、命に関するすべての経験です。神の民として、神の御前で持つすべての経験(尊く、価値があり、意義のある)は、必ずこの五つの段階を経過しなければなりません。ヨブ記はその霊的な経験の開始であり、詩篇、箴言、伝道の書はその過程であり、雅歌に来たときに、霊的円熟の段階へと到達します。ですから、わたしたちがこの五つの書を読むときには、文字にしたがって読むのではなく、霊的な経験によって読まなければなりません。

ヨブという人
ヨブ記の中の主要な人物はヨブです。ですからこの書の名称は「ヨブ記」となっています。「ヨブ」というこの名前の意味は「憎まれた」、あるいは「迫害された」を意味します。彼は「完全で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっていた」(一・一)人でした。しかし主の主権の許しの下で、ヨブはサタンからの憎しみと迫害を受けました。ヨブのいた時代については、聖書学者たちはみな一致した認識を持っています。それは早くても、アブラハムや、イサク、ヤコブの時代であり、遅くても、モーセより後であることはないであろうと考えられています。なぜなら、(一)彼は家族の中で、祭司のように、罪のために、神にささげ物をささげていました(五節)。しかし、彼がささげたのは、全焼のささげ物であり、それは律法の時代よりも前にあった種類のささげ物だったからです(参考、創八・二〇、二二・十三、三一・五四)。(二)ヨブが友と弁論をした時に、エジプトを出た時の神の奇跡については触れていません。また、罪の問題に言及した時も、神の律法からは引用していません。(三)ヨブの年齢は二百十歳だったと思われます。なぜなら、彼が試練を受けた後にさらに百四十年生きたからです(ヨブ四二・十、十六)。このような高齢は、父祖たちの時代において見られるものです。(四)彼には非常に多くの牛、羊、らくだ、ろば、しもべがいました(一・三)。これらはまさに父祖たちの時代の状況です(参考、創十二・十六、十三・五、 二四・三五、二六・十四、三〇・四三)。

神は自ら二度、たしかにそのような父祖たちの時代に、ヨブがその中にいたと言われました、「エホバの言葉がわたしに臨んで言った……『たとえ、この三人の者、ノア、ダニエル、ヨブがその中にいても……たとえノア、ダニエル、ヨブがその中にいても』」(エゼキエル十四・十二、十四、二〇)。聖霊もまたヨブ記の中の記載が正しいと証ししています。新約の中で使徒ヤコブは言っています、「あなたがたはヨブの忍耐について聞いており、また主が彼になさったことの結末を見ています.主は実に慈悲深く、あわれみに満ちておられます」(ヤコブ五・十一)。

ヨブ記の区分
ヨブ記第一章、第二章と最後の章の七節から十七節は散文の体裁で、その他の章はすべて詩の体裁で書かれています。その内容は、六つの区分に分けることができます。第一の区分は、序言(一・一―二・十)であり、ヨブという人について、またサタンの二度の訴えについて、神の二度の許しと制限、そしてヨブの受けた二度のサタンからの攻撃とヨブが二度踏み留まったことについて言っています。第二の区分はヨブと彼の三人の友との間の弁論です(二・十一―三二・一)。そこでは三人の友の同情と、ヨブの恨みと訴え、それに続いてヨブと三人の友の間で三回の弁論が展開されました。第三の区分では、若者のエリフがヨブの言葉に答えました(三二・二―三七・二四)。エリフのヨブに対する四回の語りかけは、エリフが相当に高ぶっていたことを示しています。第四の区分は、神とヨブの間の対話です(三八・一―四二・六)。神の一回目の語りかけは、ヨブに語りかけられた方がだれであるのかを認識させることでした。神が二回目に語りかけられたのは、ヨブにヨブ自身を認識させるためでした。ですから、ヨブは個人的な経験において神を獲得し、また自分自身を忌み嫌いました。第五の区分は、神のヨブの三人の友に対する対処です(四二・七―九)。第六の区分は、ヨブの結末であり(十―十七節)、最後にヨブは苦境から元に戻され、神はヨブに二倍の祝福を与えられました。

ヨブ、彼の三人の友、そしてエリフの語りかけ
ヨブ記において、第三章から第三七章には三十五の章がありますが、それはヨブと、彼の三人の友、そしてエリフの語りかけの記録です。この五人はみな、神を畏れ、神を追い求めている人たちでした。しかし、彼らのヨブ記の中での語りかけは、神の人に対する意図に関しての彼ら自身の観念によりました。彼らは人生の意義を理解し、また人性の美徳に関しては完全に理解していましたが、それらすべては神の人に対する目的とは相反するものでした。神の人に対する目的は、人が神で満たされて、神を表現することであり、人の人性の美徳の完成を含んだ他のあらゆる事柄を表現することではありません。ですから、神がヨブの正しさと高潔さをはぎ取ったことは、ヨブに何か他のものではなく、神ご自身を尋ね求めるようにさせるためでした。ヨブは完全に律法の時代以前における神聖な啓示に従っていました。彼が尋ね求めていたものは、神が必要としておられない完全さでした。それは神と置き換わって彼の満足となっていました。ですから、ヨブの完全さは神のためにはぎ取られました。ヨブの完全さは神に置き換わっていました。神は、彼の民を神で満足させたいのです。すなわち神ご自身で満足させたいのです。しかし、ヨブは彼の完全さにおいて満足していました。ですから神は入って来て、ヨブの完全さをはぎ取られました。

神の答え
ヨブ記第三八章の前に、神はずっと沈黙しておられるようでした。ただ人に話させ、神ご自身は声を出されませんでした。しかし、人の実を結ばない弁論が問題を解決できなくなった「その時」(一節)に、神は出てきて話されました。神がヨブに問いかけられた質問はとてもはっきりしたものでした。それは、ヨブに神がだれであるかを認識させ(二節―第三九章)、また彼がだれと顔を向き合わせているのかを認識させました(第四〇章―第四一章)。ヨブがこの二つの問題をはっきりと解決した時、彼の自分の義と、不当な扱いを受けたという感覚はすべて消えてしまいました。最後にヨブは言いました、「わたしはあなたのことを耳にしていました.しかし今、わたしの目はあなたを見ています.それゆえ、わたしは自分を忌み嫌い、ちりと灰の中で悔い改めます」(四二・五―六)。人が神の聖と義を見たなら、自分の義が愚かなものに感じます。人が神の恵みと慈愛を見たなら、恨みに思うことが多すぎると感じます。霊的な経験の中で最も尊いのは、主と顔と顔を合わせることです。そうすればすぐに、あらゆる問題は解決します。

ヨブ記の解釈において支配する原則
聖書を解釈する第一の原則は、聖書はすべて聖書をもって解釈されるべきであるということです。第二の原則は、神の永遠のエコノミーは聖書全体の中心路線であるということです。聖書のどの部分、その一字一句でさえ、全聖書をもって、全聖書にしたがって解釈されなければなりません。ヨブ記も聖書の中の書です。ヨブ記に対するいかなる解釈も、もし全聖書によって解釈されたものでないとしたら、この書は聖書の中の書ではなくなってしまいます。また、ヨブ記に対するいかなる解釈も、もし神のエコノミーと一致しないものであるなら、それはそらされたものとなってしまいます。聖書の真理を真に追い求め、聖書の中心路線によって啓発されている神の聖徒は、そのようないかなるそれた解釈をも受け入れるべきではありません。聖書の解釈はこの中心路線の十分な光の下で、厳格にその支配を受けるべきです。

しかし、古今東西、だれがヨブ記をはっきりと理解することができたのでしょうか? 使徒ヤコブでさえも正確な認識を持っていませんでした。彼は、わたしたちが苦しみを受けたとき、ヨブの忍耐を学ぶ必要があるとわたしたちに告げています(ヤコブ五・十一)。今日、幾つかの大学はヨブ記を使って哲学を教えています。しかし、神はヨブの言葉は知識のない言葉であると言われました。ヨブの知識のない言葉は、神の人に対する御旨を暗くしました(ヨブ三八・二)。神の人に対する御旨はとても単純なものです。それは、わたしたちが神ご自身をわたしたちの中へと受け入れて、わたしたちのすべてとし、わたしたちが神のかたちへと造り変えられて、神のかたちへと同形化されて、わたしたちが神の表現となることです。

新約で教えている真のクリスチャンの完全さ
クリスチャンの完全さは、三一の神の表現のためであって、わたしたちの高潔さや正しさの表現のためではありません。ヨブは自分の完全さ、高潔さ、正しさを高く評価していたので、神はやって来て、これらを彼からはぎ取られました。次に神はご自身をヨブに示され、ヨブは自分自身を忌み嫌い、神を得ました。ところが、ただ自分自身を忌み嫌うだけでは十分ではありません。主イエスはわたしたちに、だれでも彼について来たいと思うなら、自分を否み、自分の十字架を負わなければならないと言われました(ルカ九・二三)。自分を否むとは、自分を十字架に置いておくことです。十字架を負うとは、十字架に留まることです。今日の多くのクリスチャンには、十字架は苦難のためであるという間違った思想があります。トマス・ア・ケンピス著の「キリストに倣いて」と呼ばれる本の中にはこの思想が含まれています。しかしながら、わたしたちは、十字架の究極の目標が苦難のためではなく、終わらせるためであることを見る必要があります。十字架を負うことは殺しです。キリストはわたしたちを十字架に釘づけられました。わたしたちはそこに留まっているべきです。わたしたちは自分自身を十字架上に置いておくべきです。そうすれば自分は終わらされます。しかし、ヨブの完全さが、自己の修練からのものであるなら、それは、神によって創造された人の中にある美徳を啓発したにすぎません。ところが新約の教えは、このこととは大きく異なっています。それは、わたしたちは自分を否み、自分を十字架に置く必要があるというものです。

真のクリスチャンの完全さは、
キリストのからだの建造のためである
真のクリスチャンの完全さは、キリストのからだを建造するためです(エペソ四・十二)。それは、わたしたちが自分の隣人を愛したり、窮乏のみなしごややもめを助けたり、わたしたちが誘惑に抵抗することを助けたり、この世的な享楽に打ち勝つことを助けたりするためではありません。真のクリスチャンの完全さは、手順を経て究極的に完成された三一の神を信者たちの中へと、すなわち神・人の中へと分与した結果です。それは源、起源としての父なる神によります(マタイ五・四八)。御父の性質は、新エルサレムの金の基礎、新エルサレムの源、起源です。真のクリスチャンの完成は、要素としての子なる神をもってでもあります(Ⅱコリント十三・三十一)。これは新エルサレムの真珠の門で予表されます。貝(キリスト)は塩水(死の世)の中で生きて、砂粒によって傷つけられ(罪人のために十字架につけられ)、その命の液を分泌する(彼の命の要素を分与する)ことによって真珠を生み出します。御父は基礎であり、御子は要素です。霊なる神の分与する交わりは(Ⅱコリント十三・九十一十四)、神聖な命の液を分泌し、わたしたちを包み込み、わたしたちを真珠にします。これは神の有機的な救いの六つの段階(再生、聖別、更新、造り変え、同形化、栄光化)です。これらの段階によって、わたしたちは新エルサレムの一部分とされます。

新エルサレムは
真の実際のクリスチャンの完全さである
わたしたちは、新約で教えられている真のクリスチャンの完全さに注意を払う必要があります。わたしたちが真のクリスチャンの完全さを見るには、わたしたちは新エルサレムの啓示を見る必要があります。新エルサレムは真の実際のクリスチャンの完全さです。新エルサレムには堅固な基礎があり、この堅固な基礎は、金で象徴される父なる神の神聖な性質です。聖なる都は金の山です。確かに、それは堅固で、どんな重さにも耐えるのに十分です。聖なる都の支える力全体は、神の神聖な性質です。そしてこの基礎は、わたしたちクリスチャンの生活と働きの基礎であるべきです。都の基礎、門、城壁は、基本的な建造ですが、御座、宮、灯は調度品です。これらすべての項目の内在的な意義は、真のクリスチャンの完全さとは何であるかをわたしたちに見せています。新エルサレムはキリストのからだの究極的完成です。ですから、真のクリスチャンの完全さもキリストのからだであり、それは神・人の命を生きるすべての神・人の集大成です。

新約で教えられた真のクリスチャンの完全さは、神の新約エコノミーにしたがっています。すなわち、神が人と成られたのは、多くの人を神の命と性質を持つ、神格には分のない神・人とならせ、キリストのからだを生み出し、神の究極の目標としての新エルサレムを完成するためです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第4巻より引用

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