ルカによる福音書第十七章で、主が人の子の現れる日について言いました、「ロトの日にも、同じようなことが起こった.人々は食べ、飲み、買い、売り、植え、建てていた.しかし、ロトがソドムから出て行ったその日に、天から火と硫黄が降ってきて、彼らすべてを滅ぼした」(二八―二九節)。ですから、主はわたしたちにロトの妻を思い出してほしいのです(三二節)。創世記第十九章の記載によると、ロトの妻はソドムを離れる時、神が裁いて徹底的に滅ぼそうとしておられた邪悪なこの世を愛し、尊んでいたので、後ろを振り向いて、塩の柱になってしまいました(創十九・二六)。これはこの世を愛し、尊んでいる信者たちに対する厳粛な警告です。わたしたちはこの警告の重要性をはっきり理解し心にとめなければなりません。
主がルカによる福音書第十七章で語った
目覚めさせる言葉
ルカによる福音書第十七章の記録によると、王国の到来についてある人が主イエスに尋ねていた時、重々しい言葉で、「ロトの妻を思い出しなさい」(ルカ十七・三二)と主が語られました。この言葉は、とても意義深いです。ある意味で、主は弟子たちにこう言っておられるかのようでした、「王国のことを語ってはいけない。むしろ、王国が来る時、どのような時代であるかを認識しなければならない。それは、ノアの日やロトの日のようになる。いずれもわたしの来臨の日の予表である」。ですから、主の重々しい、厳粛な、目覚めさせる言葉に、三つの時代、すなわちノアの時代、ロトの時代、主が戻って来られる時の時代が述べられているのです。
ルカによる福音書第十七章二六節から二七節は言います、「ノアの日に……人々は食べ、飲み、めとり、嫁いでいたが、ノアが箱船に入った日に、洪水が来て彼らすべてを滅ぼした」。ノアは酩酊した時代に生きており、彼の時代の人々は情欲と邪悪な享楽によって酩酊し、麻ひし、麻酔をかけられていました。ですから創世記第六章は言います、「エホバは、人の悪が地上でひどくなり、すべて人の心の思いはかることが常に悪いことばかりであるのを見られた。それで、エホバは地上に人を造ったことで思いを変えて、心に深く悲しまれた。……神は…言われた、『……地は彼らのゆえに暴虐で満ちているからだ.見よ、わたしは彼らを地と共に滅ぼそうとしている』」(五―六、十三節)。また主は言われました、人の子の来臨も、ノアの日々のようであり、洪水の前の日々、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりし、その裁きが来ることを知らなかったからである(マタイ二十四・三七ー三九)。
ルカによる福音書第十七章二八節は続けて、人の子の日について言います、「ロトの日にも、同じようなことが起こった.人々は食べ、飲み、買い、売り、植え、建てていた」。主がノアの日について語られた時、結婚が述べられました。しかし、主がロトの日について語られた時、結婚については何も述べられませんでした。なぜなら、ソドムでは結婚は完全に堕落してしまい、人々はソドム式の情欲にふけっていたからです。ですから、二九節は言います、「ロトがソドムから出て行ったその日に、天から火と硫黄が降ってきて、彼らすべてを滅ぼした」。
主は言われました、「人の子が現れる日に……その日には、屋上にいる者は、家の中の自分の物を取りに下りるな.畑にいる者は、同じように、後ろの物を取りに戻るな」(三〇―三一節)。主はこう言っておられました、「わたしの到来の時、もしあなたが屋上にいるなら、家の中の自分の物を取りに下りるな。もしそうすれば、取り残される。畑で働いているなら、家へ戻るな。あなたはわたし以外のすべてを忘れなければならない」。
今日、ノアの日とロトの日の人々と同じように、多くのクリスチャンは麻ひし、酩酊しており、神の事柄の正しい感覚を失っています。ある者は、信者たちがフットボールをしている最中に携え上げられるかもしれないとさえ教えています。しかし聖なる御言の啓示によれば、主が戻って来られる時、なおも世俗の娯楽にふけっているどの聖徒たちも、主は連れ去られないでしょう。わたしたちクリスチャンは、命の種であるキリスト(マタイ十三・三―八、十八―二三)をもって成長する神の作物です。命の成長において成熟しているクリスチャンで、まだこの世の娯楽にふけっている者はいません。この世の娯楽にふけり続けているクリスチャンは、成熟しておらず、青くて未熟ですから、主は彼らを畑から刈り取られないでしょう。今日の酩酊しているクリスチャンは、このような目覚めさせる言葉を聞く必要があります。ですから主は言われます、「ロトの妻を思い出しなさい」(ルカ十七・三二)。
塩の柱――恥のしるし
ロトの妻が塩の柱となる記録は、創世記第十九章にあります。十五節は言います、「夜が明けるころ、御使いたちはロトを急がせて言った、『立って、ここにいるあなたの妻と二人の娘を連れて行きなさい.そうでないと、あなたはこの町の罪科の中で滅ぼされてしまう』」。御使いたちはこう言っているかのようでした、「ロトよ、わたしたちは、あなたとあなたの全家族を救い出すようにと、神によってここに遣わされて来ました。わたしたちの使命は町を破壊することです。さあ、あなたと、あなたの妻と、あなたの娘たちは、逃げなければなりません」。しかし、ロトはためらっていました(十六節前半)。ここで、ロトはぐずぐずし、進んでその町を離れようとしなかったのです。彼がぐずぐずしていたので、御使いたちは、「彼の手と、妻の手と、二人の娘の手をつかんだ.エホバは彼に対してあわれみ深くあった.そしてその人たちは彼を連れ出して、町の外に置いた」(十六節後半)。御使いたちは、彼ら四人を町の外に連れ出した時、「命がけで逃げなさい。後ろを振り向いてはならない」と言いました(十七節)。しかしロトの妻は「彼の後ろから振り向いたので、塩の柱になった」(二六節)。ロトの妻は救われました。なぜなら、彼女はその町から引き出され、その町の破壊から救われたからです。しかし、彼女は救われたのですが、塩の柱になりました。確かに、塩の柱になるのは良いことではありません。それは恥です。
創世記はほとんどすべての神聖な真理の種を含んでいます。塩の柱も、種と考えられます。この種の成長は、ルカによる福音書第十七章三二節にあります。その所で主は、ロトの妻を思い出すようにと言っておられます。また、ヨハネの第一の手紙第二章二八節では、主の来臨の時に、わたしたちは恥に入れられるかもしれないと告げられています。この種の刈り入れは啓示録第十六章十五節にあります。その所で主は言っておられます、「見よ、わたしは盗人のように来る。目を覚まして、自分の衣を守り、裸で歩いて、人に自分の恥を見せることのない者は幸いである」。主は盗人のように、何の前触れもなしに来られます。もしその時、わたしたちの裸があらわにされるなら、わたしたちは恥に入れられるでしょう。創世記にはアブラハムの種があるだけでなく、ロトと、塩の柱、恥のしるしとなった妻の種もあることを、わたしたちは印象づけられなければなりません。
ここでの基本的な観念は、真に救われたクリスチャンが恥に入れられるという明確な可能性に直面していることです。わたしたちは、この時代の酩酊している教えに聞き入ってはなりません。わたしたちは主からの目を覚まさせる言葉、わたしたちの思いを冷静にし、わたしたちの霊を生かす言葉を聞く必要があります。
ロトの妻――
この世を愛する信者に対する警告
ロトの妻が滅びから救われたことに疑いはありません。しかし、彼女は夫の後ろから振り返って見たので、塩の柱になりました。彼女が夫の後ろを歩いたことは、夫よりもさらにソドムを離れることに気が進まなかったこと、彼に従って町から出ることを喜ばなかったことを示しています。もしソドムを逃げることを喜んでいたなら、彼女は夫に寄り添って歩いたでしょう。後ろを振り返って塩の柱になる前でさえ、彼女はすでに夫の後ろにいたのです。この点で言わせてください。神の事柄については、わたしたちは清い心で主を愛する人と一緒に歩き、並んで行くのが最も良いことです。後ろを行ってはなりません。もしそうするなら、あなたはロトの妻のように、塩の柱になるかもしれません。これはわたしたちすべてに対する警告です。
ロトの妻は夫の後ろを歩き、ソドムの町の方を振り返って見ました。彼女は自分の子供たち、自分の家、自分のその他の持ち物を振り返って見たのでしょう。彼女のすべての家財は、ソドムに残されていました。彼女の体はその町から引き出されたのに、彼女の興味、心、願望、魂はまだその町にありました。ですから、彼女がその場所を振り返って見た時、神はわたしたちすべてに対する警告の実例として、彼女を塩の柱にされたのです。
ルカによる福音書第十七章で、主はロトの妻を弟子たちへの警告の実例として使われました。しかしながら、今日この警告の下に生きているクリスチャンは多くありません。しかし、わたしたちは、真に救われた人が、主の来臨の時、恥に入れられる可能性に直面しているという警告に注意しなければなりません。だれも塩の柱になりたい人はいないと信じます。なぜなら塩の柱になることは栄光ではありません。それは恥です。信者が命のない塩の柱になり、雨露の下に立って苦難のほか何もないとは、何という恥でしょう!
主に従うことで絶対的でない人々は、
恥の場所で苦しみを受ける
ルカによる福音書第十四章二五節から三三節は、主に従うことで絶対的であることについて語っています。わたしたちは主に絶対的に従わなければなりません。聖書は人を愛するようにと教えますが、主は言われます、「だれでもわたしの所に来て、自分の父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、さらに自分の魂の命までも憎むのでなければ、わたしの弟子になることはできない」(二六節)。主の口から出た言葉のこの部分で、わたしたちは絶対的に主に従わなければならないことを見ます。だれでも絶対的になるのでなければ、正しく主に従うことは不可能です。主が彼のためにわたしたちの親族を憎むことを語られる時、それは真の憎しみではありません。すなわち、わたしたちの親、妻、子供、兄弟、姉妹、自分の魂の命は、すべて二次的であるべきで、主ご自身だけが第一でなければならないということです。わたしたちは主に絶対的に従わなければなりません。
主は三三節から三四節で言われました、「そのように、あなたがたはだれでも、自分の財産をすべて放棄しないなら、わたしの弟子になることはできない。だから、塩は良いものであるが、塩であっても味を失えば、何によって塩味が取り戻されるであろうか?」。主に従うことで絶対的でない人たちは、役に立たなくなります。彼らは味を失った塩のようです。ロトの妻が塩の柱になったことは、彼女が機能を失ったことを表徴します。塩は粉の形の時、とても有益です。しかし、だれも柱の形の塩を使いません。主イエスは、わたしたち救われて再生された者は、地の塩であると言われました(マタイ五・十三)。わたしたちの機能は、この腐敗した世の病原菌を殺すことです。しかしながら、もしわたしたちが味を失ったなら、それはわたしたちがロトの妻のように、機能を失ったことを意味します。神の民の一人として、ロトの妻は塩の味で満たされており、彼女の周りの腐敗の病原菌を殺すことができるはずでしたが、彼女は味を失って、機能しなくなりました。
これだけでなく、彼らは「土地にも肥やしにも役に立たず」、投げ捨てられてしまいます(ルカ十四・三五)。ここの土地は、神が彼の目的を成就するようにと、神のために作物を育てる畑です。宇宙における肥やしは火の池であって、そこにはあらゆる汚物が積み上げられるでしょう。王国時代には、神の定められた御旨を成就するための地、土地があり、また火の池、堆肥もあります。キリスト教は常に、二つの場所、天国と地獄があるだけであると人々に告げます。しかし三五節で、主イエスは第三の場所のことを語り、味を失った塩は、土地にも堆肥にも役に立たず、投げ捨てられると言っておられます。ロトの妻がなった塩の柱は、天でもなく、ソドムでもなく、それは第三の場所にありました。わたしたちはどこにいるでしょうか? 土地ですか、肥やしですか、それとも第三の場所に投げ捨てられているのでしょうか?
マタイによる福音書第二五章三〇節で主は、役に立たない奴隷は外の暗やみに放り出されると言われました。外の暗やみもやはり、第三の場所であるに違いありません。これは何であり、どこにあるのか、聖書は語っていません。それにもかかわらず、聖書は、もし怠惰な奴隷であるなら、主が戻って来られた時、あなたは役に立たないので土地に適さないし、あなたは救われているので肥やしにも適さないと言っているのです。あなたは第三の場所、すなわち、栄光の王国と火の池の外側の場所にいるのです。聖書には、救われて敗北した者のために第三の場所が用意されていることをかつて見たクリスチャンはわずかです。
わたしたちは神聖な御言の中の、人に関する全き啓示には三つの場所、救いの場所、滅びの場所、そして恥の場所があることに、深く印象づけられる必要があります。ロトの妻は救われましたが、第三の場所、すなわち恥の場所にいたことを知ることができます。これは、ルカによる福音書における主イエスの教えです。
今はわたしたちが
魂を失わなければならない時である
信者がもし世の人と同じようにこの世に生きるなら、ロトの妻と同じように恥を受け、そして主の再来の時、彼らの魂を失うでしょう(ルカ十七・二八―三三)。大部分のクリスチャンは、彼らは信者ではあるのですが、世の人のように生活し、世の人たちがするのと同じように買い物をしたり、着飾ったりします。彼らは世の人のように生き、歩くので、彼らと世の人たちとの間に何の違いもありません。
今日は、わたしたちが心の楽しみ、この世的な楽しみや享楽を持つ時ではありません。今はわたしたちが魂において、心において、苦しむ時です。わたしたちの生存を維持することができれば、それで十分です。わたしたちは心の享楽や、この世的な享楽を追い求めるべきではありません。もしわたしたちが自分の魂を救うために進んで苦難を受けようとしないなら、主の再来の時に、ロトの妻のように恥を受け、自分の魂を失うでしょう。
主が再来される時に、すべてのクリスチャンが一度に携え上げられると教えるのは間違いです。その教えは、主の民の霊的な感覚を酔わせてしまいます。ルカによる福音書第十七章三四節と三五節で主は言われました、「わたしはあなたがたに言う.その夜、二人が一つの寝床にいると、一人は取られ、一人は残される。二人の女が共にうすをひいていると、一人は取られ、一人は残される」。あなたは議論して、「取られる者は信者で、残される者は未信者です」と言うかもしれません。しかし、二二節から三七節の文脈を読むなら、この言葉は未信者にではなく、主の弟子たちに与えられていることを見るでしょう。それは主の到来の時に関して、彼らに与えられた言葉でした。三四節と三五節の「二人は」は、主の二人の弟子たちを言っており、そのうちの一人は取られ、一人は残されるのです。取られる一人は当然ロトの妻のようではありませんが、残される弟子はロトの妻のようであるでしょう。
これが塩の柱の意義です。これを単に聖書の研究として取るのではなく、わたしたちすべてに対する警告としてください。わたしたちが、だらしなくもなく、全く無関心でもなかったとしても、わたしたちは注意深くなり、状況が実に深刻であることを認識しなければなりません。わたしたちは神の定められた御旨を成就する生活と歩みを持つ必要があります。そうすれば、主の出現の時に、わたしたちは第三の場所、恥の場所に追い出されることはないでしょう。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第3巻より引用