信者たちの携え上げ

真理

信者たちの携え上げは、聖書の中では大きな事柄であり、それは信者たちの将来と直接関係があります。客観的な面では、携え上げられるということは、取り去られることを意味します。主観的な面では、携え上げられるということは、信者が体の贖いを経験すること、つまり栄光を得るということです。聖書ははっきりと言っていますが、主イエスは再来される時、救われて彼に属しているすべての人を、携え上げられます。これは主に属しているすべての人にとって、祝福された望みです。しかしながら、わたしたちは、勝利を得た信者たちの携え上げと大多数の信者の携え上げの違いを見なければなりません。それは、わたしたちに早く命が円熟することを願わせ、勝利を得た信者たちの携え上げに、あずかることができるようにさせます。

勝利を得た信者たちの携え上げ

聖書の中の勝利者の携え上げに関する事実

死んだ勝利者たちは、第三の天、

すなわち神の御座に携え上げられる
啓示録第十二章五節は言います、「彼女は一人の子、男の子を産んだ.この子は鉄の杖で、すべての諸国民を牧養することになっている.彼女の子供は、神に、神の御座に携え上げられた」。聖書で、女は弱い者を象徴し、男は強い者を象徴します。ですから、啓示録第十二章五節の男の子は、神の民の強い部分を象徴します。十一節の「彼らは死に至るまでも」という言葉からわかるように、強い男の子は、死んで復活した勝利者たちによって、構成されています。

最初の殉教者であるアベル、使徒たち、すべての殉教者たち、そして死んだ勝利者たちは、すべて復活を待っています。彼らの復活とは、男の子が生み出されることです。その後、彼らは最後の三年半、すなわち、千二百六十日の大患難の時の前に、神の御座に携え上げられます。彼らは神の敵に対して主の裁きを執行し、天にいる敵、悪魔を地に投げ落とし、さらに鉄の杖で、すべての諸国民を牧養するでしょう。

生きて円熟した勝利者たちは、
天のシオンの山の上に携え上げられる
啓示録第十四章一節と、四節は言います、「またわたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山の上に立っており、彼と共に十四万四千人がいて、小羊の名と彼の父の名がその額に記されていた。……これらの者は、神と小羊への初穂として、人々の間から買い取られたのである」。この十四万四千人の初穂である最初の勝利者たちは、大患難の前に携え上げられます。彼らはまた、小羊であるキリストと共に、天のシオンの山の上に立ちます。神の民は彼の収穫物です。初穂は、最初に円熟した者たちです。ですから、先に収穫され、天の上に携え上げられます。初穂は戦いのためではなく、神と小羊を満足させるためのものです。 神と小羊は享受を必要とします。そして、生きている勝利者たちは初穂として、この享受の必要を満たします。

その他の生きている勝利者たちは、
キリストの前へ携え上げられる
大患難の前に生きて携え上げられる勝利者は、マタイによる福音書第二四章の中で、取り去られた男と女によって表徴される勝利者たちも含まれます。「その時、二人の人が畑にいると、一人は取られ、一人は残される。二人の女がうすをひいていると、一人は取られ、一人は残される」(マタイ二四・四〇―四一)。ルカによる福音書第十七章三四節もまた言います、「わたしはあなたがたに言う.その夜、二人が一つの寝床にいると、一人は取られ、一人は残される」。これらの節の取られるとは、大患難の前に携え上げられることを指しています。取り去られるのは、大患難の前に、生きて携え上げられる勝利を得た信者たちです。ここで語られている二人の人と二人の女は、共に信者を指しています。一人が信者で、もう一人が未信者ではありません。命の円熟度の違いのために、一人は取られ、一人は残されます。取られたのは円熟した者で、残されたのはまだ円熟していない者です。これはまた、勝利者の携え上げは、秘密で、かつ突然に起こることを指しています。夜には、寝ている信者に対して、昼には、家でうすをひいている姉妹や畑で働く兄弟たちに対してです。彼らは天へと携え上げられ、人の子の前に立ちます。すなわち、天のシオンの山の上に携え上げられ、救い主の前に立ちます。ですから、信者たちは目を覚していなければなりません。そうしてはじめて勝利を得、来たるべき大患難を逃れて、人の子の前に立つことができます。

携え上げの条件
聖書は、将来、地球上で前例のない大患難が起こることを、わたしたちに示しています。その中には、神による世界への攻撃や、また反キリストによる聖徒たちへの迫害や殺害があります。勝利を得た信者たちは、この患難の前に携え上げられます。しかしながら、このような携え上げには、以下に述べるような条件があります。

「絶えず目を覚まして祈り求め……なさい」(ルカ二一・三六)

大患難の前に携え上げられ、大患難を逃れるための条件は、絶えず目を覚まして、常に祈り求めることであることを、主は、はっきりとわたしたちに告げています。これが意味するのは、わたしたちはこの世の諸事に巻き込まれるのではなく、絶え間なく主の御前に生き、またこのことに関して、すなわち、携え上げられて大患難を逃れることに関して、専一に、主に祈り求めるべきであるということです。主がここで言われている祈りは、普通の一般的な祈りではなく、来たるべき全地に臨む患難を逃れ携え上げられるために、専一に主に祈り求めることです。

このように、携え上げを祈り求める人と、主との間には自然に何の隔たりもなくなるようになりますが、自分自身の気を緩めるべきでもありません。彼らは、瞬間ごとに主の御前に生き、毎日、主と共に歩まなければなりません。軽々しく何かを言ったり、行なったりしてはならず、彼らのすべての意図と行動は、主によって厳しく探られ、規制されなければなりません。このような人たちだけが、主の御前に立ち、来たるべき全地に臨む患難を逃れ、携え上げられるために、常に主に祈り求めることができます。また、このような人たちだけが、来たるべき大患難を逃れ、主の御前に携え上げられるのにふさわしい人たちです。

「目を覚ましていて、……用意していなさい」「自分の主人が……帰って来るのを待っていて」(マタイ二四・四三、四四.ルカ十二・三六)

もし患難の前に携え上げられたいなら、わたしたちは目を覚まして祈り求めなければならないだけでなく、目を覚まして用意していなければなりません。ただ祈り求めるだけでは十分ではありません。わたしたちはまた用意していなければなりません。わたしたちは携え上げられる用意、主によって取り去られる用意、出て行って主を迎える用意をしなければなりません。告白すべき罪をすべてはっきりと告白して、対処すべき事柄をすべてきれいに対処して、わたしたちが行なうべき事柄をすべて適切に行ない、用いるべき賜物をすべて用いて、果たすべき務めもまたすべて果たします。わたしたちと主との間には何の問題もなく、人に対しても何の欠けたところもなく、あらゆることにおいて用意ができており、主が来られて取り去られるのをただ待ちます。わたしたちは、何の心残りや何の心配もなく、主が召されたら、すぐに行きます。このように目を覚まして、用意ができており、主を待っている者たちだけが、大患難が来る前に、そして多くの信者がまだこの世の物事に浸っている時に、主によって携え上げられます。

「主の出現を慕ってきた……人」(Ⅱテモテ四・八)

目を覚まして用意しており、主の再来を待っている信者は、主を愛している者に違いありません。主を愛する者は、主の再来を望み、主の出現を慕う者に違いありません。もしわたしたちが一人の人を愛するなら、毎日、彼を見ることを慕います。主に対しても同じです。もしわたしたちが真に主を愛するなら、瞬間ごとに主の出現を慕うはずです。

「あなたはわたしの忍耐についての言を守った」(啓三・十)

主の忍耐についての言葉を守ることは、来たるべき全地の人に臨もうとしている試練の時から、わたしたちを救い出します。わたしたち主に属する者が、地上で生活している間、一番大事なことは、主の言を守ることです。そして、主の言にしたがって、あらゆる事を行なわなければなりません。この地上のあらゆる事が、主の言葉に逆らっているので、この地上で主の言を守ろうとするなら、わたしたちはこの困難に対し、忍耐しなければなりません。ですから、主の言葉を守ることは、主の忍耐についての言を守ることです。これは、わたしたちが携え上げられて、大患難を逃れるための必要条件です。わたしたちは、将来に全世界に臨む大患難の前に、主の御前に携え上げられたいなら、今日、この世がわたしたちに負わせる困難な状況の中でも、主の忍耐についての言を守らなければなりません。わたしたちがこのようであるなら、来たるべき地上に臨むすべての患難を逃れ、最初に携え上げられて主に会うのに値します。

「勝利を得る者、わたしのわざを最後まで保つ者」(啓二・二六)

ここで言う勝利者としての条件は、勝利を得て、主のわざを最後まで保つことです。わたしたちは、将来に地上に臨む大患難を逃れ、先に主の御前に携え上げられるには、今日、勝利者として、主のわざを最後まで変わることなく保ち続けなければなりません。

大多数の信者の携え上げ

聖書の中の大多数の信者の携え上げに関する事実

啓示録第十四章十六節は言います、「雲の上に座している方がその鎌を地上に投げると、地は刈り取られた」。大多数の信者が携え上げられるということは、神が地上における彼の収穫物を刈り取るということです。この収穫物は、主が地上に来られた時にまいた種から成長したものです。その時から、神の作物は成長し続け、将来において刈り取られます。すなわち、その時に大多数の信者が携え上げられます。すでに前でも見てきたように、この作物の一部が先に刈り取られます。すなわち、神とキリストへの初穂として、大患難の始まる前に、先に天に携え上げられます。彼らは早く熟したので、早く刈り取られ、天に携え上げられます。残りの大部分の作物、すなわち、大多数の信者は、大患難の終わりまで地上に残ります。それから、全て刈り取られ、全て携え上げられます。この時、主は天の御座を離れて、空中の雲に下って来られます。主はこの雲から、彼の鎌を地上に投げます。すなわち、主は彼の御使いたちを地上に遣わし、残りの大部分の収穫物を刈り取られます。このようにして、大多数の信者の携え上げに関する事柄は完成します。

携え上げられる時
「わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちが彼のみもとに集まることに関して、……あの不法の者、すなわち滅びの子が出現しなければ、それは来ないからです」(Ⅱテサロニケ二・一、三)。

この節は、大多数の信者の携え上げの前に、あの不法の者、すなわち反キリストが出現して、主に反対することを示しています。これは、啓示録第十四章で語られていることと符合します。これらの箇所がはっきりと証明していることは、大多数の信者が携え上げられるのは、反キリストが出現して、かなり長い間の横行があった後、すなわち、大患難の期間の終わりに起こるということです。

「最後のラッパの時、……ラッパが鳴り響いて、死人は朽ちないものに復活させられ、わたしたちは変えられるのです」(Ⅰコリント十五・五二)。

大多数の信者は最後のラッパの時に携え上げられます。啓示録第八章二節は、神のラッパは全部で七つあり、神のラッパの最後が鳴り響いた時、すなわち、神の第七のラッパが鳴り響いた時、それは大患難の終わりの時でもあると言っています。ですから、大多数の信者は、最後のラッパが鳴り響いた時、すなわち、大患難の終わりの時に携え上げられます。

携え上げられる場所

テサロニケ人への第一の手紙第四章十六節から十七節は言います、「キリストにある死人がまず復活するからです。次に、生きていて、残っているわたしたちが、彼らと共に雲の中に引き上げられ、空中で主と会います」。将来、大多数の信者は雲の中に携え上げられ、空中で主と会います。これは勝利を得た信者たちが、天に携え上げられることとは完全に異なります。

携え上げられる条件

啓示録第十四章十五節は言います、「地の収穫物が熟しているからです」。大多数の信者が携え上げられる条件は、命における円熟です。収穫物が熟すことは、命が満ち、地の水分からは離れるということです。地の水分がなくなればなくなるほど、収穫物はますます熟します。収穫物が熟していないのは、命がまだ満ちていないからです。それは地の水分がまだ残っているからです。大患難の前に、勝利を得た信者たちが初穂として携え上げられる時、大多数の信者はまだ円熟していません。彼らは、まだ神の命に満たされていません。それどころか、彼らは、まだ地の水分に満ちており、まだ地的な供給に依存しています。彼らが地の水分に満ちており、地と彼らの関連が深いので、神は彼らを地上に残して大患難の試練を経過させるのです。大患難の苦難は、焼き尽くす太陽のように彼らを照らし、彼らを円熟させるため、彼らの中の地の水分を干上がらせます。そして、彼らは大患難の終わりに刈り取られます。彼らは、復活した信者と共に雲の中に引き上げられ、空中で主と会います。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第3巻より引用