ヘブル人への手紙第八章十三節は言います、「彼は『新しい契約』と言うことによって、第一のものを古いとされたのです。古くなり、また衰えていくものは、すぐに消え去ります」。これは、新契約が制定され完成される前に、神はイスラエルとの間に一つの古い契約(旧契約)を結ばれていたことを示します。
しかし、イスラエルが神から離れ、エレミヤの時代にこの契約を極限まで破壊したため、神は介入され、「その時、わたしはイスラエルの家とユダの家と新しい契約を結ぶ」と言われたのです(エレミヤ三一・三一)。ヘブル人への手紙第八章において、パウロはエレミヤ書のこの箇所を引用して、わたしたち、新約の信者に応用しました。これが示しているのは、新契約およびその特権と祝福の分け前は今日のわたしたちの享受のためにあるということです。しかし、主が戻られたあと、イスラエルもこの享受にあずかります。
どうして新契約が必要なのか
第一の契約――旧契約――欠陥がある
ヘブル人への手紙第八章七節は言います、「もし、あの第一の契約に欠けたところがなかったなら、第二のものを求める余地はなかったでしょう」。この節の中の第一の契約は、神がイスラエル人と結んだ律法の契約であり、旧契約と呼ぶことができます。出エジプト記第十九章一節から八節を見てみましょう。「イスラエルの子たちは、エジプトの地から出て来た後、第三の月のその日に、シナイの荒野に入った。……山の前に宿営した」。そこで神はモーセにイスラエルの子たちにこう告げさせました、「そこで、今あなたがたがまことにわたしの声に従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは万民の中から、わたしの固有の宝となる.全地はわたしのものだからである」。イスラエルの民がこれを聞いた後、みな共に答えて言いました、「エホバが語られたことをみな、わたしたちは行ないます」。モーセが契約の内容を全部発布した後、「その血を取って民に振りかけ、そして言った、『見よ、これは、エホバがこれらすべての言葉にしたがって、あなたがたと結ばれた契約の血である』」(二四・八)。
神は彼の律法と戒めを石の板に書いてモーセに渡されました。この契約の中にこのような言葉があります、「あなたはわたしの前で、他の神々を持ってはならない。……それらにひれ伏してはならない.それらに仕えてはならない」(二〇・三―五)。しかし、モーセが石の板を持って山を下りる前に、イスラエルの子たちはすでに契約に違反し、ふもとで金の子牛を鋳造し、それを拝み、ささげものをささげていました(三二・一─八)。そのあともイスラエルの子たちは神の契約を守ることはできませんでした。彼らは荒野で何度も神を怒らせ、彼を試みました。神のみわざを四十年も見ていたにもかかわらず、彼らの心はくもり、神の働きの法則を理解しませんでした(参照、へブル三・九―十)。「神は彼らの欠け目を見いだして、言われます、『主は言われる、見よ、その日が来る.わたしはイスラエルの家とユダの家に、新しい契約を完成する.それは、わたしが彼らの父祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと立てた契約のようなものではない.彼らがわたしの契約の中にとどまらなかったので、わたしは彼らを顧みなかったと主は言われる』」(ヘブル八・八―九)。
旧契約自体について言えば、「律法は聖であり、……霊なるもの」です(ローマ七・十二、十四)。「律法は……良いもの」です(Iテモテ一・八)。しかし、律法は人に善を行なうように要求しますが、善を行なう命と力を与えませんでした。ですから、「律法の行ないによっては、いかなる肉も、神の御前に義とされ」ません(ローマ三・二〇)。つまり、「律法は何も完成しなかったのです」(へブル七・十九)。しかしそれは、旧契約自体に欠陥があったのではなく、旧契約が人において力が及ばなかったことを指しています。そのような意味で旧契約には欠陥があるため、新しい契約が必要なのです。
第二の契約―新契約―さらにまさった契約
ヘブル人への手紙第八章によれば、第二の契約─新契約はさらにまさった約束の上に制定されています(六節)。しかも、新契約は人の外側にある石の板に書かれているものではなく、人の思いの中に分け与えられ、人の心に書かれています(十節)。言い換えれば、新契約において、人に命令するのは神であり、人が神の御旨を守ることができるようにするのも神です。新契約とは、神がわたしたちに命と能力を与え、わたしたちに神がわたしたちに求める善を行なうことができるようにすることです。また、神をわたしたちの神とならせ、わたしたちを神の民とならせることです。また、わたしたちが人の教えに決して頼ることなく、内側でさらに深く神を知るようにさせることです(十一節)。新契約は「さらにまさった契約」です(七・二二、八・六)。新契約は人を聖別するものであり(十・二九)、また「永遠の契約」であるからです(十三・二〇)。
この契約に永遠の効力があるのは、キリストの永遠に効力のある尊い血によって結ばれたからです。主イエスが売られるその夜、「杯を取り、感謝をささげて、それを彼ら(弟子たち)に与えて言われた、『みな、それから飲みなさい.これは、多くの人に罪の赦しを得させるために、今、注ぎ出されているわたしの契約の血である』」(マタイ二六・二七─二八)。主イエスは血を流されました。この血は罪を贖うためだけではなく、契約を結ぶためでもありました。この契約とは新契約です。
血と契約
血の必要
新契約はなぜ血をもって結ぶ必要があったのでしょうか? なぜ血をもって結ばれた契約でないと効力がないのでしょうか? アダムがエデンの園から追放された後、神と交わる地位を失い、命と嗣業を失ったことを、わたしたちは知る必要があります。
アダムからモーセまで、死が王として支配しました(ローマ五・十四)。モーセからキリストまで、死が王として支配しただけではなく、罪も王として支配しました(二一節)。主イエスが血を流したことは、わたしたちのために死と罪の二つの問題を解決しました。
旧約時代、人はやぎや牛の血によって、年ごとに罪を思い出されました(ヘブル十・三―四)。しかし、キリストが彼ご自身の血を通して、一度限りで永遠に至聖所へと入り、永遠の贖いを獲得されたのです(九・十二)。また、彼の血はわたしたちの良心を清め(十四節)、わたしたちはもはや罪に訴えられなくなりました(十・二)。キリストの血は永遠に、完全に罪の問題を解決することができます。本来、神は彼ご自身の命とすべてをわたしたちに与えたかったのですが、わたしたちの罪および罪がもたらす死によって、わたしたちは神から隔絶され、神に属する一切のものにあずかることができなくなりました。主イエスの血は、わたしたちのために罪と死の問題を解決しただけではなく、わたしたちがすでに失った嗣業をも回復し、わたしたちが持ち得なかった祝福をわたしたちに与えてくださいました。
血と契約の関係
血と契約はどんな関係があるのでしょうか? 次のように言うことができます。血は基礎であり、契約は証明書です。血は契約を結ぶ基礎であり、契約は血で結ばれた証明書です。血がなければ、契約は成立せず、その効力もありません。神がわたしたちに与えられた嗣業は一枚の書面の契約書に列記されます。この契約は主イエスの血によって、わたしたちと結ばれたものです。わたしたちは主イエスの血によって結ばれた新契約を根拠にして、神がわたしたちに与えられた霊的嗣業を受けることができます。ですから、新契約は絶対に合法的な事柄であり、神の義なる手続きにしたがって結ばれたものです。新契約は神が口だけで語られたものではなく、神がキリストの血によってわたしたちと結ばれた証明書です。
神はわたしたちを愛しています。ですから、主イエスは、わたしたちのために死なれました。これは神の恵みです。もし神がわたしたちを愛さず、恵みを与えなかったなら、主イエスが来て、わたしたちのために罪の贖いのみわざを成就することはなかったでしょう。しかし、神は単独に人に恵みを与えるのではなく、神は彼の義を通して彼の恵みを人に与えられます。ですから、ローマ人への手紙第五章二一節は言います、「罪が死の中で王として支配したように、恵みもまた義を通して王として支配し、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に至るためです」。恵みは義を通して王として支配しています。このことが言っているのは、恵みは水のようであり、義は(水を流す)管であるということです。神の恵みは義という管を通して流れ、わたしたちに届きます。主イエスが十字架につけられる前はすべて神の恵みによる働きであり、主イエスが十字架につけられた後はすべて神の義による働きです。
神がわたしたちに与えられるすべてのものが、もし単に恵みに基づいているとしたら、わたしたちの信仰は揺り動かされる可能性があります。なぜなら、恵みは法律的な手続きを経ていないので、停止される可能性があるからです。しかしキリストの血が義の基礎となっているので、神とわたしたちが結んだ契約が無効になることはありません。神がわたしたちに恵みを与えられるのに、血を用いてわたしたちと契約を結び、ご自身をその契約の中に拘束されました。神は、わたしたちが契約に基づいて、神が彼の義にしたがってわたしたちを取り扱うようにと神に要求させられます。わたしたちが得たのは神の恵みですが、わたしたちは血の基礎(義の基礎)の上で神と交わり、恵みが義を通してわたしたちに及ぶようにさせます。このような義は恵みを無効にするどころか、恵みの最高の表れとなっています。
「契約」であり「遺言」でもある
ヘブル人への手紙第九章十五節から十七節は言います、「(キリスト)は新しい契約の仲保者なのです.それは、第一の契約の下での違反を贖うために、彼が死を遂げられ、召された者たちが、約束された永遠の嗣業を受けるためです。ところで、遺言がある場合、その遺言を作成した者の死が実証されなければなりません。というのは、遺言は人が死んでこそ確立するのであって、その遺言を作成した者が生きている時は、何の効力もないからです」。ここの「遺言」は原文では「契約」と同じ言葉です。この言葉を契約と訳すべきか、それとも遺言と訳すべきなのかは、契約者が存命中であるかどうかにかかっています。契約を立てた人が生きていれば、その契約は依然として契約であり、もし契約を立てた人が死んだなら、その契約はすぐに遺言となります。ですから、神の面から言えば、神がわたしたちと結んだのは「契約」であり、主イエスの面から言えば、彼が死んでわたしたちに永遠の嗣業を遺贈されたので、それは「遺言」です。「契約」は本人が死ななくても有効ですが、「遺言」はそれを立てた人が死んだ後に初めて有効になります。
主イエスは遺言を残した方です
主イエスは、売られてしまうその夜に、「パンを取って感謝をささげ、それをさいて彼らに与え、言われた、『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である.……』。彼らが食事をした後、杯も同じようにして言われた、『この杯は、あなたがたのために注ぎ出される、わたしの血によって立てられた新しい契約である』」(ルカ二二・十九─二〇)。ここの「新契約」とは、エレミヤ書で書かれている最も栄光なる新しい契約のことです。今や主イエスの血によって、何と、この契約をわたしたちが得る嗣業とならせ、わたしたちにその中で語られるすべてを享受させるのです! これは、新契約はすなわち主の遺言であることを見せています。彼は彼の遺言の中でわたしたちに霊的な嗣業を与えられました。彼がわたしたちに残されたのは、ヘブル人への手紙第八章十節から十二節で書かれている新契約です。
主イエスは遺言の執行者です
わたしたちの主は遺言を残されたお方であるだけではなく、遺言の執行者でもあります。なぜなら、「彼は新しい契約の仲保者なのです」(九・十五)。「仲保者」とは「執行者」のことです。遺言を立てるときの証人は重要ですが、遺言の執行人のほうがもっと重要であることをわたしたちは知る必要があります。契約の効力を発生させることが、遺言の執行者の負うべき責任です。遺言の中のすべての事柄はわたしたちが得るべきものです。もし執行者が忠信であるなら、遺言の中のすべての事柄をわたしたちは必ず得ることができます。逆に、遺言だけがあり、それを執行する能力を持つ方がいなければ、遺言はただそこにあるだけです。しかし、わたしたちの主はただ遺言をわたしたちに残しただけではなく、彼は責任のある執行者でもあるため、わたしたちは必ず遺言の中のすべてを得ることができます。なぜなら、死の面から言うならば、主は「ご自身の血を通して、一度で永遠に至聖所へと」入られました(十二節)。このことは、遺言を残された人がすでに死んだことを意味します。また復活の面から言うならば、主は天において新契約の仲保者となられました。このことは、彼が遺言を執行する能力がある方であることを意味します。
主が天上で仲保者となられたのは、新契約の「執行者」となられたことであり、わたしたちにおいて新契約を発効させます。彼が血を流して結ばれた新契約の効力は、わたしたちに神に服従する命と力を与え、さらに深く神を知るようにさせます。また、わたしたちの罪が赦され、良心の中の訴えから逃れることができるようにされました。彼はこれらの事柄のために仲保者となられたのです。神の信実と義にしたがって言えば、この契約は永遠に背くことができず、永遠に廃止することができません。主の復活の力にしたがって言えば、この契約には永遠に効力があります。主は豊かな遺言を残された方だけではなく、遺言を執行する能力をお持ちの方でもあります。
遺言の効力
主が「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」と言われたことが意味しているのは、遺言を残した人がすでに死に、新契約の効力が生じようとしているということです。このパンは命のパンであり、この杯は祝福の杯です。しかもこの杯はまさに新契約であり、新契約の一切の豊富な祝福を含んでいます(神ご自身を含む)。これは、主が十字架上でわたしたちを贖うために流された血によって結ばれた契約です。ですから、わたしたちが毎回このパンを食べ、この杯を飲むときは、主の死を告げ知らせ、展覧しているのです(Ⅰコリント十一・二六)。主はすでに死なれました。今や遺言に効力があります! わたしたちはもはや貧しく、乾いた、無気力な生活を送るべきではありません。信仰によって遺言の中のすべてを受け取る必要があります。
新契約の時代
「見よ、その日々が来ようとしていると、エホバは告げられる.その時、わたしはイスラエルの家とユダの家と新しい契約を結ぶ.その契約は、わたしが彼らの父祖を、その手を取ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと立てたようなものではない.わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはわたしの契約を破ったとエホバは告げられる」(エレミヤ三一・三一─三二)。ここで「その日々が来ようとしている」と言っていることは、エレミヤがこの言葉を語ったときには、その日々はまだ来ていなかったことを示しています。この契約の内容から見ると、千年王国が始まるときに、神が初めてイスラエルの家と新しい契約を結ぶことを指していると、わたしたちは信じています。また、この言葉は、神は異邦人(召会)と新しい契約を結んだのではなく、イスラエルの家とユダの家と結んだことをはっきりと見せています。神は召会と旧契約を結んだことがないので、召会と新契約を結ぶこともできないからです。
そのような状況だったのですが、主は血の代価を払われ、主が贖われた人たちに先に新契約を享受することができるようにされました。ですから、わたしたち異邦人の信者にとっては、主が死なれたその日から、新契約が始まりました。これは主の大きな恵みであり、わたしたちは信仰を通して新契約の祝福を前味わいできるようにされました。これは、神がアブラハムとは契約を結び、わたしたちとは契約を結ばれませんでしたが、アブラハムが信仰によって義とされたように、わたしたちも信仰を通して義とされるのと同じです。同じように、神は将来、イスラエル人に新契約を享受させることを約束されました。しかし、今日、主イエスが流された血、すなわち新契約を結ばれた血によって、わたしたちはすでに新契約の下に置かれています。わたしたちは今、新契約のすべてを享受することができます。主は新契約の原則をもってわたしたちを建造し、新契約の祝福をわたしたちに与えられます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第2巻より引用