エレミヤ書第四六章から第五一章では、神の選民、イスラエルにかかわりのある諸国民に対するエホバの刑罰と裁きの絵を示しています。この聖書の箇所の最後はバビロンについて語っています。この聖書の箇所でのバビロンに関する罪定めの言葉は、その他のいかなる国に関して語られたものよりはるかに長いものです。わたしたちは聖書全体の啓示からバビロンの性質と結末を見る必要があります。
バビロンの三つの面
聖書はバビロンの三つの面を啓示します。第一の面は文字どおりの古代バビロンであり、古代バベルあるいはバビロンを指しています(創十一・九)。それは今日のイラクです。第二の面は宗教のバビロンであり、啓示録第十七章で書かれているローマ・カトリックを指しています。第三の面は物質のバビロンであり、ローマの都を指しており、それは第十八章で書かれています。
文字におけるバビロンと物質のバビロン
文字におけるバビロンの起源は創世記第十一章のバベルでした。それは人によって構成された最初の国であり、その国は神に反抗し、人を高く上げ、すべての偶像の中にいるサタンを拝みました。バビロンはバベルの継続です。聖書の最後の書である啓示録の第十八章は、何度もバビロンについて言及しています。しかし、ここでのバビロンは、文字どおりの古代バベルの場所を指すのではなく、ローマの都を指しています。これは、神の視点によるならば、ローマがバビロンの継続、終極、結末であることを示しています。聖書によれば、地上における人の統治は、神の目に、初めから終わりまで完全にバビロンのものです。これはダニエル書第二章の大きな人の像によって証明されます。巨大な人の像の金の頭はバビロンを象徴します。頭がバビロンであるだけでなく、像全体がバビロンです。神の視点から見れば、全人類の政権自体がバビロンです。
ダニエル書第二章の像は、四つの帝国を表徴します。すなわちバビロン帝国、メド・ペルシャ帝国、マケドニア・ギリシャ帝国、ローマ帝国です。ローマ帝国はもう存在していませんが、今日の文化や習慣は依然としてローマの精神を継承しています。ですから、今日わたしたちは依然としてローマ帝国の中にいます。将来、反キリストはローマ帝国を復興し、自らをその上に最後のカイザルとするでしょう。この時代の最後の七年間に、彼はイスラエルと和平の契約を結び、イスラエルに自由に神を礼拝させるでしょう。しかし三年半の後、反キリストは思いを変え、すべての宗教を迫害し、特にユダヤ人とキリストにある信者たちを迫害します。その時、神は復興されたローマ帝国の首都であるローマをバビロンと考えられます。歴史的に、過去十世紀あるいはそれ以上の間、ローマの都市は宗教的にローマ・カトリック教会とかかわりを持ち、それに密接に結び付けられてさえきました。
宗教のバビロン
大遊女――イゼベルという女
宗教的なバビロンは啓示録第十七章の大遊女であり、忌むべきものと神聖なものを混合させています。すなわち背教の召会ローマ・カトリックです。第二章で、神はテアテラに在る召会にこう言われました、「しかしわたしには、あなたを責めることがある。あなたはイゼベルという女を、なすがままにさせている。彼女は女預言者と自称し、わたしの奴隷たちを教え惑わして、淫行を犯させ、また偶像にいけにえとした物を食べさせている」(二〇節)。イゼベルという名を使うことによって、主はわたしたちに、アハブの妻イゼベルが何を行なったかを思い起こさせておられるのです。彼女は異教の背景から来て、神の民による神の礼拝の中に、異教のものを持ち込みました。旧約聖書のイゼベルは、啓示録第二章の「イゼベルという女」の予表でした。すなわちマタイによる福音書第十三章で主が預言された女です。
マタイによる福音書第十三章で主があるたとえを用いて召会の腐敗について言及しました「天の王国はパン種のようなものである.女がそれを取って、三升の粉の中に隠すと、全体が発酵した」(三三節)。邪悪な女がこのきめの細かい小麦粉にパン種を加えました。これがまさに背教の召会がしていることであり、異教のパン種を取り入れ、それをキリストのきめの細かい小麦粉に加えて、邪悪な混合物を形づくるのです。この事で、背教の召会は非常に邪悪でこうかつです。ですから、マタイによる福音書第十三章の女は啓示録第二章の人を誘惑するイゼベルであり、イゼベルは啓示録第十七章で大いなるバビロンと呼ばれる大遊女になるのです。遊女は夫を持っていません。これは、神が背教のローマ教とどんな関係を持つことも、決して承認されたことがないことを示しています。
ローマ・カトリックが行なっているすべてのことの原則は、異邦、異教のものを、神の民による神の礼拝に混ぜ合わせることです。彼女は、神の民が神を礼拝するのを助けますが、神の道によってそうするのではありません。彼女は自分の異教的で異邦的な方法でそれを行なうのです。ローマ・カトリックが始まって以来、異教信仰を吸収し続けてきました。彼女は至る所で偶像礼拝に関係のあるものを吸収してきました。
異教の混合
ローマ・カトリックが行なった事の中で、最も著しい例の一つはクリスマスです。十二月二十五日、クリスマスの日は、もともと古代ヨーロッパ人が太陽を拝んだ日です。ローマ・カトリックがヨーロッパに広がった時、多くの未信者が入ってくることを受け入れました。これらの未信者たちは、依然として自分たちの神の誕生日を祝いたがりました。このような人たちに適応するために、ローマ・カトリックは、十二月二十五日をキリストの誕生日として宣言しました。これがクリスマスの起源です。
ローマ・カトリックも、神、キリスト、聖書を持っていますが、それらはみな純粋ではなく、混ぜ物です。それはきめの粉かい小麦粉の中にパン種が入っているようなものです。カトリックの教会堂には多くの人の像があります。なぜなら彼らは像がないと、聖書のことを話しても、人は理解することができないと考えているからです。彼らは人には具体的なものをもって理解させることが必要であると考えています。これが、イエスとマリアの像を持つことの彼らの理由です。何というこうかつさでしょう! それはイエスでもマリアでもなく、偶像です。一見、彼らは表面上ではイエスを礼拝しているようですが、実際は石の像を拝んでいるのです。これらから、わたしたちは背教の召会の邪悪を見ることができます。彼女、この背教の召会は異教のものを吸収して、きめの細かい小麦粉に加えました。
この邪悪な混合によって、背教の召会には多くの偶像礼拝があります。主は、イゼベルが人々に、淫行を犯し、偶像にささげた物を食べることを教えると言われました。イゼベルは彼女の民に、偶像を拝むことを教えましたが、ローマ・カトリックもまた、偶像礼拝を教えています。カトリックの教会堂では、多くの人々がろうそくの売店でろうそくを買い、それを壁の像や絵の前に供えるのを見ます。またそのような偶像礼拝がある所には、必ず淫行があります。イゼベルは異教思想と偶像を持ち込んだだけでなく、淫行をも持ち込みました。これは憎むべきものです。わたしたちはそれを容認することができません。それは教理上の討論の問題ではありません。それは偶像礼拝と姦淫の問題です。
サタンの具体化
背教の召会にはまた多くのサタンの深い事柄があります(啓二・二四)。これはサタンの深い思想、サタンの観念が背教の召会に浸透したことを示します。主はこれを、きめの細かい小麦粉に入れてパンを食べやすくするパン種に、たとえられました。背教の召会は、「もし人々がクリスマスを持たないなら、キリストの誕生に関する真理を受け入れることは困難であろう」と言います。クリスマスのミサは、きめの細かい小麦粉に加えられたパン種です。これはこうかつで邪悪です。ついに、この召会はサタンの具体化となります。これが今日のキリスト教国の真相であることがわかります。キリスト教国はサタンの機関となりました。それはキリストの御名を持っているとはいえ、実は内側にはサタンがいます。
啓示録第十七章四節は続けて言います、「その女は紫と緋色の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、手には忌むべきものと、彼女の淫行の汚れた物で満ちた金の杯を持っていた」。この邪悪な女の外観はとても華やかで、金と宝石と真珠で身を飾っています。これら三種類の材料は、新エルサレムを建造するのに用いられる貴重な材料です。しかし、この邪悪な女は単にそれらで身を飾っているだけです。身を飾るというのは、偽りの見せかけをすること、表面的に人を引き付けること、人の喜びそうな、けばけばしい外観で邪悪なものを隠そうとすることを意味します。彼女の外観は、人を引き付けますが、内側は忌まわしいものです。この女はまた、忌むべきものと、彼女の淫行の汚れた物で満ちた金の杯を持っています。予表では、金は神聖な性質を表徴します。この邪悪な女は一見して、神からのものを持っているようですが、実は、内側は忌むべきものに満ちています。聖書で忌むべきものとはおもに二つの事、偶像礼拝と淫行を示します。これら二つのものは、神の目には忌むべきものです。見たところ、この女は非常に魅力的で、金と真珠と宝石とで飾られ、金の杯を手に持っています。もし洞察力がなければ、あなたは彼女に欺かれるでしょう。しかし、わたしたちは彼女を見抜く洞察力を持たなければなりません。この女の内側が何であるかを見る時、わたしたちは彼女が忌むべきものと汚れに満ちていることを認識します。
啓示録第十七章五節は言います、「彼女の額には、一つの名が記されていた、『奥義、大いなるバビロン、地の遊女どもと忌むべきものの母』」。主は人々の心を探り、その中に何があるかを知っておられます。彼は洞察力を持ち、この邪悪な女の内側を見通されます。主は彼女を「遊女どもの母」と呼ばれます。これは、彼女がすべての霊的姦淫の源であることを意味します。こういうわけで、彼女がサタンの具体化であると言うのは正しいのです。
バビロンの倒壊
宗教のバビロンの倒壊
主は啓示録第二章でイゼベルを裁くと示されました(二一―二三節)。主は大患難の期間中、反キリストがこの背教の召会を殺害し、破壊することを許されます。その時、宗教のバビロンは引き裂かれて倒れるでしょう(十四・八、十七・十六)。その時まで、この背教の召会は予言にしたがって前進するでしょう。
啓示録第十四章ではこの世代の終わりの大患難の半ば、宗教のバビロンは倒壊します。最後の七年の半ばで、反キリストがイスラエルとの契約を破棄する時、あらゆる宗教を滅ぼすでしょう(ダニエル九・二七、十一・三一)。これが、三年半(マタイ二四・二一)続く大患難の開始のしるしです。反キリストは、すべての神々を超えて自分を高くし、人々を強制的に、自分を神として拝ませます(啓十三・四―六、十二、十四―十五)。その時、彼は宗教のバビロン、背教のローマ・カトリックを滅ぼすでしょう(十七・十六)。反キリストと終わりの世代政権はこの遊女を憎み、彼らはローマ・カトリックを荒廃させ、彼女(ローマ・カトリック)を裸にし、滅ぼし、財産を奪い、彼女の肉を食べ、彼女の肢体を殺します。また彼女を火で焼き尽くし、彼女を絶滅させます。
物質のバビロンの倒壊
宗教のバビロンの倒壊は大患難の初めに起こり、物質のバビロンの倒壊は大患難の終わりに起こるでしょう。啓示録第十八章二節でキリストは「力強い声で叫んで言った、『倒れた! 大いなるバビロンは倒れた!』そして、彼女は悪鬼どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣くつ、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった」。この節は預言者イザヤとエレミヤの予言を含んでおり、またその中の言葉を引用しています。文字どおりのバビロンを罪定めすることにおいて、エレミヤはこのような表現を使いました。最終的に、ローマの都は古代バビロンと同じように罪定めされ、のろわれるでしょう。こういうわけで、ローマの都はもはや人の住む場所には適さなくなります。
今日ローマはイタリアの首都であり、ローマ・カトリックの本部の所在地でもあります。多くの旅行者が好んでそこを尋ねます。しかしながら、その日が来たなら、そこへ行こうとする者がだれもいなくなるでしょう。なぜなら、それは悪鬼ども、汚れた霊、汚れた憎むべき鳥に満ちるからです。これは、それが神の目に醜悪で忌むべきものとなることのしるしです。物質のバビロン、ローマの都は、神の目に忌むべきものとなるでしょう。なぜなら、その都が悪魔的政治と悪魔的宗教の源となるからです。
ローマ帝国では悪魔的政治を、ローマ・カトリックでは悪魔的宗教を見ます。これらの悪魔的なものは、少なくとも二千年間、権力を持ち続け、全地にわたって人を破壊して、毒してきました。ですから、神は入って来てローマの都を裁き、それを人の住むのに適さない所とされるのです。古代バビロンに対して宣告された罪定めとのろいの結果、そこは人の住まいに適さない所となりました。物質のバビロンも同じようになるでしょう。
大遊女の裁きに対する天での賛美
過去二十世紀のうち、初めの五世紀ではローマ帝国の支配を見ますが、終わりの十四世紀ではローマ・カトリックの支配を見ます。バビロンの倒壊の時が来ると、宗教の面がまず破壊され、物質の面がその後、破壊されます。大遊女の裁きに対して、天で大群衆の大声のようなものがこう言うのを聞きました、「ハレルヤ!」(啓十九・一―三)。天での賛美はおもに物質のバビロンの壊滅に関してではなく、宗教のバビロンの壊滅に関してです。なぜなら、神の目に、宗教の面は物質の面よりも憎むべきものであるからです。今日、わたしたちは物質のローマにはあまり関心がありませんが、宗教のローマには非常に悩まされています。ですから、宗教のバビロンの倒壊を見ることができることは、わたしたちにはどんなに幸いなことでしょう!
バビロンの結末
大患難の初めに、反キリストはローマ・カトリックを破壊するでしょう(啓十七・十六)。三年半の後、大患難の終わりに、主イエスはローマの都を破壊されるでしょう(十八・八)。この時点で、ローマ帝国において完成された人の統治は破滅するでしょう。これは、神の選民、イスラエルにかかわりのある諸国民に対する刑罰と裁きに関するエレミヤの予言と符合します。この刑罰と裁きはエジプトで始まり、バビロンで終わります。その後もはや人の統治はないでしょう。
預言者イザヤもエレミヤもわたしたちに、バビロンはその地と民を含め、断ち切られることを明確に告げています。バビロンは神に反抗する地上で最も邪悪なものです。そしていったんバビロンが破壊されるなら、それは復興されないでしょう。バビロンはニムロデに始まり、反キリストの下で復興されたローマ帝国で終わるでしょう。そのローマ帝国は、神の目には、バビロンの継続であり、終極、結末です。神が、宗教と政治のバビロンの両方を破壊されるとき、それはエレミヤ書第五〇章と第五一章で予言された、バビロンに対する裁きの終わりとなるでしょう。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第2巻より引用