永遠の神、エホバを認識する

真理

エレミヤ書全体は、エレミヤがしばしば神を「万軍のエホバ」と呼んでいることを見せています(二・十九、六・九、七・二一、九・十五、十七、十一・十七、二〇・十二)。これは神に召された預言者エレミヤが、エホバを永遠の神であると特別に認識していたことを表しています。出エジプト記を思い出してみましょう。神がモーセを召されたとき、モーセは神に尋ねました、「わたしがイスラエルの子たちの所に行って、彼らに、『あなたがたの父祖の神が、わたしをあなたがたに遣わされました』と言い、彼らがわたしに、『彼の名は何か?』と言うなら、わたしは彼らに何と言えばよいのでしょうか?」(三・十三)。モーセは彼を召した神を認識することを尋ね求めました。わたしたちは神のモーセに対する応答から、神に召された人が永遠の神、エホバに対して持つべき認識を見ることができます。

出エジプト記
第三章はモーセを召した方、すなわち永遠の神の名を、おそらく御言の他のどの箇所よりも完全に啓示しています。モーセと神の会話の中で、神は聖なる御名を、神が何であられるかをモーセに啓示しました。

エホバの御使い
モーセを召した方は、第一にエホバの御使いでした(二節)。ダービーの英文翻訳においては、「御使い」という言葉は大文字で書かれていて、この御使いが独特のもので、他の天使とは異なっていたことを示しています。二節では、エホバの御使いはいばらやぶの中から火の炎の中でモーセに現れました。四節は、「すると、エホバは、彼が道を離れて見に来るのを見て、神はいばらやぶの中から彼を呼んで」と言います。二節と四節を一緒にすると、この遣わされた方、エホバの御使いは、実はエホバご自身であり、エホバが神であることを見ます。モーセを召して遣わす目的のために、神、遣わす方は遣わされた方として彼に現れました。遣わされた方だけが、遣わされた者を送り出すことができます。出エジプト記第三章によれば、遣わす方は、遣わされた方です。これは神の召しにおける重要な点です。

創造に関して、創世記第一章は、初めに神は天と地を創造したと言っています。しかし創世記第二章で、神が来て人と接触し、人との関係を発展させるとき、「エホバ」という御名が使われています。ここの出エジプト記第三章で、神は入って来てモーセを召しましたが、直接神の御名においてではなく、エホバという御名においてでもなく、エホバの御使いという名においてモーセを召しました。なぜ出エジプト記の最初の二章で、「エホバの御使い」という称号が使われなかったのでしょうか? なぜなら第三章になってモーセが用意され備えられたからです。ですから、神はエホバの御使いとして彼に来て、彼を召し、彼を遣わしたのです。モーセを遣わすためには、遣わされた経験のある方が必要でした。ゼカリヤ書第二章によれば、遣わす方は遣わされた方であり、遣わされた方は遣わす方です(八節)。出エジプト記第三章において、わたしたちは同じ原則を見ます。エホバの御使いはエホバご自身であり、イスラエルの子たちを束縛から救い出すために、モーセを召しました。

エホバ
第三章で啓示された二番目の称号は「エホバ」です。それは「今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方」を意味します。この称号は基本的に、「ある」という動詞で構成されています。主以外に、他のすべては無です。彼は唯一の「ある」方、存在の実際を持つ唯一の方です。動詞「ある」は、彼以外のだれにも、何にも絶対に適用されてはなりません。彼は唯一自ら存在する方です。宇宙ですべては無です。エホバだけが「今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方」です。過去においても、彼は「ある」でした。現在も、彼は「ある」です。将来もやはり、彼は「ある」です。

ヘブル人への手紙第十一章六節は、「神に進み出る者は、『神はある』ことを信じ……るはず」と言っています。この節によれば、神は「ある」です。わたしたちは、彼は「ある」ことを信じなければなりません。神は「ある」ですが、わたしたちは「ない」です。わたしたちは神によって召されようとするなら、召す方がまず神の遣わされた方であり、第二にエホバ、今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方であることを知らなければなりません。わたしたちは、わたしたちを召す神は「ある」こと、わたしたちは「ない」ことを知らなければなりません。わたしたちはみな、神の召しに応答できるのは、わたしたち自身のゆえでなく、神が今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方、エホバであるゆえであることを知る必要があります。


出エジプト記第三章は、この召す方は神ご自身であることを啓示しています(四、六、十四節)。神のヘブル語は「エロヒム」であり、それはご自身の誓いに信実である大能の方を意味します。神は大能であるだけでなく、信実に彼の契約を果たす方でもあります。わたしたちが主によって召されようとするなら、彼が大能で信実であり、大能であってわたしたちのためにあらゆることを行ない、信実であって彼の言葉を守ることを認識しなければなりません。神の御名は神ご自身を啓示します。神の御名はわたしたちの信仰の根拠です。もしわたしたちが聖霊の力の中で、神の御名の実際へと入るなら、わたしたちは神の御名に十分信頼し、大きなことに成功できるでしょう。

『わたしたちの父の神』
エホバは六節でモーセに言います、「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。「あなたの父の神」という句は、神との歴史を意味します。神がわたしたちを召すとき、わたしたちにとって神は他人であってはなりません。もし彼がわたしたちにとって他人であるなら、わたしたちは彼によって召される資格はありません。神がわたしたちの父の神であると言うことは、彼が肉においてわたしたちの父の神であることを意味するのではありません。わたしたちは救われたとき、もう一つの霊的な系図を得たのです。こういうわけでパウロはコリント人に、「福音を通してあなたがたを生んだ」と告げたのです(Ⅰコリント四・十五)。パウロは結婚していなかったので、彼には肉的な子供はいませんでした。しかし彼は非常に多くの霊的な子供を持っていました。

キリストにあるすべての信者は霊の父を持っています。神の目に、あなたを召す主はあなたの霊の父の神です。モーセの肉における父は敬虔な人でした。ですから、神はモーセを召したとき、ご自分を「あなたの父」の神と言われました。これは人と神との歴史を示します。神がモーセに現れて彼を召したとき、他人でなかったのは、何世代にもわたってモーセの家族と共におられたからです。

モーセの父の神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神でした。これは、神はあらゆる種類の人の神であることを意味します。わたしたちはアブラハムのような善良な人、イサクのようにいくらか中立な人、ヤコブのように押しのける人であるかもしれません。しかしわたしたちが何であっても、神はわたしたちの神です。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、すべてを含む神です。神は来てあなたを召すときはいつも、常にすべてを含む方です。神はわたしたちの父の神であり、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です。神のこれらの称号はまた、契約する神を示します。契約する神はあらゆる者のためです。わたしたちがだれであっても、彼はわたしたちの神であり、わたしたちを召す資格があります。

『わたしは、「わたしはある」である』
このほかに、出エジプト記第三章十四節で、神はモーセに言われました、「イスラエルの子たちにこう言いなさい、『「わたしはある」が、わたしをあなたがたに遣わされた』」。「わたしはある」は神の最も不思議な呼び方です。彼の御名は、「わたしはある」です。言い換えれば、彼の御名はただ、「ある」という動詞です。わたしたちは、「わたしたちはある」と言う資格はありません。わたしたちは無です、彼だけがあります。ですから、彼はご自身を、「わたしは、『わたしはある』である」と呼ばれるのです。この神聖な称号「わたしはある」は、神が自ら存在する方、その存在がご自身以外の何にも依存しない方を意味します。この方はあの大いなる「わたしはある」であり、永遠に存在する方でもあります。

十四節の「わたしはある」という言葉は完結した文ではなく、実はここでは名であり、しかも唯一の名です。この名は、すでに見てきたように、実は「ある」という動詞です。神だけに、この動詞を彼の存在に適用する資格があります。なぜなら、彼だけが自ら存在するからです。あなたとわたしは、わたしたちが自ら存在しないことを認識しなければなりません。「わたしはある」として、神はわたしたちが必要とするすべてです。「わたしはある」という言葉に、わたしたちが必要とするものを何でも加えることができます。

宇宙にあるすべてのものはみな虚無です。ここの木の講壇のように、それがずっと「ある」かどうかは保証できません。五十年後、それはすでになくなってしまい、あるいは存在しなくなってしまいます。ある人は、家でかわいい猫を飼っているかもしれません。しかし、猫はせいぜい十年余り生きることができるだけです。その後、猫はいなくなってしまいます。あるいは存在しなくなってしまいます。したがって、その名は「ある」とすることはできません。わたしたち人間も同じです。人の寿命は、人が存在する期限です。わたしたちの寿命が何年かは、わたしたちの存在する長さです。わたしたちが死んだ後、わたしたちは存在せず、もういません。

ですから、わたしたちの名は「エホバ」と呼ばれることはできません。エホバは、「ある」です。しかし、わたしたちの名は「ない」です。エホバは「存在する」という意味です。しかし、わたしたちの名は「存在しない」です。エホバという名は、「いる」という意味です。しかし、わたしたちの名は「いない」です。ただエホバだけが、彼は「今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる」方です。エレミヤは言いました、「エホバは真の神である.彼こそ、生ける神、永遠の王である」(エレミヤ十・十)。わたしたちも同じ認識を持つ必要があります。すなわち、エホバ以外の他のすべてはみな虚無であり、彼だけが唯一の「である」方であり、存在の実際を持つ唯一の方です。

もう一面で、神の言葉はとてもすばらしいです。神は言われました、「わたしはある、わたしはある、わたしはある」。これは、ある人が一冊の小切手帳のすべてに署名をして、あなたに与えたようなものです。あなたは自分の思い通りに数字を書き込むことができます。あなたは一枚を切り取って、千円と書き込むなら、千円を所有します。一万円と書き込むなら、一万円を所有します。下には、もう署名がしてあるので、上に、ただあなたの必要な金額を書けばよいのです。この名「わたしはある」の長さ、高さ、深さは、すべてを含むのに十分です。この大いなる「わたしはある」、すべてを含む方は、わたしたちを召された方です。

多くのクリスチャンは、彼らの生活はこの「わたしはある」神によって支えられてきたことを、証しすることができます。確かに、神であるものをもってわたしたちを支えてくださったので、わたしたちは維持されており、滑り落ちることはありません。このような「わたしはある」方がわたしたちを召されました。わたしたちは彼が何であるかを言葉で言い尽くすことはできません。

エホバ、ヘブル人の神
最後に、召す方は「エホバ、ヘブル人の神」です(出三・十八)。「ヘブル人」という言葉は、川を渡る者を意味します。アブラハムは最初のヘブル人であり(創十四・十三)、神に召されて川を渡った人でした。川を渡る者は分離された人々、この世から分離された人々です。神によって召されたいなら、人を召す方としての神は、川を渡る者、分離された人々の神であることを見なければなりません。そのような神として、彼はバベルにいる者の神ではありませんし、エジプトにいる者の神でもありません。なぜなら、彼らは分離されていないからです。もしわたしたちがこの世から分離されていないなら、神はわたしたちの神となることはできません。彼はヘブル人、川を渡って神の定められた御旨を完成する人々の神です。

命の法則によって神を認識する
モーセが神を認識した人であっただけでなく、エレミヤもエホバだけがまことの神、生ける神、永遠の王であることを認識していました(エレミヤ十・十)。彼は絶望のただ中で宣言することができました、「エホバよ、あなたは永遠にいまし、あなたの御座は代々に至ります」(哀五・十九)。それだけでなく、神は預言者エレミヤを通して、イスラエルの家と新しい契約を結ぶことを予言しました。新約の祝福の一つは神を認識することです。「彼らのうちの小さな者から彼らのうちの大きな者まで、彼らはみなわたしを知るようになる」(エレミヤ三一・三四)。今日、わたしたち、新約の信者は、内なる命の法則によって神を認識することができます。内なる命の法則は神聖な命の法則を指しています。この命は三一の神であり、すべてを含むキリストの中に具体化されており(コロサイ二・九)、命を与える霊として実際化されており(Ⅰコリント十五・四五)、彼の選ばれた民のすべてとなります。この命の法則には神聖な機能があり、わたしたちに神、生ける神を認識させます。また神の命と性質において神で構成させ、神の豊満としての拡増と拡大とならせ、神に永遠の表現を持たせます。これは何という祝福でしょう! どうかわたしたちがみな、わたしたちを召された永遠の神エホバをこのように認識することができますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第2巻より引用