エレミヤ書第三九章から、エルサレムが陥落した後のイスラエルの状況について語り始めます。そして、そのような状況下でさえ、イスラエルは依然としてエホバに対して罪を犯すことでかたくななままであったと語っています。イスラエルの子たちは、神に頼らず、神の言葉に聞き従いませんでした。ユダの残された民と預言者エレミヤの世話をする総督であったゲダリヤでさえ、神の言葉を求めませんでした。神ご自身が言われました、「それは、彼らが彼らの前に立てたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、わたしの律法に歩まず、彼らの心のかたくなさにしたがって、父祖たちが彼らに教えたように、バアルにしたがって歩んだからである」(九・十三―十四)。神の民が彼の言葉を捨てたのは、彼らが神を捨てたからです。エレミヤは、断固としてエホバのために語り続けましたが、イスラエルの子たちは、自分たちの聞きたいことだけに耳を傾け、神の言葉を受け入れようとしませんでした。なぜなら、彼らは神と一ではなかったからです。
ゲダリヤの事例
ユダの残された民がゲダリヤの所に集まる
ゼデキヤの第十一年、第四の月、バビロンの王はエルサレムの町を攻め取り、ゲダリヤをユダの町々の総督として立て、彼にユダの城とユダの地にいる残された民を管理させました。バビロンの王の護衛の長ネブザラダンもまた、エレミヤを捕らわれ人の牢獄から解放し、ゲダリヤに手渡しました。そこで、エレミヤはユダのミヅパにいるゲダリヤの所に来て、彼と共に、その地に残された民の間に住みました(エレミヤ四〇・五―七)。
野にいたすべての部隊の長は、バビロンの王がゲダリヤにその地をつかさどらせ、バビロンへ捕らえ移されなかったその地の貧しい者たちをすべて、彼に託したことを聞いて、ユダの地のミヅパにいるゲダリヤの所に来ました(七―八節)。ゲダリヤは彼らに誓って言いました、「カルデア人に仕えることを恐れてはならない.その地に住んで、バビロンの王に仕えなさい.そうすれば、あなたがたは幸いになる」(九節)。また、ゲダリヤは言いました、「わたし自身もミヅパに住んで、わたしたちの所に来るカルデア人の前に立つ.しかしあなたがたは、ぶどう酒と夏の果物と油を集めて、自分の器に納め、あなたがたが取った町々に住みなさい」(十節)。モアブと、アンモンの子たちの間と、エドムと、あらゆる地にいたすべてのユダヤ人は、バビロンの王がユダの残された者を残し、ゲダリヤを彼らの上に立てたことを聞きました。そこで、すべてのユダヤ人は、追いやられていたすべての所から戻って、ユダの地に、ミヅパにいるゲダリヤの所に来ました(十一―十二節)。
ゲダリヤは神の言葉を
尋ね求めなかったゆえに殺害された
残された民の首長であるヨハナンと、野にいたすべての部隊の長はゲダリヤの所に来て、アンモンの王バアリスがイシマエルを遣わして、彼の命を取ろうとしていることを彼に告げました。しかしながら、ゲダリヤは、彼らを信じようとしませんでした(十三―十四節)。ヨハナンは、ミヅパでひそかにゲダリヤに語って言いました、「わたしが行って、だれにも知れないように、ネタニヤの子イシマエルを打ち殺しましょう。どうして彼があなたの命を取り、あなたのもとに集められているすべてのユダヤ人が散らされ、ユダの残された者が滅びてよいでしょうか?」(十五節)。しかしゲダリヤは、ヨハナンにそうさせようとはしませんでした。なぜなら、彼はヨハナンがイシマエルについて偽りを語っていると思ったからです(十六節)。
第七の月に、王家の出身、王の高官であるイシマエルは、十人の人たちと共に、ゲダリヤの所に来て、ミヅパで共にパンを食べました。その時、イシマエルと、彼と共にいる十人の人たちは立ち上がって、ゲダリヤを、剣で打ち倒して死に渡しました(四一・一―二)。イシマエルはまた、ゲダリヤと共にいたすべてのユダヤ人と、カルデア人の戦士たちをも打ち殺しました。翌日、人々はシケムから、シロから、サマリアから、八十人の者が、穀物のささげ物と香を手にして、エホバの家に持って行きました。そして、イシマエルと彼の人たちは、彼らを殺して、ミヅパにいる民の残された者すべてを捕虜にし、出て行ってアンモンの子たちの所に渡りました(四一・一―十)。
ゲダリヤの状況を考えてみてください。彼は忠実に、神の預言者エレミヤを顧みましたが(四〇・五―六)、しかし神の言葉を尋ね求めませんでした(十三―十四節)。なぜなら、これは彼の習慣ではなかったからです。彼は、神を彼の源として、神と一になり、神から出てくるすべてのものを受けることをしませんでした。もしゲダリヤが、神と一である人であったなら、彼が行なった第一の事は、神の言葉を尋ね求め、神の言葉を受けることであったでしょう。神の言葉は、神の思想、神のみこころ、神の心の願い、神の大いなる喜びの表現です。わたしたちは神の言葉を取り、受け、守るために、絶対的に神と一でなければなりません。わたしたちは、彼に信頼し、彼に依り頼み、自分自身から出てくる何の意見や好みを持たないようにしなければなりません。
イスラエルのかたくなさ
イスラエルの懇願
ゲダリヤが打ち殺された後、ヨハナンと、彼と共にいる部隊のすべてのリーダーは、イシマエルが行なったすべての悪を聞いて、すべての人を率い、行ってイシマエルと戦いました。そして、イシマエルがミヅパから捕虜にしてきたすべての民を取り返しました(四一・十一―十二、十六)。しかしながら、バビロンの王がユダの地の上に立てたゲダリヤを、イシマエルが打ち殺したので、ヨハナンと、彼と共にいる部隊のすべての長は、カルデア人を恐れました。それゆえ、彼らは取り返した民のすべての残された者を、ユダの地に連れ戻さず、エジプトに行き、そこに入ろうとして、ベツレヘムの近くにあるゲルテ・キムハムに行き、そこにとどまりました(十七―十八節)。
エジプトに入る前、ヨハナンと部隊のすべての長、すべての民は、小さい者から大きい者まで近づいて来て、預言者エレミヤに、「エホバ・あなたの神がわたしたちに、わたしたちが行くべき道となすべき事を告げてくださいますように」と、神に祈ってくださるように、懇願しました(四二・一―三)。エレミヤは、彼らの言葉のとおり、エホバ・彼らの神に祈り、エホバが彼らに答えられることはみな、彼らに告げ、何も彼らに隠さないと言いました(四節)。すると、彼らはエレミヤに言いました、「もし、エホバ・あなたの神があなたをわたしたちに遣わして告げられるそのすべての言葉にしたがって、わたしたちが行なわないなら、エホバがわたしたちに対して、真実な誠の証人となられますように。わたしたちは、あなたをエホバ・わたしたちの神に遣わします.彼の御声が良くても悪くても、わたしたちはそれに聞き従います.エホバ・わたしたちの神の御声に聞き従うとき、それがわたしたちにとって幸いとなるからです」(五―六節)。
エホバの言葉がエレミヤを通してイスラエルに臨んだが、受け入れられなかった
エレミヤは急いで語らず、むしろ十日間待ちました。十日の終わりに、エホバの言葉がエレミヤを通して彼らに臨みました、「もし、あなたがたがなおもこの地にとどまるなら、わたしはあなたがたを建て上げて、倒すことはない.またわたしはあなたがたを植えて、引き抜くことはしない」(七―十節)。エレミヤはまた彼らに言いました、「あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れてはならない。エホバは告げられる、彼を恐れてはならない.まことに、わたしはあなたがたと共にいてあなたがたを救い、あなたがたを彼の手から救い出すからである。わたしはあなたがたに深い同情を示し、彼があなたがたに深く同情して、あなたがたの地に連れ戻すようにする」(十一―十二節)。しかし、もしイスラエルの子たちがこの地にとどまらず、エホバ・彼らの神の御声に聞き従わないで、エジプトの地に行って、そこに住むなら、剣がエジプトで彼らに追いつき、飢きんが彼らに追い迫り、エホバの激怒は彼らの上に注ぎ出され、そして彼らは、嫌悪、驚き、のろい、そしりとなり、もはやその地を見ることはなく、彼らはエジプトで死にます(十三―十八節)。
エレミヤが語り終えたとき、ヨハナンとすべての高慢な人たちは、エレミヤに語って言いました、「あなたは偽りを語っている.エホバ・わたしたちの神があなたを遣わされたのは、『エジプトに行って、そこに寄留してはならない』と言わせるためではない」(四三・二)。そして、彼らは続けて言った、「バルクがあなたをそそのかして、わたしたちに逆らわせているのだ.そしてわたしたちをカルデア人の手に渡し、彼らがわたしたちを死に渡すか、バビロンへ引いて行こうとしているかだ」。こうして、ヨハナンと部隊のすべての長とすべての民は、ユダの地にとどまるようにとのエホバの御声に聞き従いませんでした。そして、ヨハナンと部隊のすべての長は、ユダの残された者すべてをエジプトの地に連れて行きました(三―七節)。
イスラエルの子たちのかたくなさは、
彼らが神と一でなかったことによる
神は、彼らが聖なる地にとどまって、彼の民の残された者となることを願われました(四二・九―十二)。しかしながら、彼らは、自分の考慮によって、また自分の意見によって、完全に神を誤解しました。エホバに対して罪を犯すことでのイスラエルのかたくなさは、彼らが神と一でなかったからです。神と一でない者は、神のみこころと大いなる喜びを受け入れず、自分の意見を表明し、自分の好みを追い求めます。こうすることは、生ける水の源泉、源としてのエホバを捨てること、水をためることができない壊れた水ためを掘ることです。もし彼らが神と一であったなら、神の言葉を受け入れ、神の心、神の性質、神の思い、神の定められた御旨を知ったでしょう。もし彼らが神と一であったなら、自然に彼を生き、彼で構成されて、地上で彼の証しとなっていたでしょう。
イスラエルの子たちは、神と一ではありませんでした。夫を忘れた妻のように、神の言葉を受け入れず、だれが彼らを苦しんでいる場所から連れ去ったのか忘れ、またエジプトに戻りました。彼らがしたことは、エバが創世記の第三章でやったことと全く同じです(参考、二節のフットノート一)。聖書は、神の民は神の妻であり(イザヤ五四・五、六二・五、ヨハネ三・二九、Ⅱコリント十一・二、エペソ五・二三―三二、啓二一・九―十)、彼らは神と共に生き、常に神に頼り、神と一であるべきことを明らかにしています。
神は人が彼と一になることを願っている
神の民に対する神の愛
聖書が示している神と彼の民との間の愛は、主に男女間の深い愛情のことを示しています。旧約によれば、神はそのような愛情深い愛をもってイスラエルを愛されました。エレミヤ書第三一章三節で主は彼の選ばれた民に言われました、「まことに、わたしは永遠の愛をもってあなたを愛した.それゆえ、わたしはあなたを、慈愛をもって引き寄せてきた」。ここにあるのは友人たちの間の愛や、貧しい人に対する裕福な人の愛ではなく、求愛する愛、婚約と結婚に導く愛です。主はそのような愛を彼の民に対して持ったので、「彼らの父祖を、その手を取ってエジプトの地から導き出した」のです(エレミヤ三一・三二)。これはまた、エレミヤ書第二章二節でエホバが語っている、イスラエルに対する新婚の愛です。おもに、聖書で啓示されている愛は、求愛、婚約、結婚における、このような愛のことです。
神の民と立てた神の契約
神は彼の民を愛されました。そして彼の民との契約を通して、彼らをご自身のものとされました。エレミヤ書第三一章三二節はこれを確証します。「その契約は、わたしが彼らの父祖を、その手を取ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと立てたようなものではない.わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはわたしの契約を破ったとエホバは告げられる」。ここに契約と夫という両方の言葉が用いられていることに注意してください。これは、神がイスラエルの子たちと旧契約を立てたとき、同時に彼の民と婚約し、彼らの夫となられたことを見せています。これは、旧契約が婚約証書、婚約の誓約書であったことを証明します。
新契約についても原則は同じです。エレミヤ書第三一章は、旧契約が婚約の契約であったと語っただけでなく、神が彼の民と新しく別の新契約を結ぶことも語っています。エホバはこのように言われました、「見よ、その日々が来ようとしていると、エホバは告げられる.その時、わたしはイスラエルの家とユダの家と新しい契約を結ぶ」(三一節)。旧契約が婚約の契約であったので、新契約も性質において同じでなければなりません。旧契約と新契約はいずれも婚約の契約です。わたしたちは、この事実を出エジプト記第二〇章での律法を与えることに適用するなら、神が彼の律法、つまり彼の言葉を、彼の民に与えたのは、彼らがそれを受け入れ、彼らがご自身と一になり、彼の配偶者となることを願っておられたからだということを見るでしょう。
契約とは神の言葉であり、
人と神が一となることを助ける
婚約の目標は、二人の人を一へともたらすことです。結婚において男と妻は一つの肉体となります。同じように、神と彼の選ばれた民は、出エジプト記第二〇章で立てられた十戒を通して婚約をし、神と一になりました。神と彼の民との一、また夫と妻の一はいずれも、聖書における基本的な原則です。しかしながら、多くの聖書教師たちは、この面を無視します。その代わりに彼らは、神と彼の民の間の距離と、神は彼らに戒めを守ることを願われた事実を強調します。しかしわたしたちは、十戒が婚約証書であったという事実、そして神と彼の民が婚約され、彼らを一へともたらした事実を否定することはできません。
正当な結婚において、年が経つと男と妻はますます一になります。徐々に彼らは習慣、性格、表現において一になります。同じように、最終的に神の選ばれた民は、神であるのと同じになり、こうして真に彼を表現するでしょう。わたしたちは、わたしたちの夫としての主が注入され、ますます彼のようになる必要があります。最終的に、わたしたちは彼の表現となるでしょう。聖書によれば、この基本的な原則は人の結婚と、神と彼の民との愛の関係の両方に当てはまります。
神の言葉を受け入れ、神と一となる
夫と妻との間の一において、わたしたちは神の言葉を順守する正しい道を見ます。わたしたちは、自分の思いと意志を活用することを通して神の言葉を順守するのではありません。わたしたちは、わたしたちの夫としての主を愛することによって、神の言葉を順守します。わたしたちはみな、わたしたちと主の間にそのような甘い、親密な、愛情深い愛を必要とします。わたしたちは、女が自分の夫を愛するように彼を愛すべきです。わたしたちは、若きも老いもかかわらず、すべてこのような愛を必要とします。わたしたちはこのように主を愛すれば愛するほど、ますます彼の命にあずかり、彼の性質にしたがって自然に彼を生きるでしょう。そしてますます彼と一となることができるでしょう。最終的に、わたしたちの生活は自動的に、彼の言葉を順守します。わたしたちが生かし出すものは、彼の描写、説明、表現としての言葉にしたがったものとなることでしょう。
神の言葉は、神の契約です。その機能は、わたしたちを神と一にすることです。例えば、婚約証書の機能は、両当事者、夫婦を一にすることです。神がイスラエルをご自身へと婚約させたと言われるのは、彼が彼の民を夫と一である妻として、彼と一にならせたことを意味します。神の言葉は彼の配偶者を彼と一にさせます。律法の最高の機能は、神の選ばれた民を彼との一へともたらすことです。十戒は単に、宇宙における最高権威としての神によって制定された規則ではありません。律法は婚約証書であって、わたしたちを神にもたらし、神と一にします。これはまた全聖書についても言えます。聖書の主要な機能は、わたしたちを神にもたらし、神と一にすることです。わたしたちは神を愛するので、また彼の言葉も愛します。彼の言葉がご自身をわたしたちの中へと注入するとき、わたしたちは命、性質、表現において彼と一になります。わたしたちが神と一になればなるほど、ますますわたしたちは喜んで彼の言葉を受け入れます。律法と聖書、神の言葉の内在的な機能は、わたしたちを神と一にすることです。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第1巻より引用