エレミヤ書第十八章が啓示しているのは、エホバは主権ある陶器師であり、イスラエルは陶器であること、そしてエホバは変わりやすい方法で、イスラエルに働くことができること、それは彼の御手の中にある粘土のようであり、どのような陶器に作り上げるか完全な権利を持っていることです。第十九章は続けてわたしたちにイスラエルの邪悪な光景を見せています。それは陶器師の陶器の壺のように、破壊され、修復ができないので、砕かれ粉々にされる必要があります。
イスラエル人の堕落の結果は悲惨なものでしたが、パウロは旧約の認識に基づいて、また神のエコノミーの光をもって、神が世の基が置かれる前から、神の主権の定めの中で、予知し、選び、定められた一群れの人たちが、神の救いを受け入れ、人の上での神の目的を完成することを見ていました。ローマ人への手紙第九章二一節から二四節は言います、「それとも陶器師は土くれに対して、同じかたまりから一つを尊い器に、もう一つを卑しい器に、造る権威を持っていないのですか? もし神が……滅亡にふさわしい激怒の器を、大いなる辛抱強さをもって耐え忍ばれたとしたら、しかも、栄光へとあらかじめ用意しておられたあわれみの器に、彼の栄光の豊富を知らせようとされたとすれば、どうなのですか? 神はわたしたちをも、ユダヤ人の間からだけでなく、異邦人の間からも召されたのです」。
選び、定め、召し
神の選びは、彼の定めと彼の召しと関係があります。もちろんその三つのうち、選びが最初で、定めと召しが続きます。まず、神はわたしたちを選ばれました。次に彼はわたしたちを標示されました。すなわち、あらかじめ定められました。選びと定めはわたしたちが生まれる前に起こりました。それからわたしたちの生涯のある時点で、神が入って来てわたしたちを召されました。
エペソ人への手紙第一章四節と五節は、神の選びと定めが永遠の過去に起こったことを証明します、「すなわち、この方は、愛の中で、御前に聖く傷のない者になるようにと、世の基が置かれる前から、キリストの中でわたしたちを選び、みこころの大いなる喜びにしたがい、イエス・キリストを通して、わたしたちを子たる身分へと、彼ご自身へあらかじめ定められました」。宇宙が存在するに至る前に、神はわたしたちを選び、子たる身分へとあらかじめ定められました。この子たる身分は次の事を含んでいます。
一 永遠の命――神がわたしたちを子たる身分へとあらかじめ定められたからには、彼はわたしたちが彼の命、永遠の命を持つようにとあらかじめ定められたはずです(使十三・四八)。わたしたちが一度主イエスを信じたなら、わたしたちはこの永遠の命を持ち(Ⅰヨハネ五・十二)、彼から生まれて彼の子供たちとなります。
二 神の御子のかたちに同形化される――神が彼の予知にしたがってわたしたちを選ばれ、あらかじめ定められたのは、わたしたちを御子のかたちに同形化するためでした(ローマ八・二九)。神の御子キリストは、原型です。神はわたしたちを彼の中に置かれました。それはわたしたちが彼のかたちに同形化されて、彼の多くの兄弟たちとなり、彼がわたしたちの間で長子となるためです。これによって、神のひとり子は多くの兄弟たちの間で長子となられます。彼は長子であり、わたしたちは多くの子たちであって、団体的方法で神を表現します。
三 完全な子たる身分――わたしたちが再生された時、ただわたしたちの霊だけが子たる身分の中にあるのであって、わたしたちの魂と体とはまだ子たる身分の中にはありません。この子たる身分は、わたしたちの霊から外に拡大していき、わたしたちの全存在に浸透するに至ります。キリストの再来の時には、わたしたちの物質的な体も子たる身分で浸透され、変貌するでしょう。これがわたしたちの体の贖いです(ローマ八・二三)。その時には、わたしたちは完全に子たる身分へともたらされているでしょう。わたしたちの全存在のあらゆる部分――霊、魂、体――はすべて子たる身分の中にあるでしょう。さらにまた、わたしたちは子たる地位を持ち、それはわたしたちに、父なる神が何であられるかのすべてを、また彼が所有しておられるすべてを相続する合法的な権利を持たせます。最終的にわたしたちは、神が何であられるかのすべてを永遠に相続するでしょう。
四 栄光を得る――神の栄光は彼の表現です。わたしたちは、彼が前もって栄光へと用意しておられたあわれみの器です。そして彼はわたしたちをこの栄光へと召されました。キリストご自身がわたしたちの栄光の望みです(コロサイ一・二七)。わたしたちは今日、この栄光の望みの中で歓喜し、勝ち誇ります。わたしたちの望み、キリストが現れる時、わたしたちも彼と共に栄光のうちに現されるでしょう。それはわたしたちの体の贖い、体の変貌です。その時、神の栄光はわたしたちの霊から、わたしたちの魂を経過し、わたしたちの体を通して表現されるでしょう。わたしたちの全存在の三部分は全くキリストに似るようになり、完全に神の栄光で浸透されるでしょう。これが栄光を得ることであり、神の全き救いの究極的完成です。それはまた神が永遠においてわたしたちにあらかじめ定められた究極の目標でもあります。
わたしたちの運命は
神のあわれみの選びから出ている
神の選びはわたしたちがどのようであるかにかかっていません。それは完全に神の主権と神の願いにかかっています。わたしたちは神の主権によってあらかじめ定められ、彼の器とされました。それはあわれみを受けた尊い栄光の器であり、神を表現します。この事はまったく、神の主権のあわれみです。社会では、選びは生まれ、教養、教育、この世における成功と関係があります。それは善良で愛らしく、前途が明るく、大きな成功をした人が選ばれるでしょう。人の選びは、その人自身がどんな人であるかに基づきます。しかし、神聖な選びは絶対に異なります。
わたしたちは福音の宣べ伝えにおいて、実行上の神の選びを見ます。多数の未信者が同じ集会に参加し、同じメッセージを聞くでしょう。しかしながら、ある少数の人たちしか応答しません。これは説明するのが難しいです。わたしたちはそれを、神の選び、定め、召しにあるとすることができます。D・L・ムーディーについての物語があります。ある日、ムーディーの一人の学生が、神に選ばれていなかった人が自分の福音の宣べ伝えを通して救われることができるのかという心配を言い表しました。ムーディーは彼に、心配しないで、ただ福音を宣べ伝え続けるようにと言いました。さらに、ムーディーは、だれでも進んで主を信じようとする人々に、受け入れさせるべきであると言いました。ムーディーは続けて、神の国の入り口には「だれでも来てよい」という言葉が書かれているが、入り口を通った後、その内側には「この世の基が置かれる前から選ばれていた」という言葉が書かれているのを見ると言いました。
自分の生涯を振り返って見る時、わたしたちは頭を下げて、すべては神によって備えられたことを承認するでしょう。わたしたちの嗣業、生まれ、生まれながらの能力、これらのものは神によってすでに定められているのです。わたしたちは途中で他のものを得るかもしれません。わたしたちはいつも学びつつあるからです。しかし、わたしたちが歩むその道も、神が用意された道です。わたしたちの神が事をなさるのは決して突然ではありません。神はいつもずっと前から準備されているのです。
ですから神の召しのことでは、何もつぶやくこともなければ、何も誇ることもありません。サウロの状況はアナニアを当惑させましたが、他の人たちから聞いていた聖徒たちを苦しめた人は、実際には主の「選ばれた器」であったのです(使徒九・十五)。しかし、神は備えられておられたのです。イザヤは生まれた時から選ばれていましたし、タルソのサウロは「母の胎内にある時から」選び分けられ(ガラテヤ一・十五)、エレミヤはそれよりもさらに早く、彼が母の胎に形づくられる前でした(エレミヤ一・五)。わたしたちはどんな人もねたむべきではありません。なぜなら他の人たちが優れていても、わたしたちと何の関係もないからです。「ですから、それは人が決意することによるのではなく、走ることによるのでもなく、神があわれみを示されることによるのです」(ローマ九・十六)。神はまたわたしたちをだれの家の子供にするか決められていますが、時として、わたしたちは間違った家庭に生まれてきたと思うかもしれません! わたしたちの中には自分の両親に不足はないとしても、おそらく兄弟や姉妹、あるいは他の親類であればよいのにと思う者もいることでしょう! しかし、ヨセフは「神はあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたより先に遣わされたのです」(創四五・五)と言いました。もしわたしたちが神の選びの中にある神の御手を見ていないなら、わたしたちは神を賛美する大きな機会を逃しているのです。
神が自分に与えられた地位や、あるいは神がからだの中で自分に託しておられる仕事に対してつぶやく者は多くいます。彼らはこの事をしたいのですが、神は彼らに別の仕事を按配されるのです。彼らはここで主に仕える願いがあるのですが、神は彼らを他の所に置かれます。そのような明らかに反対の事に直面した時は、神の召会の中で神がわたしたちに対して持っておられるみこころは、わたしたちが救われる前に定められていたことを思い出すとよいでしょう。なぜなら神の予知によって、わたしたちが生まれる前から、わたしたちの境遇は備えられ、わたしたちの道は定められているからです。神の子供たちの歴史においては、神の御手は至る所にあります。
わたしたちの主ほど多くのしもべを持っておられる主人はありません。そして一人一人のしもべに主は適切な仕事を用意しておられます。主はヨセフに対してイスラエルを飢きんから救うという特別な仕事を与えられました。サムエルは、後にエリヤが王を廃して預言者を立てるためにやって来たように、祭司を廃して王を立てるという極めて類のない仕事をするために、定められた時にやって来ました。
神は働かれる神であって、神が特にある種のしもべを望まれる時、あるいは召会が特にある種の助けを必要とする時、神は何年も前に働きを開始していました。ダビデの働きはゴリアテを撃退した時から始まりました。しかし羊飼いであった時、彼はすでにその学課を学んでいました。「わたしを獅子の爪から、また熊の爪から救い出してくださったエホバは、わたしをあのペリシテ人の手からも救い出してくださいます」(サムエル上十七・三七)と彼は言うことができました。らい病を患っていたナアマンにいやしの必要があったとき、小さな娘は彼に証ししました(列王下五・二―四)。イエスのエルサレム入城のために、ろばでさえ備えられていました(マルコ十一・一―七)。ペテロは地引き網に熟練した漁師でした。おそらくそういうわけで、彼にはヨッパでの「大きなシーツ」のビジョンがよく理解できたのでしょう(使徒十一・五)。パウロは天幕を造ることができたので、アクラとプリスキラを見いだしました。この二人を助けて、神の道を詳しく解き明かす者とならせるために、天幕造りでないだれか他の人がその技能を修得する必要はありませんでした(使徒十八・一―三、二六)。そしてエペソに在る召会の衰退の時に、幼い時から聖書に親しんでいたテモテのような人が備えられていたのです(Ⅱテモテ三・十五)。神はしもべたちのために驚くべき道を備えておられます。神が非常時に遭遇するなどということは決してありません。ではわたしたちは何を言うべきでしょうか? 何も言うべきではありません。ただ神の道を礼拝すべきです。すべてのことは神がなさりたいことにかかっています。彼は神です!
あらかじめ用意しておられた、
あわれみの器
わたしたちすべてに届いたのは神のあわれみです。わたしたちのだれも、彼の恵みにふさわしい状態にあった者はありませんでした。わたしたちはあまりにあわれで、みじめであるので、今でさえ、救われて彼の命の豊富にあずかった後も、わたしたちはまだ、ある方法で、神のあわれみがその溝を橋渡しし、わたしたちと神の隔たりをなくすことを必要とする状態にあります。
ローマ人への手紙第九章二三節から二四節は言います、「しかも、栄光へとあらかじめ用意しておられたあわれみの器に、彼の栄光の豊富を知らせようとされたとすれば、どうなのですか? 神はわたしたちをも、ユダヤ人の間からだけでなく、異邦人の間からも召されたのです」。すべては神の権威にかかっています。神は、ユダヤ人の間からだけでなく、異邦人の間からも選ばれ召されたわたしたちを、神を入れるあわれみの器とする権威を持っておられます。それは、神の栄光の豊富が現されるためです。彼の主権ある権威にしたがって、彼はわたしたちを、この栄光へとあらかじめ用意されました。わたしたちは彼の主権によって、彼の容器、栄光の中で彼が何であるかを表現する尊い器となるように、あらかじめ定められました。これは神のあわれみだけでなく、彼の主権の事柄でもあります。
わたしたちはみな、自分は神の容器であり、神はわたしたちの内容であることを、徹底的に理解しなければなりません。コリント人への第二の手紙第四章七節は、「わたしたちはこの宝を土の器の中に持っています」と言います。わたしたちは土の器であり、神は宝物、内容です。神は主権をもって、彼があらかじめ定めたことにしたがって、わたしたちを彼の容器として創造されました。テモテへの第二の手紙第二章二〇節から二一節は同じ思想を伝えて言います、「ところが、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあり、そしてあるものは尊いことに、あるものは卑しいことに用いられます。ですから、だれでも自分自身をこれらのものから清めるなら、その人は尊いことに用いられる器となり、聖別され、主人に役立ち、あらゆる良いわざに間に合う者となるのです」。しかしながら、尊いことに用いられる器になることは、わたしたちの選択の結果ではありません。それは神の主権に起因します。
神の選びには目標があります。それは、神を内容とし、神を永遠に表現する器を持つことです。わたしたちの多くは神のエコノミーの目標を見失ってしまい、神の選びはわたしたちを救うことで神の愛を示すことだけであると考えます。そうです、神はわたしたちを愛しておられます。しかしながら、彼の愛が示されているのは、わたしたちを救うためだけでなく、彼の器とするためです。神がわたしたちを創造されたのは、わたしたちが彼を内に取り入れ、彼をわたしたちの命また命の供給として内に入れることができるためです。その目的は、わたしたちが彼と一つになって、彼が何であるかを表現し、彼がわたしたちの上で、またわたしたちと共に栄光を受けられるということです。
わたしたちが神にとって有用であることの絶頂は、しもべ、祭司、王としてではなく、神を内容とし彼を表現する器として神に用いられることです。わたしたちが神の器として用いられるなら、確かに彼はわたしたちと一つにならなければなりません。わたしたちは彼の容器、彼の表現です。彼はわたしたちの内容、命です。わたしたちが彼によって生きるよう、彼はわたしたちの中に生きられます。これが、彼の主権にしたがった彼の選びの目標です。それはまた彼の選びにしたがったわたしたちの運命、新エルサレムにおいて完全に現される運命です。
神の選びが完全に彼の主権の事柄であるという事実は、わたしたちが欲することを何でも行なうことができることを意味するのではありません。もしこれがわたしたちの態度であるなら、わたしたちは神に選ばれていないか、それとも神の選びから後退しているかです。わたしたちが自分と自分の状況を忘れて、目を主に向け続けますように。繰り返し、言いましょう、「主よ、あなたの選びのゆえに、あなたを賛美します。おお、主よ、あなたのあわれみのゆえに、あなたを礼拝します」。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第1巻より引用