神は悪事を犯したイスラエルを放棄されない

真理

イスラエル人の犯した悪事は非常に多いのですが、神の目から見て最もひどいものは、彼らが神を捨てて偶像に従ったということでした。これは、ちょうど妻が夫を捨て淫行を行なうのと同じです。エホバは預言者を遣わしてイスラエル人が帰るように勧め、彼らをまた災いをもって警告し、取り扱い、懲らしめました。神はイスラエル人を放棄されたことはありません。また聖書が啓示していることは、神がイスラエル人を懲らしめる目的が、神の御旨を遂行し、キリストが現され、復興される時代をもたらすということです。

エレミヤの時代に、イスラエルの偶像
礼拝と、律法への反逆は頂点に達した
イスラエル人は神を捨て、偶像にしたがい、シナイ山で金の子牛を拝みました(出三二・一―六)。その後、モーセが神聖な律法を再び繰り返し語ったとき、特にイスラエル人に、彼らが良き地に入るとき、偶像を取り壊し、偶像礼拝の場所を破壊し、偶像礼拝する者を絶滅させるように命じました(申七・二、五)。しかしイスラエル人は戒めを遵守することなく、偶像を礼拝する者を絶滅させませんでした。その結果、イスラエル人は完全に良き地を得ることができず、そうしてその地の民との争いが絶えることがありませんでした。

ダビデの時代に、イスラエル人はその地の住民と戦い、ほぼ勝利し、良き地のすべてを得ました。彼の息子のソロモンもまた、良き地において宮を建造しました。しかしソロモンは晩年になって、多くの外国の妻たちによって偶像礼拝へと引き込まれました(列王上十一・一―八)。彼のすべての子孫のほとんども彼の背信を継続しました。最終的には、エレミヤの時代に、イスラエルの偶像礼拝と律法への違犯は頂点へと達しました。

イスラエルの民は神を捨て、偶像へと向きを変えただけでなく、彼らの偶像礼拝において互いに組み合わせを持つまでになりました(エレミヤ七・十八)。神の民がその程度にまで堕落し得たとは信じ難いことです。イスラエルの民は多くの他の邪悪な事を行なっていました。彼らはかんいんを犯して「遊女の家に群がった」のです(五・七)。彼らは肥え太った雄馬のように歩き回り、「それぞれ隣人の妻を慕って」いななきました(八節)。彼らは偽って不正な利益を得ました。彼らは完全に神のかたちと姿を失い、蛇やさそりになりました。

エホバは彼の背信の妻が
帰ることを望まれる
イスラエルの民の悪行が頂点に達しましたが、エホバは彼らが向きを変え、戻って来ることを求めました。エホバは彼の預言者を遣わして、北(イスラエルが捕囚にされた地)に向かって、彼の背信の妻であるイスラエルに帰って来て、自分の罪科を認めるようにと告げられました(三・十二―十三)。ただイスラエルの民が戻るだけで、エホバは彼らをあわれまれます。そしてエホバは次のようにさえ言われました、「もし、人が自分の妻を行かせ、彼女が彼から去って、他の男の妻となるなら、彼は再び彼女に戻るだろうか? その地は大いに汚されていないだろうか? ところが、あなたは多くの愛人と淫行を犯した。それでも、わたしに帰るがよい」(三・一)。

神はイスラエルの民が戻ることを切望しましたが、イスラエルの民は聞き従わず、重ねて悪を行ないました。これは神の預言者のエレミヤにも民との関係を持たないことを願わせました。そして彼は言いました、「わたしが旅人の宿を荒野に持っていたなら、わたしの民を離れて、彼らから去って行くことができるのに.まことに、彼らはみな姦淫する者、裏切り者の集まりである」(九・二)。神は再び容認することができず、嘆いて言われた。「あなたがわたしを捨てたのだ。あなたが背を向けていたので、わたしはわたしの手をあなたに伸ばして攻撃し、あなたを滅ぼしたのだ.わたしは思いを変えることに疲れた」(十五・六)。神はイスラエルを何度も懲らしめようとしましたが、すべて後悔されました。今や、神はエレミヤに、すでに後悔して耐えられず、もう再び後悔しないと告げられました。これはイスラエルの民がすでに邪悪となってしまいましたが、神が彼らに対してまたしてもどれほど忍耐されたかを表しています。

エホバの矯正
こういうわけで、エホバは災い(災難)、苦悩、患難をもって、イスラエルに警告されました(四・三―三一)。彼はあらゆる種類の苦難をもって彼らに警告されました。彼の激怒は彼らの悪の行ないによって起き、燃える火のようであり、だれにも消すことができません(四節)。そのような火は災難をもたらし、災難と大いなる破滅を北(バビロンを指す)からもたらすと言われました(六節後半)。「はその茂みから立ち上がった.諸国民を滅ぼす者が進み出た。彼が自分の所から出て来たのは、あなたの地を荒廃させるためだ.あなたの町々は廃虚となり、住む者がいなくなる」(七節)。ここの獅子はバビロンの王ネブカデネザルを指しています。ネブカデネザルは諸国民を滅ぼす者であり、イスラエルの町々を廃虚としました。

イスラエルの背信は彼らに平安を持たせず、反対に剣が魂にまで及びます(十節)。熱風があおぎ分けるためではなく、きよめるためでもなく、エホバから吹いて来ます(十一節)。これは、神があらゆる種類の災難を送って、反逆的なイスラエルを懲らしめるもう一つのしるしです。敵は雲のように上って来て、彼のいくさぐるまはつむじ風のようであり、彼の馬はわしよりも速いのです(十三節)。包囲する者たちが遠くの地から来て、ユダの町々に向かって声を上げています。彼らはエルサレムの周りを囲み住みます(十六―十七節)。イスラエルはつのぶえの音を聞き、戦いの声を聞きます(十九節)。破滅に次ぐ破滅が全地を荒らします(二〇節)。実りある地は荒野となり、その町はすべて取り壊されます。全地は荒れ果てます(二六―二七節)。

神はイスラエルを放棄されない
一見して、神はイスラエルを放棄し、彼らともはや何の関係もありませんでした。実は、神は彼の民を放棄されませんでした。神はイスラエルに何をしているのかを知っており、到達すべき栄光の目標を持っていることを知っておられました。ですから、彼は彼らを懲らしめていましたが、依然として彼らをあわれんでおられたのです。神とエレミヤは、神の刑罰に苦しむイスラエルの民に同情していたのです(九・十―十一、十七―十九、八・十八―二二、九・一、十・十九―二五)。イスラエルに対する神の同情を知って、エレミヤは言うことができました、「わたしたちが滅ぼされないのは、エホバの慈愛である.まことに、彼のあわれみは尽きることがないからだ.それらは朝ごとに新しい.『あなたの信実は偉大です』」(哀三・二二―二三)。神は慈愛とあわれみの中で、イスラエルを保護されたので、イスラエルは生存し続けました。さらに、捕囚にされた堕落した選民の間で、神はダニエルと彼の仲間たちのような神の勝利者を持っておられました。それに加えて、エレミヤはイスラエルの来たるべき復興について預言しました(二三・三―八、三三・一―二六)。

矯正の最終目的
神のイスラエルに対する矯正と懲らしめの主要な目的は、彼らを捨て去り、消滅させることではなく、神の定められた御旨を完成させるためです。これが、イスラエルに対する神の愛の懲らしめにおける神のエコノミーです。また、イスラエルに対する行政上の対処と、諸国民に対する裁きとにおける神のエコノミーの結果が、神のエコノミーにおいて中心性と普遍性としてのキリストの現れをもたらし、復興をもたらすということです。イスラエルを懲らしめる神の道具は、これまでも、今もなお諸国民です。

世界歴史は、預言者を通して予言されたことの成就を展覧しています。紀元前七世紀か八世紀に与えられた予言の後、神は入って来て、バビロンの王ネブカデネザルを遣わすことによってイスラエルを懲らしめ、エルサレムを破壊しました。その時から、イスラエルは回復されていません。イスラエルはバビロン、メド・ペルシャ、マケドニア・ギリシャ帝国、ローマ帝国の下にありました。ローマ帝国は継続して全世界に影響を与えています。二十六世紀にわたって、イスラエルは長期の神聖な懲らしめの下で苦しんできました。今日、神はアラブ諸国を用いてイスラエルを懲らしめています。

この懲らしめは、キリストが神のエコノミーにおけるすべてとして、中心性と普遍性として現されるためです。この現れは復興の時代をもたらします。こうして、神は動き、働き、世界情勢を管理して、彼の永遠のエコノミーを完成しつつあります。すなわち、キリストを人類のすべてとして、王国、復興の時代をもたらしつつあります。

イスラエルの邪悪は
キリストために道を準備する
イスラエルの歴史には全部で四十一人の王がいました。初めの三人、すなわちサウル、ダビデ、ソロモンは、イスラエル人全体を治めました。十九人の王、すなわちレハベアムからゼデキヤまで、南のユダを治め、十九人、すなわちヤラベアムからホセアまでは、北のイスラエルを治めました。この四十一人の王のうち、九人は、ダビデを含めて、比較的、神の目に良かったのです。三十人は、サウルを含めて、神の目に悪でした。二人、ソロモンとエヒウは、部分的に良く、部分的に悪でした。

悪い王の悪の根は、イスラエルの民の悪の根のように、彼らが生ける水の源泉としての神を捨てて、水をためることのない壊れた水ためとしての異教の偶像に転向したことでした(エレミヤ二・十三)。この二つの悪は、彼らを偶像礼拝、情欲にふけること、罪のない者の血を流すことの不正という死の水の中におぼれさせました。彼らの悪は彼らの神を怒らせ、神が彼の怒りを彼らから転じることをせず、彼らをまずアッシリア人の手の中に、次にバビロン人の手の中に(二四・十―二五・二一)投げ込むまでになりました。これらの者たちは聖なる宮と聖なる都を破壊し焼いて、聖なる民を異教の偶像の地に捕囚として連れ去り、聖地を七十年間、荒廃させました(二五・十一)。こうして、彼らは神の選民として、神の与えられた良き地の享受を失い、聖地における神の王国の民となることなく、異教の地の捕囚となりました。

しかし、イスラエルの邪悪がキリストのために道を準備し、キリストに彼らの義として入って来させることができました。イスラエルは神を捨て、偶像にしたがい(二・十三)、その邪悪は治りませんが(十三・二三.十七・九)、神のあわれみ、慈愛、信実と永遠の愛によって(三一・三.哀三・二二―二三)、神は、神に選ばれたが散らされてしまった民を絶対に放棄されることなく、神は彼らを必ず彼らの先祖の地へと戻されます。エルサレムと宮は壊され、神の民は捕らわれましたが、神はやはり捕囚にされた人たちを帰され、キリストの道をもたらすことを守られます。神がイスラエルを罪定めし、刑罰を与え、懲らしめられたとき、彼は肉体となり、ダビデの若枝として、神の民の義となることを決められました。エホバとしてのキリストが彼らの義となることで、邪悪なイスラエルの部族は回復されます。

復興の日に、キリストは
ダビデの義なる若枝として起こされ、
その名はエホバわたしたちの義と呼ばれる

キリストはダビデの若枝である
エホバなる神はイスラエルに約束されました、「見よ、その日々が来ようとしていると、エホバは告げられる.その時、わたしはダビデのために義なる若枝を起こす.彼は王として治め、思慮深く行動し、公正と義をこの地に行なう」(エレミヤ二三・五)。来たるべき復興において、キリストはダビデの若枝として来られます。「若枝」という言葉はキリストの人性を示し、それはまた命を暗示します。

若枝は、新しく、新鮮な木の芽であり、特に切り倒された木の芽です。仮に、木が地に切り倒されて、切り株だけが残っているとします。しばらくすると、新しい芽がこの切り株から芽吹いてきます。この芽が若枝です。ダビデの若枝として、キリストはダビデの切り株から出てきた新しい芽です。ダビデの王家は大きな木のようでしたが、ソロモンと彼の子孫の背信のゆえに、その木は切り倒され(おもにネブカデネザルによって)、切り株だけが地に残されました。キリストが生まれたとき、新しく、新鮮な芽がこの切り株から出て来たのです。彼の生まれたことは、ダビデの新しい芽としてのキリストを起こすことに関する、エホバの約束の成就でした。

キリストはエホバわたしたちの義と呼ばれる
エレミヤ書第二三章六節はこの若枝の名称についてさらに一歩進んだものを啓示しています、「彼の日々にユダは救われ、イスラエルは安全に住む.『エホバわたしたちの義』、これが、彼が呼ばれる彼の名である」。この節は、キリストがダビデの子孫として、単に人であるだけでなく、天と地を創造し、アブラハムを選び、イスラエルの種族を立て、ダビデの主、すなわちダビデが主と呼んだ方(マタイ二二・四三)であったエホバでもあることを示しています。

エレミヤの時代には、神の民の間に義はありませんでした。しかしエレミヤは、キリストが、エホバご自身である若枝として来て、神の選ばれた人の義となられることを預言しました(Ⅰコリント一・三〇)。最終的には、イスラエルは、彼らの義、彼らの中心性(彼らが何であるか)と彼らの普遍性(彼らの表現)としてのキリストを表現します。

キリストは彼の民の義となるために、まず彼らのために死なれなければなりませんでした。彼は血を流して彼らの罪を洗い去り、贖いを完成されなければなりませんでした。なぜなら、血を流すことがなければ、赦しはないからです(ヘブル九・二二)。十字架上のキリストの死を通して完成された贖いに基づいて、神は彼の民を義とすることができます。神の民が義とされるのは、キリストの贖いの立場に立ち、彼らの義となられる神としてのキリストを受け入れることによってです。わたしたちには自分自身の中に何の義もありません。「わたしたちの義はみな不潔な衣のようです」(イザヤ六四・六)。わたしたち自身には何の義もありませんが、わたしたちは、人として神ご自身であり、十字架上で死んでご自分の血を流し、わたしたちのために贖いを完成された方を持っています。この贖いを土台として、わたしたちは彼を信じて神の赦しを受けることができ、神はわたしたちを義とし、キリストをわたしたちの義とし、わたしたちに義の上着をまとわせることができます(イザヤ六一・十)。これは、三一の神の具体化であるキリストのために道を開きます。そして彼はわたしたちの中へと入って、わたしたちの命(コロサイ二・九、三・四前半)、わたしたちの内なる命の法則(エレミヤ三一・三三)、わたしたちのすべてとなり、ご自身をわたしたちの全存在の中へと分与して、神の永遠のエコノミーを完成します。

エホバわたしたちの義となられるダビデの若枝として、キリストはすべてを含む方です。彼には人性とミングリングされた神性があります。彼にはわたしたちの義となられる神ご自身である義があり、また贖いがあります。彼を持つなら、命を与える霊と命の豊富さを持ちます。それは命の要素、命の法則、命の感覚を含んでいます。実は、ダビデの若枝としての、またエホバわたしたちの義としてのキリストの中でわたしたちが持つすべての命は、わたしたちのすべてとしての、手順を経て究極的に完成された三一の神です。

イスラエルの歴史は
今日のキリストの中の信者の絵である
イスラエルの歴史に関してエレミヤによって描写された絵は、今日のキリストにある信者の絵です。これは、わたしたちがイスラエルと同じであることを意味します。イスラエルのように、わたしたちもかつて「花嫁の日々」(エレミヤ二・二)、わたしたちが主に愛を誓い、彼を極みまで愛すると告げた時がありました。しかしながら、多くの信者は初めの愛を離れ(啓二・四)、啓示録第二章と第三章に提示されている型にしたがって堕落しました。わたしたちはそのような状況に失望するかもしれませんが、神は失望されません。神は復興の時があること、遅かれ早かれ、わたしたちが進んで服従させられることを知っておられます。

最終的に、わたしたちはみな主に服従し、自分が邪悪であることを認めるでしょう。わたしたちは自分が罪の総合計であると告白するでしょう。わたしたちはこれを認識する時、言うでしょう、「主よ、わたしたちは無ですが、あなたはわたしのすべてです。わたしは罪ですが、あなたはわたしの義です。わたしは死んでいますが、あなたはわたしの命です」。さらに、わたしたちは、神聖な命とそれに伴うその感覚、法則、能力と共に、また神聖な性質を持っていることを認識します(Ⅱペテロ一・四)。わたしたちは、日ごとに聖別され、更新され、造り変えられていき、キリストのかたちに同形化され、栄光化される時が来つつあることを見るでしょう。神は常に神であって唯一の神格を持っておられますが、またわたしたちと神との間には常に区別がありますが、わたしたちはそれにもかかわらず神で構成され、命、性質、要素、本質、かたち、外観において神と一であり、神の団体的な表現となって永遠に至ります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第1巻より引用

 

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