神のみこころを認識し、からだの生活をする

真理

ダビデは神の心にかなった人でした(サムエル上十三・十四)。なぜなら彼は神のみこころの中で仕え、また神のみこころを実行した人であったからです(使徒十三・二二三六)。もしわたしたちが神の心にかなった人になりたいと思うなら、神の唯一で完全なみこころを認識する必要があります。それは、わたしたちが神の心と神のみこころにかなった生活をすることができるためです。

神のみこころは召会、すなわちキリストの
からだを持つことである
エペソ人への手紙第三章十節と十一節は言います、「今、天上にある支配たちや権威たちに、神の多種多様な知恵を、召会を通して知らせるためであり、神がわたしたちの主キリスト・イエスの中で立てられた、永遠のみこころにしたがっているのです」。御言のこの箇所は、神の永遠のみこころが召会を持つことであることを啓示しています。新約の啓示によれば、召会はキリストのからだであり(エペソ一・二二―二三)、キリストはからだのかしらです(コロサイ一・十八)。神は召会、すなわちキリストのからだを得たいのです。このほか、ローマ人への手紙第十二章二節から五節で、神のみこころ、ダビデは神の心にかなった人でした(サムエル上十三・十四)。なぜなら彼は神のみこころの中で仕え、また神のみこころを実行した人であったからです(使徒十三・二二三六)。もしわたしたちが神の心にかなった人になりたいと思うなら、神の唯一で完全なみこころを認識する必要があります。それは、わたしたちが神の心と神のみこころにかなった生活をすることができるためです。

善であり、喜ばれ、完全なものであるのは、キリストのからだであることを見いだすことができます。というのは、パウロは二節で神のみこころについて語った後、四節五節でキリストのからだについて語っているからです。

厳密に言えば、神の完全なみこころは配偶者を選ぶことや、車を購入することなどの小さな事柄に関してではありません。それは、キリストのからだの中で、多くの肢体が建造されることに関してです。神の主要な関心事は、わたしたちの生活の中の小さな事柄にあるのではなく、キリストのからだにあるのです。もしわたしたちが車を買う必要があるなら、からだの生活のためにそれを買うべきです。同様に、もし結婚する必要があるなら、からだのために結婚すべきです。ただ自分のために車を買うだけで、からだのためでないなら、これは神を喜ばせないでしょう。しかし、わたしたちはからだを持つという神のみこころのために車を買うなら、これは神に喜ばれるでしょう。結婚についても同様で、もしわたしたちの結婚がただ自分のためだけであるなら、神のみこころの目標から外れてしまいます。しかし、わたしたちの結婚がキリストのからだの建造のためであるなら、それは神のみこころにしたがっています。

さらに移住に関して、わたしたちの主要な関心は自分の仕事や家ではなく、キリストのからだである召会を建造することであるべきです。わたしたちが召会のためである限り、わたしたちが行なうすべては神のみこころにしたがっているでしょう。

現在の時代にキリストのからだである
召会を建造する
今日、召会に関して多くの間違った意見や教えがあります。あるクリスチャンは、召会を建造することは、魂を獲得することの次、すなわち、他の人たちを救いに導くことの次であると思っています。これはエペソ人への手紙第四章が明らかにしていることに反しています。そこでは、「そして彼ご自身は、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧する者また教える者として与えられました。それは、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであり」と言っています(十一―十二節)。かしらとしてのキリストは賜物のある人をからだに与えましたが、それは単に魂の救いや聖徒たちの成就のためではなく、その究極的な目的はキリストのからだの建造です。確かに、罪人を救いに導き、信者を成就するのは重要ですが、神の永遠の意図は単に罪人を火の池から助けたり、霊的な群れを持ったりすることではありません。神のみこころは、キリストのからだまた神の家としての召会を建造することです。

あるクリスチャンは、今日、神の民は単独で個人主義的なので、クリスチャンが現在の時代に、建造されてキリストの一つからだと成るのは不可能であるという誤った観念に陥っています。また別のクリスチャンは、真の召会は目に見えないもので、実行できないものであるという誤った見方を持っています。それゆえ彼らは、今日地上では実行的で目に見える召会の出現を持つのは不可能であるとしています。聖書はこれらの観点に反して、キリストは現在の時代に、キリストのからだとしての彼の召会を建造することを啓示しています。エペソ人への手紙第三章十節は言います、「今、天上にある支配たちや権威たちに、神の多種多様な知恵を、召会を通して知らせるためであり」。召会が神の多種多様な知恵を知らせるのは、単に将来だけのことではなく、それは現在の時代に完成されることです。

ペテロの第一の手紙第二章五節は言います、「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に建造されていきながら、聖なる祭司の体系となって」。この節は、信者たちが将来、霊の家に建造されると言っているのではなく、まさに今、霊の家すなわち召会に建造されていきながら、と言っているのです。ローマ人への手紙第十二章も、からだの生活の実行を啓示していて、キリストのからだの建造は現在の時代に起こることを強く示しています。ですから、わたしたちは今日キリストのからだの中で建造されて、からだの生活をする必要があります。

からだの生活は神のみこころである
神のみこころはキリストのからだを持つことですから、キリストの中にある信者は、キリストのからだの中で生きるべきです。ローマ人への手紙第十二章一節から二節は言います、「兄弟たちよ、こういうわけで、わたしは神の慈しみを通して、あなたがたに勧めます.あなたがたの体を、神に喜ばれる、聖なる、生きた犠牲としてささげなさい.それが、あなたがたの理にかなった奉仕です。またこの時代にかたどられてはいけません.むしろ、思いが新しくされることによって造り変えられなさい.それは、何が神のみこころであるか、すなわち何が善であって、喜ばれ、完全なものであるかを、あなたがたがわきまえるようになるためです」。時代はある特定の時期のこの世の潮流であり、流行の表現です。今日の時代は、今の風潮です。わたしたちは、この時代のさまにかたどられるべきではありません。むしろ、主と同じかたちへと造り変えられるべきです(Ⅱコリント三・十八)。もしわたしたちが体をささげて、主のかたちに造り変えられるなら、わたしたちの思いは新しくされます。これによって、神のみこころ、すなわち何が善であって、喜ばれ、完全なものであるかをわきまえることができます。

ローマ人への手紙第十二章二節に続く節は、神のみこころが何であるかを示しています。三節の原文は、「なぜなら」という言葉で始まっており、これは、続く言葉が前の言葉を説明していることを示します。パウロはここで書いています、「わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います.自分自身について思うべきことを超えて、思い上がることなく、むしろ神がそれぞれに割り当てられた信仰の度量にしたがって、冷静な思いで思うべきです。一つの体の中には多くの肢体があり、そしてすべての肢体が同じ機能を持っていないように、わたしたちも数は多いのですが、キリストの中で一つからだであり、そして各自は互いに肢体なのです」(三―五節)。

第十二章の最初の五節で、パウロがわたしたちに勧めていることは、神のみこころとはわたしたちがからだの生活、すなわち召会生活をすることであると識別する、あるいは見るようにということです。そのために、彼はまずわたしたちに体を神にささげるように勧めます。これは理論上わたしたち自身を神にささげることではなく、実際的にささげることです。自分の体を主にささげた後、わたしたちはこの時代の潮流に従うのではなく、主に従う必要があります。それはわたしたちが主のかたちへと造り変えられるためです。もしこのように行なうなら、わたしたちの思いは新しくされます。もしわたしたちの思いがこの時代の潮流に従うなら、わたしたちの思いは古いままで新しくされず、この時代にかたどられてしまいます。

その反対に、もしわたしたちが体をささげて主に従うなら、わたしたちの思い、考え方、思考は新しくされて、わたしたちの見方はこの世の人々の見方とは異なってくるでしょう。わたしたちがもし地的な考え方に従って、この世の現在の潮流に従うなら、わたしたちはこの世の人々と同じように、新しくされていない思いを伴った見方を持つでしょう。しかしながら、もし主に従うなら、わたしたちは天的な見方を持つことができます。わたしたちの思い、考え方、思考は変えられ、新しくされます。そのような新しくされた思いをもって、わたしたちは、神の善であって、喜ばれる、完全なみこころをわきまえ、識別する能力を持ちます。

神のみこころとはわたしたちがからだの生活を持つことです。クリスチャンとして、わたしたちは神によって救われ、再生されてキリストのからだの肢体となり、共に集まってからだの生活を実行します。神の主要で中心的なみこころとは、わたしたちがからだの生活、召会生活を持つことです。ですから、わたしたちはその霊であるキリストをもって神によって再創造され、再び生まれ、造り直されて、からだの肢体となりました。

信者たちは、単に個人ではありません。アダムにあって、つまり旧創造において、わたしたちは個人でした。しかし今やキリストにあって、つまり新創造において、わたしたちはもはや個人的な人ではなく、わたしたちは「互いに肢体なのです」(ローマ十二・五)。肢体と個人的な人には違いがあります。旧創造においては、一人の人は完全な単位です。一人の人は歩き、話し、物事を行なうことができます。なぜなら、彼自身は完全であるからです。しかしながら、キリストにあって、わたしたちはもはや完全な個人ではありません。そうではなく、わたしたちは肢体にすぎません。

人の体の肢体は完全な単位ではありません。肢体には、それぞれ特定の機能があり、しかもその機能を果たすことができるだけです。たとえば、手は、聞くためには耳に依存しなければなりませんし、見るためには目に依存しなければなりませんし、歩くためには足に依存しなければなりません。人の体のどの肢体も、みな他の肢体を必要としています。旧創造、アダムにあって、わたしたちは個人的に、また個々に完全な人ですが、キリストにあって、すなわち新創造にあって、わたしたちは再創造されて、肢体となりました。キリストにあってはただ一人の人があるだけで、この人は召会です。召会だけが完全な人であり、この人には多くの肢体があります。わたしたちはキリストにあって、この一人の人の多くの肢体です。ですから、わたしたちが救われた後、神の意図はわたしたちが彼に従って、彼のみこころを行なうことです。そして神のみこころとは、わたしたちを肢体として共に集めて一つからだを形成して、実際的にからだの生活をさせることです。

ローマ人への手紙が啓示している
クリスチャン生活の完全な概要
ローマ人への手紙は、新約における最初の書簡です。それゆえ、ローマ人への手紙は書簡の中で先導的なものです。この書はクリスチャン生活と歩みの完全な概要を啓示しています。序言(一・一―十七)の区分の後、ローマ人への手紙は、わたしたちが堕落して罪人となったので、神によって罪定めされたことを告げています。(一・十八―三・二〇) 次の区分では、わたしたちがキリストの中で、キリストの贖いを通して信仰によって義とされたことが告げられています(三・二一―五・十一)。第三の区分は、わたしたちが義とされたことに続いて、聖別されなければならないと言っています(五・十二―八・三九)。聖別は、わたしたちが神の長子のかたちに同形化されることを含みます。神がわたしたちを聖別される意図は、わたしたちを同形化することです。その後挿入の区分があり、神の恵みにおける選びを述べています(九・一―十一・三六)。この区分は、神がどのように彼の恵みにおいてわたしたちを選ばれたのか、またいかに彼の恵みにおける選びが、決して変わらないものであるかを語っています。

この挿入に続いて、次の区分は、聖別と同形化を述べている区分の継続です(十二・一―十六・二七)。この最終区分は、一つの事柄、すなわち召会生活、つまりからだの生活を取り扱っています。聖別され、同形化された後、わたしたちは他の人たちと共に建造されて、からだとなる必要があります。ですからローマ人への手紙は、罪人が罪定めされ、義とされ、聖別され、キリストのかたちに同形化され、共に建造されてキリストの生けるからだとなる絵を提示しています。

からだの生活は聖書の中で基本的で基礎的な事柄です。からだの生活は、聖書の中で啓示されている主要な事柄であるとさえ言うことができるでしょう。しかしながら、神の言葉がこのようにはっきりしているにもかかわらず、多くの人はからだの生活以外の事柄に注意を払っています。わたしたちがからだの生活の事柄の上で正しいなら、クリスチャン生活におけるその他の多くの事柄に関しても、自然に正しくなるでしょう。からだの生活の中には、わたしたちが享受するための多くの霊的な富と豊富があります。また、わたしたちが学ぶべき多くの学課もあります。どの学課もみな救いであり、からだの中で学ぶ学課が多ければ多いほど、からだの中ですべての聖徒たちと共に享受する救いも多くなるでしょう。

正常なからだの生活がなければ、わたしたちが勝利を得て、霊的になり、聖となることは不可能です。そればかりか、からだの生活がなければ、わたしたちが命において成長し、他の人たちと共に建造されて、キリストの生ける表現となることは不可能です。これらの霊的な益は一つのこと、すなわち、わたしたちが正常なからだの生活を経験することにかかっています。

サタンの妨げる働きと主の回復する働き
召会歴史と今日の召会の状況はどちらも、神の敵サタンが二つの事をしようとしていることを示しています。第一に、彼は人々を覆って、キリストを命として認識させないように、経験させないようにします。次に、敵はできる限りを尽くして、召会生活をさせないようにします。一般的に言って、信者たちは形式や教え、またいわゆる霊的な賜物に関心を持っています。しかしながら、真に、また生きた方法でキリストを彼らの命として認識している人は多くありません。それだけでなく、一群れのクリスチャンがある都市で共に集まり、キリストの生きた、地方的な表現となり、適切な召会生活をしているのを見いだすのは困難です。その結果、クリスチャンの間での力強い大能は覆われて、ほとんど失われてしまったかのようです。クリスチャン自身も弱くなってしまいました。信者としてわたしたちは、わたしたちの命としてのキリストと、わたしたちの生活としての召会だけを顧慮すべきであって、形式、教え、賜物によって占有されるべきではありません。それらのものは良いかもしれませんが、キリストご自身ではなく、わたしたちを正常な召会生活へと導き入れることができません。

今日、主はわたしたちの命としてのキリストと、わたしたちの生活としての召会を必ず回復しなければなりません。これは、わたしたちの日常的な歩みと生活と働きがキリストの中にあり、キリストによるものであり、キリストと共にあるものでなければならないという意味です。また、わたしたちはキリストのからだとして共に集まり、自分たちのいる都市で、からだの生活を実行する必要があります。からだの生活の中で、からだのかしらであるキリストのあらゆる豊富はわたしたちに伝達されます。わたしたちは個人的にではなく、団体の中でキリストを享受します。わたしたちは、日常生活でキリストによって生きるだけでなく、共に集まる時にも、わたしたちが生きたキリストを互いに分け合います。そうして、わたしたちは建造され、成長し、キリストも栄光を得られます。それだけでなく、からだの生活を実行することを通して、他の人たちはキリストに引き寄せられるでしょう。

それゆえ、からだの生活をすることは、わたしたちが神の御前で歩むための正しい道です。それは勝利を得て聖とされる唯一の道であり、またキリストの豊富へとわたしたちを導き入れる唯一の道です。どうかわたしたちがみな、この道を歩みますように。なぜなら、神の心と神のみこころにかなった生活は、からだの生活であるからです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第6巻より引用