エペソ人への手紙第一章九節から十一節は、神には大いなる喜び、定められた御旨と案配、すなわち神のエコノミーがあることを告げています。神のエコノミーの目的はすべてのものをキリストの中でかしらにつり上げることです。これは三一の神がキリストの中で命と光として、彼の選ばれた人の中へと分与され完成します。この分与は究極的に新エルサレムにおいて完成します。そこにわたしたちは、神がすべてのものをつり上げるという定められた御旨の完成を見ることができます。
神のエコノミーと分与
エペソ人への手紙第一章九節から十一節は言います、「みこころの奥義をわたしたちに知らせてくださいました.これは、神がご自身の中で計画された彼の大いなる喜びによるもので、時代の満了時のエコノミー[経綸]へ至るためです.すなわち、キリストの中で、天にあるもの地にあるもの、すべてのものを、彼の中でかしらにつり上げようとされたのです.その方の中で、……みこころの熟慮にしたがってすべての事柄を行なう方の定められた御旨により、あらかじめ定められていたのです」。ここで言っているのは、神はみこころと定められた御旨の中で、彼の大いなる喜びを持っており、さらに彼には神聖な熟慮があるということです。その熟慮に基づいて、神は一つの計画と案配を定められました。この計画と案配は、彼の家庭の行政、彼のエコノミーです。このエコノミーの目的は、キリストの中ですべてのものをかしらにつり上げることです。
神の家庭の行政、すなわち信仰の中にある神のエコノミーは、信仰の中で、キリストにあって神ご自身を分配することです(Ⅰテモテ一・三―四)。このエコノミーの目的はまず、神ご自身を彼の選ばれた人の中へと分与し、彼ご自身と彼らを一にすることです。またキリストと彼のすべての豊富を神の選ばれた信者の中へと分与し、彼らをキリストの肢体とし、かしらであるキリストへとつり上げ、キリストのからだすなわち召会を構成し、手順を経た三一の神を表現します(エペソ三・八―十)。最後に、時代の満了時に、すべてのものはキリストの中でかしらにつり上げられます(一・十)。
神のエコノミーは神の家庭の行政だけでなく、神の全宇宙の行政も含みます。キリストは召会のかしらであるだけでなく、全宇宙のかしらでもあります。今日宇宙全体はサタンの反逆のゆえに、混乱していますが、新天新地が来るとき、すべてのものはみなキリストの中でかしらへとつり上げられるでしょう。現在、召会の中で、キリストはわたしたちをかしらへとつり上げておられます。究極的にすべてのものは新天新地においてかしらへとつり上げられ、神は完全な表現を持つでしょう。神のエコノミーは神の分与によって達成されます。この分与はおもに、キリストの中の命と光としての三一の神を通し、彼の選ばれた人の中へと入ることで完成します。最終的にはこの分与は新エルサレムにおいて究極的に完成します。
命の光としてのキリストの分与、信者をかしら
であるキリストへとつり上げる
ヨハネによる福音書第一章四節は言います、「彼(キリスト)の中に命があった.この命は人の光であった」。人の命は一時的で、つかの間の命で、わたしたちのつかの間の命がどれほど続くのか、わたしたちは確かではありません。ですから、人の命は事実上真の命ではありません。真の命は神聖な命であり、キリストの中にあり、永遠で、恒久的で、永続的な命です。すべての人はそのような命、神聖な、非受造の、キリストにある命を必要とします。
わたしたちが福音の言葉を聞いた時、この神聖な命であるキリストを受け入れ、この神聖な命がわたしたちの中に入って来ました。それはわたしたちの内側で命の光と成り、絶えずわたしたちを照らします。五節は言います、「光は暗やみの中に輝いている.そして暗やみはそれに打ち勝たなかった」。この神聖な命の光がわたしたちの内側で輝く時、暗やみは決してそれに打ち勝つことはできませんし、光は暗やみを追い払います。この光は真の光であり、すべての人を照らします。この命の光がわたしたちの内側で輝くとき、この命は死を飲み尽くし、暗やみを追い払います(八・十二)。今召会の中で、わたしたちはみなこの神聖な命と光の分与の下にいます。わたしたちが命においてかしらであるキリストの中へと成長するなら、混乱から救い出され、秩序のある調和のとれた一にもたらされるでしょう。
命と光の分与は、
すべてのものをかしらにつり上げ、
新エルサレムにおいて究極的に完成する
啓示録の最後の二つの章で、わたしたちは命と光としてのキリストの分与を見ます。それは、すべてのものをかしらにつり上げ、新エルサレムにおいて究極的に完成します。
新エルサレムの中心は神と小羊の御座である
聖なる都、新エルサレムは大きな金の山です(二一・十、十八)。神と小羊の御座はこの金の山の中心、山頂にあり、この都には一本の金の大通りがあり、この唯一の大通りは最終的に御座に向かいます。すなわちわたしたちは神と小羊の御座へと至る途上にいます。
御座は命の供給の源である
第二二章一節は言います、「また御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた.それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた」。命の水の川が御座から流れていることは、新エルサレムの中心にある神の御座は、命の供給の唯一の源であることを指しています。神が彼の行政によって、ご自身を命として、命の供給として、永遠の絶対的なすべてを含む恵みとして、わたしたちの中に分与されます。彼がご自身をわたしたちの中に分与されることは、彼の行政にかかっています。こういうわけで、召会生活には今日、神聖な権威と召会の管理があり、この管理は神の御座から来ます。召会における神聖な権威は、神がご自身を命として、命の供給として、すべてに十分な恵みとして、わたしたちに分与するためです。わたしたちは神の権威と管理に服従することによってのみ、彼のすべてに十分な恵みにあずかることができるのです。
御座はかしらの神聖な権威を伴っている
新エルサレムの中心である神と小羊の御座は、キリストにおいてかしらとしての神の神聖な権威を表徴します。命の供給はこの権威から流れ出て、命の水の流れに、命の供給の享受と命の交わりを伴う神聖な権威があります。わたしたちは命の供給にあずかる時、命の交わりの中で神の権威の下にもたらされます。真の権威は新エルサレムの中心にある神の行政の御座から、神との命の交わりによる命の供給の享受を通して来ます。
命の供給と分与としてのキリスト
命の川
「命の水の川……は神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた」(一節)。この川は「命の水の川」と呼ばれており、神がキリストにあってその霊と成り、ご自身を彼の贖われた人の中へと流れ込ませ、彼らの命また命の供給となられることの表徴です。これは、ご自身をわたしたちの中に分与しておられる三一の神の絵です。神はご自身から、ご自身を彼の贖われた者の中へと流れ込ませておられます。神のこのようなわたしたちへの分与は、神の行政の御座から出て来ます。これは、神の分与が彼の行政にかかっていることを意味します。これは今日の召会生活においてそうです。神の命の供給と神のすべてに十分な恵みの分与は、神の行政の御座から流れ出ます。最終的に、新エルサレムでは、この分与は都のあらゆる部分に行き渡り、都全体が三一の神で満たされ、浸透されるでしょう。
この神と小羊の御座から流れ出る命の水の川の絵は、贖う神をわたしたちのかしらとして、彼の頭首権に服従しなければならないことを見せています。このようにするなら、彼の御座はわたしたちの霊の中に、さらにわたしたちの全存在に確立されるでしょう。この確立された御座から、命を与える霊がわたしたちの内側を流れます。この御座は、彼の贖われた者すべての中へとご自身を分与するための、神の頭首権を持つ神の行政の中心です。それは、わたしたちがご自身で浸透され、飽和され、彼の表現となるためです。
この命の水の川は、新エルサレムの大通りの中央を流れます。聖なる都の大通りは純金です(二一・二一)。金は神聖な性質を表徴します。大通りの中央を流れている命の水の川は、神聖な命が、神の贖われた民の日常生活のための唯一の道として、神聖な性質の中を流れることを表徴します。神聖な命が流れる所には、神聖な性質があります。彼の民は神聖な性質によって聖なる道を歩くのです。神聖な命と神聖な性質の聖なる道は、いつも並行しています。わたしたちはこの命の道を歩くことによって、この命の水の川を享受することができます。
「水晶のように輝く命の水の川」(二二・一)。これは、命の水には少しのあいまいさも不明瞭さもないことを意味します。この命の水はわたしたちの内を流れる時、わたしたちをきよめ、明るく透明にします。例えば、あなたがデパートで買い物をしているとします。神聖な命の内側の規制に「アーメン」と言う時はいつも、あなたは強められ、潤され、新しくされるだけでなく、水晶のように輝いています。
命の水は、わたしたちの内側を流れれば流れるほど、わたしたちの視力を覆っているものを運び去ります。この水はわたしたちに明確な視力を与え、わたしたちの存在、わたしたちの状態、わたしたちと関係あるあらゆるものを、透明にします。わたしたちは聖書を分析することによって神のみこころを知ろうと努めることをやめて、こう言うべきです、「主イエスよ、あなたを愛します。そしてあなたの頭首権と権威に服従します。主よ、わたしの全存在の中にあなたの御座を確立してください」。こうするなら、あなたは直ちに内なる流れを享受し、この流れは、神聖な命の中であなたを水晶のように透明にします。わたしたちと関係のあるすべてのもの、わたしたちの状況、わたしたちの状態が、透明になり、確実に主のみこころを知ることができるようになります。
命の木
第二二章二節は、「その川のこちら側にも向こう側にも命の木があって」と言います。命の木は、わたしたちの命の供給としてのキリストです。まず、キリストはわたしたちの贖いのための神の小羊であり(ヨハネ一・二九)、次にわたしたちの命の供給のための命の木です(六・三五)。命の木は命の川の両側に成長し、人は命の水の流れに沿ってそれを自由に取ることができます。その霊の流れる所には、キリストの命の供給があります。
命の木は十二の実を結び、その実は毎月みのります(啓二二・二)。命の木の実は、永遠にわたって、神に贖われた者たちの食物となります。それらの実は絶えず新鮮であり、毎月実を結び、毎年十二の実をみのらせます。これは、神の永遠の行政の完成のために、命の木の実が豊富で十分であることを意味します。神に贖われたすべての者は、永遠に命の木を享受します(十四節)。この他に、命の木の葉は諸国民のいやしのためです(二節)。これが示しているのは、神の贖われた民以外、すなわち復興された諸国民は、命の木の葉によっていやされ、キリストの行為を彼らの導き、規制として外面的に受け取り、いつまでも人の生活を生きるということです。
光の輝きと分与としてのキリスト
神は新エルサレムの光である
啓示録第二一章二三節は言います、「都の中では、太陽も月も輝く必要がない.神の栄光がそれを照らし、小羊がそのともし火だからである」。第二二章五節もまた言います、「夜はもはやない.彼らにはともし火の光も太陽の光も必要がない」。千年王国では、太陽の光も月の光も強化されます(イザヤ三〇・二六)。しかしながら、新天新地における新エルサレムには太陽の光や月の光の必要はなく、ともし火の光も必要ありません。これは新エルサレムでは、天然の光も人工の光も必要ないことを示しています。なぜなら、神は神聖な光としてのご自身をもって、この都を照らすからです。この神聖な光は太陽や月、人工の明かりよりもいっそう明るいのです。
ヨハネの第一の手紙第一章五節は、神は光であって、神の中には少しの暗やみもないと告げています。この節の前後の文脈によると、神はおもに父なる神を指しています。光は神の外面的な表現の性質です。新エルサレムにおいて、光は神の表現としての都を明るくする神ご自身を指します。聖なる都はこの種の神聖な輝きがあるので、天然の光、あるいは人工の光を必要としません。その都には夜はなく、光に満ちています。この光は輝く光としての、また都全体の享受としての父なる神の栄光です。
小羊・キリストはともし火である
「小羊がその(都)ともし火だからである」(啓二一・二三)。神は光であり、キリストはともし火です。光の神はなぜともし火が必要なのでしょうか?照明設備を例に挙げると、発電所で作られる各種の光はみな担い手または電球が必要です。もし電球がないなら、人は感電し、あるいは死ぬ恐れがあります。同じように、ともし火としての贖いの小羊がなければ、神の光はわたしたちを照らして、わたしたちを「殺し」てしまうでしょう。しかしながら、神聖な光が贖い主を通して輝き出るとき、わたしたちがそれに触れることができるほどとても愛らしく変わり、わたしたちはこの光の中で生きて行動することさえできます(Ⅰヨハネ一・七)。神聖な光としての神は一人の担い手を持っておられます。この担い手は贖い主――小羊です。ともし火としての小羊が光を現すことはとても親密で愛らしいです。ともし火としての小羊がなければ、神聖な光が輝くとき、わたしたちはみな逃げなければなりません。しかし贖い主によって、人を殺す光は真実な輝きを持ってわたしたちに享受を与え、益を得させます。キリストの外では、神の輝きは一種の殺しです。しかしキリストの中では、神の輝きは一種の照明です。わたしたちは救われた日から、わたしたちをいつも明るくする贖うキリストの中で、神聖な光としての神を享受し始めました。わたしたちは新エルサレムに至るまで、このように神を享受するはずです。
諸国民は都の光によって歩く
啓示録第二一章二四節は言います、「諸国民はその(都)光によって歩き」。これは都の中の光は天然の光よりもさらに強いことを証明します。神がこの都を通して輝くとき、この輝きは太陽や月よりも明るいので、諸国民は太陽や月の光の中で歩く必要がありません。なぜなら彼らは新エルサレムの輝きの中で歩くからです。十一節は言います、「その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった」。この節の「光」は、文字どおりには発光体、あるいは光を帯びるものです。新エルサレムの城壁全体は碧玉で築かれており(十八節)、新エルサレムの光は神の外観を帯びている光のようです(四・三)。そしてその輝きによって神を表現します。贖う小羊の中で神は光であり、都全休は発光体、大きな光を帯びるものです。これは、神聖な光としての神は、贖うキリストの内側で、また彼を通して輝くことを意味します、そしてこの輝きは都全体を照らします。新エルサレムにおいて、神は光であり、彼の輝きは彼の栄光です。ですから、神が都の中で輝くとき、神は栄光のうちに表現されます。それはまずキリストの中で、そしてキリストを通して、次に都の中で、また聖徒たちを通してです。神は光であり、キリストはこの光を入れるともし火であり、都の城壁は神聖な光を帯びて神を表現する造り変えられた聖徒たちです。
今日、信者は光の子供たち(エペソ五・八)、世の光(マタイ五・十四)であり、曲がったよこしまな世代のただ中で輝きます(ピリピ二・十五)。召会もまた同じように光を帯びるものであり、光としてこの世代を照らすキリストをもたらし、隣人たちをみなわたしたちが輝かす光の中を歩ませるようにしなければなりません。わたしたちはこのような輝く召会となって、諸国民をわたしたちの光の中で歩ませる必要があります。最終的に、新エルサレムはすべての聖徒の組み合わせであり、発光体となって、光である神を周りの諸国民の上に照らします。新エルサレムにおいて、神の定められた御旨とエコノミーは完成され、命と光としてのキリストの分与を通して、すべてのものはかしらであるキリストへとつり上げられます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第6巻より引用