旧約がわたしたちに見せているのは、神が彼の民に良き地に入り、その豊かさを享受することを約束されたこと、またイスラエルの民が完全に良き地を所有するためには、戦わなければならないということです。新約にも同じ啓示があります。それは神の意図が、キリストを信者の良き地とし、彼のすべてを含む、測り知れない豊富を享受するというものです。申命記第八章はイスラエルの民の良き地に対する経験を描写しています。まず水の経験、それから植物と動物の経験があります。この三つのものの後に、石と山があり、そこから出て来た、戦いに関係のある鉄と銅があります。これは、エペソ人への手紙が啓示しているように、わたしたちの命の成長の段階に符合しています。第一章はわたしたちがキリストの中で受けたすべての祝福について語っています。それから第二章から第五章ではキリストの豊富を、特に「キリストの測り知れない豊富」という言葉を用いて語っています(三・八)。この豊富を語り終えた後に、この手紙の終わりの第六章は、わたしたちに戦いについて見せています。
わたしたちは霊的な経験において、エペソ人への手紙の第六章に到達するには、まず第一章から第五章のキリストを経験しなければなりません。またそれは、キリストの豊富に対して、まず満ちあふれる享受を持つということです。キリストをこのような段階にまで経験したので、また神の建造と神の統治の必要のゆえに、わたしたちは霊的な戦いをする必要があります。わたしたちが命の円熟という段階にまで到達したなら、わたしたちは戦うことができ、また戦う資格を持ちます。
鉄と銅の必要
エペソ人への手紙第六章は、わたしたちが戦場へもたらされたときに、「神のすべての武具を取り……義の胸当てを身に着け……信仰の盾を取り……救いのかぶとを受け取りなさい.さらにその霊の剣……を」とわたしたちに告げます。考えてみてください、かぶとは何で造られているのでしょうか? また胸当ては何で製造されているでしょうか? それらは確かにいかなる柔らかい、あるいはもろい材料からも造られてはいません。わたしたちはミルクを武器として戦うことはできません。一切れのパンで戦うことや、いちじくで戦いに行くこともできません。わたしたちは何か堅くて強力なものを持たなければなりません。サムエル記上第十七章の記録に、青銅で覆われた巨人戦士がいます。彼の頭、彼の胸、彼のひざ、彼のすねはみな青銅で覆われていました。そして彼が戦いに用いる剣は鉄でできていました(五―七節)。良き地の豊富の最後の二つの項目は鉄と銅です。この二つのものは戦いに必要なものです。わたしたちは引き続いて、エペソ人への手紙第六章の、神のすべての武具の各項目の意義と適用を見ましょう。
義の胸当て
義の胸当てを身に着けるとは、胸で表徴されるわたしたちの良心を覆うことです。サタンはわたしたちを訴える者です。彼との戦いにおいて、わたしたちはとがめのない良心が必要です。わたしたちは、自分の良心にとがめはないとどれほどはっきり感じていても、それは義の胸当てで覆われる必要があります。義であるとは、神と人の両方に対して正しいことです。もしわたしたちが、神や人に対して少しでも間違っているなら、サタンはわたしたちを訴えるでしょう。そして、わたしたちの良心には穴があき、そこからわたしたちの信仰も大胆さも、すべて漏れてしまいます。ですから、わたしたちは、敵の訴えからわたしたちを保護する義のおおいが必要です。そのような義はキリストです(Ⅰコリント一・三〇)。
もし何かの事でわたしたちが義でないなら、わたしたちの良心はとがめのある良心となります。しかし、わたしたちが霊的戦いに従事するなら、とがめのない良心、穴がない良心を持たなければなりません。わたしたちの良心に穴があいているなら、わたしたちの信仰はその穴から漏れてしまうでしょう。もし訴えやとがめがわたしたちの良心に残っているなら、信仰は消えてしまいます。ですから、正しい良心、とがめのない良心を持つためには、良心を対処する必要があります。それに加えて、わたしたちは良心を覆う義の胸当てを身に着ける必要があります。
わたしたちが霊的戦いをしようとする時はいつも、訴える者サタンはわたしたちの良心を攻撃します。彼は別の時には、これほどひどくわたしたちを悩ませません。サタンは、わたしたちの良心にいつとがめがあるかを知っています。彼がこれらのとがめに関してわたしたちを訴える時、わたしたちは直ちに弱くされます。
啓示録第十二章十一節は言います、「兄弟たちは、小羊の血のゆえに……彼に打ち勝った」。小羊の血によって覆われるとは、義の胸当てを身に着けることです。義は血の中にあり、血のおおいは胸当てです。これは教理的に説明することは難しいのですが、わたしたちはそれを、経験的に理解することができます。わたしたちが暗やみの権力に敵対して戦おうとする時はいつも、サタンは彼の訴えを通して、わたしたちの良心をとても鋭敏にならせます。これらの感覚は、実は良心の敏感さではなく、サタンの訴えの結果です。直ちに、わたしたちの応答はこうあるべきです、「わたしは、訴える者サタンに打ち勝つ。わたしの完全さによってではなく、とがめのない良心によってでさえなく、小羊の血によってである。わたしは義の胸当てによって、彼の告発に対して守られている」。
信仰の盾
わたしたちの信仰とは、当然ですが自分の能力、力、功績、美徳を信じることではありません。わたしたちの信仰とは神を信じることであるべきです(マルコ十一・二二)。神は真実で、生きており、現実的で、便利です。わたしたちは神にある信仰を持つ必要があります。
わたしたちはまた、神の心を信じるべきです。すべてのクリスチャンは、神と神の心の両方を知らなければなりません。わたしたちに対する神の心は常に善いのです。どのようなことがわたしたちに起こっても、あるいはどのような苦難を受けても、わたしたちは常に、神の心が善いことを信じなければなりません。神にはわたしたちを罰し、傷つけ、損失を受けさせる意図はありません。
わたしたちは神の心を信じると共に、神の信実も信じるべきです。わたしたちは変わりますが、神は永遠に変わりません。ヤコブの手紙第一章十七節が言うように、神には回転の影というものがありません。さらに、神は偽ることができず(テトス一・二)、ご自分の言葉について常に信実です。
神は信実であるだけでなく、能力があります。ですから、わたしたちは神の能力の中に信仰を持つ必要があります。エペソ人への手紙第三章二〇節でパウロは、神は「わたしたちが求め、また思うすべてを、はるかに超えて豊かに行なうことのできる方」であると言明します。
わたしたちの信仰のもう一つの面は、神の言葉を信じることです。神は、ご自身が語られたことすべてを果たすよう縛られています。神は語れば語るほど、ますますご自身の言葉を果たす責任を負うようになります。わたしたちは彼に告げることができます、「神よ、あなたは語られました。あなたの書き記された言葉が、わたしたちの手にあります。主よ、あなたはご自身の言葉を成就するよう縛られています」。神の信実な言葉のゆえに、ハレルヤ!
わたしたちはまた、神のみこころを信じるべきです。神は目的の神であるので、彼にはみこころがあります。わたしたちに関する神のみこころは、常に積極的です。ですから、何がわたしたちに臨んでも、わたしたちは自分の幸いや環境を顧慮するのではなく、神のみこころを顧慮すべきです。わたしたちの環境は変わるかもしれませんが、神のみこころは決して変わりません。
さらに、わたしたちは神の主権を信じるべきです。神には主権があるので、神は決して間違いを犯しません。彼の主権の下で、わたしたちの間違いでさえ働いて益となります。もし神が主権をもって、わたしたちが間違いを犯すのを許されなかったなら、わたしたちはおそらく間違いをすることができなかったでしょう。(しかしながら、これは、わたしたちが故意に間違いを犯すべきであるという意味ではありません)。わたしたちは間違った時、悔い改める必要があります。しかし、後悔する必要はありません。なぜならそれは、わたしたちが信仰に欠けていることを意味するからです。わたしたちは、間違いや欠点を悔い改めた後、なおも神の主権にある信仰を働かせなければなりません。もし神が主権をもって、わたしたちがそうすることを許されなかったなら、わたしたちはその間違いを犯すことができなかったでしょう。ですから、後悔する必要はありません。
わたしたちはみな、神を信じ、神の心を信じ、神の信実を信じ、神の能力を信じ、神の言葉を信じ、神のみこころを信じ、そして神の主権を信じる必要があります。そのような信仰を持つなら、サタンの燃える火の投げやりは、わたしたちに損害を与えることはできないでしょう。
救いのかぶと
第六章十七節前半でパウロはさらに、「また救いのかぶとを受け取りなさい」と言います。これは、邪悪な者によって投げ込まれた消極的な思想に対して、わたしたちの思い、知性を覆うためです。そのようなかぶと、そのようなおおいは神の救いです。サタンはわたしたちの思いの中に、脅迫、思い煩い、心配、人を弱くさせるその他の思想を注入します。神の救いは、これらすべてに抵抗してわたしたちが取るおおいです。そのような救いは、わたしたちが日常生活の中で経験する救いのキリストです。
サタンの投げやりは、わたしたちの思いを通して来ます。ですから、わたしたちの良心が義の胸当てを必要とし、わたしたちの意志が信仰の盾を必要とするように、わたしたちの思いは救いのかぶとを必要とします。盾とかぶとは共に働きます。盾はわたしたちの前面を守りますが、かぶとはわたしたちの頭を守ります。ですから、わたしたちの経験において、救いのかぶとと信仰の盾は分離できません。
その霊の剣
第六章十七節の後半でパウロはまた、「その霊の剣、すなわち霊である神の言葉」について語ります。神の武具の六つの項目の中で、これだけが、敵を攻撃するために用いられるものです。この節はまた、その霊が神の言葉であることを示します。その霊と言葉はどちらもキリストです(Ⅱコリント三・十七、啓十九・十三)。その霊と言葉としてのキリストは、敵を打ち破って殺すために、攻撃の武器としての剣でわたしたちを装備します。もしわたしがこの節を書いたなら、「神の言葉の剣」と言うでしょう。しかしパウロは、「その霊の剣、すなわち霊である神の言葉」と言います。ここの剣はその霊の剣でしょうか、それとも言葉の剣でしょうか? 大部分の読者は、パウロは剣が言葉であり、その霊が剣を使いこなすようにとわたしたちを助けると言っていると考えます。しかし、これはここの意味ではありません。正しい意味は、その霊は剣そのものであり、剣を使う者ではないということです。剣はその霊であり、その霊は言葉です。ですから剣はまた神の言葉です。
神の言葉は聖書です。しかし、もしこの言葉が印刷された文字にすぎないなら、それはその霊でも剣でもありません。十七節の「言葉」は、ギリシャ語では「レーマ」、どのような状況の下でもその霊によってその瞬間に語られた、即時的な言葉です。聖書の恒常的な言葉である「ロゴス」が、即時的な「レーマ」になる時、この「レーマ」はその霊です。その霊となるこの「レーマ」は、敵を寸断する剣です。例えば、わたしたちは特定の節を繰り返し読んでも、それを「ロゴス」、文字の言葉にとどまらせるだけかもしれません。そのような言葉は何も殺すことはできません。しかしある日、この節がわたしたちにとって「レーマ」、現在の、即時的な、生ける語りかけとなります。その時、この「レーマ」はその霊となります。こういうわけで、ヨハネによる福音書第六章六三節で主イエスは言われました、「わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である」。ここでギリシャ語原文はやはり「レーマ」を使っています。即時的な、現在の言葉はその霊です。このような言葉が剣です。
神のすべての武具で装備されることの最後に、「レーマ」(言葉)、すなわちその霊、剣を持ちます。これは敵を攻撃するのに使う攻撃の武器です。わたしたちが神のすべての武具を持つ時、装備され、資格づけられ、力づけられ、霊的戦いの中で剣を使うことができるようになります。その時、敵はわたしたちの剣で切断され、わたしたちによって殺されます。召会はそのように装備されて、戦い、神の敵を殺す勝利の召会でなければなりません。
鉄と銅(青銅)の適用
啓示録第十二章五節は言います、「鉄の杖で、すべての諸国民を牧養(支配)する」。ですから、鉄はキリストの権威を表します。第一章十五節は言います、「彼の足は、炉で精錬された輝く青銅のようであり」。このことが言っていることは、主ご自身がまずテストされ、裁かれ、精錬されたので、彼には他の人を裁く資格があるということです。ですから銅はキリストの裁きを表しています。また主は昇天される前に、「天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている」と言われました。しかしそれだけではなく、主は続けて弟子たちに「だから、行って……」(マタイ二八・十九)と言われました。この意味は、彼はこの権威をわたしたちに与えられたということです。今や主は、わたしたちに権威を与えられ、わたしたちに敵の力に打ち勝つようにしてくださいました。敵がどれほど強くても、彼が最大に持っているものは力だけです。しかしわたしたちは権威を持っています。わたしたちは全宇宙のかしらの権威を持っています。わたしたちが行なわなければならないことは、良き地のさまざまな豊富、すなわち生ける水から鉄と銅としてのキリストを経験し、最終的にはキリストから与えられた権威を適用することです。
使徒パウロは彼の生涯で多くの悪霊を追い出しました(使徒十六・十八、十九・十二)。彼は悪霊に向かって、主イエスの御名の中で去るように命じました。また神はパウロの手を通して、並はずれた力あるわざを行なわれました。例えば、パウロが身に付けていた手ふき布やエプロンなどを取って、病人にあてると、病気は彼らから去り、悪霊は出て行くほどでした(使徒十九・十一―十二)。ある者たちはパウロを模倣しようとしました、「ところが、ユダヤ人のまじない師で巡回している者たちも、悪霊を持っている者たちに向かって主イエスの御名を唱え、『パウロが宣べ伝えているイエスによって厳命する』と言ってみた。……すると、悪霊は彼らに答えて言った、『イエスについては知っている.パウロについてもわかっている.だが、おまえたちはいったい何者だ?』。そして、悪霊にとりつかれていたその男は、彼らに飛びかかり、その二人を押し倒して打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を受けて、その家から逃げ出した」(十三―十六節)。悪霊はパウロを知っており、彼に従いましたが、これらの者たちにはそうしませんでした。これは、パウロが復活の中に生き、すなわち復活、昇天した地位と立場を持っていたので、キリストの裁きと権威を活用することができたということです。権威はその人がどのような人であるかに基づいています。もしわたしたちが命においてそのような円熟に至っていないなら、このように行なうことはできません。
わたしたちは権威と裁き、すなわち鉄と銅が石から出て来ることを見なければなりません。石はどこにあるのでしょうか? 石は山の中にあり、石は復活の中にあります。人が土くれの地位にいるとき、決して権威を主張することはできません。なぜなら、内側に鉄と銅がないからです。しかしわたしたちが一塊の石であり、キリストの中で生き、復活の中で生きているなら、自然と権威を持ちます。あなたはどのようにキリストを適用すればよいのかを学ばなければなりません。その第一段階では、キリストを生ける水として享受することを学ばなければなりません。第二段階では、彼を食物として適用することを学ばなければなりません。わたしたちは、キリストが一日中、乳と蜜のように甘く豊富である程度にまで彼を享受することを学ばなければなりません。そのときわたしたちは円熟します。わたしたちは主の権威と裁きを受け取る立場を持つ程度にまで至ります。わたしたちはそれを求める必要はなく、ただそれを受け取り、適用し、言う必要があります、「わたしはキリストの中で生きています。わたしは天の権威を持っており、それを用います!」。これは実際に実行できるものです。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第4巻より引用