律法が再び語られた申命記は、モーセの五書の結論であるだけでなく、律法の結びの言葉でもあります。また律法の実際はキリストです。律法の実際としてのキリストは、神の息吹き出された生ける言葉であり、わたしたちに吸い込ませ、わたしたちの命、命の供給となります。
申命記はモーセの五書の結びの書である
聖書の最初の五巻(モーセの五書)は、モーセによって書かれました。その最後の書の申命記は、これらの書の結びの書です。申命記は民数記の後に続いていますが、この二つの書が書かれた時期は同じでした。それはどちらもエジプトから出た四十年後に書かれました。書かれた場所はモアブの平原でした。七十人訳で、モーセの五書の最後の書に付けられた名前を、中国語訳では「申命記」とされました。その文字どおりの意味は、「第二の律法」で、再び語る、繰り返し語ることを表徴しています。申命記とは、普通の言葉を再び語るということではなく、神聖な律法を再び語るということです。一回目の律法が与えられたのは、モーセが八十歳の時でした。それはシナイ山で神から与えられたものでした。しかし四十年後、シナイ山の下で律法を聞いていたそれらのイスラエルの民は、モーセ、カレブとヨシュアを除いて、ほとんど荒野で倒れて死に絶えました。残ったイスラエルの民は新しい世代の人たちでした。彼らは、モーセが十戒、おきて、規定を与えたとき、ほとんどはその場にいなかったので、これらの言葉を聞いていませんでした。ですから、神はモーセに負担を与えて、律法をもう一度、この若い世代に向かって語らせ、繰り返し語らせ、再び語らせられたのです。
わたしたちは、聖書の五番目の書である申命記だけが繰り返し語ること、再度の語りかけであると思うべきではありません。実は、聖書全体が繰り返し語ることです。聖書を書くことは千九百年前に完了しましたが、今日わたしたちが聖書を読むとき、再度の語りかけを経験しています。聖書の言葉はすでに語られていますが、日ごとにわたしたちに再び語られています。例えば、ローマ人への手紙は二千年近く前に書かれましたが、わたしたちが今日ローマ人への手紙を読むとき、この書簡の言葉は、再びわたしたちに語られます。これが意味するのは、わたしたちがローマ人への手紙を読むとき、「申命記」(再度の語りかけ)を持つということです。
聖書がわたしたちに再び語りかけられるという意味は、わたしたちが何かを聖書に加えてもよいことを意味するのではありません。ジョセフ・スミスが聖書にあること以外に加えて啓示を得たと主張することは、無意味であり異端的です。モーセが再び律法を語ったとき、この律法は新しいものではなく、彼がシナイ山でイスラエの民に語った、証し、おきて、規定でした(申四・四四―四五)。啓示録第二二章十八節と十九節は、神の啓示全体はすでに完成されており、だれもそれに何かを加えたり、何かを取り去ったりするべきではないことを示しています。ですから、わたしたちは、聖書の六十六巻に記録されているものに加えて、新しい啓示を受けることができると思うべきではありません。今日わたしたちが持つことができるものは、「申命記」(聖書の言葉の繰り返し語ること、再度の語りかけ)です。言葉はすでに語られていますが、今わたしたちに再び語られることができます。すなわち、それはわたしたちにとって「申命記」(繰り返し語ること)になることができます。
申命記は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記への結論です。申命記がなければ、この四冊の書に結論はないでしょう。あなたはモーセの文書が創世記で結ばれていると思うでしょうか? 創世記は、エジプトの棺の中にいる人で終わっています。確かに神聖な啓示は、そのように結ぶことはできません。正当な結論として、申命記が必要です。申命記は、前にある四冊の書のすべてを含む結論です。なぜなら申命記は、これらの書の思想の集大成であるからです。この書での主要なメッセージは、神がモーセを通してそれらの新しく起された世代に対して、彼が過去いかにイスラエルの民を特別に扱い、奴隷となっていた地から救い出し、彼らに律法を与え、彼らを聖別し神の民とされたかです。しかし彼らは何度も神につぶやき、誹謗し、反逆しました。ですからみな神に裁かれ、荒野において死に絶えました。このようにしてモーセは、過去の事実を用いてこの新しい世代を教え、警告し、励ましました。それは彼らが神のすばらしい恵みと力あるみわざを記念し、絶対的に彼の戒め、規定に従うようになるためでした。このようであってこそ、約束された良き地において、勝利、豊富、祝福、嗣業を得ることができるのです。
申命記は律法の結びの言葉である
申命記はモーセの五書の結論であるだけでなく、律法の結びの言葉でもあります。申命記には八つの区分があります。第一区分は過去を回想することです。モーセはこの過去を回想することを通して、イスラエルの新しい世代に、新しい出発を持たせ、また歴史における教訓と益を受けさせました。第二区分は律法を繰り返し語ることです。これは長い区分で、本書の大部分を占めています。その他の区分は警告、契約の制定、最後の勧告と命令、モーセの歌、モーセの祝福、モーセの死と、彼の後継者です。
律法は申命記という書の中心的な区分です。モーセがイスラエルの民に向かって律法の十戒、おきて、規定を複数回述べる過程において、常にイスラエルの民に命じ、戒めていました。それは神を愛し、神の戒め(神の言葉)を聞くならば、神の祝福を受けることができるというものでした。この三つの事、神を愛し、神の戒め(神の言葉)に聞き従うなら、神の祝福を受けることができるということは、常に繰り返して神の民に告げられました。
キリストは律法の実際
申命記は律法の結びの言葉であり、律法の実際はキリストです。
キリストは律法の実際であり、
神が何であるかの生ける描写である
律法は常に、それを作った人の絵です。今日の法律制定者によって通過した法律は、その法律制定者の描写です。原則は神の律法についても同じです。神の律法(多くのおきて、規定、裁きを伴う十戒)は、神の描写です。そしてキリストは律法の実際であり、神が何であるかの生ける描写です(コロサイ二・九、一・十九)。十戒は簡潔ですが、それらは、神がねたむ神であり、他の神々を容認することができない神であることを見せています。この事柄で、彼は自分の妻をねたむ夫に似ています。さらに、神は愛、光、聖、義の神です。
十戒は二枚の石の板に書かれ、それぞれに五つずつの戒めがありました。このように、十戒は二組の五つに分かれました。初めの三つの戒めは、神と関係があります。最初の戒めは、主は神であり、わたしたちは彼の御前にどの神々も持ってはならないと言います(出二〇・二―三)。第二の戒めは、わたしたちは偶像を造ったり偶像を拝んだりしてはならないと言います(四―六節)。第三の戒めは、わたしたちは神の御名をみだりに掲げてはならないと言います(七節)。第四の戒めは、わたしたちが安息日を守ることを要求します(八―十一節)。この戒めは、神が愛であることを示しています。彼はわたしたちを愛しているので、わたしたちが安息日を持つことを願われます。第五の戒めは、わたしたちの親を敬うようにとの戒めです(十二節)。この戒めは、神と関係がある初めの四つの戒めと共に位置づけられています。この位置づけの理由は、人としてのわたしたちの源と関係があります。ルカによる福音書第三章で、人の系図はアダムに、さらには神にさかのぼっています。これは、わたしたちが親を敬うとき、自分の源を敬い、それは究極的に、神ご自身であることを示しています。
第二組の五つの戒めは、すべて人性と関係があります。わたしたちは五つの言葉を用いて、この五つの戒めを要約することができます。すなわち、殺人、姦淫、盗み、偽証、むさぼりです。殺人、姦淫、盗み、偽証、むさぼりを犯さない者はだれでも、完全な人です。十戒は神を、愛、光、聖、義そしてねたむ神である方として描写しています。最後の五つの戒めは、神の聖と義と関係があります。例えば、盗んだり偽証したりする人は義しくありません。キリストは愛であり、光に満ちています。彼は聖であり、義です。キリストは神の具体化です。こういうわけで、キリストは律法の実際であり、律法は神の描写です。
律法の実際としてのキリストは、
神が息吹き出された神の生ける言葉である
申命記第八章三節で、モーセは、神のために語って、人はパンだけで生きるのではなく、「エホバの口から出るすべてのもの」によって生きると言いました。この節が、すべての言葉ではなく、すべてのものについて語っていることに注意してください。申命記が結びであるモーセの五書に書かれた言葉は、神の口から出たものです。これらは神の息吹です。モーセがシナイ山で神と共にいたとき、多くの事柄が神によって息吹き出されました。例えば、十戒は基本的な律法の項目です。それにもかかわらず、十戒でさえ神の息吹です。こういうわけでパウロは、「聖書はすべて、神の息吹かれたものであり」(Ⅱテモテ三・十六前半)と言ったのです。ここでパウロは単に、聖書はすべて、神によって霊感を受けたものであるとは言っていません。彼は、聖書はすべて、神の息吹かれたものであると言っています。ですから、律法は神の息吹です。
十戒は、そのすべてのおきて、規定、裁きと共に、やはり神の言葉と呼ばれています。出エジプト記第三四章二八節で「十戒」と訳されたヘブル語の文字どおりの意味は、「十の言葉」です。こうして、十戒は神によって息吹き出された神の言葉です。ヨハネによる福音書第一章一節は、「初めに言があった.言は神と共にあった.言は神であった」と言います。ここの「言葉」とはキリストを指しています。十四節はまた「言は肉体と成って」と言います。これは、キリストが一人の人と成って、神の息吹き出された言葉の解釈、説明、生ける表現となったことを示しています。啓示録第十九章十三節後半によれば、キリストが戻って来て裁かれるとき、彼の名は「神の言」と呼ばれます。これはキリストの来臨の時、彼が義なる神を代表して全地を裁かれるということです。
詩篇第百十九篇は百七十六の詩篇であって、律法、戒め、規定、おきて、教訓、裁きの実際であるキリストを記述しています。「律法」から「教訓」でのすべての言葉は、「道」という言葉で結ばれています(三、十四―十五、二七、三二節)。それは神の民におけるキリストが神の道、実際であることを表徴しています。
この詩は神が書かれたものですが、キリストは神の生ける言葉です。書かれたものは文字ですが、生ける言葉はその霊であり、文字の実際です。わたしたちが開かれた心で神を尋ね求めるなら、戒めが単なる規則ではなく、生きたものであって、命に満ちていてわたしたちを供給し、光に満ちていてわたしたちを照らしていることを感じ取ることができます。詩篇百十九篇の作者は律法に対してこのような経験を持ち、言いました、「あなたの言葉は、わたしのあごに何と甘いことでしょう! 蜜よりもわたしの口に甘いのです!」(百三節)。ですから、神の口から出てきたものは、規則ではなく、わたしたちが味わい、享受できるものです。
言葉としてのキリストは、
人に人の命として受け入れられる
キリストは神の言葉として、人に人の命として受け入れられます(申三〇・十四、ヨハネ一・一、ローマ十・八―九)。申命記第三〇章十一節から十四節でモーセは言いました、「まことに、わたしが今日あなたに命じているこの戒めは、あなたにとって難しすぎるものではなく、遠くにあるものでもない。それは天にあるのではないから、『だれがわたしたちのために天に上り、それを取って来て、わたしたちに聞かせ、行なわせるのか?』と言うようなものではない。また、それは海のかなたにあるのではないから、『だれがわたしたちのために海を渡り、それを取って来て、わたしたちに聞かせ、行なわせるのか?』と言うようなものでもない。言葉はあなたのすぐ近くにある.あなたの口の中に、またあなたの心の中にあるので、あなたはそれを行なうことができる」。パウロは、ローマ人への手紙第十章でこの言葉を引用し、解釈しています。パウロは申命記第三〇章十一節から十三節の中の「戒め」と「言葉」をキリストに適用しました。パウロの解釈では、申命記で語られている言葉はすべてキリストであり、キリストは申命記の中で繰り返し語られた言葉です。
パウロの申命記第三十章に対する解釈から、わたしたちは次の事柄を見ることができます。それは、言葉とは肉体と成り、十字架につけられ、復活したキリストであるということです。キリストはすでに肉体と成られたので、だれかが天に上って彼を引き下ろす必要はありません。また彼はすでに復活されたので、だれもアビスに下って、キリストを死人の中から引き上げる必要はありません。今や、キリストは肉体と成られ、十字架につけられ、復活された方ですが、彼はどこにおられるのでしょうか? ローマ人への手紙第十章八節は、キリストはわたしたちの口の中におられ、わたしたちの心の中にもおられると言います。パウロのここでの言葉というのは「申命記」であり、この「申命記」の中でわたしたちに次のことが告げられています。それは言葉としての生けるキリストが、わたしたちの福音の宣べ伝えを聞いた人の心の中で、口の中で、ただ人が主を信じるようにと宣べ伝えられた言葉を信じるなら、言葉としての生けるキリストが彼らの中へと入り、彼らの命となるということです。
全聖書の啓示は、申命記の中に含まれています。旧約と新約のすべてが、申命記の中に見いだされます。マタイによる福音書第四章四節で主が申命記から引用しておられることと、ローマ人への手紙第十章でパウロが申命記から引用していることでこれらが証明されています。申命記は、第二世代に対するモーセの語りかけで満ちています。この世代は、良き地に入ってそれを所有する用意ができていました。彼らが父祖たちの失敗を繰り返すことを心配して、モーセは多くの事柄について彼らに命じ、ある事を何度も繰り返しました。彼が特に繰り返し語ったのは、民を保護し、彼らを資格づけて良き地に入らせて地を所有させ、相続させ、享受させる事柄についてです。モーセは年老いた父親のように、彼の子供たちに対する心遣いから語りました。これが、モーセがこの書において繰り返し語り、また詳細に語った理由です。わたしたちが申命記を注意深く学ぶなら、神聖な啓示のすべての主要な点がこの書で再び語られていること、またキリストがこれらの言葉の実際であることを見るでしょう。
人が自分の養いとして取る
食物としてのキリスト
神の言葉としてのキリストは、人が自分の命として受けるだけではなく、人が自分の養いとして取る食物でもあります(申八・三、マタイ四・四、ヨハネ六・六三後半、五七後半)。キリストはまずわたしたちの命であり、次にわたしたちの命の供給です。わたしたちの命また命の供給として、キリストは言葉です。
マタイによる福音書第四章四節は、申命記第八章三節を引用して、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」と言っています。これは神の言葉としてのキリストが、わたしたちの命の供給であることを啓示しています。神の口から出てくるすべてはキリストです。申命記は一つの事実を強調します。それはこの書の中の言葉が、わたしたちの命と命の供給としてのキリストであるということです。
キリストを吸い込むことによって彼を得る
申命記はキリストが律法の実際であることを啓示しています。彼は神の生ける言葉として、神が愛、光、聖、義の神、ねたむ神、また祝福する神であることを表しています。
それだけではなく、わたしたちが今日この書を読むとき、それがイスラエルの民についてだけでなく、わたしたちについてでもあることを認識する必要があります。この書がわたしたちを暴露するのは、それが一枚の写真のように、わたしたちがどのような種類の人であるかを表すからです。わたしたちは暴露されればされるほど、自分は望みのない者であること、自分は無であって何もすることができないこと、聖で、義で、信実な神の要求を満たすのは不可能であることをますます認識します。
わたしたちはこのように暴露された後、どうするべきでしょうか? 助けを求めてどこへ行くことができるのでしょうか? わたしたちの助けは、言葉としてのキリストの中にあります。申命記の中で、「律法」、「戒め」、「おきて」、「規定」、「判決」のような表現は、キリストと同意語です。これらはすべてキリストです。キリストはわたしたちの律法、また戒め、おきて、規定、判決です。わたしたちはただ彼を取り、彼を保ち、彼にしっかり結びつくべきです。わたしたちはこうするなら、彼を享受するでしょう。
キリストは今どこにおられるでしょうか? 彼は聖書の中におられます。なぜなら、彼は神の唯一の言葉であるからです。キリストは神の言葉の総合計、集大成です。こういうわけで、聖書はキリストの具体化です。キリストはすべての言葉、句、節、文章です。聖書はすべて、神の息吹かれたものです(Ⅱテモテ三・十六前半)。ですから、今わたしたちは、神が息吹き出された言葉を吸い込む必要があります。言葉がわたしたちの中へと入るとき、この吸い込まれた言葉はその霊となります。わたしたちが吸い込む言葉としてのキリストによって、わたしたちは神の律法の要求を満たすことができます。そしてわたしたちが、復活のキリストが命を与える霊となって、復活の中でわたしたちの命と命の供給となっていることを享受することで、わたしたちは復活の中で生きることができるようになります。わたしたちは彼によって彼の要求を満たし、彼の人に対する要求と御旨を完成します。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第4巻より引用