最初の神・人であるキリストは多くの神・人の模範である

真理

わたしたちが信じ、礼拝し、従う主は最初の神・人です。ローマ人への手紙第一章三節と四節は言います、「この方は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示されたわたしたちの主イエス・キリストです」。神の御子キリストには、二つの源と二つの要素があります。一つは肉です。もう一つは聖別の霊です。肉とは彼の人性のことです。聖別の霊は彼の神性です。これは人性と神性の二つの性質を持つひとりの人です。この神・人は大量生産の原型です。彼は最初の神・人であり、わたしたちは多くの神・人です。ですから、ペテロの第二の手紙第一章四節は、わたしたち再生された人たちは、神聖な性質にあずかる者であると言います。

アダムは最初の人であり、
主イエスは第二の人である
聖書は豊かで、すべてを含んでいます。ある人たちは、聖書は神についての書であると言っており、これは事実です。しかし、わたしたちは聖書を注意深く読むなら、聖書が人についての書でもあることを見るでしょう。聖書は人について非常に明確に、そして正確に語っています。全世界で、徹底的に、正確に人を説明している唯一の書は聖書です。わたしたちは人を知りたいなら、すなわち自分自身を知りたいなら、聖書を知らなければなりません。

聖書は無数の人について語っていますが、聖書の啓示によれば、アダムは最初の人であり、主イエスは最後の人です。コリント人への第一の手紙第十五章は言います、「最初の人は地から出て、土に属し、第二の人は、天から出ています」(四七節)。ここでの最初(第一)の人はアダムであり、第二の人は主イエスです。彼は最後のアダムでもあります(四五節)。これは光に満ちた表現です。アダムは第一の人であり、主イエスは第二の人です。このゆえに、アダムから主イエスまで、神の目にはこの二人の人しかいないのです。

聖書はまた、最初(第一)の人、アダムが失敗したことを見せています。彼が失敗したのは、神を取り入れなかったからです。すなわち、彼が命の木から食べなかったからです。その代わりに、彼は善悪知識の木から食べました(創三・一―七)。命の木が命の源である神を表徴しているのと同じように、善悪知識の木は死の源であるサタンを表徴しています。神が人を創造されたのは、人が神と接触してほしかったためですが、人はサタンと接触し、間違った要素を取り入れたゆえ失敗しました。最初の人が失敗した後も、神はご自身の永遠の定められた御旨を放棄されませんでした。こうして時が満ちたときに、神は自ら第二の人と成られました。

ヨハネによる福音書第一章一節は言います、「初めに言があった.……言は神であった」。そして十四節は、「言は肉体と成っ」たと言います。この肉体と成った方はイエスです。神は肉体と成りました。これは真にすばらしい事柄です。しかしながら、未信者はこのことを理解することができないだけでなく、多くのクリスチャンでさえ、この事柄についてのはっきりとした理解を持っていません。この事柄は奥義的です。あまりに奥義的なので、わたしたちには理解することができません。なぜなら、それは人の頭にある観念ではないからです。しかしながら、神が肉体と成ったことは、人類の歴史の中で偉大な事柄なのです。

神が肉体と成ったのは、一人の処女から生まれることを通してでした。旧約聖書のイザヤ書第七章十四節ははっきりと言っています、「見よ、処女が身ごもって男の子を産む.そして彼女は彼の名をインマヌエルと呼ぶ」。「インマヌエル」は「神われらと共にいます」を意味します。この節で語られている男の子は、非常にすばらしいです。彼は人ですが、しかし神が彼の中におられます。そして彼は神であると言われましたが、また人の肉体を着られたと言われました。彼は人と共におられる神です。これがイエスです。

第九章六節は言います、「一人のみどりごがわたしたちに生まれる.一人の男の子がわたしたちに与えられる.……そして彼の名は、『……大能の神、永遠の父……』と呼ばれる」。ベツレヘムの飼葉桶にいた赤子は、大能の神でした。彼は神により与えられ、人から生まれた一人の男の子でしたが、彼は永遠の父でもありました。彼は子でしたが、また御父でもありました。これは実に不思議なことです。わたしたちの主イエスは、そのようなすばらしい方です。彼は第二の人です。この第二の人は人と成られた神ご自身であり、神と人の結合、ミングリングによって生まれた神・人です。

主イエス・キリストは
神が人と成られた方である
わたしたちはそのようなすばらしいキリストを知らなければなりません。キリストが何であるかの豊富は計り知れません(エペソ三・八)。なぜなら、彼は神と人の両方であり、神性と人性の両方を所有しておられる方であるからです。そのようなすばらしいキリストには満ち満ちた務めがあります。彼の満ち満ちた務めの始まりは、彼の肉体と成った時期、すなわち、彼の人の誕生から彼の死に至るまで、彼の生と死の間の人の生活の全行程を含みます。わたしたちは、この最初の神・人であるキリストの肉体と成ることの時期に、彼がなされたすばらしいみわざを見る必要があります

無限の神を有限な人の中にもたらす
キリストの満ち満ちた務めは、彼の肉体と成った時期において、無限の神を有限な人の中にもたらされました。神は無限であり、わたしたち人は有限です。一人は無限であり、一人は有限です。どうして二人は一になることができるのでしょうか? しかし、キリストの務めはそれを成し遂げました。これは本当に不思議です! 今日の大多数のクリスチャンは、わたしたちの救い主としてのキリストの誕生を祝う、いわゆる、クリスマスについて知っているだけです。しかしながら、彼らは、キリストの肉体と成った時期における彼の満ち満ちた務めの奥義的な面に関して、何も見ていません。また、これらの深くて奥義的な意義に入り込んでいません。

三一の神と三部分からなる人を結合し、
ミングリングする
キリストは彼の肉体と成った時期における彼の満ち満ちた務めの中で、三一の神と三部分からなる人を結合し、ミングリングされます。三一の神は奥義的であって、三部分からなる人を理解するのもまた非常に難しいです。三一の神に関して、御父は源、御子は表われであり、その霊は入って来られることです。三部分からなる人に関して、霊は最も内なる部分であり、魂はその中間であり、体は外側です。これをはっきりと説明するのは簡単ではありません。キリストの務めは三一の神と三部分からなる人を結合するだけでなく、さらにミングリングさせます。二つの木材をつなぎ合わせることは結合です。二つのものをひいて粉にし、混ぜ合わせるなら、それはミングリングです。神と人の結合は容易ですが、神と人のミングリングは容易ではありません。しかし、すばらしいキリストはそれを成し遂げられました!

彼の人性において、
満ちあふれる神の豊富な属性を、
彼のかぐわしい美徳を通して表現する
キリストの満ち満ちた務めは、彼の肉体と成った時期において、彼のかぐわしい美徳を通して、彼の人性の中で、満ちあふれる神の豊富な属性を表現しました。キリストの人性の美徳がかぐわしいことを、だれも否定することはできません。クリスチャンでない人たちが四福音書を読んだとしても、これらの書に記されているイエスは甘くかぐわしい方であり、かぐわしい美徳を持っていると感じます。なぜなら、彼は彼の人性において、満ちあふれる神の豊富な属性を表現されたからです。

「属性」とは、人の持つ特徴を指しています。例えば、ある人は、容易にかんしゃくを起こし、でしゃばって語り、何も考えずに語る、無責任である、軽率に行動するなど、これはその人の属性です。また、ある人は注意深く振る舞い、理性的に語り、意図をもって事を行ない、不注意に行動しないなど、これもその人の属性です。わたしたちの神にも彼の属性があり、彼の属性は豊富です。なぜなら、彼は偉大で満ちあふれておられるからです。彼は愛であり、光であり、聖であり、義です。これらの満ちあふれる神の豊富な属性は、主イエスによって彼の人性の中で表現され、彼の人性におけるかぐわしい美徳となりました。

マタイによる福音書第四章の記録は、主イエスがガリラヤの海のほとりを歩いている時、ペテロ、ヨハネ、ヤコブが漁をしているか、あるいは彼らの父と共に網を繕っているのを見られたことを述べています。そこで彼は彼らを召し、「わたしについて来なさい」と言われました。直ちに彼らは、彼らの網の繕いを放棄し、彼らの舟を捨て、彼らの父を残して彼に従いました(十八―二二節)。このことはわたしたちを困惑させます。なぜ、彼がただ「わたしについて来なさい」と言われただけで、弟子たちがすべてを捨てて彼に従ったのでしょうか。それは、その当時、主イエスの人柄から、彼の顔つきや彼の声において、かぐわしい力が表現され、それが人々を引き寄せ、捕らえることができたのではないでしょうか。

引き寄せられ捕らえられるとは、魅了されることです。人々はしばしばわたしたちクリスチャンに、「だれがあなたがたを捕らえたのですか? 目を覚ましなさい!」と問います。しかし、わたしたちは目を覚ますどころか、ひとたびわたしたちが主によって魅了されるなら、永遠に彼に魅了されます。これは、男と女の間の一目惚れにたとえても良いでしょう。男は女によって魅了され、女は男によって引き寄せられ捕らえられます。同じように、主は彼の人性において彼から発散する言い難い甘さとかぐわしさを持っておられたに違いありません。もしわたしたちがその時、主と共にいたなら、やはり自然に、理屈なしに、彼によって魅了されたことでしょう。

ペテロはよく主にしかられたのに、なおも彼に従うと決めたほどに、主によって魅了されました。主の度重なるしっ責は、彼を逃げ去らせることはできませんでした。彼は何度も主にしかられましたが、なおも彼に従いました。主は裏切られた夜、弟子たちに、「今夜、あなたがたはみな、わたしにつまずくであろう」と言われました。そこでペテロは答えて、「たとえ、みんながあなたのゆえにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いました(マタイ二六・三一―三三)。そこで主は彼に言われました、「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを得ようとして、麦のようにふるいにかけた。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないようにと、あなたのために祈り求めた」。ペテロは言いました、「主よ、わたしは、牢獄へも死へもあなたと一緒に行く覚悟をしております」。しかし主は言われました、「ペテロよ、わたしはあなたに言う.今日、鶏が鳴くまでに、わたしを知らないと、あなたは三度否むであろう」(ルカ二二・三一―三四)。ペテロはこの言葉を信じなかっただけでなく、こう言いさえしました、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならなくても、決してあなたを否みません」(マタイ二六・三五)。後ほど、ペテロが大祭司の中庭に座っていた時、小さな女中が来て彼に質問しました。彼女の質問のゆえに、ペテロは主を否みました。その時、主は振り返ってペテロを見つめられ、ペテロは彼に対する主の言葉を思い出し、外に出て行って激しく泣きました(ルカ二二・五四―六二)。

ペテロが主を否んだので、主が彼を忘れることは当然のことでした。しかしながら、主は彼を忘れませんでした。主は復活の朝、御使いが何人かの女たちに、「行って、弟子たちとペテロに告げなさい」と言いました(マルコ十六・七)。さらに、主は個人的にマグダラのマリアに、「わたしの兄弟たちの所へ行って」と言われました(ヨハネ二〇・十七)。主は彼の弟子たちを「兄弟たち」と呼び、特にペテロの名前を述べられました。このようにして、彼はペテロを捕らえられました。

主イエスは彼の人性の中に、人々を引き寄せ捕らえることができる美徳を所有しておられたに違いありません。そうでないと、そんなにも多くの人が彼に従うことはあり得なかったでしょう。彼らの間には、三年半の間、何もせず一日中ただ主に従った多くの高貴な女たちもいました(ルカ八・一―三)。キリストが彼のかぐわしい美徳を表現され、その美徳が人々を引き寄せ捕らえたのは、肉体における彼の人の命を生きることによってではなく、復活における彼の神聖な命を生きることによってでした。彼は肉体の中にありましたが、肉体における彼の人の命を生きることによってではなく、彼の神聖な命によって彼の復活の中で生きられました。

神聖な命によって復活の中で生きられた主イエスは、わたしたちの模範です。今日、神・人として、わたしたちはどちらの命によって生きているでしょうか? 疑いもなく、わたしたちはみな肉体の中にあります。それにもかかわらず、わたしたちは肉の領域から出て来て、復活の中に入り、復活の中で、すなわち、神聖で奥義的な領域の中で、神聖な命によって生きることができます。パウロはガラテヤ人への手紙第二章二〇節で言います、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。これは、わたしたちが古い「わたし」の命ではなく、新しい「わたし」の命を生きるべきであることを意味します。わたしたちは本当にこれらの事柄、すなわち、神聖な命によって生きることを経験する必要があります。

彼のすべてを含む法理的な贖いを完成する
キリストの満ち満ちた務めにおける、肉体と成った時期の中で、最終的に、彼はすべてを含む法理的な贖いを完成されました。この法理的な贖いは、いくつかの面から成っています。第一に、彼は旧創造のすべてのものを終わらせられました。第二に、彼は神によって創造され、罪の中で堕落したすべてのものを贖われました(ヘブル二・九コロサイ一・二〇)。旧創造に属するすべてのものは、キリストによって彼の死を通して終わらされました。この終結の後、神によって創造され、罪の中で堕落したすべてのものを、彼はまた贖い戻されました。第三に、彼は新しい人を、彼の神聖な要素をもって創造(身ごもる)されました。エペソ人への手紙第二章十五節は、彼は十字架上でユダヤ人信者と異邦人信者をご自身の中で、一人の新しい人へと創造されたと言っています。その創造は身ごもることでした。そして、彼は新しい人の身ごもることの要素です。彼は要素としてのご自身の中で、二つの民を一人の新しい人へと身ごもられました。主イエスは十字架上で死につつあった時、同時に新しい人を創造しておられました。第四に、彼は、彼の神聖な命を彼の人性の殻から解き放されました。ヨハネによる福音書第十二章二四節は、主イエスが一粒の麦であったと言います。麦が地に落ちて死ななければ、その外側の殻は破られ得ず、内側の命は解き放されることはできません。彼は十字架上で死に、彼の人性の殻が破られて、彼の神聖な命が彼の人性の殻から解き放される必要がありました。わたしたちが彼を信じ、彼の神聖な命を受け入れたとき、わたしたちは神から生まれ再生されました(ヨハネ一・十二―十三三・六)。

神・人の生活の原型は、
わたしたちの模範です
わたしたちが信じ、礼拝し、従う主は最初の神・人です。ローマ人への手紙第一章三節と四節は言います、「この方は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示されたわたしたちの主イエス・キリストです」。神の御子は神ご自身です。わたしたちのキリストには、二つの源と二つの要素があります。一つは肉です。もう一つは聖別の霊です。肉とは彼の人性のことです。聖別の霊は彼の神性です。これは人性と神性の二つの性質を持つひとりの人です。この神・人は大量生産の原型です。彼は最初の神・人であり、わたしたちは多くの神・人です。ですから、ペテロの第二の手紙第一章四節は、わたしたちは神聖な性質にあずかる者であると言います。

創世記第一章は最初の人であるアダムについて語り、ローマ人への手紙第一章は最初の神・人であるキリストについて語っています。最初の人であるアダムは、神の種類にしたがって造られ、神のかたちに、神の姿に似せて造られました(創一・二六)。このような意味で、アダムはかたちと姿において神の子でしたが、彼はかたちだけ神であって、神の命と性質はありませんでした。しかし今日、わたしたちはそうではありません。わたしたちは神によって造られただけでなく、神から生まれました。ですから、神がわたしたちの真の父、本当の父であり、わたしたちは彼の真の子供、本当の子供です(ヨハネ十・十二)。わたしたちは神の子供たちであると言う権利があります。わたしたちには、神のかたちがあり、神の命と性質があります(ローマ八・十六)。わたしたちに神の命と性質があるのは、わたしたちが神から生まれた神の子供たちであるからです。わたしたちは神・人なので、神・人の生活を送らなければなりません。

わたしたちは神がご自身をわたしたちと一つにされたこと、そしてわたしたちも神と一つにされたことを見る必要があります。ですから、わたしたち信者はそれぞれ神・人です。このような意味で、わたしたちは命と性質において神です。しかし、もちろん、神格においてではありません。それゆえ、わたしたちは神から生まれ、神の種類に属します(ヨハネ一・十二―十三)。わたしたちは今日、わたしたちの主を原型または模範として、神・人の生活を送らなければなりません。

わたしたちは神・人という身分を忘れるべきではありません。これはわたしたちの生き方に影響を与えます。もしわたしたちが神・人であることを認め、このことを真剣に考えるなら、わたしたちの身分は直ちに高く上がります。わたしたちは自分自身の身分を重んじるべきです。わたしたちの神・人としての身分を安く売って、この世の人々のように生きていてはいけません。わたしたちはもっと高い水準、神・人の生活を生きる水準にまで引き上げられる必要があります。わたしたちは、別のクラスのクリスチャンであるべきです。

わたしたちは今日の神・人です。なぜなら、わたしたちはすでに神から生まれたからです。彼はわたしたちの神聖な父であり、わたしたちは彼の神聖な子です。このような認識があれば、軽々しく振る舞ったり、いい加減に語ったりすることはできません。わたしたちの職業が何であっても、わたしたちは自分の身分が神・人であることを忘れるべきではありません。わたしたちの身分は神・人であるので、わたしたちは神・人の生活を送って、神・人の原型である主イエスの複製となるべきです。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第3巻より引用