神の民についての神聖な見方を持つ

真理

「一人離れて住み、諸国民の間に自分を数えない民がある」(民二三・九後半)、「彼はヤコブの中に罪科を見いださず、イスラエルの中に災いを見られなかった」(二一節)、「何と麗しいことか、ヤコブよ、あなたの天幕は! イスラエルよ、あなたの幕屋は!」(二四・五)。異邦の預言者バラムはイスラエルの民に対してこのような称賛の言葉を語りました。それは彼が、「すべてに十分な方のビジョン」(四節)を見たからです。今日、わたしたちもビジョンを見て、神の民についての神聖な見方を持つ必要があります。

聖書の記載によれば、神の敵サタンは神の民を撃ち破ろうと常に企てています。最初、出エジプト記で、サタンはエジプト人の軍隊を使ってイスラエルの子たちを妨害しました。彼らが紅海を渡ろうとした時、エジプト人は彼らの背後にいました。後ほど、荒野で、神の民はアマレクと戦わなければなりませんでした(出十七・八―十六)。イスラエル人はまた戦って、アラデ、アモリ人、バシャンの王を打ち破り、彼らの町々を滅ぼし、彼らの地を占領しました(民二一・一―三、二一―三五)。

モアブの王バラクはバラムが来て
彼らのためにイスラエルをのろうように招く
イスラエル人が三人の王を打ち破った後、彼らはヨルダンを渡り、良き地へと入る用意ができていました。この時に敵はイスラエルと戦う様式を変えました。民数記第二二章がわたしたちに見せていることは、モアブの王バラクは、イスラエルの子たちと彼らの勝利におびえ、彼は、彼らが自分を打ち破り、自分の領土を取り、牛が野の草をなめ尽くすように彼らの周りにあるものをすべてなめ尽くそうとしていることを畏れたということです(二―四節)。バラクは、イスラエルを軍事的に、あるいは政略的に打ち破ることができないことを認識して、宗教的な方法を取ろうと決めました。彼はミデアンと連合し、異邦の預言者バラムを、彼のためにイスラエルをのろうようにと招くために人を遣わしました。民数記第二二章が示しているように、宗教的な方法はモアブとミデアンの両方と関連づけられます。モアブは近親そうかんを通して、ロトと彼の娘の一人から生まれました(創十九・三〇―三八)。ですから、モアブは肉欲の実を代表します。ミデアンは、肉を代表するイシマエルの子たちととても近く、その霊から生まれることを代表するイサクと対照的でした。疑いもなく、ミデアンも肉を表徴します。バラムはモアブとミデアンと大いに関係がありました。なぜなら、バラクは彼らを用いて、バラムが来てイスラエルをのろうように誘ったからです。これら四者(バラク、モアブ、ミデアン、バラム)は一つになりました。

四つの詩文は
召会とキリストを啓示している
バラクはバラムが来たことを聞き、出て行ってモアブの町で彼を迎えました(民二二・三六―四〇)。バラムは欲深い預言者でしたが、彼の語りかけは完全に神の制御の下にあったので、バラクは欲するものを得ませんでした。民数記第二三章と第二四章に、異邦人の預言者バラムによって語られた四つの詩文があります。これらの詩文は召会について多く啓示しており、第四の詩文はキリストについて何かを啓示しています。要約すれば、わたしたちは第一の詩文で、召会に特殊な立場があり、第二の詩文で、召会は神の目に完全であり、第三の詩文で、召会の外観は麗しく、美しいことを見ます。バラムの第四の詩文は、キリストについての予言を内容としています。

第一の詩文
バラムの第一の詩文は、第二二章四一節から第二三章十二節です。バラクはバラムを連れて、バモテ・バアル(高き所)に上らせました。バラムはそこからイスラエルの民の一端を見ました(二二・四一)。「バアル」は偶像の名でした。バモテ・バアルとは、民がバアルの偶像を拝んだ場所でした。バラムはバラクに、七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を用意するように求めました。バラクは、バラムが語ったとおりに行ないました(二三・一―二前半)。バラムの言葉は、彼がかかわった礼拝が混合であったことを示します。祭壇を築くことは神の方法にしたがってです。しかしながら、バラムはここで、神の礼拝とバアルの礼拝を混合しました。実は、この礼拝は混合でさえありません。なぜなら、それは偶像の礼拝であるからです。

バラクとモアブのすべての支配者たちは、バラムの全焼のささげ物の近くに立ちました(三、六節)。エホバはバラムの口に言葉を置かれ、バラムは詩文で予言しました(四―五、七―十節)。神はご自身の民イスラエルのために、バラムを支配されました。疑いもなく、バラムには心の中に、イスラエルをのろってバラクを喜ばせ、さらにお金を得ようとする願いと意図がありました。しかし、エホバは見張り支配する方として、バラムの口に言葉を置かれ、バラムは神の言葉を語る以外に選択がありませんでした。七節から十節の言葉は、確かに神によって暗示が与えられました。人の思いはそのような詩文、バラムが予言として語った詩文を作ることはできません。これは、聖書が、生きた、大能の、語る神によって暗示が与えられたことの強力な証拠です。今わたしたちは、バラムの第一の詩文のある面を見ましょう。

バラクはバラムに言いました、「来て、わたしのためにヤコブをのろえ.来て、イスラエルを非難せよ!」(七節後半)。しかしながら、これは不可能でした。バラムは言いました、「神がのろわない者を、どうしてわたしがのろえようか? エホバが非難されない者を、どうしてわたしが非難できようか? わたしは岩の頂から彼を見て、丘から彼を見つめる。一人離れて住み、諸国民の間に自分を数えない民がある」(八―九節)。イスラエルの子たちが一人離れて住み、諸国民の間に自分を数えないことについての言葉は、彼らが聖なる、聖別された民、諸国民から分離された民であったことを示します。

十節でバラムは続けて言いました、「だれがヤコブのちりを数え、イスラエルの四分の一を数え得ようか? わたしは正しい者が死ぬように死に、わたしの終わりが彼らのようであるように!」。わたしたちはここに拡増の祝福を見ます。ヤコブは、ちりのように、数えきれず、無数になるでしょう。だれもイスラエルの四分の一でさえ数えることができないでしょう。

イスラエルに関するバラムの祝福と評価の言葉は、バラクを怒らせました。こういうわけでバラクは彼に言いました、「あなたはわたしに何ということをしてくれたのか? わたしはわたしの敵をのろってもらおうとして、あなたを連れて来たのに、あなたは彼らを完全に祝福した!」(十一節)。これに対してバラムは答えました、「エホバがわたしの口に置かれることを、わたしは注意して語るべきではないでしょうか?」(十二節)。

第二の詩文
第二三章十三節から二六節で、わたしたちはバラムの第二の詩文を見ます。「次に、バラクは彼に言った、『わたしと一緒に別の場所へ行ってください.そこからあなたは彼らを見ることができます。ただ彼らの一端を見るだけで、彼らの全体を見ることはできません.わたしのために、そこから彼らをのろってください』。そして、彼はバラムをゾピムの野、ピスガの頂に連れて行き、七つの祭壇を築いて、それぞれの祭壇の上に雄牛一頭と雄羊一頭をささげた」(十三―十四節)。バラクはバラムを別の場所、山に連れて行き、そして一節と二節にあるように、七つの祭壇を築きました。

再び、バラクとモアブのすべての支配者たちはバラムの全焼のささげ物の近くに立ち、再びエホバはバラムの口に言葉を置かれ、バラムは第二の詩文で予言しました(十五―二四節)。この詩文で最も際立った行の一つは二一節にあります。「彼はヤコブの中に罪科を見いださず、イスラエルの中に災いを見られなかった」。イスラエルが完全でないなら、また神がご自身の民のすべての罪科を見られるなら、どうしてバラムはそのような言葉を語ることができたでしょうか? その答えは、この言葉が人の見方にしたがってではなく、神聖な見方にしたがって語られたということです。神の見方によれば、わたしたちは堕落から、罪定めから、自分自身から連れ出されました。ですから、わたしたちは、キリストの中で召会生活は栄光であると言うことができます。神は確かに、ヤコブの中に罪科を見いださず、イスラエルの中に災いを見なかったと言う立場を持っておられました。彼の民は贖われ、赦されていました。ですから、神は、彼らには罪科はないと言うことができました。神の制御と霊感の下で、バラムには、神はイスラエルの子たちの中に罪科を見いださず災いも見られないと宣言する以外に選択はありませんでした。

民数記第二三章二一節でバラムはまた言いました、「エホバ・彼らの神は彼らと共におり、王への叫びが彼らの間にある」。この王とはだれでしょうか? わたしは、究極的に、この王がキリストを指していると信じます。こうして、王の叫びが彼らの間にあることは、キリストの叫びが彼らの間にあることを意味します。二二節は、神が彼の民をエジプトから連れ出されたことについて語っています。この節はまた、イスラエルが「野牛の角のようなものを持っている」と告げています。二三節は、イスラエルに敵対する魔術も占いもないと言います。なぜなら、「神がなされることは、ヤコブに、そしてイスラエルに告げられる!」からです。最後に、二四節で第二の詩文はこう結んでいます、「見よ、一つの民がのように起き、雄獅子のように立ち上がる。彼らは獲物を食らい、殺された者の血を飲むまで横たわることはない」。雌獅子、雄獅子、野牛の角はすべて、イスラエルの民の戦いを指しています。バラムが第二の詩文を語った後、バラクは彼に言いました、「彼らをのろうことも、祝福することもしないでください」(二五節)。ここでバラクはバラムに、神の民について中立であるようにと告げていました、「エホバが語られることをみな行なわなければならない」(二六節)。

第三の詩文
第二三章二七節から第二四章十三節に、バラムの第三の詩文があります。バラクはバラムに言いました、「さあ来なさい.わたしはあなたを別の場所へ連れて行きます.おそらく神に喜ばれて、あなたはわたしのために、そこから彼らをのろうことができるでしょう」(二三・二七)。そしてバラクはバラムをペオルの頂に連れて行きました(二八節)。バラムはバラクに、自分のために七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を用意し、それぞれの祭壇の上に雄牛一頭と雄羊一頭をささげるように求めました(二九節)。

「バラムはバラクに言った、『わたしのためにここに七つの祭壇を築き、わたしのためにここに七頭の雄牛と七頭の雄羊を用意してください』。バラクはバラムが言ったとおりにして、それぞれの祭壇の上に雄牛一頭と雄羊一頭をささげた」(二九―三〇節)。雄牛と雄羊のささげ物はあいまいでした。それらがだれにささげられたのか、明らかではありません。バラムはイスラエルを祝福することがエホバの目に喜ばれるのを見て、行って魔術を求めることをしないで、顔を荒野に向け、目を上げて、イスラエルがそれぞれ部族ごとに住んでいるのを見ました(二四・一―二)。神の霊がバラムの上に臨み、彼は彼の詩文を取り上げて言いました、「ベオルの子バラムが宣言する.目の開かれている者が宣言する.神の言葉を聞く者、すべてに十分な方のビジョンを見る者、倒れ伏して、目のおおいが除かれた者が宣言する」(三節後半―四節)。五節でバラムは言います、「何と麗しいことか、ヤコブよ、あなたの天幕は! イスラエルよ、あなたの幕屋は!」。わたしたちは神の見方を持つなら、イスラエルを特別な分離された民、聖別された神の王国に帰されたと考えるでしょう。彼女(民)は立場において聖であり、性質において完全であり、外観において美しいのです。これは、神がこの民を選び、贖い、救い、分離し、引き上げ、成就し、美しくされたことを啓示しています。

民数記第二四章七節後半でバラムは言います、「彼の王はアガグより高くなり、彼の王国は高く上げられる」。アガグはアマレク人の王でした。ここのバラムの言葉は、最終的にキリストにおいて成就する予言です。バラムは祝福とのろいに関する言葉をもって、彼の第三の詩文を終えました。「あなたを祝福する者はすべて祝福され、あなたをのろう者はすべてのろわれる」(二四・九後半)。これはバラクを悩ませました。「バラクの怒りはバラムに対して燃え、彼は手を打ち鳴らした」(十節前半)。そして彼はバラムに言いました、「わたしはあなたを招いて敵をのろわせたのに、見よ、あなたはかえって……完全に彼らを祝福した」(十節後半)。爆発したバラクの怒りに対して、バラムはこう言って答えました、「わたしは、あなたが遣わされた使者たちに語って言ったではありませんか? 『たとえバラクがわたしに銀や金の満ちた彼の家を与えても、わたしはエホバの言葉を越えて、わたしの心のままに善も悪も行なうことはできません。エホバが語られることを、わたしは語ります』」(十二―十三節)。

第四の詩文
第二四章十四節から二五節にはバラムの第四の詩文があります。十四節でバラムはバラクに言いました、「そこで、今わたしはわたしの民の所に帰ります。さあ、終わりの日に、この民があなたの民に行なおうとしていることを、あなたにお知らせしましょう」。バラムはイスラエルを祝福しただけでなく、イスラエルがさらに祝福されること、そしてイスラエルの祝福がバラクと彼の民に打撃となることを予言しました。

十七節でバラムは言います、「わたしは彼を見る、しかし今ではない.わたしは彼を見つめる、しかし近日ではない。一つの星がヤコブから出て来て、王の杖がイスラエルから起こる.彼はモアブの隅々を砕き、セツのすべての子たちを打ち砕く」。星も王の杖もキリストを指しています。王の杖は、力と権威を持つ方としてのキリストです。ですから、この予言の中で、バラムはキリストについて語っているのです。イスラエルの子たちに対する最大の祝福はキリストです。星と王の杖として、キリストはすべてを含む力と権威を持つ全能の方です。このキリストはモアブの隅々、バラクの国々の一つを砕き、セツのすべての子たちを打ち砕きます。

十八節と十九節で、バラムは続けて言います、「エドムは所有され、彼の敵、セイルも所有される.そしてイスラエルは雄々しく振る舞う。ヤコブから出た方が主権を持ち、残った者たちを町から滅ぼす」。十八節の「彼の敵」はキリストの敵です。これらの敵は滅ぼされますが、キリストのゆえにイスラエルは存続します。これらの諸国民が滅ぼされた後、イスラエルはキリストと共に存続します。キリストは確かにイスラエルの最大の祝福となるでしょう。この予言は、新約聖書が示しているように(参照、ローマ第十一章)、来たるべき時代、すなわち、千年期において完全に成就します。民数記第二四章二〇節から二五節で、バラムは他の民について詩文で予言します。これらの節はわたしたちを助けて、神がすべての上におられることを認識させます。すべての諸国民は神の定められた御旨を成就するために、彼の制御と統治の下にあります。神が諸国民を支配されるのは、彼のエコノミーがイスラエルを通して諸国民の間で完成されるためです。

召会が聖で、完全であり、美しいのは、
召会がキリストを持っているからである
民数記第二三章と第二四章に、異邦人の預言者バラムによって語られた四つの詩文があります。これらの詩文は召会とキリストについて何かを啓示しています。これら三つの詩文の中で、「一人離れて住み、諸国民の間に自分を数えない民がある」(二三・九後半)と言っています。これは、召会が分離された民、特殊な民、神に聖別された民で構成されていることを示します。召会は諸国民と混合するのではなく、一人離れて立っています。「彼はヤコブの中に罪科を見いださず、イスラエルの中に災いを見られなかった」(二三・二一前半)。これは、神の目に、召会が完全であって、罪科がないことを示しています。召会が完全であるのは、召会がキリストの中にあるからです。「何と麗しいことか、ヤコブよ、あなたの天幕は! イスラエルよ、あなたの幕屋は!」(二四・五)。これは、外観において召会が美しいことを示します。民数記第二四章十七節で予言されているキリストは、地上のキリストではなく天のキリストです。彼はヤコブから出て来る星、イスラエルから起こる王の杖です。

わたしたちは第四の詩文から、聖別され、完全で、美しい召会は、キリストに満ちた召会であることを見ることができます。召会が聖で、完全であり、美しいのは、召会がキリストを持っているからです。キリストは召会の内容です。キリストは召会の構成要素であり、召会のあらゆる部分です。新しい人としての召会の中で、キリストがすべてであり、すべての中におられるのです(コロサイ三・十―十一)。

民数記第二四章十七節で予言されているキリストは、地上のキリストではなく天のキリストです。彼はヤコブから出て来る星、イスラエルから起こる王の杖です。召会から、星であるキリストが出て来られ、この星は王の杖です。これは、天のキリストが宇宙における権威であることを意味します。今日キリストはわたしたちの星ですが、将来は王の杖、宇宙の権威を持つ方となられるでしょう。

わたしたちはバラムの予言的な詩文の中に、キリストと召会のある面だけでなく、また召会に関する多くの豊富を見ます。召会は、「野牛の角のようなものを持って」います(二三・二二、二四・八)。これは、召会が勝利であることを示します。召会はまた雄獅子と雌獅子にたとえられています(二三・二四、二四・九)。これは、召会が勝利であることをさらに示しています。民数記第二四章六節と七節は、「広がる谷間」、「川辺の園」、桶から流れる水について語ります。これは、召会が園のようであり、召会には谷があり、召会の中に満ちあふれる水があることを啓示しています。

新約の中のエペソ人への手紙は、召会についての天的な書ですが、わたしたちはエペソ人への手紙の中にでさえ、民数記第二三章と第二四章でバラムの詩文の中に提示された召会の面を見いだしません。エペソ人への手紙は、召会が川辺の園であり、召会の中に桶から流れる水があることを告げていません。さらに、エペソ人への手紙は、召会に谷間があり、わたしたちが召会の中で雄獅子や雌獅子であることを啓示していません。召会の中には、敵を食い尽くすことができる獅子がいます。モアブでさえ、神の民が野の草をなめ尽くす牛のようであることを認識していました(民二二・四)。わたしたちは民数記に啓示されているような召会を見るなら、召会を見下げたり、召会を見下したりすることはせず、召会のゆえに主を賛美するでしょう。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第2巻より引用

タイトルとURLをコピーしました