民数記の最後の五つの章で示されている良き地の分配をあらかじめ案配することは、豊富なキリストの享受を分け合うことを予表します。この時点で、神の選ばれ贖われた人は、祭司の軍隊へと編成されて神のために戦い、神と共に行程を行きました。彼らはすでに、神によって用意された良き地を所有しました。この地は、信者たちに割り当てられた分け前としての、すべてを含むキリストの予表です。
良き地――キリストの究極の予表
旧約の主題は良き地、すなわち乳と蜜の流れる地です。申命記には良き地についての詳細な描写があるので、わたしたちは良き地は啓示されていると言うことができます。しかし良き地の意義は隠されているので、わたしたちは良き地は聖書の中に隠されているとも言うことができます。
キリストの究極の予表
ヨシュア記第五章十一節と十二節で、良き地はマナの継続としてのキリストを予表しているという暗示を見ることができます。そこでこのように言っています、イスラエルの子たちが「マナは、彼らがその地の産物を食べた日にやんだ.イスラエルの子たちにマナはもはやなく、彼らはその年カナンの地の産物を食べた」(十二節)。マナは神の民に対する命の供給としてのキリストの予表であり、良き地の産物はマナの継続です。ですから、マナがキリストを予表しているなら、良き地の産物もキリストを予表しているに違いありません。荒野でのマナの供給によって、神の民は神の住まいとしての幕屋を建造することができました。同じ原則で、その地の豊富な産物の供給を通して、彼らは神のためにさらに堅固な住まいである宮を建造することができました。疑いもなく、イスラエルの子たちが享受した良き地はキリストの意義深い予表です。なぜなら、良き地を享受することを通して宮が建てられたからです。わたしたちは、それは聖書に見いだされるキリストの究極の予表であるとさえ言ってよいでしょう。良き地はキリストの完全で、すべてを含む予表です。
良き地の豊富
申命記第八章七節から九節は良き地の豊富を述べています、「それはエホバ・あなたの神が、あなたを良き地に導こうとしておられるからである.そこは水の流れ、泉、源泉があり、谷間と山々に流れている地であり、小麦と大麦とぶどうといちじくの木とざくろのある地、油のオリブの木と蜜のある地であり、あなたが欠けることなくパンを食べる地であり、あなたはそこで何も欠けるものはない.その地の石は鉄であって、その山々からは銅を掘り出すことができる」。良き地の豊富はキリストがあのすべてを含む方であることの予表です。キリストはすべての中ですべてを満たしている方であり(エペソ一・二三)、すべてを含む方です。旧約の中では、カナンの良き地以外に、彼がこのようにすべてを含む方であると予表しているものはありません。
水の流れ、泉、源泉は、あふれ流れる霊としてのキリストを表徴し、谷間と山々は、あふれ流れる霊としてのキリストを、わたしたちが経験するさまざまな種類の環境を表徴します。小麦は、肉体と成ったキリストが十字架につけられ、葬られ、ご自身を増殖させたことを予表します(ヨハネ十二・二四)。大麦は、最初に熟する穀物であり、初穂としての復活したキリストを指します(Ⅰコリント十五・二〇)。ぶどうの木は、キリストがご自身を犠牲としてささげて、ぶどう酒を生み出し、神と人を活気づけることを予表します(士九・十三)。いちじくの木は、命の供給としてのキリストの甘さと満足について語っています(士九・十一)。ざくろは、命としてのキリストの豊富の豊満、充足、美しさ、表現を表徴します。パンは、命のパンとしてのキリストを表徴します(ヨハネ六・三五)。オリブの木は、キリストがその霊で満たされ、その霊で油塗られたことを予表します(ルカ四・一、十八)。オリブ油は聖霊を予表しており、わたしたちはこの聖霊によって歩き、神を尊び、またこの聖霊を供給して、人を尊びます(士九・九)。乳と蜜は、キリストの良さと甘さを語り出しています。石は、神の住まいを建造する材料としてのキリストを表徴します(Ⅰペテロ二・四)。鉄と銅は、武器を造るためであり、敵と戦うわたしたちの霊的戦いを予表します。また鉄は、キリストの支配する権威を表徴しており(啓十九・十五)、銅は、キリストの裁く力を表徴します(啓一・十五)。銅が採掘される山は、キリストの復活と昇天を表徴します。もし申命記第八章のこれらの節がなければ、わたしたちはキリストのすべてを含むことについて十分な認識を持つことはできなかったでしょう。
良き地――約束の祝福
創世記によれば、アブラハムが召される前、祝福や享受を含む約束は与えられていませんでした。しかしながら、創世記第十二章で、神はアブラハムを彼の国と彼の父の家から召し出された時に、初めて祝福の約束を述べました。ここで神は特にその地を述べておられます。七節は言います、「エホバは、アブラムに現れて言われた、『わたしはあなたの子孫に、この地を与える』」。神がアブラハムに与えられたその地に関する約束は顕著で、とても重要です。創世記でなされたこの約束は種であって、旧約全体で成長し、発展します。とても実際的な意味で、創世記の初めの十一の章を除いて、旧約全体はカナンの地についての物語です。新約時代、パウロはコロサイ人に手紙を書いて、聖徒たちの分け前について語っていた時、疑いもなく、旧約聖書の良き地をイスラエルの子たちに割り当てる絵が思いにありました。コロサイ人への手紙第一章十二節でパウロが使った「割り当てられた分け前」という言葉は、旧約聖書のその地の嗣業の記録を背景としていました。神は、彼の選びの民、イスラエルの子たちに、良き地を彼らの嗣業と享受のために与えられました。イスラエルの子たちにとって、その土地はすべてでした。
キリスト――その霊――良き地
パウロは旧約に関してとても深い認識を持っていました。ガラテヤ人への手紙第三章で、パウロはアブラハムの祝福と、その霊の約束を結び付けています。十四節は言います、「それは、アブラハムの祝福が、キリスト・イエスの中で異邦人に及ぶためであり、わたしたちが信仰を通して、約束されたその霊を受けるためなのです」。文脈によれば、この祝福は良き地を指しているに違いありません。創世記第十二章で、神がアブラハムに与えると約束された祝福は地でした。これは、アブラハムの受けた約束、良き地の約束が、その霊であることを示しています。ですから、その霊は良き地です。
福音の祝福はその霊、すなわち手順を経た三一の神の総計、総合計です。食物が調理されてわたしたちの祝福となるように、神はわたしたちの祝福となられるために「調理され」なければなりませんでした。神は過程を経る前、「生の」神でした。神は過程を経ることによって、「調理された」神となり、わたしたちの命、また命の供給となられました。この神の総合計は、手順を経て、究極的に完成された、すべてを含む、命を与える、内住の霊です。すばらしい霊としての彼は、わたしたちに対する神の祝福です。この祝福とは、キリストの中で具体化され、その霊として実際化されて、わたしたちの享受のためにわたしたちの中へと分与された神ご自身です。
アブラハムに約束された福音の祝福はすべてを含む霊、すなわち、キリストの神性、人性、人の生活、すべてを含む死とその効力、力強い復活とその命の力、昇天をもって複合された霊です。この複合の霊はヨハネによる福音書第七章三九節で語られているその霊、すなわち、イエスがまだ栄光を現される前には、なかったその霊です。なぜなら、イエスがこれらの言葉を語った時には、彼はまだ十字架につけられておらず、復活していなかったからです(ルカ二四・二六)。十字架につけられることと復活を通して、キリストは、手順を経た三一の神の究極的な完成である命を与える霊、すなわち、複合の霊と成られました。
子孫と地
ガラテヤ人への手紙第三章十六節の約束はアブラハムの子孫、すなわちキリストに対してなされました。一方で、その霊はすべてを含むキリストです。もう一方で、約束の祝福としてのその霊は子孫としてのキリストに与えられました。キリストはアブラハムの子孫として十字架につけられ、わたしたちのためにのろいとなられ、わたしたちを律法ののろいから贖い出しました。それは、わたしたちがその霊を、アブラハムに約束された福音の祝福として受けるためです(十三―十四節)。この約束とは、「あなたの子孫の中で、地のすべての諸国民は祝福される」(創二二・十八)ことです。そしてこの約束は成就され、十字架によるキリストの贖いを通して、この祝福はキリストの中で諸国民に及びました。
神がアブラハムに約束された祝福は、子孫の約束だけでなく、地の約束でもあり、これが神の福音の中心です。神がアブラハムに約束された祝福の物質的な面は、すべてを含むキリストの予表である良き地でした(創十二・七、十三・十五、十七・八、二六・三―四)。キリストは最終的にすべてを含む命を与える霊として実際化されたので(Ⅰコリント十五・四五後半、Ⅱコリント三・十七)、約束された子孫は、地となりました。約束された霊の祝福は、約束された地の祝福と一致します。わたしたちの経験において、キリストの実際としてのその霊は、わたしたちが享受する神の満ちあふれる供給の源としての良き地です。
イスラエルの子たちはカナンの地に入った時、子孫だけでなく、地を受け継ぎました。主イエスを信じた時、わたしたちは彼を子孫として、命として受け入れました。この子孫はすべてを含む、命を与える霊であり、良き地の実際です。これは、わたしたちが子孫として受け入れたキリストが、良き地によって予表されたその霊であることを意味します。キリストは子孫としてわたしたちの中に来られました。しかしわたしたちが彼によって生きる時、彼はわたしたちの分け前であるその地――すなわちすべてを含む霊となられます。これは神がアブラハムに約束された言葉の成就であり、彼の子孫を通して、福音の祝福が地上のすべての諸国民に及びました。
暗やみの権威から救い出され、
すべてを含むキリストの中へと移された
良き地がイスラエルの子たちの分であったように、キリストは今日、聖徒たちの分け前です。すでに指摘したように、パウロはコロサイ人への手紙第一章十二節を書いていた時、カナンの地の予表を思いました。第一章十三節で彼は続けて言います、「御父はわたしたちを暗やみの権威から救い出して、彼の愛する御子の王国に移してくださいました」。この節は、イスラエルの子たちがどのようにしてエジプトから救い出され、良き地に移されたかをわたしたちに思い起こさせます。ですから、ここでのパウロの観念は、エジプトからの脱出と良き地に入ることで啓示されたのと同じものです。昔、神は彼の民をエジプトから救い出して、良き地に入れられました。父なる神は、わたしたちに対して同じことをされました。彼はわたしたちを、パロとエジプトで予表される暗やみの権威から救い出し、良き地で予表されているすべてを含むキリストの中に移してくださいました。イスラエルの子たちがエジプトから、暴虐がない乳と蜜の流れる地に移されたように、わたしたちは、御父の愛する御子の王国と呼ばれる驚くべき領域に移されました。ですから、聖徒たちの分け前にあずかるように資格づけられるとは、実は良き地に入ることです。
召会の中でただキリストだけが
聖徒たちの分け前である
イスラエルの子たちは荒野をさまよっていた時、エジプトで享受していた、にら、たまねぎ、にんにくの味を思い出し、そのような食物を食べることをなおも切望しました。しかしイスラエルの子たちが良き地に入った時、エジプトの味わいがあるものは何もカナンにもたらされませんでした。もし彼らがエジプトの味わいのあるものをカナンに持ち込んだとしたら、それは神に対する冒とくでした。召会の中にキリスト以外のものをもたらすことも冒とくです。良き地にはエジプトのにら、たまねぎ、にんにくはありません。わたしたちは良き地で、ただその地の産物を享受します。同じ原則で、召会生活の中にはこの世の「にんにく」はなく、聖徒たちの分け前としてのキリストがあるだけです。これを見るなら、わたしたちは何の異質の要素もキリストのからだの中にもたらすことができないでしょう。
聖徒たちの分け前は、良き地としてのキリスト、すなわち、命を与える霊としてのすべてを含むキリストです。まず、キリストはわたしたちに命を与える子孫です。次に彼は、わたしたちが生き歩く王国、領域、範囲となられます。ですから、キリストはわたしたちの子孫、地、命、領域です。これが聖徒たちの分け前としてのキリストです。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第2巻より引用