聖書が啓示しているのは、神が人の命となるには、食べ飲みと関係があるということです。イスラエルの子たちの歴史が食べることの歴史であるだけでなく、飲むことの歴史でもあります。本編では、聖書の五つの箇所(神の選びの民による五つの飲むことでの事例が含まれている)において提示されている、飲むことに関する絵から、新約の聖徒がどのように生ける水としてのキリストを受け取り、享受し、霊的な命を維持するのかを見ていきたいと思います。
復活したキリストによって
苦い水が甘くされる
イスラエルの子たちの歴史は、出エジプト記第十二章の過越の小羊を食べることで始まりました。彼らの歴史は食べることだけでなく、また飲むことの歴史でした。彼らは過越の小羊を食べ、紅海を渡ってエジプトを出ましたが、間もなく水がなくなりました。彼らは「そして彼らは三日間、荒野を歩いたが、水を見いださなかった。彼らがメラに来た時、メラの水は苦くて、飲むことができなかった.それで、その名はメラと呼ばれた。民はモーセに対してつぶやいて言った、『わたしたちは何を飲んだらよいのですか?』。そこで、モーセがエホバに叫ぶと、エホバは彼に一本の木を示された.彼がそれを水の中に投げ入れると、水は甘くなった。その所でエホバは彼らにおきてと規定を与え、その所で彼らを試みられた」(十五・二二後半―二五)。
紅海からメラへの行程で、イスラエル人は荒野で三日間飢え渇きました。これは彼らが死の中に三日間葬られていたことを意味します。これはとても意義があります。苦い水をいやす木は、キリストの十字架、すなわちいやす十字架を表徴します(Ⅰペテロ二・二四)。
わたしたちは、その木は復活したキリストであると言ってよいでしょう。なぜならこの木は、イスラエルの子たちが荒野を三日間旅した後、メラの苦い水の中に投げ入れられたからです(Ⅰコリント十五・三―四)。ですからわたしたちは、この木は復活のキリストであるということができます。
イスラエルの子たちは水に欠乏し、また苦い水の所に来たので、つぶやき、不平を言い始めました。これは、神の民が水に欠乏するときの絵です。もし三日間、飲む水がないなら、疑いもなく、わたしたちの多くは、水がないために小言を言い、争い、つぶやくでしょう。わたしたちは、生ける木、復活したキリストを持っていることを認識する必要があります。もしわたしたちがこの復活したキリストをわたしたちの苦さの中に入れ、復活したキリストにその状況の中へと入って来ていただくなら、その苦い水は甘い水となります。
出エジプト記第十五章二五節は、メラで、イスラエル人におきてと規定を与えられたと言っています。苦い水が甘くされた後、イスラエルの子たちは、もう小言を言ったり、つぶやいたりする必要がなくなったので、おそらくこれがメラで与えられた、おきてと規定だったのでしょう。彼らは次のように言ったのでしょう、「わたしたちはもうけんかしたり、つぶやいたりしません」。このことは、この生ける水があるならば、生けるおきてと規定があるようになるということを表徴しています。わたしたちが生ける水(復活したキリストの甘い水)を飲めば飲むほど、規定の制限を受け、争うことがなくなり、つぶやくことがなくなります。そしてわたしたちは主を賛美し、喜び叫ぶようになります。これがわたしたちのおきてです。これは文字の律法ではなく、生ける水を飲むことによる律法であり、おきてです。
二六節は言います、「あなたがエホバ・あなたの神の声に注意深く聞き従い、彼の目に正しいことを行ない、彼の戒めに耳を傾け、彼のおきてをすべて守るなら、わたしはエジプト人に下したような疾病を何一つ、あなたの上に下さない.わたしはあなたをいやすエホバだからである」。このことは、イスラエル人が病気であったことを示しています。小言を言ったり、つぶやいたりするのは、一種の疾病です。このことが表徴しているのは、わたしたちの環境という水は、あるときは苦く、自分自身さえも苦く(すなわち病気)になってしまい、治療が必要になります。わたしたちがキリストの十字架を経験し、十字架の生活をし、またわたしたちの置かれた境遇の中で、復活したキリストを享受するなら、どのような疾病もなくなるでしょう。主のいやしはその甘い水にあります。キリストの復活の命はわたしたちのいやしの力であり、主がわたしたちをいやす方となられます。
イスラエル人のメラでの経験に続いて、エリムにやって来ました。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木がありました(二七節)。聖書の中で、なつめやしの木は常緑の命の勝利を表徴します。わたしたちは、なつめやしの木のゆえに、命の勝利のゆえに、主を賛美しなければなりません。七十は、十掛ける七です。七は完全の数であり、十は豊満の数です。ですからエリムは、命の勝利に満ちた場所です。エリムにはまた、十二の水の泉もありました。十二は四掛ける三で構成されます。四という数は被造物、特に人を表徴し、三という数は三一の神を表徴します。ですから、四掛ける三である十二という数は、神性と人性とのミングリングです。エリムにある泉は、神性と人性とのミングリングのためです。生ける水としての神は、彼の選ばれた民の中へと流れ込み、彼らとミングリングされます。エリムでの復活の命は、流れて成長します。それは神から出てわたしたちの中へと流れ込み、そしてこの流れを通して上へと成長し、神聖な命の豊富と勝利を表現します。エリムは命から出てくる賛美で満ちている場所です。
霊の岩としてのキリストから飲む
出エジプト記第十五章で、イスラエルの子たちは甘い水を享受し、第十六章では、天のマナを食べました。第十七章で、彼らは再び水に欠乏した場所に来ました。彼らが水に欠乏するときはいつでも、彼らの間に小言、つぶやき、不平、争いがありました(一―四節)。彼らは水に欠乏したので、再び病気になりました。ある時、ある地方召会には、賛美する規定がなくなってしまうかもしれません。賛美の代わりに、つぶやきや批判があるかもしれません。その時、その召会は病気です。今日、わたしたちは賛美する規定を持っているかもしれませんが、後になって、批判する規定を持つかもしれません。
イスラエルの子たちは水に欠乏したので、再びモーセを責め始め、彼に対してつぶやきました。「民はその所で水に渇いた。そして民はモーセにつぶやいて言った、『なぜあなたはわたしたちをエジプトから連れ上って、わたしたちや子供たちや家畜を渇きで死なせるのですか?』。そこで、モーセはエホバに叫んで言った、『わたしはこの民を、どうすればよいのでしょうか? 彼らは今にも、わたしを石打ちにしようとしています』。エホバはモーセに言われた、『民の前に進み出て、イスラエルの何人かの長老を連れ、あなたがあの川を打った杖を手に取って行きなさい。見よ、わたしはホレブのあの岩の上で、あなたの前に立っている。あなたがその岩を打つと、水がそこから出て、民は飲むことができる』。モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行なった」(三―六節)。
出エジプト記の中で、このことの持っている意義を探し出すことはできませんが、新約に来たときに、わたしたちはヨハネによる福音書において見ることができます。「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って叫んで言われた、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい。イエスはこれを、彼の中へと信じる者たちが受けようとしているその霊について言われたのである.まだイエスの栄光が現されていなかったので、その霊はまだなかったからである」(七・三七―三九)。出エジプト記にある打たれた岩から水が流れ出たという絵は、この絵が霊的な状況を描き出していることを表徴しています。それは物質的な水によって、この霊的な水を、すなわち主を信じたものが受けるその霊を表しています。
モーセは律法を代表します。十字架上のキリストは、律法の権威、力によって打たれました。そして生ける水が、打たれた岩であるキリストから出てきました。主イエスがまだ打たれる前に、岩である彼がまだ裂かれる前に、聖霊はすでに存在していましたが、「その霊」はまだありませんでした。これは、岩が打たれる前に、この宇宙には雨や水は存在しましたが、生ける水がまだなかったのと同じです。これがなぜヨハネが、「その霊はまだなかった」と言ったかの理由です。主イエスが十字架につけられ、打たれ、裂かれ、水と血が流れました(ヨハネ十九・三四)。それは生ける水の流れ出でした。
出エジプト記第十五章には木としてのキリストがあり、第十七章には岩としてのキリストがあります。木は復活したキリストを表徴し、岩は打たれ十字架につけられたキリストを表徴します。もしわたしたちが、生ける水、甘い水、流れる水を各地方の召会の中で持とうとするなら、十字架につけられ復活したキリストを深く知り、経験しなければなりません。復活したキリストは、わたしたちにとって木であり、十字架につけられたキリストは、わたしたちにとって岩です。コリント人への第一の手紙第十章四節は、イスラエルの子たちはみな、彼らについて来た霊の岩、すなわちキリストから、同じ霊の飲み物を飲んだと言っています。
岩に語って生ける水を飲む
民数記第二〇章一節から十三節は、一定の期間の後、イスラエルの子たちが再びマッサとメリバに戻って来たことを告げています。イスラエルの子たちが飲むことについての第三のこの事例は、第二の繰り返しです。「マッサ」は「試みる」を意味し、「メリバ」は「戦い」、あるいは「争い」を意味します。イスラエルの子たちが主を試み、主と争ったのは、マッサとメリバにおいてでした。その時まで、イスラエルの子たちは旅をしてぐるぐる回っていました。彼らは荒野をさまよっていましたが、再び同じ地点に戻って来ました。もし彼らがさまよわずに前進していたなら、決してマッサでの経験を繰り返すことはなかったでしょう。彼らはさまよい続け、前進しようとしなかったので、主を試み、主と争ったその場所へと再び戻って来たのです。もしある地方召会が前進しようとせず、さまようなら、遅かれ早かれ、その召会はこのあわれな経験を繰り返すことでしょう。
モーセは主の所に行きました。すると主はモーセに、岩に語るよう告げられました。それは、そこから水を流れ出させるためでした。その岩はすでに打たれ、裂かれていたので、モーセがそれを打つ必要はありませんでした。主はただ彼らにこのすでに打たれた岩に語るように命じられました。わたしたちはこの事実をよくよく知る必要があります。キリストが十字架上で一度限り打たれ、裂かれたということです。彼が再び打たれる必要はありません。わたしたちは、彼を再び打つのではなく、わたしたちはただ彼に語る必要があるだけです。そうすれば彼は生ける水をわたしたちに与えてくださいます。
ところが、イスラエル人はモーセと口論し、モーセを怒らせてしましました。モーセは民に怒って、彼らを逆らう者たちと呼びました(民二〇・十)。「そして、モーセは手を挙げ、彼の杖で岩を二度打った.すると多くの水が出てきたので、集団と家畜は飲んだ。エホバはモーセとアロンに言われた、『あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの子たちの前で、わたしを聖としなかった.それゆえ、あなたがたはこの会衆を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない』」(十一―十二節)。モーセはメリバで怒って失敗したことのゆえに、良き地へ入ることができなくなりました。しかし主はイスラエル人にあわれみ深く、水はなおもその岩から流れ出ました。モーセの間違った行為の下でさえ岩が水を流れ出させたという事実は、主がどれほどあわれみ深いかを証明しています。
人が怒るとき、容易に間違いを犯します。怒りが出そうになった時に、秘訣を学ばなければなりません。それはその怒りが出てきそうな状況から逃げ去ることです。そこで何かを言ったり、行なったりしてはいけません。ただその状況から離れ去り、自分を遠ざけ、怒りをやり過ごしてはじめて、戻って来て何かを語ることができます。モーセのような年長で、経験があり、謙虚で、温和で、忍耐深い人が、怒りの中で間違ったことを行なってしまいました。このことは、わたしたちが主の子供たちのことを取り扱うとき、わたしたちは注意深くならなければならないということです。彼らは頑固かもしれませんが、わたしたちもそのように怒ってはいけません。なぜなら、怒りによって、間違ったことを行なってしまうからです。
泥を掘り出して、
源泉としてのキリストを享受する
イスラエルの子たちが飲むことの第四の事例は、民数記第二一章十六節から十八節に記録されています、「そこから、彼らはベエルへと前進した.それはエホバがモーセに、『民を集めよ.わたしは彼らに水を与える』と言われた井戸である。その時、イスラエルはこの歌を歌った.『井戸よ、湧き上がれ!それに向かって歌え! 王の杖をもって、杖をもって、族長たちが掘り、民の高貴な者たちが井戸を掘った』」。井戸は小川、川、水流とは違います。小川、川、水流は、一時的な利用のために水を備えますが、井戸は長期的な利用のために水を備えます。これらの節は、その霊がもはやわたしたちにとって小川や、川や、水流であるだけでなく、わたしたちの中で井戸、源泉であることを示しています。
民数記第二一章十八節は言います、「王の杖(scepter)をもって、杖(staff)をもって、族長たちが掘り、民の高貴な者たちが井戸を掘った」。民の高貴な者たちとは、召会の中で導いている者たちのことです。古代において、「王の杖」という言葉は原文では、「立法者」と訳すこともできます。これは、権威には霊的な法則があることを暗示しています。この事が表徴しているのは、召会の中のある人たちが命の霊を豊かに聖徒たちにもたらして、生ける水の井戸となって、聖徒たちに十分飲ませることができるのは、彼らがキリストの復活の中で霊的権威を持っているからであるということです。わたしたちの経験においても同じことが言えます。それは召会の中のリーダーであり、そのような度量を持った人たちが兄弟姉妹を導き、兄弟姉妹たちに聖霊の満たしを得させるとき、彼らの祈りや語りかけは権威を持っているだけでなく、ちょうど立法者に指示しているかのように、対処すべきことや、どのように行なうべきかを啓示します。彼らはキリストの復活の中で権威の学課を学んでいます。彼らは権威を用いて、神の御前で祈り、井戸を掘ります。そして、彼らはまた聖徒たちの内側を対処することもできます。ですから、彼らが立ち上がって語り、供給するとき、彼らの言葉は権威を帯び、他の人の中で掘る働きを遂行して、すべての障害物を掘って取り除いて、その霊が生ける水を流し出すようにするのです。聖霊はわたしたちの中で生ける井戸の水となります。すなわち永遠の命の源泉となり、わたしたちが神の御前で生き、神の道を歩むだけでなく、神のために戦うことができるようにさせます。
主を呼び求めて生ける水を飲む
旧約における飲む事柄に関する第五の事例は、士師記第十五章です。この時、ペリシテ人はサムソンに報復しようとして、レヒという場所を攻撃しようとしました。その時、そこにいたユダヤ人たちは、二本の新しい綱で彼を縛り、彼をペリシテ人の手に渡そうとしました。するとエホバの霊がサムソンの上に激しく臨み、彼の腕にあった綱は、火で焼けた亜麻のようになって、その縄目は彼の手から溶け落ちました。彼は新しいろばのあご骨を見つけ、手を伸ばしてそれを取り、それをもって千人を討ちました。その後に彼は非常に疲れ、のどが渇き、エホバに叫び求めました(九―十八節)。そして「しかし、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれたので、そこから水が出てきた。サムソンが飲むと、彼の霊は元に戻って、彼は復興された.それゆえ、彼はその所の名をエン・ハコレと呼んだ.それは今日までレヒにある」(十九節)。「エン・ハコレ」は彼を呼んだ者の源泉、あるいは井戸を意味します。このことが予表しているのは、わたしたちが主の御名を呼ぶことは、生ける水を飲み、復興されることです。主の御名を呼ぶことは、わたしたちが生ける水を飲む方法です。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第1巻より引用