聖書は食べることについての書である

真理

聖書は不思議な本です。多くのすばらしいこと、奥義的なことを語っています。その中の一つのことについては、多くの人はよく知りません。それは、聖書が最初から最後まで継続して「食べる」という路線を語っているということです。神は人が神を「食べる」ことを願っておられます。これは神の人に対する重要な意図であり、わたしたちはこのことを見なければなりませんし、正しい経験を持たなければなりません。

聖書は食べることについての書である
聖書は不思議で奥義的な書です。ある人たちは、聖書は神とキリストについて語っていると言います。またある人は、命と救いについて語っている書だと言い、愛と、親孝行と、謙遜と、忍耐と、平和、善良について語っていると言います。さらに、聖書は、わたしたちに神を礼拝し、神を愛し、神に仕えることを教える書であると言う人もいます。これらの言い方のどれも間違っていません。わたしたちは、聖書が語っている何百、何千もの題目を列記することができます。しかし、不思議なことに、旧約であれ、新約であれ、一つの重要な項目を語っています。それは食べるということです。

聖書を読むには、自分の持っている
古い観念を捨てる必要がある
わたしたちは、自分の持っている古い観念を捨てる必要があります。なぜならどの人にもその自分の古い観念がおおいとなって、聖書の中の啓示を見えなくしているからです。例えば、聖書の中には多くの食べることに関する言葉がありますが、わたしたちが千回聖書を読んだとしてもその言葉に注意しないでしょう。しかし例えば、ヨシュア記第二四章を読む時、「わたしとわたしの家はエホバに仕えます」(十五節)のような文章には深く印象付けられます。それは、わたしたちの天然の観念が神に仕えるということであるからです。わたしたちには、主を食べるという観念がありません。「食べる」ことは神の人に対する意図であり、聖書の中に啓示されていることであり、わたしたちの観念の中にはないものです。しかし神に仕えることや、神のために働くことはわたしたちの天然的な宗教観念の中にあるものです。

イザヤ書の中で言っています、「わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの考えていることはあなたがたの考えていることよりも高い」(五五・九)。ですから、わたしたちが聖書を読むときには、自分の観念を捨てる必要があります。そうしてこそ自分の観念を読み出すのではなく、神の啓示を読み出すことができます。今、わたしたち自身の観念から離れて、聖書の中の食べることに関する路線を見たいと思います。

創世記――神の願いは、
 人が命の木から食べることである
聖書の中には一つの原則があります。聖書の最初の記録にどのように語られているかということが、その後のこの事柄に関する原則となるということです。もし神と人の正しい関係を知りたいなら、神がアダムをどのように取り扱われたかを見る必要があります。神がアダムを創造した後、神は次のようには言われませんでした、「アダムよ、わたしはあなたを創造しました。わたしは、あなたの主です。あなたは、わたしを礼拝しなければなりません。あなたは、わたしに感謝し、賛美しなければなりません」。神はまた人に、あなたには命が必要であるとか、救いが必要であるとか、愛を持たなければならないとか、神に服従し、謙虚でなければならないとは言いませんでした。そうではなく、神は人をエデンの園の中に置き、命の木の前に置いて言われました、「あなたは、園のどの木からでも自由に食べてよい」(創二・十六)。神が人を創造された後、最初に人にして欲しかったのは、食べることでした! 神は人が命の木から食べて欲しかったのです。それは命の木が表徴している神ご自身を人に食べて欲しかったということです。

しかし、人はすぐに食べることで間違いを犯しました。人は命の木から食べずに、サタンを表徴している善悪知識の木から食べ、堕落してしまいました(二・十七、三・一―七)。わたしたちが肉体的に食べることから言うなら、わたしたちが食べる物が、動物の命からのものでも植物の命からのものでも、わたしたちが正しく食べるなら、わたしたちに命の供給を与えます。わたしたちが間違ったものを食べると、食中毒になる可能性があります。時には、病気になります。しかし、もっとひどい場合は、死んでしまう可能性があります。霊的な領域でも同じです。神だけが、健康な食べ物です。ただ神だけを食べることが正しいのです。神以外のものを食べるなら、間違ったものを食べているのです。ですから今日、すべての人が毒の害を受け堕落しました。創世記の最後の節は、「ヨセフは百十歳で死んだ.人々は彼に防腐処置をした.彼はエジプトで棺の中に納められた」(五〇・二六)と言います。これがヨセフの最期でした。これは、神によって創造された人が、毒を受けた結果です。毒のある食物を食べた後、人は死にました。人は死んだ後、棺に入れられました。棺に入れられた後、人はエジプトにとどまりました。

出エジプト記――神の願いは、
 人が小羊、パン種のないパン、
 マナを食べることである
出エジプト記において、神の選びの民であるイスラエル人は、エジプトのパロ王の支配の下にあり、労苦して働いていました。神は過越を設立し、彼らを救われました。神はすべての家で一匹の小羊をほふらせ、その血を家の門柱とかもいとに塗らせ、彼らに小羊の肉とパン種のないパンを食べさせました(出十二章)。エジプトはこの世を予表しています。パロ王はこの世の王サタンを予表しています。また小羊はキリストを予表しています。イスラエル人がエジプトにいた時に、神の裁きの下にあって、この世の奴隷となっていました、このキリストを予表する小羊の血は、神の民の罪のために流された彼の血であり、彼らの罪を洗い清め、彼らを神の裁きの下から贖いました。イスラエル人はまたこの小羊の肉を食べる必要がありました。それは彼らが力を得てエジプトを出るためでした。彼らが小羊の肉を食べた時に、彼らはパン種のないパンも食べました(出十二・八)。パン種のないパンはキリストには罪がなく清いことを予表しています。イスラエル人は小羊の肉を食べ、力を得ました。またパン種のないパンを食べ、彼らは清くされました。ですから神は彼の民を養うことを通して、彼らを救いました。

今日、わたしたちも小羊の血によって神の裁きから贖われ、小羊の養う命によって強くされ、エジプトから出て来ることができました。わたしたちは小羊としてのキリストを食べるだけでなく、パン種のないパンとしてのキリストも食べる必要があります。キリストであるこの小羊の血はわたしたちを贖い、神の罪定めから逃れさせます。また彼の養う命は、わたしたちを力強くし、奴隷の状態から抜け出させます。またパン種のないパンは、わたしたちを清くし、罪のある生活から抜け出させます。

イスラエル人がエジプトから出て来て、荒野を進んでいる行程において、毎週の第七日の安息日を除いて、神は毎日天からマナを降らせました。そしてイスラエル人にそれを集めさせました。週の六日目には二倍の分を降らせ、彼らを養いました(出十六・四―五、十三―二三、三一)。イスラエル人は、カナンの良き地の境界に至るまでの四十年間、マナを食べました。

レビ記と民数記――神の願いは、
 人が清い食べ物を食べることである
レビ記の取り扱っている時期はただ一か月だけです。それはイスラエル人がエジプトから出た後の、第二年の第一の月の一日に幕屋が建て上げられてから(出四〇・十七)、同年の第二の月の一日までの間です(民一・一)。この期間に、神はモーセに命じて、イスラエル人にささげ物の犠牲と規定について告げさせました。

これらのささげ物は神へささげるものでしたが、多くの部分は神に奉仕している者も与えられ共にあずかりました。それを食べる者も自分自身を清くしなければなりませんでした(レビ第一―七章)。これ以外にも、神は飲食に関する規定も発布し、イスラエル人に清められた生き物を食べるように、汚れた食べ物を食べないようにと告げました(第十一章)。

民数記の記載はイスラエル人が荒野を漂流している時期の四十年間の経験です。この四十年間で、神はイスラエル人に食物としてただマナだけを与えました(出十六・三五.民十一・六)。マナは天的なものであり、地的なものではありません。神はイスラエル人の飲食を変えるために、マナの天的な要素を彼らの内側へと構成し込み、彼らをエジプトのこの世的な成分から抜け出させ、神聖で天的な成分で再構成しました。マナは天的な食べ物としてのキリストを予表します。このことは神の救いにおける神の意図が、彼ご自身を、キリストを信じる者たちの中へと造り込み、彼らの唯一の天的な食べ物としてキリストで彼らを養い、彼らの構成を造り変え、そうして彼らを神の住まいとしての召会を建造するのにふさわしい資格のあるものとするということです。

申命記――神の願いは、
 人がカナンの産物を食べることである
申命記において、イスラエル人はすでに良き地の入り口にまで到達していました。神はモーセに言われました、「わたしは……彼らをエジプト人の手から救い出し、そして彼らをその地から、良い広大な地に、乳と蜜の流れる地に……上らせる」(出三・八)。モーセはまたイスラエル人に、良き地の豊富な産物についても語りました、「それはエホバ・あなたの神が、あなたを良き地に導こうとしておられるからである.そこは水の流れ、泉、源泉があり、谷間と山々に流れている地であり、小麦と大麦とぶどうといちじくの木とざくろのある地、油のオリブの木と蜜のある地であり、あなたが欠けることなくパンを食べる地であり、あなたはそこで何も欠けるものはない.その地の石は鉄であって、その山々からは銅を掘り出すことができる。あなたは食べて満ち足り、エホバ・あなたの神があなたに与えられた良き地のゆえに、彼をほめたたえなければならない」(申八・七―十)。これらの良き地の種々の産物は、すべてキリストの予表です。キリストはすべてを含む地であり、神の民に豊かで十分な供給を得させます。

神はまた、イスラエル人のために良き地において祭りを設立して、第十四章二三節で次のように言われました、「エホバ・あなたの神の御前で、すなわち彼が御名を住まわせるために選ばれた場所で、あなたの穀物と、新しいぶどう酒と、新鮮な油などの十分の一、牛の群れの初子と羊の群れの初子を食べなければならない.それはあなたが常に、エホバ・あなたの神を畏れることを学ぶためである」。ですから、この段階で、わたしたちが享受するものは、小羊だけでなく祝宴でもあります。この祝宴には、雄牛、羊、はと、穀物、新しい酒と各種の初穂があります。この祝宴を一度だけ食べるのではなく、七日間それを食べるのです。全部で七日間の祝宴の間、わたしたちは毎日祝宴にあずかります。

今日、新約における信者は、キリストを命の木、また小羊としてだけではなく、また祝宴としてキリストを食べる必要があります。すべての召会の集会は、祭りを守って、キリストを食べることです。

詩篇――神の家の中で肥沃さを享受する
詩篇三四編八節は言います、「エホバの良きことを味わい、そして見よ.彼の中に避け所を得る人は幸いである」。詩の作者は、エホバは味わうことができるものであると言っています。この味わうことは食べ飲みを含みます。詩篇第三六篇八節は言います、「彼らはあなたの家の脂肪分で満ち足り、あなたは彼らにあなたの楽しみの川から飲ませられます」。ここで言っている家の脂肪分(肥沃)さとは、神ご自身を指しています。もし家に神がないなら、その家には何もありません。家の脂肪分(肥沃さ)を享受することは、神ご自身を享受することです。わたしたちは神の家の中で神の脂肪分(肥沃さ)を享受し、また神の喜びの川から飲むことができます。これらが示していることは、神は食べ飲みすることができるということです。

新約の福音書――
 天からのまことのパン、命のパンである
 イエスを食べることと宴席
ヨハネによる福音書において、主イエスは、ご自身を世の人に与える「天からのまことのパン」であると言われました(六・三二―三三)。このことは、主イエスが天から下って来たまことのマナであり、人が必要としているまことの食物であることを言っています。現在あるもの、暫時的なもの、目で見えるものすべては、神から見れば偽物です。なぜなら、それらはすべて永存することができないものだからです。同様に、人が食べている食物も、人を永遠に生かし、永遠に満足させることはできません。ですからそれらはすべて偽りのものなのです。しかし、主イエスは言われました、「わたしが命のパンである.わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない」(六・三五)。これは、彼だけがまことのパンであり、命のパンであり、人が食べれば永遠に飢えることがないということです。ただ彼だけが人のまことの食物であり、人を真に満足させることができます。神が人に飲食することを定められたのは、ただこの表徴を通して、人に真の必要を思い起こさせるためです。すなわち人の最も深い部分で神を得る必要があるということを思い起こさせるためです。わたしたちの肉体が実際に食べ飲みで満たされるとき、わたしたちという人の最も深い部分がやはり飢え渇いていることを見いだします。わたしたちは何に飢え渇いているのでしょうか? それは、わたしたちの真の食物としての生ける神です。わたしたちは彼を食べることによってはじめて、その深いところでの飢え渇きの問題を解決することができます。

主イエスが十字架につけられる前に、弟子たちと一緒に最後の過越の晩餐を食べる前に、彼の宴席を設立されました。ルカによる福音書第二二章で主イエスは「パンを取って感謝をささげ、それをさいて彼らに与え、言われた、『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である.わたしの記念にこれを行ないなさい』。彼らが食事をした後、杯も同じようにして言われた、『この杯は、あなたがたのために注ぎ出される、わたしの血によって立てられた新しい契約である』」(十九―二〇節)。これは、主がわたしたちのために御血を流して、死なれたこと、そしてわたしたちのために体が裂かれ、復活の中で命の霊の食物となられ、わたしたちが彼を食べて取り入れることができるようにされたということです。それはまた今日においては、信者たちがパンさきの集会で共に集まり主を記念することです。すなわち主の宴席にあずかり、神を食べ飲みし享受することです。わたしたちは主を食べて、彼のゆえに生きることができます(ヨハネ六・五七)。主イエスはわたしたちに何かを行なうようには要求されません。彼はわたしたちに彼を食べ、彼をわたしたちの命とすべてとして内側に受け入れ、彼ご自身を表現することを欲しておられます。

新約の書簡――
 霊の飲み物、霊の食物、乳と固い食物
使徒パウロはコリントの信者たちに旧約のイスラエル人について語っています、「そして、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲みました.すなわち彼らは、彼らについて来た霊の岩から飲んだのです.そしてその岩はキリストです」(Ⅰコリント十・三―四)。ここで言っていることは、旧約のイスラエル人が食べたマナは霊の食物であり、彼らが飲んだ裂かれた岩から流れた水は霊の飲み物であり、この両方ともキリストを指しているということです。キリストは今日、わたしたちが食べるべき霊の食物であり、飲むべき霊の飲み物です。わたしたちはキリストを食べ、飲まなければなりません。

パウロはまた、彼が信者を養ったことにも言及しています、「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物を与えませんでした.なぜなら、あなたがたは、まだそれを受けることができなかったからです」(三・二)。また別の箇所で彼は、ただ成長した人だけが固い食物を食べることができると言っています、「しかし、成人した者たちのためには、固い食物があります」(ヘブル五・十四)。このこともまた食べ飲みすることに関する問題です。信者は乳を飲む必要もあり、また成長したなら固い食物を食べる必要もあります。使徒ペテロもまた信者たちに告げています、「生まれたばかりの赤子のように、悪巧みのない言葉の乳を切に慕い求めなさい」(Ⅰペテロ二・二)。

啓示録――
 命の木、隠されたマナを食べることと宴席
啓示録第二章から第三章において、わたしたちは主の人々への勝利者の召しを見ることができます。ここでの勝利というのは宗教の堕落に打ち勝つことを指しています。

まず主イエスは、エペソに在る召会の労苦と忍耐を称賛されました。しかし主は続けて、彼らが主に対する初めの愛を失ったことで彼らを叱責されました。なぜなら、彼らは主のために多くの事を行ないましたが、主を十分に愛しませんでした(二・二―三)。ですから主は言われました、「勝利を得る者には、神のパラダイスにある命の木から食べさせよう」(啓二・七後半)。

当初、神の人に対する定めとは、神を食べることでした。わたしたちの定めとはあれを行ない、これを行なうということではなく、主を食べるということです。荒野での四十年間、イスラエル人は毎日マナを集めました。彼らは食べることに明け暮れていました。食べることが彼らの仕事でした。同様に、今日、わたしたちは毎日キリストを食べて享受する必要があります。それは、わたしたちが主のためにどれほど多くのことを行なうかということではなく、どれほど主を食べるかということです。これが主の回復です。

キリスト教には多くの活動と働きがあります。しかし多くの労苦しているクリスチャンがいますが、霊の中でキリストを享受している人はほとんどいません。啓示録第二章と第三章で、主は勝利者を七回召しておられますが、そのうち、食べることに三回言及しています。最初は、命の木を食べることに関して(二・七)、二度目は、隠されたマナを食べることに関して(二・十七)、三度目は、祝宴にあずかることに関してです(三・二〇)。旧約の神の民にもこの三種類の食事がありましたが、今日のキリスト教はこれを失いました。ですから、主はわたしたちが勝利を得て、初めに戻されるように召しておられます。人は食べることを卒業することはできません。毎日が食べることの繰り返しです。あなたがキリストを十分に食べるなら、あなたが短気を起こす問題や、この世の問題はなくなり、すべての問題が解決するでしょう。

聖書は食べることに関する本ですから、クリスチャンは食べる人々でなければなりませんし、召会は食べる召会でなければなりません。啓示録の終わりに、このような言葉があります、「自分の衣服を洗う者たちは幸いである。彼らは命の木への権利を持ち」(二二・十四)。このことがわたしたちに見せているのは、最終的に、神が人に定められたことは、命の木を食べること、すなわち、主を食べること、永遠に主を食べ続けるということです。

今、わたしたちが関心を持つべきことは、外面的に神のために何かをする問題ではなく、内側で生きている問題です。わたしたちがキリストを食べることによって満たされるとき、内側には供給があり活動力があるようになり、キリストを生き、キリストを表現するようになります。そして神の喜ばれることを行なう力を持ちます。ですからわたしたちは、行ないに重視し、食べることを軽視してはいけません。聖書がその最初から最後までわたしたちに啓示していることは、食べることであり、共に来て祭りを持つことであり、共に主の宴席に着くことです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第1巻より引用

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