霊の命の四段階

真理

神の心の願いと目的とは、彼のかたちを持ち彼の栄光を現し、さらに、彼の権威を持った一人の団体の人を得て、彼の敵を対処し、ご自身が永遠の安息を得ることです。この神の偉大な心の願いと目的は、神ご自身の命によってはじめて達成されます。民数記の、イスラエルにおいて二十歳以上で、すべて兵役に就くことができる者(一・三)という絵は、神の子供たちが成長と円熟を必要としていることを表しており、そしてはじめて神の心の願いを完成することができます。ですから、わたしたちは再生されて得た神聖な命を認識し経験し、最終的に完全に成長に至る必要があります。本編でおおまかに述べる霊の命の各段階の経験は、実際にわたしたちの命の経験の青写真です。主を愛し、命の成長を追い求める聖徒はみな、この段階を段階ごとにたどって、神の心の願いを成就しなければなりません。

すべての再生された人は命なる神を得ました。この命は神ご自身ですが、神がわたしたちの命となるには、必ずキリストにおいてでなければなりません。ですから、聖書は、「わたしたちの命なるキリスト」と言っているのです(コロサイ三・四)。命はキリストですから、わたしたちが命を経験するとはキリストを経験することです。ですから、命の経験はみな、わたしたちとキリストとの関係を言っています。

わたしたちの経験から言って、この四段階は、第一段階を救われた段階、第二段階を復興の段階、第三段階を十字架の段階、第四段階を霊的戦いの段階と言うことができます。しかし、わたしたちとキリストとの関係から言えば、第一段階はキリストにある、第二段階はキリストに住む、第三段階はキリストがわたしたちの中に住む、第四段階はキリストがわたしたちの中で完全に成長するということになります。この四段階の経験はみな、わたしたちとキリストとの関係に基づいています。

第一段階(救われた段階)――
キリストにある
命の経験の第一段階が「キリストにある」というのは、わたしたちとキリストとの間に生じた第一の関係が「キリストにある」ことだからです。わたしたちは救われる前、キリストの外、すなわち、アダムの中にいました。わたしたちが再生されたとき、神はわたしたちをキリストの中へと移してくださいました(Ⅱコリント五・十七)。ですから、この段階の経験は、わたしたちの側から言えば救われた段階、あるいは再生の段階と言えますが、わたしたちとキリストとの関係から言えば、キリストにあるということです。

第二段階(復興の段階)――
キリストに住む
霊の命の第二段階は「キリストに住む」経験です。これは第一段階の「キリストにある」と同じではありません。「キリストにある」とは、わたしたちがキリストにあずかり、キリストと結合した事実を指します。「キリストに住む」とはキリストとの交わりとキリストを享受する経験を指します。人は第一段階では主の救いを得て、聖霊によって再生されたにすぎないので、その他の命の経験においてとても弱くあいまいです。ですから、この段階を「救われた段階」と呼んでいるのです。第二段階に至ると、主の愛の励ましを受け、復興され、主を愛し慕い、主を追求し、また徐々に再生された後のさまざまな命の経験をするようになるので、この段階を「復興の段階」と呼びます。

真理から言って、この二段階は分けるべきではなく、また分けることもできません。「キリストにある」と「キリストに住む」という分け方から言えば、人が救われてキリストの中に移されると、彼はキリストに住んでいることになります。キリストにあずかり、キリストにつながり、キリストにあるこの事実があれば、キリストと交わり、キリストを享受し、キリストに住むという経験があるはずです。ある家に引越していながらその家に住まず、それを享受しないという人は一人もいません。同じように、人がキリストにあればキリストに住んでいるはずですから、この二つの事は密接につながっており、ほとんど同時に起こることです。ですから、「キリストにある」と「キリストに住む」は同じ第一段階です。「キリストに住む」ことこそ第一段階であり、「キリストにある」とは第一段階の始まりにすぎません。

「救われた段階」と「復興の段階」という分け方から見ても同じことです。救われた段階の中の「再生」は、実際には「復興」でもあります。もともと人は神の御前に生きていましたが、罪を犯したために罪の中に死に罪の中に倒れてしまいました。今や主の救いにより、主と共に生き、主と共に立ち上がりました。これは再生されることであり、また復興でもあります。ですから、再生され救われた人は、復興された人であるはずです。人が救われても復興されていないのなら、それは正常であるとは考えられません。なぜなら、救いの中心は再生されることであり、復興であるからです。救われた状態が十分に水準に達してしないときには、復興の様相がないでしょう。救われた状態が十分に水準に達しているならば、再生されるだけでなく、復興されるはずです。このように救いの段階は復興の段階であり、これらは二つの段階に分けられるべきではありません。

厳密に言えば、霊の命の四段階の最初の二つの段階は一つと考えられるので、実際には三つの段階と言えます。しかし多くの人は救われても復興の様相がなく、事実上はキリストにあっても、キリストに住む実際の経験がない人が多くいます。このような人たちはもちろん救われましたが、再び主のあわれみを受け、主に引き寄せられ、主を愛し、主を追求し、主に従うようになってはじめて復興の光景が現れてきて、キリストを享受し始め、キリストを経験するようになるのです。

第三段階(十字架の段階)――
キリストがわたしたちの中に住む
第三段階に来るなら、それはクリスチャンの経験のもう一つの霊的段階の出発点です。これは、クリスチャンにとって主の御前で重大な転機となります。ペン・ルイス夫人は、この段階を「十字架の道」と言いました。彼女は「道」という言葉を使うことによって、この段階でクリスチャンは十字架の道を正式に歩み始め、十字架の経験をし、完全に十字架の下を歩むことを示しているのです。ですから、ここで人の霊的な道のりは新しい段階に入ります。

命の経験の第三段階における最初の経験は、十字架が肉を対処することです。たとえて言えば、罪を対処することは、ワイシャツの汚れを除くことに似ています。この世を対処することは、ワイシャツの模様を除くようなものです。良心を対処することは、ワイシャツについているごく小さな細菌をみな除いてしまうことです。そうしてこそ、このワイシャツは完全に清潔なものとなります。人から見るなら、ここまで対処されれば十分です。しかし神にとってはそうではありません。神はさらに、ナイフでワイシャツをずたずたに切られます。これが肉を対処することです。これは理に合わないようですが、わたしたちの霊的な経験では真実です。わたしたちが罪とこの世と良心を対処するなら、外側のすべての汚れは対処されたように見えます。しかし主がわたしたちを照らしてくださるなら、わたしたちの中で神の命が出会う最大の問題は、わたしたちの生まれながらの命、わたしたちそのものであることを、発見します。わたしたちは不義や汚れや良心のすべての感覚を対処しても、まだ自分の生まれながらの命によって生きていて、神の命によって生きていません。わたしたちは依然として自分の中に生きており、聖霊の中に生きていません。まだ魂の中にいて、霊に属していません。もしわたしたちがこの種の問題から救われたいなら、十字架こそ唯一の救いの道です。十字架がわたしたちの生まれながらの命を砕くときにだけ、神の命が現されてあふれ流れるでしょう。わたしたちはわたしたち自身を死に置きます。そして聖霊にわたしたちの中で生かす働きをしていただきます。

イスラエル人がヨルダン川を渡ることによって荒野をさまようことは終結され、新しい命の領域に入りました。このようにして彼らはカナンの地の産物を楽しみ、神のために戦い、王国をもたらすことができました。イスラエル人がヨルダン川を渡るということは、わたしたちが肉を脱ぎ捨て、神の命の豊富の中に入るというキリストの死を、わたしたちが経験することを意味しています。わたしたちが神のあわれみを受けて、命の道を忠実に前進するなら、十字架によってわたしたちの肉を死に渡し、彼の死のさまに同形化される経験をするでしょう。十字架によってわたしたちの肉を死に渡す救いを経験するとき、わたしたちは荒野の失敗から解放されて、キリストの富と安息の中に入り、そして神のために戦う天の領域に住み、神の王国をもたらすでしょう。十字架による対処の段階の経験は、クリスチャンにとって非常に重要なかぎです。それを十分に徹底的に経験できる人は幸いです。なぜならその人は、霊的な命が円熟して、キリストが彼の中で成長し、形づくられていくからです。

第四段階(霊的戦いの段階)――
キリストがわたしたちの中で
完全に成長する
各段階の対処を経過して、神は今やわたしたちの中で絶対的な立場を得ておられ、わたしたちの全存在は内側も外側も、完全に聖霊で満たされています。今やわたしたちは霊的な命の最高の段階に入ります。そこにおいてキリストがわたしたちの中で完全に成長し、円熟します。ですから、これは最高の段階であり、「キリストがわたしたちの中で完全に成長する」段階と呼ばれます。

この段階はまた「霊的戦いの段階」と呼ばれます。なぜならこの時までに、わたしたちのすべての困難はみな解決されましたが、宇宙にはまだ一つの困難があるからです。わたしたちの困難でなく、神の困難であり、それは神の敵サタンです。それはまだ解決されていません。またわたしたち自身の困難は解決したので、サタンの権勢はわたしたちの霊の中でも、魂の中でも全く地位を持ちません。わたしたちは一つの霊的な境地に到達し、昇天の立場で、神のために敵を対処し、霊的戦いをすることができます。ですから霊的戦いは霊の命の第四段階のとても重要な経験です。

神はすべての贖われた者たちに二重の目的を持っておられます。第一は最も重要であり、わたしたちが神ご自身で満たされ、彼の栄光を現すことです。第二は、わたしたちが神のために支配し、彼の敵を対処することです。わたしたちは霊的な命の第三段階の終わりに到達するとき、聖霊、あるいは神ご自身で満たされて、神の第一の最も重要な目的が成就されます。この時、神は、わたしたちが彼のために戦い、彼の敵を対処することを学んで、彼の第二の目的がわたしたちの中で成就されることを願われます。これはまた、わたしたちが霊的な命の第四段階において経験することです。

イスラエル人が、エジプトから出発してカナンへと入った記事で示されているような、旧約の予表を見てみましょう。彼らは行程の始まりで紅海を渡ることによって、束縛の地であるエジプトを離れましたが、パロとその軍勢は海の中に葬られました。そこで、この世とその強奪する力ははぎ取られました。後ほど、彼らはアマレク人と戦いました。それは、彼らが肉を対処することの予表です。そしてイスラエル人は荒野で四十年間さ迷いました。聖書で四十という数は、試みと苦悩を意味します。神は彼らを導いて四十年間、荒野を歩かせました。それは、試みと苦悩によって、彼らの肉の悪を暴露し、対処し清めました。イスラエル人がさ迷いの日を満たしたとき、神は彼らをヨルダン川に導かれ、彼らはギルガルで割礼されました。一方で、彼らは実際的に、カナンの約束された地に入りました。もう一方で、彼らはカナン人の七つの国民に直面していました。そして戦いが必要とされました。それは七つの国民を絶滅させ、神の王国を確立するためです。

イスラエル人は全行程で二つの水、すなわち紅海とヨルダン川を経過しました。紅海はパロと彼の軍勢を葬るためですが、ヨルダン川はイスラエル人自身を葬るためです。彼らはヨルダン川を経過した時、十二の石を運び、川底の別の十二の石を取り出しました。この二組の十二の石は、十二部族を代表します。それは「古い」十二部族がヨルダン川で終わらせられ、「新しい」十二部族が川の他の側に渡って約束された地へと入ったことを表徴します。彼らが渡ったこれらの二つの水はどちらもキリストの死を予表しています。紅海の水は、この世の勢力を終わらせるキリストの死の面の予表です。ヨルダン川の水は、わたしたちの古い人を終わらせるキリストの死の面を代表します。イスラエル人は紅海を渡った時、アマレク人とだけ戦うことができました。ヨルダン川を経過してはじめて、彼らはカナン人の七つの国民と戦うことができました。

これらが予表しているのは、霊的な荒野におけるわたしたちの試みの日々が満ち、わたしたちの肉がある程度、対処されることを学んだとき、神はわたしたちを霊的なヨルダンに導き、そこで肉が完全に転げ去り(「ギルガル」は「転がる」を意味します)、切り取られる(参照コロサイ二・十一)という事実です。それゆえ、わたしたちは実際的に天の領域に到達し、それによってキリストのすべての豊満を受け継ぎます。さらに、この時、わたしたちは天上にいる邪悪な霊どもと接触し、霊的戦いを経験し始めます。

このすべての予表によって、わたしたちの霊の命の初めの三つの段階は、ヨルダン川を渡る前に起こっていることがわかります。ヨルダン川を渡ってカナンの地へと入った後、霊の命の第四段階に進みます。わたしたちのすべての問題は、ヨルダン川の他の側とヨルダン川の中で対処されています。今やわたしたちは川のこちら側に来て神の問題を対処し、神のこの約束された地を強奪しているカナン人の七つの国民(天上にいる霊的な暗やみと悪の権力)と戦い、完全に滅ぼすのです。こうして、霊的戦いは、わたしたちの霊の命の最後で最高の段階に置かれなければなりません。一人の聖徒がさまざまな対処を経て、自身の問題が解決されてはじめて、霊的戦いに従事することができるのです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第1巻より引用