聖書は神のエコノミーの啓示をわたしたちに与えます。旧約の中に神のエコノミーの予表、絵図があります。新約の中で神のエコノミーは実現します。ですから、聖書の二つの部分、旧約と新約は実際は一つです。新約は旧約の中に隠されていて、旧約は新約の中で現わされているとわたしたちは言ってもよいでしょう。
旧約のモーセの五書において、特に出エジプト記、レビ記、民数記の三つの書の中には多くの予表があり、それはとても意義深いものです。その中に記載されているイスラエルの歴史は、多く新約の中で引用されています。
新約の多くの箇所は、旧約のイスラエルの子たちがさまざまな面における召会の予表であることを啓示しています(Ⅰコリント十・一―二二、ヘブル三・七――四・十三)。聖書は二つの歴史を含んでいます。それは旧約のイスラエル人の歴史と新約の信者で構成されています。イスラエル人の歴史は予表であり、召会の歴史は予表の成就です。ここでは旧約のいくつかの重要な予表がどのように新約において成就するのかを見ていきます。
過越とパン種のないパンの祭り
旧約の出エジプト記において、イスラエル人が過越とパン種のないパンの祭りを通して神によって贖われ、神の罪定めとエジプトでの奴隷状態から逃れたことが予表するのは、新約の信者がキリストに贖われ、罪のない召会生活をするということです。コリント人への第一の手紙第五章において、使徒パウロは信者たちに言いました、「あなたがたは新しい練り粉のかたまりとなるために、古いパン種を一掃しなさい.あなたがたは確かに、パン種のない者です.というのは、わたしたちの過越であるキリストが、犠牲としてささげられたからです。ですから、古いパン種をもってではなく、また悪意と邪悪のパン種をもってでもなく、純粋と真実であるパン種のないパンをもって、祭りを守ろうではありませんか」(七―八節)。パウロはここで、コリントの信者たちとイスラエル人を比べています。彼はイスラエル人の歴史をこの手紙の背景としました。このゆえに、イスラエル人の歴史は、わたしたちの召会におけるクリスチャン生活の完全な予表であるとわたしたちは言うことができます。
パウロは七節で「わたしたちの過越であるキリスト」と言っています。これは使徒が、信者は神が選ばれた者たちであり、彼らの過越の祭りを経過したことを指しています。これは出エジプト記第十二章で予表されています。過越の祭りにおいて、キリストは過越の祭りの羊であるだけでなく、過越の祭り全体です。わたしたちの過越となるために、キリストは十字架につけられ、殺され、ささげ物としてささげられ、わたしたちを贖い、わたしたちを神に和解させ、わたしたちは神の御前で彼を享受しました。
八節でパウロは言います、「ですから、古いパン種をもってではなく、また悪意と邪悪のパン種をもってでもなく、純粋と真実であるパン種のないパンもって、祭りを守ろうではありませんか」。ここの祭りは、過越の継続であるパン種のないパンの祭りのことを言っています(出十二・十五―二〇)。それは七日間、すなわち完全な期間続きました。これは、わたしたちクリスチャンの全生涯、すなわち、悔い改めた日から携え上げられる日までを表徴します。これは長い期間にわたる祭りです。わたしたちはそれを、古い性質の罪、すなわち古いパン種をもってではなく、パン種のないパンをもって守らなければなりません。パン種のないパンは、わたしたちの養いと享受である新しい性質のキリストです。彼だけが純粋と真実の命の供給であり、絶対に純潔で、何の混ざり物もなく、実際に満ちています。その祭りは、祝宴を享受する時です。クリスチャンの全生涯はそのような祭りであり、わたしたちの祝宴、命の豊かな供給としてのキリストの享受であるべきです。
神がイスラエルの民を救われエジプトから連れ出された時、彼らは個人的に生活したのではありません。その反対に、彼らは共に生活し、天幕を張り、行程を行き、戦いました。彼らの団体の生活は、召会におけるわたしたちの生活を表徴します。ですから、イスラエルの子たちの歴史を読む時、わたしたちは自分自身の歴史を読んでいることを認識すべきです。彼らに起こったことは、今日のわたしたちの経験の予表です。彼らは荒野でマナを食べました。わたしたちもマナを食べます。彼らは生ける水を飲みました。わたしたちも生ける水を飲みます。彼らには彼らについて来た岩がありました。わたしたちも岩を持っています。彼らは過越を経験しました。わたしたちも過越、キリストご自身である過越を持っています。さらに、過越の後、彼らはパン種のないパンの祭りを守りました。これは、わたしたちもこの祭りを守るべきであることを示します。召会生活はパン種のないパンの祭りです。こういうわけで、いかなるパン種も召会から取り除かれなければなりません。
紅海を渡る
出エジプト記第十三章から第十四章において、わたしたちはイスラエル人が神の雲の柱と火の柱の導きの下で紅海を渡り、エジプトの軍隊の追撃から逃れて神によって救われたことを見ます。コリント人への第一の手紙第十章一節から二節で、わたしたちはこのことが新約の予表と解説であることを見ます。パウロは言いました、「というのは、兄弟たちよ、……わたしたちの父祖たちはみな雲の下にあり、みな海を通り……モーセへとバプテスマされました」。一節のわたしたちの父祖たちとは、旧約の神の民を指しています。彼らはみな「雲の下にあり」はイスラエルの民を覆っていた雲を指しています。これは新約の信者に臨在していた神の霊を予表しています。新約の信者が過越としてのキリストを受け入れた後、神の霊は直ちに来て、彼らと共におり、彼らがクリスチャンレースを走るのを導かれます。それは、雲の柱がイスラエルの子たちを導いたのと同じです(出十三・二〇―二二、十四・十九―二〇)。
二節でパウロは、「そしてみな雲の中で、また海の中で、モーセへとバプテスマされました」と言います。イスラエルの子たちが紅海を渡ったことは、新約の信者たちのバプテスマを予表します(ローマ六・四)。「雲の中で」はその霊の中を表徴し、「海の中で」は水の中を意味します。新約の信者たちは水の中に、またその霊の中にバプテスマされました(マタイ三・十一、使徒一・五、Ⅰコリント十二・十三)。パウロの聖書の比喩的解釈によれば、紅海を渡ることはバプテスマされることです。彼はイスラエルの子たちがモーセへとバプテスマされたと言っています。モーセはキリストの予表と考えられるべきです。彼らは雲の中で、また海の中で、モーセへとバプテスマされました。わたしたちはその霊の中で、また水の中で、キリストへとバプテスマされます。わたしたちがバプテスマされた時、その霊と水がわたしたちの周りにありました。イスラエルの子たちは、モーセへとバプテスマされて、聖なるレースを開始しました。それは、神の目的が成就されるためでした。すなわち、彼らが良き地に入って、宮を建造し、神が王国を得て、地上でご自身を表現されるためでした。これは、新約の信者たちがキリストの中へとバプテスマされ(ガラテヤ三・二七)、神が彼の王国を得て、地上に彼の表現である召会を持たれることを予表しています。
荒野で天的な備えを享受する
イスラエル人はエジプトを出た後、荒野の行程を行き、彼らの行程において天的な備えを享受しました。出エジプト記第十五章で彼らはエリムに来ました。そこには十二の泉と七十本のなつめやしの木がありました。出エジプト記第十六章で民はマナを享受しました。第十七章で彼らは彼を、生ける水を流し出す打たれた岩として享受しました。これらはすべて新約の信者が走る霊的な行程での供給としてのキリストを予表しています。
三節でパウロは続けて、「そしてみな同じ霊の食物を食べ」と言います。これはマナのことを言っており(出十六・十四―十八)、クリスチャンの行程のための、わたしたちの日ごとの命の供給であるキリストを予表します(ヨハネ六・三一―三五)。わたしたち信者はみな同じ霊の食物を食べるべきであって、キリスト以外のどんな物も食べてはなりません。四節でパウロは言います、「みな同じ霊の飲み物を飲みました。すなわち彼らは、彼らについて来た霊の岩から飲んだのです。そしてその岩はキリストです」。神の選びの民のために打たれ、裂かれて、生ける水を流し出した岩(出十七・六)は、物質の岩でした。しかも使徒は、それを霊の岩と呼びました。なぜなら、それは神に打たれて裂かれ、命の水を流し出して(ヨハネ十九・三四)、信者たちの渇きを満たすキリストを予表したからです。ですから使徒は、その岩はキリストであると言いました。今日、新約の信者はこの天的なレースを走るために、みな同じように霊の飲み物を飲まなければなりません。
神聖な啓示を受けて幕屋を建造し、
祭司の体系を建て上げる
出エジプト記第十九章から第四〇章とレビ記第一章から第二七章で、イスラエルの子たちは、神を知ること、神の表現と証しのために地上での住まいとして神と共に建造されること、神聖な奉仕のために祭司の体系を建て上げることで、神聖な啓示と訓練を受けました。これはすべてシナイ山のふもとで起こりました。そこは民に、神が彼の属性において何であるかの描写としての律法が与えられた場所です。彼らは幕屋と祭司の奉仕の啓示を受けて、神の住まいとしての幕屋を完成し、祭司の務め、神聖な奉仕を開始しました。
イスラエル人の予表と成就として、新約の信者はキリストの啓示と召会の建造の啓示を受け、祭司の体系の奉仕の務めを持ちました。マタイによる福音書において、ペテロが御父から生ける神の子であるキリストの啓示を受けた後に、主は彼に続けて啓示され、次のように言われました、「そこでわたしもあなたに言う.あなたはペテロである.わたしはこの岩の上に、わたしの召会を建てる.ハデス[陰府]の門も、それに勝つことはない」(十八節)。ペテロの意味は「石」です。主はペテロに、彼が一つの石であり、それは神の宮の建造のためであることを告げられました。ですから、ペテロは啓示を得て、そして彼の手紙の中で言いました、「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に建造されていきながら、聖なる祭司の体系となって、イエス・キリストを通して、神に受け入れられる霊のいけにえをささげなさい」(Ⅰペテロ二・五)。これは信者が神の宮を建造する石であり、神に奉仕する祭司の体系となるということを明らかに示しています。
軍隊に編成され、神のために戦う
民数記第一章から第四章は、イスラエルの子たちが軍隊へと編成されることの絵であり、それは召会の組み合わせ、建造と戦いの予表です。イスラエル人が軍隊に編成された後、彼らはもはや多くの散らされた個人ではなく、幕屋を中心としてその周りに住む一つの会衆となりました。この幕屋、集会の天幕は、彼らの集まりの中心でした。幕屋はキリストを予表します。幕屋を中心とした彼らの集まりが示すのは、新約の意味で、わたしたち救われた者たちがもはや分散している個人の信者たちではなく、キリストを中心とする団体的な実体、すなわち召会となっているということです。
イスラエルの子たちが軍隊へと編成されることは、まず彼らの家族と父祖の家に基づいていました。これは、召会の組み合わせが命に基づいていることを予表しています。人は主の命を得る必要があります。そうしてこそ組み合わされることができます。また二十歳以上の男子だけが数えられ、軍隊へと編成されることができました。また三十歳以上のレビ人だけが奉仕に入ることができました(民一・二―三、四・三)。男子は、強い者を予表しています(Ⅰヨハネ二・十四)。これらの要求は、召会の中での組み合わせと建造には、命の円熟だけでなく、強さが必要であることを示しています。
イスラエルの子たちは二重の責任を持っていました。それは戦いと務めです。戦いの面において、十二部族はすべて軍隊へと編成されました。これは、神のすべての民が戦いのためであることを予表しています。務めの面において、レビ人と祭司には神に奉仕するという責任がありました。イスラエル人の間で責任を担う二つのグループの人たちがいました。一つのグループは戦いのためであり、もう一つのグループは神に奉仕するためのものでした。しかしながら、召会の組み合わせにおいて、二つのグループの人がいるのではなく、二つの面での責任があります。一方で、聖徒たちは霊的な戦いを戦う責任を持っています。もう一方で、彼らは奉仕し務めをする責任を持っています。旧約であろうと新約であろうと、神の民はみな軍隊に編成されて祭司の軍隊となり、神の地上での証しのために神と共に戦う必要があります。
妨げと、試練と、こらしめを経過する
イスラエルの民が良き地へ向かう行程の中で、多くの妨げと、試練とこらしめがありました。最初の妨げは彼らの間に入り混じった人たちのどん欲さでした。民数記第十一章で、彼らがエジプトの食物を思い出すということは、神の民のこの世の味わいに対するどん欲さを見せています。そしてエホバの怒りは彼らに対して激しく燃え上がり、エホバは非常に激しい疫病で彼らを打ちました。第十二章はモーセの姉のミリアムが、神の託宣のあるモーセの地位をねたみ反逆したことを記載しています。彼女は神によって罪定めされて、らい病の刑罰を受けて、七日間、営所の外に締め出されました。そして民の行程は七日間、遅れました。
第十三章から第十四章は、神の選ばれ贖われた民の不信仰について語っています。カデシ・バルネアで、偵察する者たちは良き地を探ることから戻って来た後、カレブとヨシュアを除いて、悪い報告をしました。民はこれを聞いたとき、泣きました。彼らの不信仰は、彼らに対して神の怒りを引き起こし、彼らに神の約束された良き地に入る権利を失わせました。そして彼らは荒野で倒れ、朽ち果てました。
第十六章では、コラ、ダタン、アビラムと、二百五十人のリーダーたちのモーセの導きに対する反逆の記録があります。彼らはこの反逆のゆえに神に裁かれ、死にました。神はまた疫病を用いて、この反逆と関係のあった一万四千七百人を滅ぼしました。第二五章では、バラムがバラクに教えて、神の民をそそのかしてモアブの娘たちと淫行を犯させ、偶像礼拝へと導いた記録があります。このことは神を怒らせ、彼らの二万四千人を疫病で滅ぼしました。これは、大いなるふるい、きよめ、浄化でした。このような妨げを通して、イスラエルの子たちは浄化され、この浄化の後、彼らは再び数えられました。
パウロはコリント人への第一の手紙第十章五節から十一節において、この歴史を引用し言いました、「ところが神は、彼らの大部分を喜ばれませんでした.なぜなら、彼らは荒野でまき散らされたからです。‥…それは‥…わたしたちが邪悪な事柄で、欲望にかられる者とならないためです」(五―六節)。ですから、わたしたちは再び見ますが、イスラエルの民が荒野を進んで行く行程における記録は、新約の信者の霊的な行程における経験となり、またわたしたちに彼らの失敗を繰り返すことのないように警告しています。
浄化され清くされ、良き地へと入って
神の宮を建造するように準備される
イスラエルの民は多くの失敗をしましたが、彼らは浄化され清くされることを通して、良き地に入るように準備されました。エジプトから出て来た二百万人あまりの人たちの中で、ただヨシュアとカレブだけが良き地に入りましたが、新しい世代の人たちはみな彼らに従って良き地へと入りました。最終的に、彼らはその地の支配者たちを追い出し、その地を得て、その地のすべての豊富を享受しました。彼らは良き地の上に王国と聖なる宮を建造し、神は神の民の間に現し出されました。
召会は今日また、神と共に行程を行き、そのきよめのために妨げと試練を受けています。その結果、召会は神によって備えられて、良き地としてのすべてを含むキリストを取ります。キリストは、信者たちのための満ちあふれる供給があるすべてを含む地です(コロサイ一・十二、エペソ三・八、ピリピ一・十九)。これは地上で神の家を建造するため(エペソ二・十九、Ⅰテモテ三・十五)、地上で神の王国を打ち立てるため(使徒一・三、ローマ十四・十七)、そして、究極的に、永遠における新エルサレムとしての神の家と神の王国を究極的に完成し、神の永遠のエコノミーを成就するためです(啓二一・一―二)。
いままでに述べてきたイスラエルのこの歴史は、神の全体的な救いを予表しています。それが含んでいることは、過越、エジプトから出たこと、紅海を渡ったこと、荒野を旅したこと、神聖な備えの供給、神の山の上での神との交わり、神聖な啓示を受けたこと、そして神の住まいを建造したことです。ここでわたしたちは旧約と新約とが一貫していることを見ることができます。それは、人は失敗するかもしれませんが、神の御旨、計画、エコノミーは絶対に打ち破られることがないということです。神は彼の民をエジプトから連れ出し、荒野を経過させ、良き地に入れ、神の王国と彼の住まいを建造する方法を必ず持っておられます。イスラエルは贖われた召会が神の栄光の目標へと入ることを予表しています。召会は今、この栄光へと向かう途上にいるのです。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第1巻より引用