マルコによる福音書第四章二六節から二九節で主イエスは言われました、「神の王国はこのようなものである.ある人が地に種をまき、そして夜昼、寝起きしていると、その種は芽を出し伸びていくが、どのようにしてそうなるのか、その人は知らない。地は自ずから実を結ぶのであり、初めに葉、次に穂、次に穂の中に穀粒が満ちる。しかし実が熟すると、直ちに人はかまを入れる.刈り入れ時が来たからである」。この比喩の中で、主イエスは、王国はある人が地に種をまくようなものであると言われました。種は成長し、葉が出て、穂が出て、最後に収穫されます。このように、王国が来ることの最初は種として来ることです。王国はこの種が成長し、発達する過程を通して実現します。
王国とは何であるか
新約において、バプテスマのヨハネが来て宣べ伝えていた時、彼の最初の言葉は、「悔い改めよ、天の王国は近づいたからだ」でした(マタイ三・二)。主イエスは出て来て宣べ伝えた時、同じ事を言われました、「悔い改めよ、天の王国は近づいたからだ」(四・十七)。主イエスがルカによる福音書第九章で十二弟子を遣わし、またルカによる福音書第十章で七十人の弟子を遣わした時、主は彼らに王国に関して宣べ伝えるよう告げました。最終的に、聖書の最後の書の啓示録でわたしたちはこのように告げられています、「世の王国は、わたしたちの主と彼のキリストの王国となった.彼は永遠にわたって王として支配される」(十一・十五)。主はすべての勝利を得た聖徒たちと共に王として支配するでしょう。新約のマタイによる福音書から啓示録までのほとんどすべての書の中で、王国が取り扱われています。
それでは、神の王国とは何でしょうか? それは神の支配、あるいは神の統治です。神はご自身の定められた御旨を成就するために、彼の権威を行使する王国を持たなければなりません。聖書の最後でわたしたちは、神が王国を得られて、その中で完全に神の権威を行使し、神の永遠の定められた御旨を完成されることを見ます。こういうわけで、マタイによる福音書第六章において主イエスは祈りの初めで、「あなたの王国が来ますように」と言われ、その終わりでは「王国……が……あなたのものであるからです」と祈られたのです。このように王国は聖書の中での大きな事柄であり、神の究極の目標です。
マルコによる福音書第四章二六節から二九節で主イエスは、王国はある人が地に種をまくようなものであると言われました。種は成長し、葉が出て、穂が出て、最後に収穫されます。王国は一粒の種として地にまかれ、成長し、円熟に至り、その時に収穫されます。種は輝く方としての主イエスです。わたしたちはみな土壌であり、主イエスは種としてその土壌の中へとまかれました。主イエスご自身が王(King)です。彼がわたしたちの中に入られた時に、王国(kingdom)が生まれました。王である主イエスは彼が一人であることに満足されず、彼は王国を得ることを欲しておられました。彼はご自身を種としてわたしたちの中へとまかれました。すなわち彼ご自身がわたしたちの中へと拡大し、成長し王国となります。
王国の到来
主イエスは弟子たちから去っていく準備をしておられた時、王国の福音は人の住む全地に、またすべての諸国民に宣べ伝えられると預言されました(マタイ二四・十四)。ある聖書教師たちは、王国とは時代の事柄であると教えてきました。彼らは、主が王国を伴って来られ、王国をユダヤ人たちに与えたと教えました。しかし、彼らが主を拒絶した時、主は王国を取り上げ、王国を次の時代にまで延期されたと言うのです。彼らの教えによれば、今は召会の時代であって、王国の時代ではありません。王国は延期されていますが、ある日に再びやって来ます。主が戻って来られる時、彼はその延期された王国をもたらされると言うのです。この観念は完全に間違っています。
マタイによる福音書第十六章二八節で主イエスは弟子たちに言われました、「まことに、わたしはあなたがたに言う.ここに立っている者のうちのある人たちは、死を決して味わわないうちに、人の子が彼の王国の中で来るのを見る」。マルコによる福音書によれば、主はそこに立っている者のうちのある人たちは、神の王国が力をもって来るのを見ると言われました(九・一)。これらの言葉を語ってから間もなく、彼は山頂へと行き、そこでかたちが変わりました(マタイ十七・一―二)。わたしたちは、これは主イエスの輝き、あるいは主イエスのかたちが変わることであったと言うことができますが、彼ご自身は、それは王国が来ることであると言われました。山頂で主イエスから輝き出たのは、王国の到来でした。
ルカによる福音書第十七章二〇節から三〇節で、「さて、神の王国はいつ来るのかとパリサイ人から尋ねられたので、イエスは答えて言われた、『神の王国は見える様では来ない.また人々が、「見よ、ここだ!」、「あそこだ!」と言うものでもない。なぜなら、見よ、神の王国は、あなたがたの間にあるからだ』」。主イエスの回答は、神の王国は主ご自身であり、彼が質問しているパリサイ人の間におられたので、神の王国は彼らの間にあるということを示しています。
彼が肉体の中に制限されていた時、人々は彼をナザレ出身の小さな人と考えました。王国は彼の中にありましたが、彼らはそれを見ることができませんでした。電気が建物の中にあるように、王国は彼の中にありました。スイッチを入れなければ、だれも電気を見ることはできません。いったんスイッチを入れれば、電灯が輝きます。この輝きは電気の表現です。神の王国は主イエスの中にありましたが、それは彼の肉体の中に隠され、覆われ、制限されていました。彼はパリサイ人の間に立っていましたが、彼らはすばらしいものが彼の中にあることを見ることができませんでした。彼の弟子たちでさえそれを見ることができませんでした。六日後、彼は山頂に行って、そこで「スイッチ・オン」されました。彼は輝いていました。彼の輝きは天からではなく、内側から来ました。彼の内側の何かが輝いていました。この実際は彼のかたちが変わる前から彼の内側にありましたが、人々はそれを見ることができませんでした。しかしながら、彼のかたちが変わった時、彼の弟子たちは彼の内側から輝き出るものを見ることができました。このように、王国は主イエスの霊的な実際です。彼がわたしたちに輝くとき、またわたしたちの内側で拡大するとき、わたしたちは王国にいます。
主イエスはわたしたちに、「あなたの王国が来ますように」と祈るよう教え導かれました(マタイ六・十)。しかし王国は、多くのクリスチャンの思っているような方法では来ません。ある意味で、王国はすでに来ているのです。しかしながら、別の意味で、王国は来つつあります。カーネーションを例に用いて説明することができます。わたしたちがカーネーションの種を地にまくとします。ある時間が経過すると柔らかい芽が出てきます。そしてその芽は徐々に成長し、そしてついには究極的な完成、すなわちカーネーションの王国の実現となります。また一面においては、カーネーションの王国はすでに種の形状の中に来ていました。ある日、カーネーションが完全な開花に到達した時、それはカーネーションの王国の完全な到来となります。同じように、キリストの王国はすでに来ているのです。彼がご自身を人の地にまかれた日から、キリストの王国は来ていたのです。
王国の発展の過程
わたしたちはマルコによる福音書第四章二六節から二九節の比喩を用いて、例を挙げて王国の成長の過程を説明します。神の王国は一粒の種として地にまかれ、成長して、円熟に至り、収穫の時となります。種をまいた時から収穫の時までは、王国の成長の過程です。収穫は王国の完全な実現です。わたしたちはこの比喩から、今、わたしたちは王国の過程にいるということを知ることができます。
カーネーションのさまざまな成長段階を考えてみてください。一つは柔らかい芽です。もう一つは長い茎のある植物、もう一つはつぼみのある植物です。最後に、つぼみが花になった植物があります。これはカーネーションの王国の完全な実現であり、それは種を地にまくことから始まり、進展して完全な開花へと、すなわちカーネーションの命の究極的な実現へと至ります。
王国は一粒の種として地にまかれ、成長し、円熟に至り、その時に収穫されます。種は輝く方としての主イエスです。わたしたちはみな土壌であり、主イエスは種としてその土壌の中へとまかれました。種は成長し、最終的に王国の全き実現である収穫を生み出すでしょう。こういうわけで、王国は命の種としての主イエスであり、彼はわたしたちの中へとまかれ、わたしたちの中で成長して、円熟に至り、収穫の時となります。穀物が熟すと、収穫となります。すなわち王国の完全な実現となります。わたしたちの内側で種が成長することは、王国の過程です。一方で、わたしたちは王国の中にいますが、もう一方で、王国の過程にあります。例えば、麦畑で種は土壌にまかれます。次に、種は成長し、柔らかい芽が出てきます。成長は継続して、ついには芽が穂を出し、実を結び、最終的には完全に熟すでしょう。その時、畑の収穫があります。これが王国の過程と実現の絵です。今、わたしたちは王国の過程にいるのです。今日、王国の種がわたしたちの内側で成長しています。この王国の成長はわたしたちを収穫にもたらし、その収穫は王国の完全な実現となるでしょう。
豊かに神の王国へと入る
マルコによる福音書第十章十七節から二三節で、金持ちの青年は主イエスの所に来て、どのようにして永遠の命を受け継ぐことができるのかと尋ねました。彼は律法を守ることによって永遠の命を受け継ぐことができると思っていました。彼が失望して去って行った後、主イエスは富を持っている者が神の王国に入るのは難しいと言われました。永遠の命と神の王国は同義語です。それは、神の王国へと入ることは永遠の命を所有することであることを示します。王国に入ることは学習によるのでもなく、研究することによるのでもなく、外側での規則を守ることによるのでもなく、それは再生されることによります。「人は水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることはできない」(ヨハネ三・五)。
再生によって、わたしたちは王国の中へと生まれました。再生はわたしたちの移し換えでした。再生によって、わたしたちは暗やみの権威から神の王国へと移されたのです。王国へ入ることは外側で入ることではなく、内側で再び生まれることによります。言い換えると、王国とは命の種である主イエスがわたしたちの中へと入って来られたものです。ペテロの第一の手紙第一章二三節は言います、「あなたがたが再生されたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、生きていて存続する、神の言によるのです」。この朽ちない命の種がわたしたちの中へと入り、わたしたちは再生されました。ペテロの第二の手紙第一章三節から四節と十一節はまたわたしたちに告げます、「彼の神聖な力は、ご自身の栄光と美徳によって、わたしたちを召してくださった方を知る全き認識を通して、命と敬虔にかかわるすべての事柄を、わたしたちにすでに与えています.彼はその栄光と美徳を通して、尊く、際立って偉大な約束を、わたしたちにすでに与えてくださっています.それは、これらの約束を通して、あなたがたが情欲によるこの世の腐敗から逃れて、神聖な性質にあずかる者となるためです。……このようにして、あなたがたは豊かに、あふれるばかりに供給されて、わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国へと入るのです」。小さい種を軽んじてはいけません。その小さい種はすべてを含んでいます。根も、茎も、枝も、葉も、花も、実も、これらのものはすべてこの小さな種から出て来るのです。命と敬虔にかかわるすべての事柄はわたしたちに与えられています。ですから、わたしたちは神聖な性質にあずかる者です。これにより、わたしたちは王国へと豊かに入ることができます。それは、単に入るのではなく、豊かに入るのです。
ですから、王国は一つの時代というだけのものではありません。王国は、一粒の種が来たことであり、地にまかれ、成長し、また収穫されます。この収穫が王国の完全な到来であり、実現です。主イエスが種として二千年前に来られた時に、王国は始まりました。そして、それはその時以来、成長の過程を通して徐々に来つつあります。今日、わたしたちは依然として王国の成長の過程にあるのであって、ある日、収穫物が熟すのを待ち望んでいるのです。収穫物が熟す時、それは王国の完全な実現の日となるでしょう。収穫によって王国の到来は完成します。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第3期第3巻より引用