聖霊からイエスの霊へ

真理

神聖な霊が聖書の作者を感動し用いる語句というのは、神聖な称号の使用も含めて、非常に細心であり、意義深さがあります。使徒行伝第十六章六節から七節は言います、「また、彼らはアジアで御言を語ることを、聖霊に禁じられたので、フルギヤとガラテヤの地方を通って行った。彼らがムシヤに来た時、ビテニヤに入って行こうとしたが、イエスの霊が彼らを許さなかった」。六節では聖霊が御言を宣べ伝えるためであることを言い、もう一方では七節でイエスの霊が語られています。この霊の中には神の神聖な要素があるだけでなく、イエスの人性の要素もあり、それは使徒たちが苦しみ、艱難、貧しさと迫害を伴う福音を宣べ伝える務めのためです。

聖霊
「聖霊」という称号は旧約には見られません。詩篇第五一篇十一節でダビデは言います、「わたしをあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖別の霊をわたしから取り去らないでください」。同じように、イザヤ書第六三章十節と十一節は言います、「彼らは逆らい、彼の聖別の霊を悲しませた。それゆえ彼は翻って彼らの敵となり、彼らと戦われた。その時、彼は昔の日々、モーセと彼の民を思い出された.『彼らを彼の羊の群れの牧者たちと共に、海から携え上げた方はどこにいるか? 彼の聖別の霊を彼らのただ中に置いた方はどこにいるか?』」。これらの節でヘブル語の本文が用いているのは、それぞれ「あなたの聖別の霊」や「彼の聖別の霊」であって、キング・ジェームズ訳のように「聖霊」ではありません。

「聖霊」という称号は、最初に、主イエスが肉体と成ることに関して用いられています。ルカによる福音書第一章三五節は言います、「御使いは彼女に答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆うでしょう。それゆえ、生まれる聖なるものは、神の子と呼ばれます』」。これは、主イエスが人の処女の胎に入った時に起きました。同じように、マタイによる福音書第一章二〇節は言います、「彼がこれらのことを思い巡らしていると、見よ、主の御使いが夢の中で彼に現れて言った、『ダビデの子、ヨセフよ、マリアをあなたの妻にすることを恐れてはなりません。彼女の中に生まれたのは、聖霊からです』」。聖書の原則によれば、最初に述べている名前や項目は、その項目の定義、意味、支配的な原則を与えます。したがって、「聖霊」という称号は肉体と成ることと関係があります。

肉体と成ることは、神の創造の働きよりも偉大でした。創造において神は無数のものを出現させましたが、肉体と成ることにおいて創造主は、聖なる方であるご自身を彼の被造物の中にもたらしました。これは、聖霊によって達成されました。ルカによる福音書第一章三五節の終わりの句は言います、「生まれる聖なるものは、神の子と呼ばれます」。これは、ギリシャ語から文字どおりに、「生まれるものは、聖、神の子と呼ばれます」と訳されます。マリアの胎から産まれた方は聖と呼ばれました。なぜなら、彼は聖霊によって胎に入られたからです。

テサロニケ人への第一の手紙第一章五節から六節第四章八節では、「聖霊」という称号がはっきりと用いられています。それはまた「その霊、その聖なる方」と、ギリシャ語から文字どおりに訳すこともできます。「永遠のもの」や「神聖なもの」が永遠の方や神聖な方を指しているのと同様に、「聖なるもの」は聖なる方を指します。この構文はヨハネの第一の手紙第一章二節とよく似ています。そこでは、「永遠の命」が「その命、永遠のもの」と訳すことができ、永遠の本質が神聖な命であることを示しています。神聖な命なしには、永遠のものを何も持つことができないのと同様に、その霊なしには、聖を持つことができません。これが、「聖霊」の称号の原則です。使徒たちがその霊の中で福音をもたらし、そしてテサロニケ人たちが受けたその霊とは、聖なる方、聖霊です。

霊なるキリストである
福音書の最後は、キリストが復活の日の夜、完全に奥義的な方法で彼の弟子たちに戻って来られたことを記載しています(ヨハネ二〇・十九―二二)。わたしたちは、彼が単に霊的な方法で彼らに現れられたと言うことはできません。なぜなら、彼はなおも肉と骨の体を持っておられたからです。彼は彼らに言われました、「わたしの手とわたしの足を見なさい.まさしくわたしなのだ。わたしに触り、そして見なさい.霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。彼はこう言って、彼の手と彼の足を彼らに見せられました(ルカ二四・三九―四〇)。弟子たちは彼の手にくぎ跡を見、彼の体に触ることができました。

復活したキリストは、見て触ることができる肉と骨の体を持っておられましたが、彼は突然、ドアを通って来ることなく、弟子たちに現れられました(ヨハネ二〇・十九)。彼はドアをノックされませんでしたし、だれもドアを開きませんでしたが、彼は来て彼らの真ん中に立たれました。彼がこのように来ることは、実は彼の現れること、彼の出現することでした(二一・一十四)。彼は突然、弟子たちに現れ、そして突然、消えられました。主イエスは物質の体を持っていましたが、突然、ドアが閉まっていた部屋の中に現れられました。四福音書における彼の現れることと消えることは、単に霊的なことではありません。それは奥義的であり、だれも説明することができないものです。

ヨハネによる福音書第二〇章二二節は、「彼らの中に息を吹き込んで言われた、『聖霊を受けよ』」と言っています。この言葉は、キリストがそこで弟子たちと共に、物質的な方法でだけでなく、命を与える霊として(Ⅰコリント十五・四五後半)、霊なるキリストとしておられたことを示します。もし彼がその霊としてではなく、ただ物質的におられただけなら、彼の弟子たちは彼を聖霊、聖なる息として受けることはできなかったでしょう。もし主がその霊として彼らに来られなかったなら、彼らは彼の肉と骨の物質の体に触れることができ、彼を抱擁することができても、彼を吸い込むことによって受けることはできませんでした。ヨハネによる福音書第二〇章で、復活したキリストはご自身を吐き出し、息吹き出して、弟子たちは彼を吸い込み、吸い入れました。これは、復活において、彼は霊なるキリスト、命を与える霊であるキリストに成られたことを、強く示しています。

聖霊のいくつかの称号に関して
永遠において神はエホバであったと言ってもよいですし、彼は神であったと言ってもよいでしょう。その時、神の霊は、神の霊、またエホバの霊とも呼ばれました。後に、神が肉体と成られた時にはじめて、神の霊は聖霊と呼ばれ始めました。肉体と成った神が死の中に、また復活の中に入られた後、彼の霊は新しい称号を持ちました。すなわち、「命を与える霊」です。この時、肉体と成った神が命を与える霊と成られました。なぜなら、彼は死と復活を経過されたからです。彼の死は、人と神との間のすべての問題を解決し、彼の復活は、彼の内側にあった命を解き放ちました。ですから、この時までに、彼は単にその霊であるだけでなく、命を与える霊でもありました。

その霊が最初に神の霊であったのは、彼が神であったからです。神は霊であり、その霊は神の霊です。後に、神は肉体と成られた時、聖霊、すなわち、「その霊、その聖なる方」と成られました。彼は来て、聖でない人を聖なる人に、すなわち、神聖な性質を持たない人を神聖な性質を持つ人にされました。ですから、彼は聖霊です。次に、主は死と復活の中に入られました。この死と復活の中で、その霊は命を与える霊と成られました。この命を与える霊はだれの霊でしょうか? 彼は「イエス・キリストの霊」です。この霊は、時には「イエスの霊」、また時には「キリストの霊」と呼ばれます。どのような状況の下で、彼は「イエスの霊」と呼ばれるのでしょうか? あなたが使徒行伝第十六章を読むなら、「イエスの霊」は、使徒が困難の中で、迫害の中で、窮乏の道を行く中で、主のためにそしられる中で、主のために苦難を受けていた時に用いられた称号であるのを見るでしょう。これはナザレのイエスを、地上で貧しい生活をし、迫害と恥を受けるように導いた霊です。ですから、使徒行伝第十六章七節は、「イエスの霊」に言及します。キリストの霊についてはどうでしょうか? 「キリストの霊」は、ローマ人への手紙第八章九節にあります。さらに、ローマ人への手紙第八章十一節は、「イエスを死人の中から復活させた方の霊が、あなたがたの中に住んでいるなら」、この方は「あなたがたの死ぬべき体にも、命を与えてくださいます」と言っています。ですから、ローマ人への手紙第八章は、困難に苦しみ、辱められ、十字架の道を取ることによって、へりくだったナザレ人に従う面を強調しているのではありません。むしろ、それは主の命を生かし出すことを強調しています。ですから、キリストの霊はおもに復活のためです。ローマ人への手紙第八章は復活の物語です。復活の中で、霊が生かされるだけでなく、死ぬべき体でさえも生かされます。ですから、「イエスの霊」は一つの物語であり、「キリストの霊」はまた別の物語です。

さらに、ピリピ人への手紙第一章は、「イエス・キリストの霊」を述べて、「イエス」と「キリスト」を一緒にしています。これは、ピリピ人への手紙に苦難の物語があるからです。使徒はこう言っているかのようでした、「イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給は、わたしの救いとなります。たとえわたしがここで獄の中にいて、監禁され、鎖につながれていても、この霊はイエスの霊であるだけでなく、キリストの霊でもあり、苦難の霊であるだけでなく、復活の霊でもあって、わたしが苦悩と束縛に打ち勝つことができるようにします」。ですから、ピリピ人への手紙には苦難がありますが、解放もあります。なぜなら、その霊はイエス・キリストの霊であるからです。

このイエス・キリストの霊は命を与える霊です。「命を与える霊」はその霊の機能を言っているのに対し、「イエス・キリストの霊」はその霊の称号です。今日この霊は、イエスに属しており、キリストに属しており、イエス・キリストに属しています。キリストご自身であるこの霊は、わたしたちに命を与えます。ですから、いくつかの霊があるのではなく、いくつかの段階におけるただ一つの霊があるだけです。言が肉体と成る前、神の霊はただ神の霊でした。しかし、言が肉体と成った後、神の霊は聖霊、「その霊、その聖なる方」と成られました。その後、主が死と復活を経過した後に、この霊は命を与える霊と成られました。彼はイエス・キリストに属するので、イエスの霊、キリストの霊、イエス・キリストの霊と呼ばれます。ハンカチを例証として用いてもよいでしょう。あなたが白いハンカチを青い染色液の桶の中に入れるなら、それは青いハンカチになり、青いハンカチを赤い染色液の桶の中に入れるなら、それは紫のハンカチになります。白いハンカチ、青いハンカチ、紫のハンカチは、三枚のハンカチではありません。むしろ、それらは三つの段階における一枚のハンカチです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第3期第3巻より引用