使徒行伝第四章十節から十二節はキリストが石・救い主であることを啓示しています。
彼が救い主であることは、わたしたちの必要を満たすためですが、彼が石であるのは、神の建造のためです。それは神の永遠の定められた御旨を成就するためです。
キリストは石・救い主である
使徒行伝第四章で、ペテロがイスラエルの人々に、彼がどのように足の不自由な人をいやしたのかを調べられたとき、彼は答えて言いました、「あなたがたが十字架につけ、神が死人の中から復活させたナザレ人イエス・キリストの御名の中で、この名の中で、この人が、あなたがたの前に健やかになって立っているのです。この方は、あなたがた、家を建てる者たちに捨てられ、隅のかしらになった石です。この方のほかに、救いはありません.わたしたちが救われるべき名は、この名のほか、天下のだれにも与えられていないからです」(十―十二節)。ペテロはこの語りかけの中で、キリストを救い主としてだけでなく、また石としても宣べ伝えました。このことは、イエスがわたしたちのための救い主だけではなく、また神の建造のための石でもあることを啓示しています。神の永遠の定められた御旨は、一群れの堕落した罪人を救うことだけではなく、救われた人たちをもって神の永遠の住まいを建造することです。キリストが救い主であるだけなら、わたしたちの必要を満たすことができたとしても、神のみこころを完成することは永遠にできません。このように、主イエスは罪人を救う救い主である必要があり、また神の建造のための石でもある必要があります。実は、彼の救いは神の建造のためです。
聖書の中でキリストは、建造のための石としてのいくつかの面で啓示されています。彼は神の建造の土台の石、隅の石、頂石、生ける石です。古代において、ユダヤ人は三種類の主要な石、すなわち土台の石、隅の石、頂石をもって彼らの住まいを建てました。それらは傾斜した屋根ではなく、平らな屋根になっていました。敬虔な人々は、祈りのために平らな屋根を用いました。例えば、使徒行伝第十章九節後半は言います、「ペテロは……祈るために屋上に上がった」。ユダヤ人の建築の方法は、大きな岩で土台を造り、次に隅の石を支えとして立てるというものでした。それは今日の柱に等しいのです。そして頂石を屋根として置くことによって仕上げました。ペテロの第一の手紙第二章四節はキリストが生ける石であると言っています。これは、石としての彼が命を持ち、また成長し拡大することができることを示しています。
キリストは土台の石である
イザヤ書第二八章十六節は言います、「それゆえ、主エホバはこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みられた石、堅く据えられた礎としての、尊い隅の石である。信じる者はあわてることがない』」。キリストは神によってシオンに据えられた石です。この石は、イスラエルで神の建造のために堅く据えられた礎です。コリント人への第一の手紙第三章十節から十一節は、イエス・キリストは神の建造の唯一の土台であると言います。キリストを信じないこの世の人々にとって、すべてのものは消え去ります。それは彼らがキリストを、その上に立つための石、礎として持っていないからです。しかしクリスチャンとして、わたしたちはキリストをわたしたちの建造の堅固な土台として持っています。
イザヤ書第二八章十六節は、キリスト、この礎の石は試みられた石であると言っています。キリストは試練を受けられ、そして信頼できる堅固な方です。キリスト、この石は地上での三十三年半の人性の生活の中で試みられました。彼が人と成られたときから、彼は地上での毎日の生活で常に試みられましたが、失敗されませんでした。彼は完璧で、完全で、堅固で強い方です。彼はすでに試みられた方であり、わたしたちの土台となるのに十分に資格づけられた方です。また、この試みられた信頼できる石を信じる者は、「あわてることがない」のです。キング・ジェームズ訳はこの箇所を、「急ぐことがない」と訳しています。ダービーは注釈でこれを、「恐れて急ぐことがない」と訳すこともできると言います。これはまた、「あわてふためいて急ぐことがない」と訳すこともできます。キリストは信頼できる石であり、わたしたちは彼を信じます。わたしたちに何が起こっても、わたしたちはあわてたり、うろたえたりする必要はありません。わたしたちは平安でいることができます。この世の人は、あまり主に信頼しないクリスチャンも含めて、彼らに何かが起こるときはいつも、あわてふためきます。彼らはあわてるとき、どうすべきかわからなくなります。しかしわたしたちは、キリストを信頼できる堅固な土台として享受しているなら、どのような事に出遭ったとしても、わたしたちはあわてたり、うろたえたり、取り乱したりすることがありません。
キリストは隅の石である
マタイによる福音書第二一章四二節で、主イエスはユダヤ人指導者たちに言われました、「家を建てる者たちの捨てた石、これが隅のかしら石になった」。主イエスは詩篇第百十八篇二二節から二三節を引用して、家を建てる者たちの捨てた石が、神によって隅の石とされたと言われました。これはユダヤ人の指導者たちが、神の建造のために働いている、家を建てる者たちであることを指しています。しかし彼らには識別力がなく、キリストを捨てましたが、神はキリストを建造の隅の石とされました。ペテロは使徒行伝第四章十一節から十二節で主の言葉を引用し、隅の石としてのキリストが今日、わたしたちの救い主であることを示しました。ほとんどのクリスチャンは、彼らの救い主であるイエス・キリストが隅の石であることを知りません。わたしたちの救い主イエスは、わたしたちを罪の中から救い出すだけでなく、わたしたちを神の建造の中へと救い入れ、わたしたちを神の建造へと結び付けます。土台の石は建物全体を支えます。また隅の石は建物の両側を連結するものです。隅の石としてのキリストは、神の建造を連結するものです。隅の石は、両側の壁の角に置かれる石です。両側の壁を互いに結び付ける所であり、堅固な石でそれらを結び付けています。
新約聖書によれば、隅の石としてのキリストは二つの壁を結合します。一つはユダヤ人信者であり、もう一つは異邦人信者です。キリストは導いてユダヤ人と異邦人を結合した、最初の隅の石です。今日でさえ、わたしたちは礎の石(土台の石)としての彼によって支えられているだけでなく、わたしたちの隅の石としての彼によって結合されています。わたしたちはキリストによって共に結合されています。彼がなければ、わたしたちは分離し、離れてしまいます。わたしたちはキリストを、試みられた信頼できる石、堅く据えられた土台として、わたしたちの支えとして経験する必要があるだけでなく、隅の石として、わたしたちは共に結合される必要があります。この結果は神の建造、キリストのからだです。
キリストは頂石である
ゼカリヤ書第四章はキリストが頂石であることを言っています。イスラエル人が宮を再建した時に、神は預言者ゼカリヤを通して、総督ゼルバベルを励まし言いました、「『大いなる山よ、あなたは何者か? ゼルバベルの前で、あなたは平地となる.そして彼は、恵みあれ、これに恵みあれと叫びながら、頂石を運び出す』。さらに、エホバの言葉がわたしに臨んで言った、『ゼルバベルの手がこの家の基礎を据えた.彼の手がそれを完成する』」(七―九節前半)。ユダの総督ゼルバベルは、宮の再建の基礎を据えた後に、頂石を運び出さなければなりませんでした。これは、神が彼に宮の再建を完成させることを示しています。頂石を運び出すということは建造が完成したということでした。この頂石はキリストの予表であり、神が建造のすべてのことを完成されることを予表しています。
七節は言います、「恵みあれ、これ(この石)に恵みあれ」という叫びは、頂石そのものが恵みであることを示しています。頂石は、神からわたしたちに臨む恵みであり、この恵みはキリストです。「言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られ……恵みと実際に満ちていた」(ヨハネ一・十四)。これは、肉体と成ることよって、キリストが、まず恵みとして、次に実際として、神をわたしたちにもたらしたことを啓示します。恵みとは、わたしたちの享受としての御子にある神です。実際とは、わたしたちによって実際化された御子にある神です。神がわたしたちによって享受されるとき、わたしたちは恵みを持ちます。神がわたしたちによって実際化されるとき、わたしたちは実際を持ちます。恵みも実際もキリストです。ですから頂石はキリストであり、彼は、神からわたしたちに臨む恵みであり、神の建造のおおいとなります。
ゼカリヤ書第四章十節は言います、「まことに、だれが小さい事の日をさげすんだのか? これらの七つは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぶ。それらは、全地を行き巡るエホバの目である」。「これらの七つ」は「エホバの目」であり、第三章九節にある石の上の七つの目です。啓示録第五章六節は、「七つの目」を持つ小羊について語り、それは「神の七つの霊」です。石の七つの目はエホバの七つの目であり、小羊、キリストの七つの目でもあります。石、エホバ、小羊が一であることをわたしたちが認識するのは極めて重要です。小羊キリストは石であり、彼はまたエホバです。こうして、石の七つの目とエホバの七つの目はキリストの七つの目です。啓示録第五章六節によれば、この七つの目は七つの霊、すなわち、七倍に強化された霊であり、神の宮の建造のためです。
ゼカリヤ書第三章九節は、父なる神が自らこの石に彫り物を彫ると言っています。彫る方は御父であり、彫られた方はキリストです。御父と御子は区別がありますが、永遠の贖いの完成において本質的に一です。この贖いの結果、わたしたちは今やキリストをその霊として、七倍に強化された霊として享受しています。コリント人への第二の手紙第十三章十四節のパウロの言葉によれば、わたしたちには源としての父なる神の愛、経路としてのキリストの恵み、わたしたちの享受のための伝達としての聖霊の交わりがあります。このすべてから、贖いは御子によって完成されて、今やその霊が神の建造のためにわたしたちに供給されることを見ます。その霊によって、召会の建造は究極的に完成されます。
キリストは生ける石であり、
信者もまた生ける石である
ペテロの第一の手紙第二章四節でペテロは、キリストは生ける石であると言います、「人には捨てられたが、神には選ばれた尊い生ける石である主に来て」。この生ける石は神の建造のためのキリストです。生ける石は、その中に命があるだけでなく、命において成長します。第一章二三節で、ペテロはキリストを朽ちない種としてたとえました。そしてまたキリストを生ける石としてもたとえました。ペテロはたとえを、植物の命の種から鉱物の石に変えました。それはペテロの思想が、命を植えることから神の建造に進んだことを言っています。わたしたちの命ために、キリストは種でした。神の建造のために、彼は石です。第二章五節は続けて言っています、「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に建造され」。ここでペテロは信者もまた生ける石であることを示しています。キリストにある信者は、再生と命の成長を通して、生ける石へと造り変えられ、キリストと同じようになり、キリストと共に神の宮へと建造されます。
ペテロはキリストを救いのためだけでなく、建造のための石・救い主として宣べ伝えました(使徒四・十一―十二)。キリストは神の建造の材料のためです。このキリストは土台の石、隅の石、頂石、生ける石であって、今、神はご自身をわたしたちの内側へと造り込んでいます。わたしたちはみな土くれであって石ではありませんでした(創二・七)。土くれが石になるには、石の成分が土くれの中へと入らなければなりません。そうして土くれは石へと造り変えられます。造り変えには、別のもう一つの成分が、もとの成分の中へと入って加えられる必要があります。「珪化木」は木の化石ですが、木そのものが変化して形成されたものではなく、水の流れを通してある鉱物の成分が木の中へと入り込んで石化したものです。この変化は一日で起こるのではありません。木が長い期間の水の流れによって水に浸され石化されたものです。同じようにわたしたち「土くれ」も、わたしたちの「土」の性質が変えられるのではありません。そうではなく、キリストがわたしたちの中へと浸透し、その「石」の性質がわたしたちの中へと加えられ、わたしたちは造り変えられるのです。ペテロの第一の手紙第二章二節でペテロは信者たちに「言葉の乳を切に慕い求めなさい.それによって、あなたがたが成長して救いへと至るためです」と言っています。もしわたしたちが言葉の乳を慕い求めるなら、この乳はわたしたちの内側を生ける水の流れのように流れます。その流れはわたしたちの天然の実質を運び去り、そして天的、神聖な鉱物――キリスト――と置き換えます。
信者たちにおける神の目標は生ける石をもって建造された家を持つことです。彼は分離しまき散らされた石が欲しいのではなく、また単に寄せ集められた石の堆積が欲しいのではありません。神が欲しておられるものは互いに建造された石です。この建造は新エルサレムにおいて究極的に完成します。新エルサレムには何の土くれもないでしょう。なぜなら、すべての土くれは造り変えられて宝石となっているからです。この建造する働きが今や進行しています。この働きは石化、すなわち造り変えの過程によって遂行されつつあります。これは、わたしたちが日ごと、時間ごとにさえ、乳としてのキリストに来て、彼を食べ飲み享受する必要があります。こうして天的な水の流れが天的な成分を伴ってわたしたちを流れて行きます。最終的に、わたしたちはみな「石化」され宝石となり、新エルサレムの中へと建造されます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第3期第3巻より引用