使徒行伝は主の復活と昇天をもって開始します。弟子たちは主の昇天のビジョンを見て、主の証し人になるように強められました。わたしたちもまた、復活し昇天したキリストの十分な認識と経験を持つ必要があります。そうして、わたしたちは主の証し人となることができます。
使徒行伝において
弟子たちは主の復活と昇天を見る
福音書において、地上での主の務めは彼だけで遂行され、彼の十字架の死と復活と昇天で終わります。しかし使徒行伝は主の復活と昇天をもって始まります。この時、主は彼の信者たちを通して、彼の復活と昇天において、天の務めを完成します。使徒行伝第一章十節と十一節は言います、「彼が行かれる時、彼らが一心に天を見つめていると、見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らの傍らに立ち、そして言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜあなたがたは立って、天を見つめているのか? あなたがたから離れて天へと上げられたこのイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ様で、来られるのである』」。主の昇天は彼の再来を指し示します。彼の昇天と再来の間には恵みの時代があります。この期間、キリストは彼のすべてを含む贖いを、神の選ばれた人々に適用し、彼らの完全な救いとなり、彼が召会を、彼のからだとして生み出し建造して、地上で神の王国を打ち立てます。
使徒行伝において、キリストの天への昇天のビジョンは、弟子たちの信仰を強め、キリストが彼らのために死と復活を通して行なったことの信仰を強めました。このビジョンは神の天的エコノミーについての彼らの展望を広げ、彼らを天におけるキリストの務めとの協力へともたらして、地上における神の新約エコノミーを遂行しました。この点はペテロが福音書と使徒行伝の中で表現したことから見ることができます。
福音書の終わりで、主イエスが捕らえられ尋問されている時、ペテロは弱くなって三度主を否みました。しかし主は復活の後、命を与える霊と成り、弟子たちに現れ、この命の霊を弟子たちの中へと息吹かれました(ヨハネ二〇・二二)。その後、弟子たちは主の昇天を見て(使徒一・十―十一)、そしてペンテコステに主のエコノミー上の霊の注ぎ出しを経験し(二・一―四)、彼らは全く別人になりました。
その時、ペテロと使徒たちは共に立ち上がって主のために証しして言いました、「イスラエルの人たちよ、これらの言を聞きなさい.ナザレ人イエスは、神があなたがたの中で、彼を通して行なわれた力あるわざと不思議としるしとにより、神によってあなたがたに証明された人です.……神の定められた決議と予知によって引き渡されたこの人を、あなたがたは不法の者たちの手によって、十字架に釘づけて殺してしまったのです.この方を、神は死の苦痛から解き放って、復活させました.イエスが死に捕らえられていることは、あり得ないからです。……このイエスを、神は復活させました.わたしたちはみな、そのことの証し人です。彼は神の右に引き上げられ、御父から約束された聖霊を受けて、あなたがたが見聞きしているものを、注ぎ出されたのです。……こういうわけで、イスラエルの全家は、確かに知っておきなさい.あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主またキリストとされたのです」(二・二二―二四、三二―三三、三六)。これらの言葉の中で、イエス・キリスト、万民の主についての使徒たちの証しは、使徒行伝全体に記述されているように、すべてを含みます。使徒は、全聖書に啓示されているように、すべてを含むキリストを宣べ伝え、供給しました。
この後、わたしたちはキリストの復活と昇天における各面を見てみましょう。
復活におけるキリスト
復活の初穂――コリント人への第一の手紙第十五章二〇節は言います、「キリストは死人の中から復活させられて、眠りについた人たちの初穂となられました」。キリストは復活の初穂として死人の中から最初に起き上がられた方でした。このことはレビ記第二三章十節と十一節で、安息日の翌日、復活の当日に(マタイ二八・一)、神にささげられた初穂によって予表されていました。
死人の中から最初に生まれた者――コロサイ人への手紙第一章十八節は言います、「御子は、召会であるからだのかしらです.彼は初めであり、死人の中から最初に生まれた方です.それは彼ご自身が、万物のうちで第一位となるためです」。キリストが「死人の中から最初に生まれた方」であるとは、彼が復活における新創造、キリストのからだである召会のためであるということです。復活における最初の者として、キリストはからだのかしらであり、召会の中で第一位です。
力の中で神の御子と明示された――ローマ人への手紙第一章四節は、キリストは「聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示された」と言います。キリストが肉体と成り復活する以前、キリストはすでに神の御子でした。しかし、マリアから生まれた、人の性質を伴ったイエスのその部分は神の御子ではありませんでした。復活によって、キリストは力の中で、彼の人の性質、彼の人性を聖別し、引き上げ、また彼は、復活によって人性を持つ神の御子として明示されたのです(使徒十三・三三、ヘブル一・五)。この意味で、復活はキリストを、神の御子として明示しました。
神の長子――使徒行伝第十三章三三節は、人なるイエスにとって復活は誕生であったことを啓示しています。彼は復活の中で神から生まれ、多くの兄弟たちの中で長子となりました。ローマ人への手紙第八章二九節の「長子」という言葉には、神の長子以外に子たちがいることを示しています。ヘブル人への手紙第二章十節は多くの子たちと言います。復活の中で、キリストは召会を構成する彼の兄弟たちの所に来られ、御父の名を彼らに明らかに示しました(ヘブル二・十二)。キリストにある信者として、わたしたちはみな神の子たちであり、神の長子の多くの兄弟たちです。
命を与える霊――キリストの復活は、彼が命を与える霊へと変貌して、彼の信者たちの中に入ることでした。コリント人への第一の手紙第十五章四五節後半によれば、最後のアダム、キリストは命を与える霊と成られました。彼が復活した日、キリストは弟子たちの中に息を吹きかけて言われました、「聖霊を受けよ」(ヨハネ二〇・二二)。ここの聖霊のギリシャ語「ニューマ」は霊、また息をも意味します。これは、主が霊また息として弟子たちに来られたことを示します。今日、キリストは「霊なる(ニューマティックな)キリスト」です。それは、彼が神聖な息で満ちていることを意味します。車のタイヤが空気で満ちているように、すべてのクリスチャンも天の息で満ちているべきです。
主なる霊――コリント人への第二の手紙第三章十八節は言います、「わたしたちはみな、主の栄光をおおいのない顔をもって、鏡のように見つめ、そして反映して、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますが、それはまさに主なる霊からです」。主が肉体と成ったとき、まだその霊はありませんでした(ヨハネ七・三九)。しかし彼が復活した後、命を与える霊と成り、主なる霊と呼ばれています。キリストが主なる霊であるのは、わたしたちの造り変えのためです。造り変えとは単なる外側の変化ではありません。外側の変化だけでしたら、神聖な命の要素を加える必要はありません。しかし、もしわたしたちがキリストのかたちに造り変えられたいなら、神聖な命の要素がわたしたちの中へと加えられなければなりません。わたしたちが彼と接触し、彼との有機的な結合の中にとどまる時、わたしたちは彼がご自身をわたしたちの中へと分与されることを享受するでしょう。わたしたちが彼と同じかたちへと造り変えられるのは、みな主なる霊としてのキリストによります。
信者たちの中におられるキリスト――復活の中で、キリストは信者たちの中におられます。ローマ人への手紙第八章十節は言います、「キリストがあなたがたの中におられるなら、体は罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに命です」。ここで「の中に」という前置詞は特に注目すべきものです。キリストがわたしたちの中にいるためには、彼はその霊でなければなりません。キリストはその霊として、わたしたちの中に住んでおられます。
昇天におけるキリスト
人の子――主イエスがサンヘドリンによって裁かれていた時、大祭司が彼に言いました、「あなたがキリスト、神の子であるかどうか、生ける神に誓って告げよ」(マタイ二六・六三)。主は答えられました、「あなたの言ったとおりである。しかし、わたしはあなたがたに言う.今から後あなたがたは、人の子があの力ある方の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」(六四節)。主の答えが説明していることは、主は地上にあって人の子であったが、十字架の死と復活と昇天の後、天上で神の右におられて、依然として人の子であるということです。さらに、彼は雲に乗って再び戻って来られる時にも人の子でしょう。昇天の中で、キリストは依然として神性を持つ神の子であり、また人性を持つ人の子でもあります。これは天におられるキリストが依然として人性を持っておられるという意味です。
神の右におられる方――ローマ人への手紙第八章三四節は言います、「キリスト・イエスは死んで、さらに復活させられ、神の右で、わたしたちのためにとりなしておられます」。「神の右」は尊貴ある首位、宇宙において第一で、最高の場所です。昇天において、神は全宇宙における首位と最高の尊貴をキリストに与えられました。
栄光と尊貴を冠として受けた方――ヘブル人への手紙第二章九節は言います、「イエスが栄光と尊貴を冠として与えられたことを見ます」。ここで栄光は、イエスのパースンに関する輝きであり、尊貴はイエスの価値に関する尊さです(Ⅰペテロ二・七)。昇天して栄光と尊貴を冠として受けた方として、キリストは栄光の状態の中で尊貴の地位を持っておられます。
神の行政のために御座に着いた方――ヘブル人への手紙第十二章二節は、キリストは今、「神の御座の右に座しておられる」と言います。啓示録でわたしたちは、神とキリストの一つの御座(啓三・二一、二二・一、三)、すなわち神と小羊の両方のための一つの御座を見ます。キリストは彼の昇天において御座に着きました。彼の昇天は、神の行政のために御座に着かせ、全宇宙に対して神の行政を執行し(啓五・六)、神のエコノミーを完成しつつあります。
地上の諸王の支配者――昇天においてキリストはまた地上の諸王の支配者でもあります(啓一・五)。一見して、地は王や大統領によって支配されていますが、実は、主イエスが地の権威たちを通して全地を支配しておられるのです。あらゆる王や大統領でさえ彼の支配の下にあります。今日、彼は王の王また主の主です(啓十九・十六)。彼はすべて力ある者たちの支配者です。彼は神の永遠のご計画の成就のための神聖な行政において第一位の支配者です。
元首また救い主――使徒行伝第五章三一節は、神はキリストを「元首また救い主としてご自身の右に引き上げ」たと言います。「元首」と訳されたギリシャ語の意味は創始者、起源、発起人、第一位の先導者、キャプテンです。この言葉は、彼はすべてにまさっており、自動的に彼は権威ある支配者であることを指しています。神はイエスを、最高の元首として引き上げました。彼が元首であるとは、彼の権威に関する事柄です。彼は主権と権威をもって地を支配して、環境を案配し、神の選ばれた民が彼の救いを受けられるようにしておられます(使徒十七・二六―二七、ヨハネ十七・二)。キリストの地上の務めにおいて、救い主という名称は彼に対して使われてはいますが(ヨハネ四・四二)、昇天した時、公式に救い主となったのです。
万民の主――神としてキリストは常に主であられました(ルカ一・四三、ヨハネ十一・二一、二〇・二八)。しかし、人としての面から言えば、キリストは復活の中で彼の人性を神へともたらした後、昇天の中で主とされました。昇天において、キリストは万民の主となられ、すべてを所有されました(使徒二・三六)。
天上の務めのためのキリスト――使徒行伝第二章三六節は、昇天においてキリストは主とされただけでなく、神の委託を遂行するために、キリスト、神の油塗られた者(ヘブル一・九)ともされたことを啓示しています。永遠において、キリストはすでにキリストでした。さらに人性において神から任命され、遣わされた者として、彼は生まれた時からキリストです(ルカ二・十一、マタイ一・十六)。またバプテスマされた時、彼は神の霊をもって神に油塗られました(ルカ四・十八)。ところが彼は、昇天した時、公式にキリストに就任されたのです。彼が地上におられた時、彼の地上の職務のために油塗られ、立てられました。昇天において、彼は神の委託を完成する天の務めのために、キリストとして立てられたのです。
召会に対する万物のかしら――エペソ人への手紙第一章二〇節から二二節によれば、神の超越した偉大な力をキリストの内に働かせて、万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして召会に与えられました。昇天において、神はキリストを万物の上にかしらとして召会に与えられました。「召会に」という句は、昇天したキリストから召会、彼のからだへの伝達を暗示します。かしらであるキリストが到達し、獲得したものは何であれ、今、彼のからだである召会に伝達されています。この伝達において、召会はキリストと共に、彼が到達されたすべてのものにあずかります。今わたしたちは、日ごとにこの神聖な伝達を経験すべきです。
神が高く引き上げ、あらゆる名にまさる名を受けた方――ピリピ人への手紙第二章九節は言います、「それゆえに、神もまた、彼を高く引き上げ、そして、あらゆる名にまさる名を彼に与えられました」。キリストは昇天において、神が高く引き上げた方、あらゆる名にまさる名を受けた方です。キリストの昇天以来、イエスの御名にまさる名は決して地上にありませんでした。宇宙で最高の名、最も偉大な名はイエスの御名です。
義人――ヨハネの第一の手紙第二章一節後半は言います、「もしだれかが罪を犯すなら、わたしたちには御父と共にある弁護者、義人イエス・キリストがあります」。主イエスは、すべての人の間で唯一の義なる人です。彼だけが資格づけられてわたしたちの弁護者となり、罪を犯す状態にいるわたしたちを顧みて、義なる状態に回復されます。それは、わたしたちと義であるわたしたちの御父の関係が、和らげられるためです。キリストは地上の生活において義なる方でした。なぜなら、彼は神と人に対して正しくあったからです。今や天において、彼はなおも義なる方です。キリストは正しい方法ですべてのことを行なわれます。彼は義しく働き、務めをしておられます。
弁護者――昇天において、キリストはわたしたちの弁護者となるために義なる方です。ヨハネの第一の手紙第二章一節で「弁護者」と訳されたギリシャ語は、他の人を助けるために傍らに呼ばれた人を言います。また、法律上の助けを与える人、もしくは他の人のためにとりなす人のことを言います。ですから、それは弁護人、助言者、仲保者を指します。この言葉はまた、いたわり、慰める者をも指します。これはヨハネによる福音書によれば「慰め主」であり(十四・十六、二六)、わたしたちの案件または出来事を顧みてくださいます。わたしたちの弁護者なるキリストは、実はわたしたちの霊的な助言者であり、わたしたちが罪を犯したなら、わたしたちの案件を顧みて、わたしたちのためにとりなし、また弁護してくださいます(ローマ八・三四)。
大祭司――ヘブル人への手紙第四章十四節は、「わたしたちは、天を通って行かれた大いなる大祭司、イエス、神の御子を持っている」と言います。主は肉体と成ることを通して神からわたしたちに来られ、彼は復活と昇天を通してわたしたちから神に戻って行き、わたしたちの大祭司となって、わたしたちを神の臨在の中で担い、わたしたちのすべての必要を顧みてくださいました(ヘブル二・十七―十八、四・十五)。宇宙にとって、キリストは管理者ですが、召会にとって、彼は大祭司です。彼はすべての聖徒とすべての召会を顧み、神の永遠の定められた御旨を完成しつつあります。
なだめの場所(あわれみの座)――ローマ人への手紙第三章二五節は、神はキリストを立てて、「なだめの場所」とされたと言います。これは出エジプト記第二五章十七節で、契約の箱の上の、罪を覆う蓋で予表されています。契約の箱は、神が人と会われる場所であり、その中には、十戒の律法がありました。それは、その聖と義の要求によって、神に触れるために来た人の罪を暴露し、罪定めしました。しかしながら、罪を覆う日に、契約の箱の上に罪を覆う血が振りかけられることによって、罪人の側の状態がすべて、完全に覆われました。ですから、罪を覆うこの蓋の上で、神は彼の義の律法を破った民と会うことができ、彼の義に少しも触れませんでした。彼の昇天におけるキリストこそなだめのおおい、すなわち神がわたしたちと出会われるための場所です。ヘブル人への手紙第四章十六節は、この場所を「恵みの御座」と呼んでいます。恵みの御座とは、キリストがわたしたちを贖うために、十字架上で流された血をその上に振りかけた契約の箱の蓋です。その契約の箱の蓋はなだめの場所、すなわち神がわたしたちと接触し、わたしたちも彼の恵みを完全に享受することのできる場所となりました。
真の(天の)幕屋の奉仕者――ヘブル人への手紙第八章二節は、昇天したキリストは「聖所である真の幕屋の奉仕者」と言います。キリストは、真の(天の)幕屋の奉仕者として、天を(場所を指すだけではなく、命の状態を指す)わたしたちの中へと供給します。それは、わたしたちが天の命と力を持って、彼が地上におられたときと同じように、地上で天の生活をするためです。
わたしたちは使徒たちと同じように、復活し昇天したキリストに対する真実な見方と経験を持つ必要があります。そして彼の証し人となり、聖書が啓示しているこのすべてを含むキリストを宣べ伝えます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第3期第3巻より引用